1つ前の記事に書いたように
2/21に除脈っぽくなり夜中に救急に行くということがおこりました。
そんな風になってしまった体を調整するために鍼灸の先生にお願いしました。
鍼が反応したわたしの「ツボ」からのメッセージは
鬱憤
でした。
納得いかないまま腹にしまっていたことですね。
しかも、かなり古いものまであるとのご指摘。
これも睡眠不足を指摘されピンとこなかったように、すぐには具体的なことが思い浮かびませんでした。
なぜなら、過去のトラウマや古い感情は頭では処理済みだったからです。(もちろんこの日まで心でも処理済みだと思い込んでいました)
インナーチャイルドとの付き合い方
様々なワーク
そのようなものに出会い、頭ではリリース法も、なぜそういうことがおこるのか?の法則もきちんと理解していたからです。
それがひとつのやっかいなことで、じぶんでは終わってる、わかってる、と思っているからすぐでてこないんですね。
でも、何より体がその存在を証明している。
実はそのあと消化器内科で検査も受けました。そこで見つかったものは宿便!
これなんの化身でしょう?
もう、上に書いたまんまですね
それから自分の中を旅してみると、思い当たることがありました。
それらを改めて感じてみると、全然納得していない。
騙されうまいように利用されたと思うこと、勝手に自分のしたことを置き去りにして私に対する責任から降りたと感じること、そしてそれを相手は正しいとしていることが強い怒りとして感じられました。
頭ではわかる。相手の世界ではそれが真実なんだ、と。
でも、わたしにはゆるせない。
掴みかかり、激しく罵倒し、わからせてやりたい、謝らせてやりたい!!と感じました。
やはりここでも、幾度となくクライアントさんのそんな想いに共に伴走してきたように、過去のそんな自分に話しかけていこうとしました。
が、あまりの怒りにかける言葉も見つかりませんでした。
そこで私の先輩に聞いて頂いたところ、今のこの気持ちをスルーしていることに気がつきました。
どこまでも頭でやろうとするんだな、とじぶんにほとほといやになりつつ、今のこの激しい怒りに集中し、アドバイス頂いたとおり、大親友のようにそうか、そうかと聴き続けてやりました。
するとある日、それが本当に突然、悲しみにかわりました。
そんな風に私をぞんざいに扱ったことがゆるせなく、とても悲しくて顔が歪むほど泣けました。
そしてもちろんほぼ同時に湧き出してきたのは
私が私をぞんざいに扱ってきた
という深い深い悲しみでした。
もちろんやってきたんですよ。そんなことたくさんたくさん。「自分を愛する」はたくさん取り組んでもういいってくらいでした。
それでも尚!もう一段潜ったら、、、
酷い扱いにもヘラヘラしたり、耐えたりして、
その人達の世界では正解なのだからとか、巧妙な「正しい」理由をつけて、納得もしてないくせに納得したことにした。思考のレベルで切り落とし、見て見ぬ振りをした
少しの動悸、慢性的だけど大したことない腹痛、、そのうちおさまるだろう…
私というかけがえのないものをそのように扱ってきたんだという大きな悲しみでした。
首根っこを掴まない限り、その人が私の世界で「正しく」ならない限り納得はできないのでは?という想い、今までの相談会の中でクライアントさんに伝えてきたことと違うそんな想いは、私を苦しめるかと思いましたが、私が私を悲しみ、今までのレベルとはまるで違うレベルで大切に扱うという震えるような気づきにより、周りの人の暴挙と失礼は「納め、得ました」。
私はこの年始に、私の2019に観るという大きなテーマをつけました。
見て見ぬ振りをしていたところを観る。
鬱憤なんて、その最たるものではないでしょうか?
まさに宿便のように、本来出ていくものを宿し痛みとし、腹から納め→得ることをしなかったものたちが、
私が私と成るように声をあげてくれたのでしょう。
もっと深いところで、私と他者、善と悪、加害者と被害者が分断せず、調和がとれた世界
そこへ行きたくてたまらない
それを心から望むわたしに起こったことでした。