第7回 『優越感と劣等感という躁鬱と、分かち合いの幸福』 | 上祐史浩

上祐史浩

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 前回は、劣等感から生じる劣等コンプレックスと優等コンプレックスのお話をしました。これに基づいて、今回は、優越感の問題を取り上げたいと思います。

 人にとって、劣等感が苦しみであれば、その正反対に、自分が他人・他者よりも優れているという優越感を感じることは、大きな喜びになる場合が多いと思います。

 
 なお、この喜びは、勝利の際の歓喜状態のように、非常に強いものだとは思いますが、純粋な喜びかとなると、どうでしょうか。見方を変えると、一種の興奮状態かもしれません。

 すなわち、優越感は、躁鬱(そううつ)病における躁状態に一面で近いものがあり、劣等感は鬱状態に近いものがあるのではないかと思います。勝つ喜びと負ける苦しみがセットであるように、躁鬱もセットになっています。

 それはさておき、優越感の喜びは強いために、カルト集団の勧誘の際には、勧誘対象を強く褒める場合が多いと思います。

 オウム真理教では、教祖麻原が、自分を世紀末の善と悪の戦いの終末戦争の際に現れる救世主(キリスト)と自己を位置付け、その下に集う者たちは、キリストの弟子・聖徒であり、真理の実践者、善業多き魂などされました。これに対して、それ以外の人々は、凡夫・外道であり、悪業多き魂と否定されました。

 ただしこれは、その集団が、勧誘対象を意図的に操ろうとしているのでは必ずしもありません。その集団は、そのリーダーをはじめとして、本当に自分たちは最高二の存在であると考えていますから(自己盲信)、自分たちに縁があって、集団に入ろうとしている人も、自ずと非常に優れた存在ということになるからです。

 こうして、その集団のリーダー(教祖)から幹部、幹部から一般の構成員へと、妄想的な「優越感の感染」が起こるのです。人を操ろうとしているのではなく、自らがまず盲信・狂信しているので、それに接する人たちへの称賛は、悪い意味で真剣味があります。

 一般の心理学でも、人間はそもそも、生存欲求に加え、承認欲求があると言われます。現代社会の中では、自己の価値、存在意義に悩んでいる人が多いと思います。実際に、鬱病の人が数百万人に上り、自殺する人が毎年3万人前後いるとされます。

 競争社会の中で、他に勝つこと、他よりも優れていることに、非常に重要な価値が置かれます。そうした中では、自分が他に比較して優れた、特別な存在でありたいという欲求は非常に強くなっていると思います。

 政治や宗教のカルト的な集団が人を引き付けたり、戦争を正当化する際のナショナリズム的な国家体制は、自分たちを特別な存在と位置付けて、そのメンバーや国民に、客観的な視点から見れば妄想的な優越感を強く生じさせていると思います。

 そして、上には上がありますから、カルト集団は、劣等感を感じている人だけでなく、優越感を感じることが多い人。いわゆるエリート層も引き付けることになります。一般の社会に比較して、カルト集団は、自分たちを世界で最高・唯一の集団(例えば神の意志を実行する集団)なとど位置付けるからです。

 宗教ではない分野でも、こうした妄想的な優越感の集団心理が働く場合は少なくないと思います。

   オウム真理教が現れた1980年代は、日本バブル景気の時代で、株価や不動産の価値がうなぎ上りであり、21世紀は日本が米国を抜いて世界最大の経済大国に なるという話しが社会を覆いました。

 これは、客観的には、社会全体が陥った妄想とも言うべきものでしたが、当時は、 社会のエリート層が率先して、これにのめり込み、後に大きな破綻を経験しました。

 さて、前回も多少触れましたが、その集団ないしはその集団に入る人たちが、そのような優越感の精神状態に陥る前に、劣等感・劣等コンプレックスを抱いているケースが少なくないと思います。

 大日本帝国が日清・日露戦争に勝利し、自分たちを神の国と考えて暴走する以前には、欧米列強によって植民地化されるのではなかという恐怖・劣等感・コンプレックスがありました。

 先ほど述べた日本のバブル景気における米国をしのぐ経済大国になるという妄想の背景にも、日本の敗戦による戦後のコンプレックスがどこかしらあったかもしれません。

 ナチスドイツが、ドイツ民族こそ世界で最も優れた人種であり、ユダヤ人を劣等人種として大量虐殺する以前のドイツは、第一次世界大戦での敗戦による莫大な戦後賠償と不景気による劣等感・鬱積・苦しみがあったといわれます。

 オウム真理教にも、教祖麻原をはじめとして、オウムに入る前の人生において、劣等感に悩まされた人が、教団とその思想に巡り合って、そこに探し求めていた自分の価値を初めて発見したというケースが多いと思います(実際には、それは妄想的な価値でしたが)。

 劣等感・劣等コンプレックスの苦しみは非常に強く、それに対して優越感・優等コンプレックスの喜びは、その人を非常に興奮させるものであり、それによって、現実的・合理的・客観的な視点を見失ってしまう可能性があると思います。

 そして、その集団が自分に与えた高い称賛によって、その集団を好きになってしまい、その思想の是非を客観的に判断するのではなく、自分では気づかないううちに、「好きだから正しいと信じたい」という心理状態が形成される可能性があると思います。

 そもそも、確たる価値観がなく、様々な情報が飛び交い、すべてが相対化しつつある現代社会では、人が、何かを正しいと判断する場合は、客観的・合理的な視点で判断するというのではなく、好きだから正しいと思いたいという心理状態を背景として、そう判断する場合の方が多いと思います。

 
 この優越感の喜び(ある意味で単なる一時的な興奮かもしれない)と、劣等感の苦しみは、人類にとっては根深いものだと思います。超古代において、人の集団の中に身分の上下が生まれ、都市文明が形成されると共に強くなりました。

 そして、現代の競争社会の中でいっそう強くなっているとも思います。例えば、ピケティ氏の資本主義が、所得の格差を拡大する可能性を指摘した著作が注目を集めていますが、この現象の背景でもあると思います。

 
   そこで、自分と他人を比較し、勝って(優越感で)幸福になる、負けて(劣等感で)不幸になるという考え方自体を和らげる必要がある とのではないかと思うのです。言い換えれば、勝利による幸福感(およびその裏側にある敗北による不幸感)とは異なる、別の幸福感を養う必要があると思 うのです。

 次回は、この点について考えてみたいと思いますが、今回は、一つ興味深い事実を指摘しておきたいと思います。

 それは、他より「優れている」とか、「優越感」といった言葉に使われている「優」という漢字は、良く考えてみると、「優しさ」という言葉にも使われる漢字であることです。

 時々、日常何気なく使っている漢字の中に、重要な道理があるようにも思います。真に優れているというのは、他に勝つ能力なのか、それとも、別物なのかという点について、次回は考えてみたいと思います。