去る9月。

久しぶりの、アニマルコミュニケーション2DAYSをしたときのこと🐕🐈✨🥰


もともとonlineでのお仕事の方が多かったわたしの個人事業ですが、covid-19が世界を覆って、onlineやインターネットの世界が賑わい始めてから、あえて対面でお会いする方向に力を入れてお仕事をしたくなって。


これまたなぜだか世間と逆行する様に、わたしを自宅に招きたがったり、対面で顔を合わせてのコミュニケーションを望まれる飼い主様たちに呼ばれるままに、ご自宅・対面や、イベント・対面でのお仕事が増えていった2年間☺️


そうして途中で信州に引っ越しをして、近頃は再びonlineにかえりつつあるので、飼い主さんや動物さんと生身でお会いしてガッツリとコミュニケーションを出来るのはなかなかの、貴重な機会でした😊


そもそも、動物病院勤務の動物看護師を経て、しばらく別のお仕事をして、いろんなことを経験して、そうしてアニマルコミュニケーションをお仕事としてはじめてから6年ほど経つと思うのですが、その間、わたしがブログなどで"アニマルコミュニケーション"について書いたのは、本当に数えるほどでした。


はじめた当初から今に至るまで、毎回、コミュニケーションをさせていただくたびに、何も言わないし求めてないのに、自らものすごく丁寧なご感想や、想いを書いて送ってくださる皆様が多くて。


その上みんなで口を揃えて「もっと広めたい」と言ってくださっていて。


でもね、そんな有難い想いをたくさんたくさんいただきつつも、皆さんからいただいた感想を掲載する氣になれなかったし、一体どんなことが"アニマルコミュニケーション"なのか、っていうのも、ぜんぜん書けなかったんだよね。


だって、どれもこれも、わたしがお仕事をさせていただいていたことってね、全て‥‥

プライベートすぎたんだもの。笑



アニマルコミュニケーションでいえば、ご本人やご家族と、その動物さんたちだけの、大切な、静かな、エゴも純愛も情念も感情も執着も清らかさも言葉になりきらなかったものたちも、その方の人生丸ごとが入り乱れたような、剥き身のような生身の時間。


告知も案内も最小限だから、そもそも狭くてわかりにくい、不親切な入り口を見つけて、そこで何が起こるのか分からなくても勇気を出してそこに飛び込んできてくれて、そうやってせっかくお金と時間を払ってまで自分で設けたその空間を、一時的な楽しみや刺激として消化するんじゃなくて、繊細で微細に在るその現れを。


特別な"なにか"じゃない。


あなたが毎日、生きて、生きて、生き抜いて在るその情と愛の織り成しを、現れるそのままに、まずはエゴイスティックにひとりじめしてでも、なんの余分も虚栄も挟まないで。


充分に受けとってほしかったんだ😊


わたし自身は、正当な対価はお金も含めてもう受けとってるし、"仕事"を通して世界に起こる創造の最大値を、その方と一緒に現すためにも、ひとたび真剣勝負でお仕事をさせていただいたなら、あとは全部、その方のなかに、静かに静かに、返し続けるだけにしたかった。


それは、人のそばに寄り添うものとして生きる動物たちが、ずっとわたしたち人間に、静かに与えてくれていること。



たぶん、そんじょそこらの飼い主さんよりもよっぽど執着が強くて、動物たちへの依存心も、妄想癖も、現実逃避も、反社会性も、なんなら人間世界への絶望と憎悪も強かったわたしなので(なんなら今でもまだそれがゼロではないわ。笑)、彼らの存在だけが心の拠り所になる飼い主さんたちのきもちもよーーーーーく分かるし、人間に対してではもう投影すら出来なくなって、そばで純粋に居てくれている動物さんたちに、無意識に自分の愛とエゴを投影するしかないような状態も、本当に痛いほど分かるんだ。

そして、それをどこかで自覚しながらも、ちょっとだけ冷静に、情念の世界を超えて動物たちの生きる世界を見つめてゆける自分になろう、という、祈りのような、その心根も。

おそらく、病院という空間もそうなんじゃないかなぁと、小さな頃から医療現場を見つめ続けてきてそんなふうに感じたのだけれど、本来そこは病氣を治す場所じゃなくて、本当はね、死に方を選びなおすことを通して、生きてあるうちに再度、生き方ではなく、もっとシンプルな"生きる"を自ら、問い直す場所なんじゃないかなぁと。

