なんか、すみません
さて、もう10年以上前になりますが、
福岡に友達(一般の人です)がいて、
彼のところに遊びに行った時、
友達が長崎の遠藤周作記念館に案内して
くれました。
記念館がどうだったかはあまり覚えてないのですが、遠藤周作の本は読んだことがなく、
でも彼がキリスト教徒だったことを知り、
東京に帰ってきてすぐに、遠藤周作の
「沈黙」を手に取りました。
その本は当時の僕にとって、まさに衝撃的!な内容でした。
かいつまんで説明すると、
江戸時代、日本にある宣教師がやってきます。
その宣教師は、先に日本に到着している
ある宣教師を追ってやってきたのですが、
その先輩宣教師はどうも棄教している、という
噂があります。
その先輩宣教師を追ううちに、当の本人も
信仰の試練に直面します。
信仰に篤いその宣教師は、頑なにキリストに祈り続け、転ぶ(棄教)するのを拒み続け、踏み絵を
拒否し続けます。
一生懸命キリストに祈りますが、キリストは何の返事も助けもくれません。
そのとき、その宣教師は衝撃の事実を聞くことに
なります。
この内容上、ネタバレしてしまいます。
すみません
宣教師は、となりから聞こえてくる
いびきで眠れません。
棄教を勧める幕府の役人に、となりのいびきが
うるさいから眠れない、と文句を言います。
役人は言います。
「いびきだと!?あれは拷問を受けて
苦しんでる、お前の仲間の信者のうめき声だ!!」
その宣教師が頑なに踏み絵を拒み続ける間
仲間のキリスト教信者は、
死にそうになりながら、拷問され続けて
いるのです。
宣教師が踏み絵を踏まない限り、
仲間の信者は拷問を受け続けます…
仲間は、宣教師が棄教してくれることを
拷問に耐えながら、必死に待っているのです…
この驚愕の事実を知った宣教師は、
絶望し、踏み絵を踏みます…。
そこに、棄教をしたという噂の先輩宣教師が
現れます。
先輩も同じ理由で棄教したのです。
名作を数行にしてしまいました
なにせ昔の記憶で多少内容が違うかもしれ
ません。
この本を読んだ当時の僕は、寒気がしました。
なんて恐ろしい本だ、と。
キリストは、試練にあっている信者が
助けを求めても、沈黙し続けます。
試練に耐えれば耐えるほど、周りは傷ついて
いきます。
信仰とは?宗教とは?救いとは?
当時の僕は混乱し、結局考えることから
逃げてしまいました。
それから、五年後くらいに
僕も棄教するわけですが。
ちょっと棄教とは違うか。
僕の解釈を押し付けたくはないのですが、
今の僕の考えは、
正しい信仰の持ち方とは、原理原則では
ない、ということでしょうか?
牧師さんにしろ、
宗教の異なる冠婚葬祭に出席しても、
仏さんにも手を合わせます。
牧師さんにとってその行為が背教になるわけではありません。
輸血しないと死ぬと分かっている
状況で輸血を拒むのは、命を尊ぶ、
愛を重んじるキリスト教に反するはずです。
他人の目を気にしてルールを守る
のでもなく、まして個人の信仰心を
他人がジャッジするなんてしてはいけない
ことです。
僕は、会社の社長になる前、まだエホバの信者だったころ、
もし仕事で、社員が仕事中、車で人を撥ねて
万が一人を死なせてしまったりしたらどうしよう。その状況で、通夜に行き焼香しなければ
いけないような時、自分は手を合わせるのだろうか。と悩んだ時期があります。
ものみの塔のルールをやぶったら、信者から裁かれる、なんてやはりそれはおかしい。
因みに…
「沈黙」ですが、映画化されるとか。
カトリックあたりから、映画化反対の
声があって長らく実現しなかったそうですが。
分かる気がする。
絶対見よう。
それにしても、
こんな小説を、しかもキリスト教徒で
あった人が書くなんて。
遠藤周作って人はすごい小説家ですね。