ただ、あることを知る。 | 自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」主宰。
西麻布茶室

ただ、あることを知る

枯山水については、観光ガイドブックを読んでも、ウィキペディアを検索しても、ほとんどがこんな風に書いてある。

「白砂の上に大小の自然石を立て、据え、組み合わせることで、ひとつの観念的世界を創造します。 それは山の峰や、滝が走る渓谷、大河やせせらぎ、ひっそりと静まりかえった海、大海に浮かぶ島々まで、または仏教世界観や宇宙観であったりします。 自然と向き合い、自らの存在と一体化することで、無でなければならない自身を見い出す、境地に立とうとする。 それは見えざるものの中にそのものを見、聴こえざるものの中から、そのものを聴くといったところに枯山水の表現が求められたのです」

実に、わかったようなわからないような。はっきり言って、全然わからない(笑)

むしろ、枯山水を前にしたときに感じるのは、ただそこに、「白い砂」と「岩」があることだけなのではないでしょうか。
つまり、静的なもの、流体が留まっているもの。死んでいるものの気配です。

その上を、風が渡っていく。それを見る自らの鼻が風という名の何かを、知覚する。

おそらく、枯山水とは「水を引くことにより、水を感じさせると言っておきながら、実は、そこには、ただ「砂と岩」しかないことを、知覚させることなのではないか」と思うようになった。

人間は、すぐに主観を入れて、自我を稼働させてしまう。あらかじめの先入観や洗脳によって、あるがままに感じること、観ることを難しくしているのではないか。

枯山水を禅的に考えてみると、その方がすんなりと納得がいくような気がしている。

引き算と余白の文化は、そこに無いものを見させるのではなく、実はその場に残った図の方を、あるがままに見せる魂胆だったのではないだろうか。

南インドの聖者ラマナ・マハルシは、「思考が働こうとしたら、自分は誰?!と問う。そうすれば思考せずに済み、自らから離れずに済むから、それを繰り返すことで、あるがままであることができるようになる」と。

それを支えるのは、すべて「食事」だとも。
シュタイナーも言っていることだった。ナチュラルスタイルの荻原さんがずっと問いかけていることでもあった。

そのもの、ズバリ、何を食べるか。どう頂くか。

枯山水と「食」
この辺りのことも、9月からの「気づきの先へ」連続講座で共有してみたいテーマになった。
どんどん思考がクリアになってきている。
きっと、世界中には、もっとクリアになっている人たちがたくさんいる!! ジャンルを越えて、そんなクリアーな人たちと話してみたい。

きっと、もっと身体のなかもクリアーに、淀みなく、すーっとした状態に。

クリアーは、どこにいても楽しくて、明るいのだと思う。