それが、本当の意味での癒し、と呼ばれる入口になるんじゃないかなぁと、ずっとわたしは、小さな頃からいろんな生き死にと選択を眺めてきて、そんな氣がしてる。

わたしたちは、"生き方"は選ぼうと努力するけれど、"死に方"を選ぼうとする努力は、なかなかしないと思うから。

わたしたちは生まれてきたから、みんな必ず、ひとりのこらず死ぬ。

死亡率はずーっと100%なのが、肉体という世界に与えられた、ひとつの救いで、ひとつの真理。

その、必ず死ぬ"肉の器"世界において、そこには決してとどまることのない、愛、というものを生きようとする。

人と人とのなかで。

生命と生命のなかで。


自分を含めた外側のなにかを通して、愛、というものを生きようと試みる。

大抵は、わたしたちよりも先に逝くことが自然な動物たちとの間で様々なドラマが繰り広げられるなか、それでもそこになにか一つの"純粋"がスーッと通ってあるのは、動物たちという存在が、生きるも死ぬもわかれてなく、ただ、真っ直ぐに"生"を生ききる自然であるからなんじゃないかな?と、そんなふうにおもう。


その純粋の前に、わたしたちの幻想は容易く破られる。

思い込んで、拘っていた何かはまるで役に立つことなく、また、ちっとも自分の本音なんかでもなかったと、どうしたって現れてしまうそのことを、優しく優しく、突きつけられる。

絶対に揺らされないと思っていた、心なんてないと思っていた、そんな領域を容易く揺らされる。

大きな崩壊を受け入れて、自分はまだ、なんの歩みも進めていなかったのだと、その入り口の前で佇んでいた自分に、どうしたってきがついてしまう。

それは苦しくて、怖くて、泣きたくて、カッコ悪いことなのに、穏やかで、安らかで、ずっと求めていた渇きと飢えが満たされてゆくような、そんな時のなかの邂逅で。


そうしてその、静かな嵐のような関係性は動物たちだけで終わらなくて、きがつけば自然とファミリーシップやパートナーシップ。

"自分との仲直り"のような時間に向かい、問い直された生は潔く死を迎えて、確かに死んだのにまだ命が続いていることを実感して、その奇跡のなかで静かに、生まれ変わる。


生き長らえたいと思っていたのは、いったいなんだったのか。

"生き長らえさせたい"と思っていたのは、いったい、自分の何だったのか。

自分にとっての愛しきいのちの痛みと苦しみに添いながら、揺れに揺れに揺らされて、泣きながらでも、問い直す。

目を逸らしたいけど逸らせずに、出来れば見たくなかったことばかりに再会しながら、それでも愛ひとつだけを頼りに、静かにそこに向かい合う。


そういう姿を最前列で見せていただきながら、いつもお仕事しています😌


というのが、わたしが唯一、わたしがしているお仕事について書けることで、あとのことはやっぱり、わたしがご紹介したり、分かち合ったりすることは、なんだか純度が濁るよなぁ、と感じるから、これからもわたしがいただいた感想を載せることは、おそらくないと思います。

代わりに、飼い主さん自らの言葉で世界に発信してくださることは、そこにわたしが絡んでいても絡んでいなくても、とても嬉しい🥰

だって、それが一番、純度の高いコミュニケーションが、"飼い主さんの中で"響いた、ということだと思うから☺️


その、純粋で精妙な響きの波及のなかだけで、きもちよーく至福に在るようなお仕事をこれからもしたいし、その至福から生まれたお金で、人間が抱える貧しさという幻想を、根底から潤してきもちよーく完膚なきまでに逝かせたい💕です💗🥰

