はじめての人にこそわかりやすく⑤「運び又は、捌き」 | 自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」主宰。
西麻布茶室


街を歩く密かな楽しみの一つに、足捌きの美しい人を探してみることがある。

人のことを言えたものではないが、自分も含めて、歩き方に見応えがある風格ありという歩き方に出逢えることは、ほとんどない(笑)

でも、万に一回、出逢えたときは、もしかするとこの人は「能楽」をされているのかな、「キャビンアテンダント」で活躍されているのだろうか、などと想像が膨らむのだが、何よりも足捌きの参考になるのだ。

下手をすると、歩き方に関しては
多くの人が、だらだら、ふらふら、ガツガツと歩いてしまっているのではないだろうか。
能楽の足捌きは、独特のリズムを刻む。半足、爪先をあげてからおろして運んでいく。一連の連続した流れの足運びとは違い、節目、節目の連続による、ただならない気配を場に与えていくようである。

歩くことを、お茶の世界では「足運び」という。足は、元々運ぶものなのだ。

運命の「運」は、命を運ぶこと。どう足を運ぶかは、どういう人かが如実に浮かび上がってしまう。
やはりそのまま「その人」のアイデンティティー、状態までもが曝されるのだ、、

たとえば、待合せに遅れて時間がない時、慌てて鞄を抱え、急ぎ足で駅へと向かうとする。

そんな時は、まず普段なら目に入るはずの並木の色づき方や、鳥のさえずり、雲の流れなどは情報として受け取りにくい状態になる。

そういう時の、身体の状態は前のめり、気持ちばかりが先へいき、足が遅れて出るために、何かの拍子に転んでしまう危険性もある。

どう足を運ぶかという状態は、まさに心の状態と密接に深く関わっているのだと思う。まさに、そんな足運びこそ、茶道での初歩の歩、最初の大事な所作稽古なのだ。
お茶にとっての運びが、なぜ大事かというと、この足運びが落ち着いたリズムのもとで出ないないと、何度となく大切なお道具を出たり入ったり持ち運ぶために、極めて危険な状態になってしまうのだ。

何年とお稽古をされていても、この足運びがいい加減な方のお点前所作というものは、やはりどこかでいい加減さがつきまとう。

見方を変えると、お客さんにとって、亭主の足運びというものは、まず最も正座をしているために、視界として低いために、そこに焦点が強くいってしまう。

ほどよい一定の流れるようなリズムでの足運びの亭主だったら、逆に、お客さんにとっては、少しばかりの緊張が和らいでいく、心地よさへの最善のきっかけにもなる。

では、どういう足運びが美しいのだろうか。また、どうすれば足運びが上達していくのだろうか。

お茶の足運びの原則は、摺り足であること、そして、一足連続型のリズムで足を運んでいく。

摺り足というのは、文字通り、畳からできる限り足を上げずに、前へ摺って歩いていく。
その時に、どのくらい足を前に出すかというと、一足を目安に、右足を出す。
このとき、右足の踵が、左足の爪先の少し前まで出ていれば十分くらいと覚えておいてほしい。

次に、これが最も肝心なところだが、右足を摺り足で出して、右足の踵が畳につくか、つかないかのリズムで、左足を摺り足で出していくのだ。

これを、あとは交互に繰り返して、大体、基本的な「運び」であれば、踏み込みだ畳と手前畳の2枚分で、9~10歩でお点前座に座ることができるようになる。

この足捌きに関しては、利休嫌儀のうちの一つにも上げられていることがあり、そこにもちゃんと、「ドタバタ」歩くなとある。喜劇王ならともかく、茶を志す場合は、まず最初に通らねばならない関門のひとつが、この足運びということになる。

最後に、余談ながら、
一連のお客同士が、このように足捌きの熟練者たちになってくると、茶室の場合、この「足捌きの」が、いつしかご馳走にさえなってくるのだ。

かくして、静寂のなかの音、呼吸や足運びを通じて伝わってくるお互いの「熱量」のようなものが、音として、それぞれの一期への覚悟を物語りもするのだ。


運命とは、自らで運び、変えていくことができる。足運びは、まさにその自分の中の水先案内人のようなものかしれない。