たびたび、記事に「発達障害の子の特徴として、他の人との境界線がわかりにくい」という事を書いています。あまり一般定型の人にはなじみのないこの「境界線がわからない」という状態について、今回は説明します。私が育児で大事にしている点を伝えたいので、長くなります。ご了承いただければと思います。



「他人と自分の境界線がない(あいまい)」という状態を、わかりやすい例で言えば、



・ 幼児期に、自分の物と他人の物の区別ができない


幼児期に、他人のお皿に手をいれてしまったりします。


オモチャの貸し借りができにくいです。(自他物の区別ができていないので、貸し借りの概念まで追いつけない)


お店や人の物品をさわったり、他人の鞄を開けることに抵抗が少ないです。


部屋を自分だけの物で散らかすことが多いです。(自他物の区別がつかないので、自分が散らかすと人が嫌がるという事がわからない)


自分と他人の体、という対比もできないので、簡単に親兄弟や同級生を叩いたり、噛んだりする子もいます。相手ではなく自分を噛む子もいます。


他の子が怒られているのに、不安がったり怖がったりします。先生の怒りの矛先が自分ではなく他の子だ、という完璧な区別がないために「自分は正しいはず!怒られるはずがない!」という自信もありません。



・ 運動会の競争などの時、他人の走行路の中に入る、白線を超える(たまたまではなく、何度か連発する)という状態は、必死で走っている時の障害特性、素の状態をあらわしています。(他人の領域等を全く意識できないということです)


・ 自分の考え=他人は知っている、と思い込んだ状態で生まれている


 他人から理解されない事が理解できないため、癇癪や暴言など怒りとして爆発しやすいです。


 他人を責めたり、許せない傾向が強くなります。(理解されている前提でいるため、意見される=責め、と取る)


 成長して夫、妻となった時にこの歪み(自分の考え・価値観は理解できていると思い込む)が残る状態だと、相手に対して横暴になります。理解されない時、批判された時にキレます。


 親になった時に、子供と自分の境界線が曖昧なため、子と同一化してしまい少しでも期待通りに行かなかったり価値観からズレると怒りの気持ちが湧くようになります。また、子が親へ怒りが湧く場合も同様に、親を自分と同一化してしまっているケースがあります。



境界線が曖昧であると、同一化も身近な人間であればあるほど、どんどんきつくなります。そのため、発達障害がある子と定型の親が家族として長時間いると、子供の要求度が「他人の域を超えて」親に過剰な要求をするようになるので、制限なく許し、また要求され、限界がない状態に困惑するということが起こります。



これらの「境界線があいまい」で「自分と他人を同一化」することは、発達障害の人間の人間関係をこじらせる最大の原因だと思います

その根拠としては、「子と親、夫婦は同じ考えではない、全く別の考え、興味、能力を持つ別の人である」と徹底して教育されている我が一族では、親子関係、兄弟姉妹関係、親族関係において感情的なトラブルが皆無であるから、ということがあります。また、社会人になった時に、他人と精神的に切り離すことができるので、他人の感情にひきずられにくく、社会生活が送りやすい、という点もあります。


「自他の境界線がある」=「自分にも他人にも、理解・責任・能力(技能や許しなど精神的なもの)に限界がある」ということを知ることができるのです。これが大きいです。



他人への怒りを抱きやすい発達障害の特性をかかえる、最近一族に増えてきているアスペルガーの子達が一番顕著に効果を発揮することが多いです。


アスペルガーの子達は、


他人のたわいもない指摘やからかいに敏感に反応しますし、

反応した時に怒りで攻撃し返す事しか考えられなくなりますし、

積み重なって心を歪めていく結果になっても、相手が(自分の言い分を)理解しないのが悪い

と決めてかかる節があります。



これを、丁寧に小さい頃から

「自分は自分、他人には他人の自由がある」

と教えていくと、後々、言い聞かせがとても楽になります。他人のからかいや、たわいもない指摘は「他人の自由な考え、自由な発想である」とアスペルガーの子が自分に言い聞かせることで、クールダウンができます。また、「自分の意見はこうなんだ」と前置きして伝えることができるようになります。そうすると、多数が自分の意見と異なることに気が付きやすくなります。受け入れられなくても、それは自他の違いだ、と理論で納得できるようになります。ここが大きいのです。


親から、多数の意見と、私達一族の意見は考え方がかなり異なる、私達は少数派だ、と幼いころから「それが独特のあなたの個性」として教わってきている子達は、そんなものなのだ、と納得することで「なぜ自分は理解されないんだ!」という怒りになりません。



ついでに説明しますと・・・


そもそも、相手が自分を理解して当然、という思い込みに立って物事を考えやすいので、他人の自由の権利や、好き勝手に物事を言う・考える権利を全く意識していないまま成長することが「同一化」や「自他の境界線がわからない」大人になる原因です。