という、最後は、単なる強欲と殺意の塊みたいなのを懺悔したところで、今日はお開き😆✨
  

情報が溢れかえる世の中で、真実を求める人も自然と増えていて、そのなかで、自らを問い直したり考えたりする前に、外側を疑い、批判し、批判してるのに覗き見しながら"やっぱり自分とは合間見えない!"と、自らに与えられた大切な生命エネルギーをロスしては、"貧しい""足りない"と嘆く人たちがいる。

それは、情報ばかりを追い求めていて、その奥に、自分がほんとうにみたいと思っている愛を見失ってるから、なんじゃないかな?と、わたしは思う。


大抵の、人間の愛は、歪んでいてぐちゃぐちゃです。

かっこわるいし、自分勝手だし、見たくないような情まみれです。


それを隠して生きてるから、しんどいんだと思うし、もうなにひとつ隠さなくていいってなった時に、急に爆発したように決壊するのかなぁと、そんなことを感じます。


でもさ、どれだけつべこべ言ったって、そんなぐちゃぐちゃも含めて、愛されてるんだよ☺️


時に、人間同士では受容しきれないものも含めて、世界にすっぽりおさまっている。


それを見つめて見つめて、真っ直ぐに見つめて、いつか自己愛を超えたとき。



彼らの本当の姿が、見えるんじゃないかなぁと、そんなことを思います😊





信州に越してきて、8ヶ月が経ちました🥰🌈✨
(写真は、先日行った福島の猪苗代湖だけど😆)



原村に越してきたとき、わたしはひとりで☺️

大好きな家族と、大好きな愛犬と、大好きな友だちと、大好きな仕事場と。

そして、わたしの足場となってずーっと育んでくれた、大好きな蓮田市を離れて、寒い寒い冬の最中に、ひとりでここに越してきたの😄✨

けど、ほんとうにひとりきりだった時間って、すごく僅かだったなぁとおもう。

シェアハウスだったから、って言うわけじゃなく、その時その時で、新しいこの土地で出会うみんなが絶妙に助けてくれて、見守ってくれて。

そして何より離れた場所から、大好きなみんなが、ずーっと静かに、無言の応援と、愛と祈りを送り続けていてくれた。

越してきたばかりの頃は、ほんとうに、久しぶりに必死で😁

元々住んでいる地元の方や、原村の大地はすごーくウェルカムだったのに、この土地に渦巻いているいろんなものに、何度か、ちょっぴり追い出されそうになったりもしてたから、

「何があっても絶対にひととして、原村に根付いてやるー😆✨✨🌈」

と心に決めて、その流れで8年ぶりに、超地域密着型のアルバイトを始めたりもして。笑


そして春が来て、夏が来て、ちょっぴり余裕が出たから、泣きたい時はちゃんと泣ける様になって。
そうしたら今度は、ただただ、どんどん楽しくなってきて🥰💗


大好きな、狛犬コレクションを楽しむ余裕さえ出てきたの♪


そしてその間、わたしを見守り、護り、支えてくれたのは、ずーっと小さな頃から友だちでファミリーだった自然界じゃなくて‥‥

わたしと同じ、人間のみんな、でした😌



もう本当に、基本的に過保護すぎるマイライフというか、いつもいつも護られすぎてて、わたしばっかり生き残って、みんな先に死んでいっては、想いを託され続けるような、そんなトラウマがいつからかずーっとあるので、守られると逆にムカつくというか、

