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滝の音は 絶えて久しく なりぬれど

  名こそ流れて なほ聞こえけれ


20151208 倭塾・動画配信サービス2


今はもう枯れてしまった滝だけれど、滝の音色の素晴らしさは、今も世間に流れて聞こえています。

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五十三番から六十二番まで女流歌人の歌が続くのですが、なぜか五十五番にだけ、男性の歌が入っています。
そういう点にも注目して歌を詠んでいくと、配列に隠された、ある意図を見出すことができます。

『拾遺集』の詞書には、「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、古き滝を詠み侍りける」とあります。

このお寺に人々が集まったときに、大納言であった藤原公任が、「今はもう枯れて水のなくなった滝」を詠んだのがこの歌です。

昔の人は「人は神様になるために生まれてくる」と信じ、「この世は心と魂を浄化し鍛えるための場」と考えていました。
この世に生を受け、「まこと」を尽くして生きることで心魂を鍛え、あちらの世に還っていくのです。
肉体は滅んでも魂は永遠という考え方です。

そして人の死には二つあります。
ひとつは肉体の死、もう一つは人々の記憶から消えてしまう死です。
人々の記憶の中に生きることは、立派な生のひとつだと考えられていました。
だからこそ、枯れた滝を見て「名こそ流れてなほ聞こえけれ」と詠んでいるのです。
たとえ肉体は滅んでも、その人(個)は人々(集)の心の中に生きているという思想がここにあります。
それが、大納言公任の歌の真意なのです。


















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