発達障害の人間が幸せになる生命線は何か、という話題が、同じ発達障害の親友との間で出ました。

彼女はADDの昔で言う所の広汎性発達障害です。


私も彼女も、小学校や中学校時代は暗黒時代でした。そして不登校経験者です。私は小学校で話さないことでクラスメートほぼ全員から「うっとうしい」とか「役立たず」とか「空気だろう」とか、「いてもいなくてもいいんなら学校に来るな」と言われることしばしば、のいじめを受けていましたし、先生もクラスメートをけしかけるようなタイプで、私が話さないことにイラつく大人ばかりでした。


友人は考えや行動がゆっくりで、勉強の速度も遅くのんびりさんなので、しっかりタイプの女子に煙たがられ、気分のままにけなされたりバカにされたりしていました。


そういった子供時代は人の悪意や攻撃、蔑みや憎しみ、マイナスの感情というものを浴びるように経験をした私達ですが、大人になっていたってごく普通の家庭を持ち、平和で幸せな生活を送っています。それ自体が、過去を振り返っても「ありがたい毎日」なのです。そして、そのありがたい、平和で幸せな毎日を送れている大きな理由は、「良い人との縁を大事にし、悪い人との縁をばっさり断ち切る」ことだよね、と意気投合しました。



私達二人には共通点があります。

いじめられたり、悪意にさらされている最中に「こういう人間とはつきあわないでいい」と親から言われていました。友人の場合は、「あなたをいじめるタイプの人や、心根の悪い人はあなたに合わない。今後、そういう人とは話さない、付き合わないでいい。」と言い聞かされていたようですし、私の親の場合はもっと辛辣で、「他人に対してそういうことを平気でやる人間というのは、つきあう価値がない。自分が汚れないように、そういう人間からは離れていた方がいい。近づくと無意識にマネをしてしまうような所が子供にはあるから、そういうことのないように、なるべく離れて見ないようにしなさい。」とまで言われていました。


さらに中学や高校になって、より詳しく親から話をされたことがあります。

私達家族の傾向として、付き合う人間しか見えなくなって(視野が狭い)、その相手の良いところをマネできたらいいけれど、悪いところによく目が行くようになってそこを知らずに真似してしまうような傾向がある。それは自分が知ったことだけで対応しようとする性質から来るのだけど、人がそうするから、自分もやる、というように悪い面のコピーはしてしまいがちだ、ということでした。


学んでほしい良い部分のコピーは苦手だけど、なぜかネガティブな、例えば人を怒鳴るとか、人をけなすとか、叩くとかつねるとか、八つ当たりするとか、そいうことは容易にまねをしてしまう傾向があるので、そういったネガティブな部分が強い人と付き合うと自分が同じようになっていく可能性がある、という話でした。


だから、親は小さい頃から、「安心できて安全な環境にいないといけない」といじめがひどくなれば不登校を推奨しましたし、

100人の悪意、嫌み、裏のある嘘つきと付き合うと

その悪い面の言動が頭に叩き込まれて「それ以外の良識的な人」を想像できなくなる。

それよりも、1人の尊敬、信頼できる人がいれば「その人を基準に」見る目がつく。


だから、自分が「こうなりたい」とか、つきあっていて清々しい、言動の根が明るい人をよく見なさい。


と言う風に言われました。



要するに、ネガティブな刺激に弱く、反応しやすい私達ですから、ネガティブ群のグループに身を置くことなく、可能な限り少人数でも良質の人間と接して、見る目を養うようにしろということだったのでしょう。


定型一般の世界でこんなことを言えば、『何様だ』という感じがしますが、障害特性を持っている私達の場合、悪い方へ転びやすい弱さがあります。その弱さを堂々と認めて、親はとにかく、私達が大人になって



騙されないように

合わない人と無理に付き合って疲弊しないように

悪意のある人とくそ真面目に向き合ってバカを見ないように

貶めよう、利用しようという裏に気づいたらすぐに縁を切れるように


知恵をつけてくれていたのだと思います。
結果的には、これが自分の身を守ることになりました。


まず、大学で「人を簡単に利用しよう」といタイプの人が多いことに気が付きます。そういう人には声をかけられても、「悪いけどいまから用事があるから」と話を聞かないで立ち去るようにしていました。内容がほぼ「ノートを貸して、コピ―させて」とか「部屋に泊めて」とか「今ちょっとお金足らないから貸して」とか、なんだそれという内容のことを軽々しく口に出す人間が多かったです。


ろくに話したこともない相手にノートを貸して返してもらえるのか?