「また護られた‥‥!😂」

ってプンプンするような、そんな複雑な心を抱えて生きてるんだけど。笑


でも、信州に来てからみんなが与えてくれるものは、わたしにとってずっと、"その人の光そのもの"のように見えてたんだ。

"守る"とか、"守られる"とかを超えて、ただ、光であり続けた時に溢れてくる愛。


だってさ、笑顔ひとつでいいって言うんだよ

わたしがしあわせなのが嬉しいって。

わたしが楽しくてしあわせでいてくれて、ありがとうって。

げんきで笑っててくれたらそれでいいって。

それでいて、世界はあらゆる手を使ってわたしを笑顔にしてくれるものだから、なんかわたし、もうずーっとしあわせでしか、あり得ないじゃないか😁


よく雨が降ったから、虹もたくさんみたの🥰🌈


秋田に行った時は、懐かしいくうきに大感激だった。


毎年見ていたから、今年も蓮の花がみたくて。

蛍にも蓮の花にも会えて、嬉しかった🥰


そうして笑顔で、いろんなところをなぜかせっせとお掃除しながら、祈りひとつみたいな日々を過ごして。


みんなの祈りが、音になって、歌になって、踊りになって、音楽になった。


それは紛れもない、いのちのおまつり。

それぞれの愛が奏でる、いのちのおまつり。


光とか闇とか、地球の自然ではとっくにひと繋がりで存在し続けていて、老いも若きも、美も醜さも、全ての二元はきれいにワで繋がっていて。


でもその、分かりきっていることを揺れながら、迷い、摩擦のなかで燃焼しながら真剣に生ききるのが、人間なんだね😊

生まれた時からいろんな存在に守られて、守られて、頭にくるくらい守られて、そうしてやっとひとりきりで安全な家を飛び出してみたら、もっと守りが広がって強くなって、ただ、安らかな、穏やかな、愛の場所が広がっただけだった。


おかげで安心して苦しめる😎✨✨っておもうわたしは、マゾでしょうか😁✨


わたしはだいたい、自分にも世界にも、愛する家族や友だちや愛する人やスピリットに対しても、

「病めるときも健やかなるときも」

が基本なんだ。

だってね、わたし自身がずーっと。

「病める時も健やかなる時も」

わたしのまんまで、しあわせだったから🥰🌈

与えられるたびに変化して、変化するのだけど、本当はなんにも変わっていなくて。

ただ、ずっと在る。

だけど、ほんとうは何にもない☺️


ずっとずっと、ずーっと守られてるわたしを通して、みんなは何を守ってるのかな??


今日は終戦の日ですね☺️

二年前の終戦の日はなぜかひとり、Minnesotaのbemijiという田舎街の片隅で、朝からドイツとアメリカとハワイと日本の四カ国テーブルで、日本の辺野古のジュゴンや、各国の伝統について話していた。

その時、宿のオーナーだった、元海軍だったというGaryさんが言ったんだ。

「いろいろあったけれど、今、こうして僕たちが今日、ここにいる。そのことがとても大切なんだ」

と。

そして日本には、anniversaryとして、世界平和の祈りが、言の葉で刻まれた。

"終戦"


戦はずーっと、わたし達の国の行事として、そして、ひとつの暦として。

あの日から終わり続けてる。


そしてほんとうに戦の終わった世界で、わたし達は今を、どんな風に生きるのだろう??


守られて、守られて、わたしたちはここにいる。

その生命に刻まれた世界平和の祈りの音が、あなたの心に響きますように🌈✨🥰🐋🎶
GWが終わって、通常モードの八ヶ岳⛰🌈✨

お祭りみたいなエネルギーのときに、いのち全開でひとに会うのは大好きなんだけど🥰

引っ越してからこっち、アウトプットよりも圧倒的にインプットの方が多かったし、知らないことも知らない言葉も知らない価値観もたくさんで、毎日が自分の限界と、自分がつくったちいさな箱庭世界の大変革すぎて、こんなにも安住の地なのに毎日死に挑むような日々が楽しかったからさ、ほんとうにひとりきりで、外側のなんのことも考えないで、フーっと、静かに息つく時間をつくっていなくて😽

流石に今朝起きたら、ちょっと毛並みが乱れていたので💕笑

今日はなんにもしないで、なんにもいれないで、ただひたすら、自分のためのお散歩と、自分の創造のための一雫のessenceとなる、好きな本を読む時間‥‥なんに挟まずに、ただ言葉の音に純粋に触れることをひたすらよろこぶ日に決定😁✨✨


そう思っていつもの散歩道を通り抜けてたどり着いた文化園はほんとうに誰もいなくて、広い、なんにも遮るもののない空と、お日様に暖められた芝生をみていたら、もう、靴を脱いで裸足で駆け回ることしか考えられなくなったので、ひとまず駆け回ったよね🏃‍♀️💨🤣


