【神頼みと感謝と愛猫と】
「神社に行って、単に神頼みなどをしても、それはダメでしょう。」
という話を、あちこちで見聞するようになった。
●先ずは感謝。
●感謝もせずに、身勝手に願いごとばかり念じる人を、神様が助けるわけがないでしょう。
●そもそも、神様に願いごとなんかしちゃいかんのですよ。
●感謝をして、自分の計画を奏上し、決意のほどを示し、自分の努力を神様に約束をして、そして、約束を違わず、困難にもめげず、あきらめず、努力をし続けたときに、神様は助けてくださるのですよ。
●神様が助けてくださるとは言っても、奇跡を起こされるのではなくて、この世のルールを破らないように、その人にヒントを示して、気づきを得やすくしてくださるのですよ。
●でも、人生の困難は、そもそも、成長のために必要なことであるし、もっと言えば、自分で計画したものなのです。その困難から逃げようとしか思ってない人は、生まれてきた意味が無いのですよ。
●困難を勇気を持って乗り越え、たくましく成長していくことこそが、人生の意味なのです。その計画をちゃんと達成できるように助けて下さるのが神様なのですよ。
そんな感じの話だ。
亡くなった妻は、自分自身に対して異常に正直な人間で、「治るためには絶対に癌に感謝すべきだ」と、ことあるごとに諭されても、
「そんなことできるわけがない!」
と言い切って、決して癌に感謝することは無かったし、ついでに家族にも感謝することも無かった。そんな心構えのままで、末期癌が自然消滅するという奇跡を、二度も見せてくれたのであった。
その謎解きを、俺は運命的な出会いをしたと思っている、
「こじまもとこ」さんにしていただいた。
納得感がないままに「感謝する」ことは、普通に「感謝する」こととは全然違うということだったのだ。
そんな下心のあるの嘘の感謝なら、感謝しない方がよっぽど良いのだ。そして、「感謝できっこない」と納得感を持って生きている方が、道徳的には問題アリなのだが、その人の精神にとっては、とても良いのだろう。
「先ずは感謝」
と励む時点で、ほんとうに納得感がある人は良いけれども、そうでない人が、身勝手な願いごとを叶えてもらわんがために、神様に「無理に感謝する」ことをしている場合、その時点でマイナスになってしまっているということだろう。
見え透いた嘘の感謝などして身勝手な願いごとを押し付けてくる人間よりは、嘘の感謝なんかできるか!として、身勝手な神頼みもせずに自助努力に邁進する姿勢を見せた正直者のほうが、神様からすれば可愛くて、助けたくなる人間だということなのだろう。
でも、嘘というものは奥が深い。
人は自分自身に嘘を付く。
自分の心に蓋をして、自分の不自然な言動を正当化する。正当化に都合の良い記憶だけを残して、都合の悪い記憶は捨ててしまう。
その最適化の中で、他者に責任を転嫁する。
良いことは自分の努力の成果…
悪いことは他人のせい…
でも、それを知ったところで、
「良いことはお陰さま、悪いことは自分の責任」
と、無理に思おうとした時点で、また、罠に嵌まってしまうのだろう。
結局は、
「自分とどれだけ向き合えるか」
によって、
己を知り、大地にしっかりと足をつけることによって、五感をフルスロットルにして人生を謳歌できるのだろう。
自分自身への嘘を見破り、自分に正直に生きられる人間が、どれだけの存在たるかを、自分で知ることになるのだろう。
愛猫の目撃情報は久しく無い。。
だから、最後の目撃情報となった下記のものが、
真実なのだろうと思う。。
愛猫が移動したことを証する目撃情報があった大きな公園に、たいへん珍しいことに、巨大なキャンピングカーに乗った外国人のファミリーが来た。
そこから、金髪で瞳が青くて、幼くて可愛い女の子が両親に助けられながら、車椅子に座ったまま降りた。その子が愛猫を見つけて、しきりに声を掛けたら、そのうちに愛猫が近づいてきた。そして愛猫はその子に懐いた。。
別れ際になって、愛猫とバイバイするのを嫌がって泣く女の子…
親に諭されながらキャンピングカーに載せられる女の子を追って、なんと愛猫はキャンピングカーに飛び乗った!
全身で喜ぶ女の子。。
笑う両親。
そして、愛猫は一緒に行ってしまったということだ。
俺は神様に感謝をした。
そして愛猫の幸福を願った。