高瀬舟 森鴎外




こんにちは!puffです。

久々の『独り』です。それも真実、午後3時半からひとりでした。

いつものご飯作りや、買い物から遠く引き離されて、じっくり本でも読もうと思い図書館へ。

借りてきたのは二冊。

河野多惠子の『砂の檻』と、高橋たか子の『人形愛』

高橋たか子は初めて触れる作家で、非の器で有名な高橋和巳の奥さま。

なんとなしに手に取って後にわかるという。


近頃、完読の恍惚に程遠いものですから、短編を読もうかと考え、借りた本は一先ず置いて、(最近、もっぱらKindle愛好家)森鴎外の『高瀬舟』をダウンロードして読んだ。

漢文を徹底して学んだ世代の文学者が書く小説は読み易い——

ですが、テーマは重たく、理解は難解だと予想され。しかし、読み砕くと消化も良くて、しだいに脳が澄んでくる。


京都、高瀬川を上下する『高瀬舟』。昼は荷駄を運び、夜は罪人を載せて大阪へと廻される。

そこで起きる凝縮された時間の流れ。

風の止んだ穏やかな夜、罪人、喜助を乗せた高瀬舟は、同心、庄兵衛の監視のもと、京都の街並を両岸に見ながら『東へ走って加茂川横切って下る』のだそう。

文中、『智恩院の桜が入相(黄昏時)の鐘に散る春の夕』とあるので、夕方から夜にかけての、いまだ街が騒めく時刻だろうか。

私はその昔、この短編を読んだ際、真夜中であろうと勝手に思っていた。ある意味、それは読んでいないのである。

なんとも恥ずかしい思い出だが、私にとってこの手は本当に多い。多分、集中力に欠けているからなんだと思う。いいや、実際、そうだと思う。


さて、この舞台の背景———

4月の半ば頃だろうか。

昼間は春の大風が豪と吹いて、夕方には靄がかった夜が立つ。

京都の夕暮れ、暮れ染むる前から後にかけて、街は妙に気忙しい。だが、加茂川を横切るあたりに来ると、『ひっそりしていて、ただ舳に割かれる水のささやきを聞くのみ』であった。

今にも、船頭の漕ぐ、櫂に砕かれた水面の斑紋が目に浮かぶようである。

空に浮かぶ、夜陰の月。水面を見つめ、空を見上げ、朧に照らし出される罪人喜助の表情は、意外にも清らかであった。月の淡い光に照らされて、偶々そうであるかのようで——

実は違った。

喜助の目は輝いていた。

ここで同心、庄兵衛は不思議でならず、喜助に問うた。


『喜助。お前は何を思っているのか』


こうして始まる2人の問答。

川は時であり、刻々と流れて止まることを知らず。ただ、その流れのなかの2人であり、先導は影の引導者である。これはまさに読み手である『私』に置き換えてもいい。

深い闇が、さらに深い闇へと誘われる。実は深刻な二人舞台である。罪人と同心、この二人は立場も身分も違うもの同士——


この小説のテーマは『知足』と『安楽死』であると言われているけれど、

知足(現状に心より満足できること)

は人にとって難解で、難しいことこの上ない。

喜助も現状は知足でも、『私はこの金を元手に何かしようとおもいます』といっているから、果たして…、それが永続するとは限らない。

安楽死に至っては、いわずもがな、常に賛否両論である。


喜助の知足に触れた同心、庄兵衛は驚き(ここもいい。感じ入ったのではなく、驚愕に近いものがあったとおもう)まるで喜助の頭から※毫光(仏の眉間 (みけん) の白毫 (びゃくごう) から四方に出る細い光。仏の智慧にたとえられる)を見るようだったと。

なんと…、毫光とは。

しかし、こうした言葉の端々をほぐしてゆかないと、この高瀬舟の良さは分からない。

宗教を間近に感じている方にも、この小説は響くのじゃないかなぁ、などと思いつつ、一気にラストへ。

安楽死という行為について、悶々と惑う庄兵衛。


果たして、これは本当に悪なのか。喜助の行動は本当に罪であるのか。


喜助の語る、弟への愛。

弟もまた、喜助を深く信頼している。

動機の経緯は凄まじく、途中、読み進めるのが辛くなって、息を整えながら丁寧に読んだ。

鴎外自身、子供を亡くした経験をもとにこれを書いたと言われている。

私も久々に亡くなった人を思った。


皆様も是非に。


2024.2. 9