それなりに体は動かしていたけれど、のびのびと、全く動きたいように動くことは、しばらくしてなかったんだ。

時を待つことは必要なこともあるのだけれど、もう時がきているのに、動きたい時に動かないと、静寂の純度も濁ってゆく。

寛いで在るのではなく、ザワザワを感じないために、ただ、変化を拒んで、留まり、固まってあるような。

動かない箱を完全に脱ぎ捨てて、どれだけエネルギーを広げても壊れないし衝突もしない空間に自分を広げてみる時間は、なかなか新鮮でおもしろかった☺️

高原エリアにも、裸足が心地いい季節が来ましたよ❤️🥰


そうして、まだまだわたしは、人を壊すこと‥‥

正確に言うと、自分がのびのびと自由に広がった時に、人間という存在を自然と整理整頓してしまうことをとても恐れているのだなぁと、そんなことをきがついたのだけれど(静かに黙って苔をみたりしてる方がのんびりと、平和的でいい😽)、それって結局は、自分を壊されること、整理整頓されてしまうことを、最も恐れているってことでもあるのだよね😁

例えば自分のなかで、

"そのままの自分でいい"

という愛と、

"そのままの自分なんて必要ない"

という愛が激しい一騎打ちを繰り広げていたとしても、同じ空の下、生命は生きて、死んで、生まれて、世界を織り成して、そうしてそういう全てを静かに愛しく聴いて、受精する前のたまごのような、"なんにもないけど全てが在る"。

そんな空間のまんまで寛いでいるわたしが、確かに在るんだ。

子どもは未熟だけど、可能性の塊。

じゃあ、未熟を生き切って大人になった大人は、いったいなんの塊なのだろう?😁✨✨🌈

樹々の影のモザイクがとても素敵だったのよ🥰

いっぱいひとりで遊んだら、


"全てを手放して、ただ自分のなかに在る"


という言葉が、ぽこんと生まれた。

それって、世界ぶっちぎりの引きこもりじゃないかと個人的には思うんだけど、中途半端をやめて、逆にそこまで自分の世界にこもりきることは、逆に、世界に自分の全てをひらくこと、なのかもしれない。


道はつくるものなのではなくて、そこに行きたくて、何かに会いたくて、自分の愛が動きたくて。

何度も何度も行き来するうちに自然に生まれるのが、ほんとうの道なんじゃないかとわたしはおもう☺️

そうして、何度も何度も行き来して、人が通れる道が生まれた時、ずっと探していたものは、ほんとうはすぐそばにあったことに、きがついてしまうんだよね🥰


ひょんなことから地球をぐるりと旅して、お山の上の世界に引っ越しまでしましたけど、今も昔も徒歩15分圏内の世界が、わたしから広がる愛しい世界の雛型です☺️🌈✨✨


森しかない世界に、引っ越したら山が来たのよ😁

いつか海も来るのかな?
それとも、星がくるのかな??

生きている間、与えられて在る全てを楽しみにしています❤️🌈

Thanks for all
MY home sweet home🌈❤️🌎🌱🐋🎶✨✨

2021年4月15日は、諏訪の御頭祭でした🦌✨




諏訪の御神事・お祭りを見に行くのは、こちらに越してきてからこれでふたつめ☺️

諏訪に纏わる祈りと歴史の成り立ちは、わたしがだーいすきな地球の地層の世界のように奥深くて。

御頭祭の詳細についてを説明するには、まず、”諏訪”という世界の成り立ちを理解して伝えられるようにならないと難しそうなので、脈々と続いてきたその温度感を損なわないためにも、その辺りの説明はその道に明るいかたや、神事を執り行う諏訪大社の御神職の皆様にお任せしたいなーと思うのですが🥰

今回はお祭りに参加してきたわたしが見てきた、「さやか視点」のお話を少しだけ♪


お祭り中は「感じること、観ずること」に集中していて、ほとんどお写真を撮れなかったので、今回使わせて頂いているお写真は、ほとんどがPhoto by KOJI HIRASAWAさんです♪
(見分け方としては、↑みたいなフォトジェニックなかっこいいお写真がKOJIさん撮影のお写真です♪笑)


