8月22日の皆既日食が控えているせいか、
最近の時空間(日本語でいうと一言…マ)の感覚が、
ちょっとオカシイ。

まっすぐに進んでいないというのかしら、
ぐんにゃりした質感を感じる。
それに伴い、普段は意識しなかった深い感情が、
蘇ってくることがある。

それは時に、
キツさや辛さを連れてくることもあるけれど、
あまり深追いせず、
まるで映画を見るような感覚で、
ほぉ、ほぉ、そういう時には、
このような感情が湧き上がるのねと見つめながら、
思いが、通り過ぎるのを待っているといいね。

大丈夫、
それは残像だから。
軌跡の跡を確認しているんだ。

さて、今度の皆既日食の舞台はアメリカ。
前回、アメリカで同じような皆既日食があったのは、
ちょうど百年前の1918年で、第一次世界大戦が終結した年。

今度は、どのような流れになっていくのだろう。
いくばかりかの不安と、
でもそれ以上に新しい何かが、
生まれていくであろう希望を抱き、
太陽と月と地球が一直線に並ぶ日食のエネルギーを
受け止めたいと思う。

何かと心がざわめきがちな今だからこそ、
原点を見つめ、
素直に真っ直ぐに、
心の美を感じて暮らしていきたい。

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またまた、思いっきり長いですが…
お時間のある方は、新刊
「人生が輝きだす30+1の言葉」より、
「美しい」について
エッセイを書いていますので、
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人生が輝き出す言葉14 「美しい」

 
私たちは、身体の中に楽器を持っています。
身体の中の楽器は、
心臓の鼓動や脈拍、呼吸、血流、
脳波や排泄のリズムといった、
さまざまなサイクルの音を奏でながら、
規則正しく私たちを潤してくれています。

そんな身体の内から発する楽器は、
自然界のリズムと同調しながら、
フラクタルに、美しいかたちを宿しています。

たとえば、私たちが一分間に呼吸する回数は約18回程度。
その二倍の36は、私たちの体温。
36の二倍である72は、脈拍の回数とも重なりますし、
72の二倍の144は、最高血圧の目安になるんです。
 
他にも、一分間の呼吸数を一日で換算すると、
18回×60分×24時間=25920回ということで、
この数はなんと、地球の歳差運動の
25920年と一緒になっちゃうんです。

偶然といってしまえばそれまでですが、
私たちは、大自然や宇宙と呼応するセンサーを、
生まれたときから有していたのだと考えるほうが
ロマンチックだと思いませんか?

…というか、
人間はやはり大自然の一部だったと捉えるのです。

「美しい」という言葉のはじめに、
この話を書いたのは、理由があります。

それは、自分の中にある大自然・宇宙と呼応した時、
人は「美しい」と感じるのではないかと考えるからなのです。

一見無秩序に存在しているようにみえる
自然界のかたちにも、よくみると規則性があり、
それぞれ固有のリズムと振動を有しています。

振動は音になりかたちになり、空間になり、
世界になります。
アンモナイトの形から海岸線の形まで、
…それらは皆、フラクタルで現れて空間美となります。

そんな有機的の世界にはゆらぎがあり、
時にアンシンメトリーを描いて、
より美しく見えます。
それは、生命が息づいているいのちの美です。

私の仕事は絵描きでもあるので、
こうした美の感覚に、昔からとても敏感でした。
かつて、自己のアイデンティティを模索した時代、
私は「人はなぜ生きるのだろうか」を
真剣に考えたことがあります。

出た答えは
「私は美しさに出逢ってみたかったんだ」でした。
その美しさとは、単に見かけの美だけではなく、
内在の美しさ―人やモノや自然や出来事のなかにある美でした。
そうこうしているうちに、
いつのまにか絵描き・物書きになっていたんですね。

さて、あらためて、「美しい」という言葉を
ひも解いていきましょう。

辞書では、色や形、音などの
調和が取れていて快く感じるさまであったり、
人の心や態度が理想的なさまを、
美しいと呼ぶと書いてあります。

また、きれいさっぱりとしていたり、
立派であったり、あるいは親しい人への
いたわりの愛情を示す時にも使われるのが
「美しい」なのだそうです。

おおっ、親しい人への愛情表現も
「美しい」で表せるのねと思った時に、
なんだかとても嬉しくなってしまいましたよ。

そう、相手を慈しむ心、愛おしいと思う心、
その心の色と形は、きっと視覚化できたとしたら、
それこそ美しいものでしょうから。

古語辞典でも調べてみると、
「美しい」の活用の歴史的変遷が述べられていました。
要約すると、古代は親しい人への愛情表現に使い、
平安時代には小さくかわいらしいものもプラスされ、
中世には綺麗や美もプラスされ、
近世になるにつれて、さっぱりしてこだわりがないことも
美しさのカテゴリーに入っていったとのこと。

こうしてみてみると、
「美しい」という言葉一つの中に、
いにしえの人たちが、何に美しさを見出し、
いのちを謳歌していったのかを感じますし、
そんな美しさの総体として、
今の私たちに「美しい」が残されているのかと思うと、
胸にせまるものがありますね。

とりわけ、その原点が、
愛しい人を思う愛情であったことに想いを馳せると、
私たちが今、ここにこうして生まれていること自体、
美しさのかたまりではないかと思うのです。
なんと有難いことでしょう。

私はこの「美しい」という心を、
行動の基準として使ったりもしています。
どういう時に使うかというと、
日常のちょっとした振る舞いとか、
道徳的な場面などに使います。

たとえば、道路に落ちていたゴミを拾う時、
電車で席を譲る時、
ボランティア活動をする時などです。

というのは、ゴミは拾うべき、席はゆずるべき、
ボランティアはするべき…といった、
ちょっと窮屈な正しいことを主張されると、
なんだか心地悪くなっちゃうんですよ。

そんな時は、「正しい」よりも、美しいに変えて、
自己の美意識(美しいと思う心)を行動基準にすると、
相手に正しさを押し付けないですむので、気が楽なのですね。

その分、自分の中にある美しさの定義―
何を美しいと感じ、何をそうでないと感じるのか? 
人付き合いからモノやコトに対する感性や
何に価値を見出すかが重要になってきますが。
けれども、そうした美的感覚を養う訓練って、
実に楽しいんです。

美は暮らしの中に、自然の中に、
あらゆるもののなかに存在しています。
まるで絵本の「ウォーリーをさがせ」のように。
 
さあ、人生という美しい旅路を、
ときめききながら、美しく過ごしていきましょうね。
 
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どうぞ、素敵な毎日を♪