自分と全く接点のない、ただ同じ教授のクラスを取っているというだけの人を家に泊められるわけがないだろう(大学に遅くまでいて帰れない時に利用したかっただけ)、お金なんて自分でなんとかしろ。


そういう類のことに他人である私を利用しようとする人は、確かにいました。危うきに近寄らず、という意味は少し違うかもしれませんが、人付き合いが良さそうな顔を持ちながらも、現実的には他人を利用しているだけ、というような人に近づけば、次も、また次も、と利用されるだけです。


先に大学生になっていた兄弟から、こういう時は「仲のいい人に頼めば」と言って、あとは知らん顔しとけ、と言われたので、ほぼこの返事だけで撃退していました。なぜか、「仲のいい人に頼めば」と言うと、相手はたじろぎます。

「仲が良くない私達でしょう」という意味と

「仲が良くない人間に頼むのは、質の悪い頼みだからだよね」

という両方の意味があるんだと兄弟(ADHDの頭の回転がいい方の兄弟です)から教えてもらいました。確かにそうだな、と思ったものです。



私が大学で得た信頼できる、真面目で誠実な性質の友人はほんの数人ですが、私には十分すぎるほどでした。とても良い出会いであり、とても安心できる、お互いを大事に思いあえる相手だからです。


付き合う人はだれでもいいわけではありません。私は過去の記事でも書きましたが、痴漢やセクハラに会うことがありましたので、大学でもその手のことをしてくる人、身体が目当て(あまり話さずコントロールしやすいタイプに見えるから)の人は、もういかにも、と言う感じでしたが、知らん顔するかはっきりと嫌だからやめてほしい、と言い、教授にもきちんと相談していました。


初めて付き合った異性で、初めて安心できて、尊敬できて、理解できた(相手も発達障害だから)相手は夫です。私は彼に暴力的なことをされたこと、言われたことが皆無ですし、自分の存在を脅かされたこと(コントロールしてきたり、支配的な男性優位の女性卑下などの言葉を言う、するなど)もなく、隠し事もしないというよりできないタイプで、悩みはお互い相談できますし、切って捨てられることもなく、心強いパートナーです。


勤める会社を選ぶ際も、やや大きい会社でそこそこ名前のある、親族が過去に勤めていたので人脈もある所と、とても小さくて事業所と言えど個人営業のような所との最終選択になりましたが、面接した時にお会いした上司、経営者、同僚や先輩となるだろう方々との対面の印象から、私は「自分はこちらの方が安心できるし、ほっとする」という小規模でお給料のやや下がる個人営業の方を選びました。


結果的には、人で選んで良かった、と思います。どんなに新人1年目でどたばたして、スローであっても必死で頑張っていたら、けなされることなく、根気強く仕事を教えてくださる人が多くて助かりました。自宅で仕事をしているいまでも、その会社からの臨時のパートや自宅でできる依頼などは受けていて、長いお付き合いです。


友人
伴侶
会社(社風、そこに集まった人)

どれもにつながるのは、「自分が安全につきあえる人とだけ付き合う」ことと、「自分を害する、利用する、不快にさせる誠実さを感じない人とは極力付き合わず距離を取る」この2つだけを忠実に暮らしていれば、経験を積み重ねるごとに、自分が幸せになれる人との輪ができてきて、気が付けば、不得意でコミュニケーションの障害があると言われている自分ですら、平和で安心できる人間関係が持てているのです。


見る目、というのは養える定型一般の人とは違い、私達は自分の目で見える良き人との付き合いという経験を重ねて、見える悪い人との付き合いをしないという選択をあえてしていくことで、安定、平和という状態をやっと保てるのかな、と思っています。



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