諏訪界隈の、いろんな神社の宮司さんたちが集まり、御神事を執り行います♪

「御頭祭」ってそもそもね、鹿の頭を捧げる、という特徴を持つお祭りだと聞いていたので、浅学なわたしはてっきり、「鹿の頭=御頭」の祭りなのかと思っていたんだけど😆

お祭りの後にご縁を頂いた八木宮司様の投稿文でお勉強させて頂いたところによると、「御頭」とは祭りの費用負担などの一切を執り行っていた現人神の代理人である神使たちが、後に「頭役人」と呼ばれるものとなり、それがさらに後の世になって「御頭郷村」の祭りとなって、「御頭の祭り」で「御頭祭」と呼ばれるようになったそうです👀✨✨


諏訪のお祭りでは今でも神様の乗り物である御神輿を中心に、御神職の皆様や、氏子の皆様たちが行列を組んで、街を歩きます🥰


諏訪大社本宮から、前宮の十間廊に到着したところ♪


今回ね、お祭りが始まる前に前宮にひとりでいる時間があったのですが、その時にね、向こうから近づいてくるおじいちゃんが居て。

ご挨拶したら、

「祭りは初めて?」

ときかれたので、

「御頭祭は初めてです」

と答えると、おじいちゃんは少しだけ、昔語りをしてくれた。

前宮の真前、本当にすぐ近くに、子どもの頃からずっと暮らしているというおじいちゃんは、

「昔はお祭りになると、学校も全部休みになってたんだよ。遠くに行った親戚たちもみんな里に帰り集まってきて、家族みんなで祭りに参加したもんだった」

と言った。今はもう、学校も休みならないし、遠くから親戚がわざわざ集まってくることもなくなったから、小さなお祭りになってしまったけど、と。

そうして、薙鎌を抱える家は全て決まっていて、例えばその家に男性がいなくても、若いものがいなくても、必ずその家のものが担ぐ習わしになっていて、だからおばあさんしかその家にいない時は、お婆さんがかついで、本宮からこちらまで歩いてきたんだよ。

と、昔からのお祭りの様子を、おじいちゃんなりに伝えてくださいました。



変わったかもしれないこと、変わらずに、伝わり、守られてきたこと。

わたしたちの暮らしにも、そんなことがたくさんたくさんあるけれど、「神道」という道が、人々の暮らしの中に・・・そして、人間としての生の営みの中に融和して在ることを、何よりも感じられた、地元のおじいちゃんからの、昔語りでした☺️

基本的に、人間の世界の道理は何も知らない、比較的、ナチュラルにアウトローぎみななわたしに、「礼を尽くそう」と思わせてくれたのは、地球旅先でお会いして、何もわからないわたしにひとつひとつ、自分の生きている今を、押し付けないで、ただ、伝えてくださった、こういう地元の方たちの姿に、たくさんたくさん触れたから、なのでした😄

名前も知らない、名乗らない、一期一会の、神様の出会い。

その、何にも挟まない純粋な真心と、当たり前みたいに、御神域とご自身が大切になさっている空間を掃き清め、調えて、訪れる人にまで礼を尽くして笑顔で迎えてくれるような姿に触れ続けたなら、旅の初めの頃は、鳥居をくぐる時にいつもさ、「たのもー!」って礼もせずにズカズカと入ってたわたしだって、ちゃんと心静かに改まり、自然と礼をしたくなるし、二礼二拍手とか絶対にするもんか!って思っていたわたしだって、地域に根ざした礼の持ち方に習い、自分の心を省みようと、思いますさ🥰
(神道に対してグレ過ぎてた過去のわたし、ドンマイ!だし、そんなわたしの更生計画に一役買ってくださった、地球旅連合の皆様、どうもありがとうございました❤️笑)


カラフルな色彩と厳かさの外側には、お祭りの行列を見るために外に出て、ついでに井戸端会議もしているおばあちゃんやおじちゃんの姿があって、祭りの時、神様は人の営みの中を通り現れて、


そうしてまるで過去から今を繋ぐように、一つの儀式として、神事が大切に執り行われる。


今と昔、集う意味合いは変わったように感じるところもあったけれど、人々がそこに集い、神事をそれぞれの想いで見守り、記憶と記録の両方で、次の世代へと繋いでいく。

最後、前宮の上の社殿のところからお祭りの空氣を感じてみたくなって、そうしたらちょうど忍さんも同じことを感じられていたみたいだったので、一緒に一足先に、ふたりで上に上がりました🥰

