大切な兄のような親友が、月曜の朝から重い再手術をうけます。
長く闘い、ずっと頑張り続けてきた彼に、「頑張って」と言った私は、
私自身を頑張って行く姿勢を、
これから持ち続けていかないといけないと思います。
人は皆、引力を持っていて、この広い世界の中で、
自分中心のちっぽけな世界を回し、引かれあい、反発しあっています。
私も彼の引力に惹かれた1人です。
私は私の世界を回しながら、彼が目を覚ますのを、待っていることにします。
そして彼に祈ります。私の願う意志力で、幸運を引きよせて彼に注ぐために。
沢山の人が、それぞれの信じる方法で無事を願っているので、
きっとあますことなく色んな角度から
幸運は逃すことなく包まれているでしょう。
最近、病と闘う恋人たちの邦画が流行ってますよね。
実際に同じ病と闘っている方々、
不治の病と闘っているご家族が、ご友人がいる方々は
どういう気持ちでTVCMを観ているのでしょう。
ただのお話。
ただのシナリオ。
実話を元にしたものならいいと思います。
命の重みを、献身を、愛そのものではなく、 愛の意味を知るかもしれません。
しかし、それ以外の物語、「病と恋のフィクション」の、
何がいいのか私には判りません。
闘病とは現実で、スクリーンのような美しさはありません。
当事者にしてみたら、涙も叫びも想いも、
心が進めなくなるような恐怖も、時にはあるでしょう。
愛する人が、大切な友が、命の危機。
それのみをテーマとして描く、それこそ、「縁起でもない」物語。
日本人は、自分が逝った後に遺される人々のためでさえ
「縁起が悪い」と言っては遺書を書きおく事を拒む文化を持ちながら、
大切な人が病の危機にさらされている映画を観に行くのは何故でしょう。
ダイ・ハードのような出来事が自分にふりかかることはあまりないと思います。
けれど、今、隣でテレビを見ている人が病と闘うことになる可能性はあります。
そんな人に、せめて純愛で感動などとうたっている映画のCMは
あまり観てほしくないと思います。