私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。
1504年、早雲は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の上杉朝良(うえすぎともよし)殿の援軍として小田原城を出陣しました。
同じ頃、今川氏親(いまがわうじちか)殿も扇谷上杉家の援軍として駿河国を出陣しました。
かたや上杉朝良殿の籠る河越城を攻めていた山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の上杉顕定(うえすぎあきさだ)殿は、
顕定「これ以上、このまま河越城を攻めても拉致がない。敵の支城の江戸城を落とす!」
と陣を武蔵国白子(現在の埼玉県新座市)に移しました。
江戸城は扇谷上杉家に仕えていた太田道灌(おおたどうかん)さんが築城したんだよ。
しかし顕定殿は早雲や今川軍の動きを知るや白子に留まり様子を見ることにしたのです。
早雲は武蔵国の枡形城(ますがたじょう)に入り、今川軍も翌日に入りました。
さらに河越城を守っていた上杉朝良殿も枡形城に合流したのです。
早雲は氏親殿、朝良殿と軍議を開きました。
朝良「敵は白子から南に兵を進めていますな。」
氏親「ならば決戦の場所は多摩川辺り…。」
早雲「いや多摩川を渡って戦いましょう。」
朝良「多摩川のどこを渡ると?」
そこへ早雲の忍びの小太郎(こたろう)が入ってきました。
小太郎「御館様、多摩川で渡れる箇所を見つけたよ。そこからなら大軍でも渡れる。」
早雲「うむ。よくやった。」
扇谷上杉家、今川氏、早雲らの軍勢は小太郎の示した箇所から多摩川を渡り武蔵国立河原(現在の東京都立川市)に上陸したのです。
これを知った上杉顕定殿は慌てました。
顕定「敵が立河原とは、もうわずかのところではないか!我らも立河原に向かうのじゃ!」
顕定殿の山内上杉家、古河公方連合軍は立河原まで軍を進め、両軍は睨み合いました。
そして決戦は始まったのです。
昼頃に始まった合戦は双方、死者を二千人をも出し関東における最大規模の合戦となりました。
山内上杉家、古河公方連合軍は苦戦をしいられ、夕方、ついには敗走したのです…。
つづく…
次回をお楽しみに〜