この、社殿や、人々が大切にしているお山の位置から里を見下ろす景色を眺めるのが、わたしは昔から大好きで。

祭りの日は本当によく晴れていて、八ヶ岳に囲まれた諏訪が、よく見えました😄



これが薙鎌♪可愛いよね🥰

ひょんなことから、DEEP諏訪生活が始まった原村で、わたしはこれから何をみて、そこからどんな言葉が生まれてくるのかな。

この土地に生き、営みを続けてきた全てをrespectしながら、新しくわたしの「暮らし」になったこの場所での織り成しの全てを綴っていけたらいいなと思います☺️
地球を旅する地球旅のかわりに信州に引越しをして、四ヶ月目を迎えました🥰🌈🌎
 

鉱物とか、フォッサマグナとか、お山や高地の湿地帯の生態系とか、野生動物とか、畜産に関わる人と動物の関係とか。
 
そういうののフィールドワークを、思う存分できるかな❤️🥰と、わたしの表面的な意識としては、そんなことにワクワクしていたのだけど、フタをあけてみれば案外、「人間一年生をやる😆」というわたしののぞみの宣言通り、人の世界にどっぷり居る♪

人間の認知と視点というのは面白くて、自分自身が「こうだ」って、無意識にも意識的にも自動的にラベリングしたように世界をみて、そのおかげで、「昨日の続きの今日と、今日の続きの明日」のような連続性を保っているともいえるから、今回ね、

「地球旅ー人間編ー」

を生きてみて、わたしはどれだけ人の世界を
思い込みだけで見つめてきたのかなぁと、そんな自分の思いに、少しだけびっくりしている🥰


こういう石碑とかは、"人"の想いが強すぎて、なんとなく苦手な方だった☺️

けど、表面の自然界ではなく自然界の仕組みを見つめるのと同じように、成り立ちだけをみたら、人の想いから生まれてきたものたちも、やっぱり、とてもシンプルなんだ。


庭先に彩りがほしくて、好きなお花を植えるのも


わたしが氣にいった場所で音を奏でるのも


風と遊んだときに、目に映る景色も


人の思いが願いになって、いつしかそれが祈りとなり、そのように作られた景色のなかに新たな息吹として生まれ続ける、不規則性、という自然も。


右と左、という観念がイマイチわからないために致命的な方向音痴を患っているわたしは、ひとけのない山奥などで、いつも猫やカラスや小鳥たちや鹿に助けられて地球旅をしているのだけど、そういう子達はこちらからお話しようと思わなくても、いつも自然に遊んでくれる🐈❤️

わたしはよく、「ほんもの」を探している人や、「ほんもの」を探求し、伝えている方に出会うのだけど、ほんとうの、ほんものを観る目って、自分が今、与えられて、生きて在る世界。

そこに流れて在るそれを、どこまでも真っ直ぐに観続けることでしか、育たないのではないかな?の、そんなことも、ときどきおもう☺️


そうして世界を眺めてみれば、ひとつの景色におさまる要素は必ずしも、ひとつの何かの現れとしてあるわけではなく、まるでたくさんの地層のように、人の想い、願い、祈り、そして自然の摂理が丁寧に幾重にも織りなされて、今を生くわたしが、それら全ての調和点で出会ってる♪

わたしも、まだまだ観えていないことがいっぱいで、この歳になっても、初めましての世界がいっぱいです😊✨


高原エリアも、樹々の新芽が萌えはじめたよ🥰🌱✨


すっかりと春を迎え、初夏に向かいつつある信州で、わたしはどんな暮らしの営みをおりなして、それがどんな景色を世界に現していくのかな。

とりあえず、信州フルーツ王国の恩恵を存分に受けて、高原いちご🍓に満ち足りている今日この頃なので、夏のわたしの五割くらいは、多分いちごで構成されているのではないかと思います😎✨


はやくいちご狩りの季節になったらいいし、むしろわたしはいちご畑を育てたらいい🍓🤣