よく「スルーする力」と世間で言われていますが、この「他人と自分が別人」という意識があってこそのスルー力なわけです。赤の他人である先生やクラスメート、会社の人間、血のつながらない妻や夫が、発達障害がある人間のつたない言動や、不器用な言動、一般定型の人が予想もつかない思考回路で繰り出す言動を理解しないからと言って、衝動的な怒りにまで発展するのは「なぜ私を理解できないのだ!」「わかるはずだ!」「そう(同じ価値観、同じやり方、同じ考え方で)あるはず(べき)なんだ!」とどこかで思い込んでいるからです。



それと、タイトルに書いた「集団生活の危険性」についですが・・・


ここまで書くとわかっていただけると思いますが、「自他の境界線があいまい」で「同一化しやすい」発達障害の子が、クラスという集合体で考えを一致させて足並みそろえて協調してやっていきましょう、という教育を受けると、私達一族の育児の逆を行きます。境界線がわからない子に、より「まざりなさい」「他人の気持をわかりなさい(他人の気持ちをコピーしなさい」という指令になるので、これを長年忠実にやっていくと、「自分の気持ちがわからなくなる」という自己を見失う結果となります。定型の世界に相いれない特性を持ちながら、定型の考えや価値観、感情とシンクロするように指導されたわけですから、結果的に混乱して自分の意見や気持ちすら見失い、わからなくなります。私は、これを発達障害の特性を持つ自分のアイデンティティーの消失になると考えています。




では、生まれたときに自分の脳内ばかりに意識が向いていて、成長するにしたがって少しずつ周囲に気が付いていく遅い精神的開き方をする私達が、「他人という存在」や「他人の物」や「他人の考え」や「他人の気持」がわかるようになるには、どうしたらいいか、ということですが・・・



基礎の基礎は、「自分の物、テリトリーをはっきりと生活の中で持つように育てていく」ことです。


一族のどの家に行っても、これは共通していることですが、まず部屋に物が少ないように見えます。あまり散らかっていません。どちらかというと閑散としています。理由は、個人の物は、個人専用の場所に全部しまわれているからです。


赤ちゃんが生まれると、その子に専用の服の収納箪笥、オモチャ入れなどの箱を用意します。お座りの時期から、遊ぶ場所には自分のプレイシートを敷きます。片付ける際は、片付けが苦手な子はこのプレイシートでざばっと風呂敷のようにくるんで箱に突っ込むだけですが、基本はもとの自分の収納箱に入れます。


兄弟姉妹が多い一族ですが、これだけはケチりません。完璧に、他人(兄弟、親)の物と、自分の物を区別して収納させます(皆で使うオモチャも、所有者は決まっています。その子と遊ぶときだけ使えるという風にオーナー制です)。定型一般と違い、幼い頃から「家族みんなのオモチャ」としてシェアをさせると、他人との境界線がますますわからなくなる傾向があるので、兄弟仲良くみんなのオモチャを使いましょう、を長年やると、「他人のものも自分のもの。誰のものでも使いたければ使う」と勝手に誤変換する子が多発するのです。集団生活で、この弊害が出てくることが多いのです。


服はお下がりをします。ただし、必ず自分の選んだワッペンを付ける、名前を刺繍するなど「お下がりを自分のものとする形式的な儀式」をしてから使い始めます。よほどのことがないと、同時進行で共有、ということはしません。



なぜこれほどコテンパンに自他の区別をつけるか、というと、精神的な「他人との境界線」を理解するには、最初に可視的に、「見た目で区別をつける練習」をして、自分のもの、人の物、と完全にかんがえられるようになってやっとその延長上で「自分と他人の趣味、好き嫌い、欲しい物、要らない物、大事にしているものが違う」ということに本当の意味で気が付きはじめるからです



こういう遠回しな過程を経て、自分と他人では価値観も違えば考えも趣味も違う、なるほど気が合わなくてもしかたないな、と納得できる領域まで精神的に成長できます。小学校の中学年ぐらいまでにここが成長している子は、その後の集団生活のストレスが減少するのか、とても落ち着きます。他人の感情や言動に全く動揺しなくなり、自分は自分、という確固とした基礎ができあがったような風情になります。



この「自分は自分」という気持が、他人と異なる異色の発達障碍者としての自分のアイデンティティーもまるごと受け入れる状態になっているため、かなり他人と違おうと、定型一般の同級生と異なる進路を歩もうと、自信がみなぎっています。ポジティブに自分を考えられる状態になっているのかな、と感じます。



定型一般の子というのは、「人の気持ちを察する」ことができる、自他の区別がつけられる機能を備えて生まれてくるようですが、私達にはその機能がついていませんでした。それが、この「自他の境界線がない」という障害の特徴なのです。



 






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