まさかの80連勤で記事も伸ばし伸ばしに。
2ヶ月くらい放置してしまいました。
個人事業なので、自分のさじ加減次第。
でも人から求められる事は幸せなことです。

で、誰もが忘れているロビンソン解釈の最終回。
今年書きかけた記事は今年のうちに!


そう、2番がありますよ!
2番をもって、全体像が把握できます。


まずAメロ。


片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫も
どこか似ている 抱き上げて 無理やりに頬よせるよ
いつもの交差点で 見上げた丸い窓は
うす汚れてる ぎりぎりの 三日月も僕を見てた


最初の「捨て猫」
ここが僕にとっての最大の違和感でした。

捨て猫の喩えはベタ中のベタ。
尾崎豊が歌うからハマるんであって、スピッツがこんな形で捨て猫の比喩を安易に出すことは考えられない。

僕らはぬくぬくとした環境で暮らす飼い猫、飼い犬であって、捨てられた猫や犬ではありません!
(もしあなたが捨て猫なら、大変申し訳ありません、比喩ですのでご容赦ください)


しかし、
自分たちが「捨てられた猫」であるとは言ってません。
「どこか似ている」のであって、その猫を「無理やりに抱き上げ」ているんです。


ここに気づいた(または思い込んだ)時、僕は小躍りしました。
1番の流れから、捨て猫のフレーズにいたり、ロビンソンが個人的な歌ではなく、同世代を巻き込んだ一大アンセムだと気づいたからです。


スピッツは「捨て猫」や「ドブネズミ」などいかにも大文字ロック的な存在に憧れつつ、違和感を感じているはずです。

(ところでブルーハーツも「ドブネズミみたいに美しくなりたい」、ドブネズミ的なものへの憧れを歌う屈折パンク)


つまり
捨て猫は自分たちと相容れない人々、例えば尾崎豊的な価値観を持つ人、ヤンキー的メンタリティで生きてる人、そう言った価値観に共感する多くの人たち。
もっと言えば、なあなあで生きてるくせに、本当は誰かに飼われてるくせに、「俺たちどうせ捨て猫」の渦に巻かれている人々。

そこを拾い上げてるんです。
敵対視さえするだろう、自分たちと相容れない種類の人々に淡い連帯感を抱き、愛情さえ感じる、新たな気づきなのです。

レコードを持ったある意味では「イケてる」自らの特権、優位への気づきとも言えます。
スピッツがどこを拠点にしていたかは知りませんが、「下北沢の憂鬱から外に出る瞬間」なのです(もちろん比喩なので突っ込まないでください)。ここでスピッツは普遍性を得たのです。
それがお茶の間に近づいていくきっかけともなるのはちょっと皮肉ですが。


「丸い窓」はフェイクの満月。

「ぎりぎりの三日月」はリアルな月。

月は届きそうで届かない憧れです。
僕らにとっての満月は空に浮かぶ満月じゃなくて、汚れた丸い窓。

で、なんでそんなに月なの?というと月をモチーフにするアーティストは数知れないですが、パンクがらみで考えるとジョー・ストラマー、クラッシュではないでしょうか。

「月に向かって手を伸ばせ、たとえ届かなくても」

何度も繰り返しますが、その憧れの月に僕らは間に合わなかったんです。
ストラマーの前には届かなくても、少なくともそこにはまんまるの月があった。

でも、その「月」、時が経ってもなくなってなかったんです。
かすかな三日月の姿ではあるけれど、そこにあった。
そこにあるのは消えそうではあるけれど、確かに存在する「月」だった。


で、Bメロ。


待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳
そして僕ら今ここで 生まれ変わるよ



夢は再三出てくる憧れ。
でも「待ちぶせ」ています。
月の存在を知った僕らは、今でもそこにサリー 的君がいることに気づいたのです。
だから「待ちぶせ」ていたのです。

リアルな三日月がかすかに照らす夢。
僕らが今そこに来られたことに驚くサリー的「君」。

前回だか前々回だかに書いたオアシスの言葉を借りれば、
サリーは消えたのではなく、どこかで待っているんです。
その場所に僕らが来られたので彼女は驚いたのです。

そして「僕ら」が使われるのはここだけ。
単に僕と君いっしょになろうぜ、じゃない「僕ら」のかすかな連帯感。
そう、「僕ら」は「僕と君」だけではありません。
つまり、噛み犬スピッツだけでなく、野良猫たち、捨て猫たち、捨て猫だと言い張る猫たち、そう、僕ら全部を引き連れて、サリー なる「君」に会いに来たのです。

「生まれ変わる」は、魔法にかかること。
魔法は1番で出ましたが、もう一度かける必要があります。
なぜって、野良猫や野良猫と言い張る人々には魔法がかかっていないから。

そしてまたサビ、浮遊の儚いループへ突入します。
感涙。


タイトルのロビンソンですが、
疑いようもなくデフォーの「ロビンソン・クルーソー」から。

漂流してないって?無人島じゃないって?
現代における冒険とは、この時代を懸命に泳ぐこと。

18で家出したロビンソン。
未知の世界への冒険。
その未知の世界は今やすっかり失われてしまってる。

でも、この混沌とした現代に生きることもまた冒険なのではないか。
そしてまた沢山の人に囲まれながら通じ合えない世界で、無人島同様に僕らは孤独なんじゃないか。


「憧れ」は決して追いつけないもので、同一にはなれず、「孤独」と切り離せません。
そしてまた「孤独」と「連帯」は紙一重のものです。



ちょっと唐突ですが、藤子・F・不二雄のドビンソン漂流記。



地球という野蛮な国に漂着したドビンソン。
彼は多くの地球人に愛されながらも常に孤独です。
その根本を癒すことは友だちにはできません。

でもできないからそれをしないのかというと、そうではありません。
地球人はそれぞれが孤独でありながら、孤独な人を放っておけない。
懸命に勇気づけようとする。
子どもたちは、ドビンソンに対し、懸命に同情を示します。
子どもとして、できる限りの連帯を示そうとします。
その子どもたちの感情に嘘はありません。
そう、ドビンソンと地球の子どもたちは友だちなのです。
その優しさ、連帯がある時、ドビンソンは孤独ではないのです。


ここまで書いて、アメリカの作家、カート・ヴォネガットの「スラップ・スティック」を思い出しました。
初読はちょうどロビンソンがリリースされたあたり。

スラップスティックは表紙をめくると素敵な副題が現れます。

僕は「ロビンソン」に「スラップ・スティック」と同じ副題をつけて駄文を締めようと思います。



「ロビンソン」


或いは、

「あなたはもう孤独ではない!」








長らくお付き合いいただきましてありがとうございました。