智将の両極サイコロジー~冷徹と熱血、残虐と気品、伝統と革新~/秋山準【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第69回 智将の両極サイコロジー~冷徹と熱血、残虐と気品、伝統と革新~/秋山準



日本プロレス界の四半世紀(1990年以降)において、秋山準ほどトータルバランスが優れた日本人プロレスラーはいない。
非情で説得力のある攻撃。
洗練された受け身やロープワーク、コントロール能力、技を仕掛けるタイミング。
188cm 110kgの恵まれた肉体と身体能力。
話題を提供するアイデア力や発信力。
喧嘩負けしない気の強さ。
精悍なルックス。
絶対的なレスリング能力の高さ。
プロレスという作品を組み立てる頭脳。
武藤敬司が「綺麗なプロレス」と評した品のあるスタイル。

秋山はデビュー時から将来プロレス界のトップに立つだろうと目された選ばれし者だった。
今回は、全日本プロレスとプロレスリングノアで中心選手であり続けた智将のレスラー人生を追う。

秋山準は1969年10月9日大阪府和泉市に生まれた。
少年時代から秋山はスポーツ少年だった。
中学の時には水泳部、高校の時にはレスリング部に在籍していた。
レスリング部時代にはインターハイや国体にも出場するほど活躍した。

推薦で専修大学に進学すると、レスリング部に入部する。
このレスリング部は長州力や馳浩など幾多の名レスラーを輩出した。
そして、秋山が1年生の時に、4年生だったのが、当時から日本レスリング界の強豪として活躍していた中西学がいた。

1年生の時に全日本学生選手権フリースタイル81kg級準優勝を果たし、4年生の時にはレスリング部の主将を務めた。
大学時代に秋山は「日米レスリングサミット」を観戦し、ジャンボ鶴田の圧倒的な強さに心が惹かれた。元々プロレスファンではなかったため、大学卒業後は普通に就職しようと思っていた。
大阪の一般企業からは内定をもらっていた。
しかし、就職活動中にバスの吊革にもたれ、疲れ果てているサラリーマンの姿を目撃する。
秋山はこの時、こう思った。

「俺も何年かしたら、あんな風になるのかな…」

ならば自分の可能性と賭けてみたい。
人生は一度しかないのだから…。

そんな時だった。
当時専修大学レスリングヘッドコーチを務めていた松浪健四郎氏から声をかけられた。

「赤坂のキャピタル東急ホテルで飯を食うから、スーツを着て来いよ」

赤坂に向かった秋山を待ち受けていたのは、全日本プロレス社長・ジャイアント馬場と馬場元子夫人だった。

この席で松浪氏からはこう言われた。

「馬場さんがお前に全日本に来てほしいってことなんだよ。」

馬場本人からの直々のスカウトだった。
当時、レスリングの強豪は新日本プロレスに入団する選手が多かった。
それはロサンゼルス五輪レスリング日本代表のプロレスラー・馳浩という優秀なスカウトマンがいたからだ。
しかし、馳のアンテナには秋山は引っかかっていなかった。
秋山には古傷の腰やヒザを抱えていたためである。

秋山は決断する。
全日本プロレスに入団することを。

1992年3月の日本武道館で、秋山はリング上で新入団選手として観客に紹介された。
馬場からは「お前はいずれ上に立つ人間だから」とも言われていた。

しかし、練習はきつかった。
専修大学レスリング部で鍛えた秋山でもさすがに堪えた。
当時の全日本道場のリーダーは小橋建太(健太)だった。
小橋は尋常ならない練習で雑草の如く、全日本で頭角を現した男。
秋山は小橋の練習メニューに必死に食らいつき、エリートにも関わらず新弟子と同じように雑用もこなした。

秋山には抜群のプロレスセンスがあった。
先輩の動きを見て覚えて、受け身をマスターした後には、シリーズ中には試合前のリングで外国人選手と模擬試合をこなしつづけた。
また、馬場からはとなりに座らせて、事細かく理論を述べて帝王学を学んだ。

「まずリングの真ん中にいなくてはいけない。その周りを回っている人間の方が弱く見えるんだよ。」

「とにかく体を大きく見せろ。受け身は大きく取れよ。技がきれいに見えて、なおかつ安全なんだよ。」

「プロレスはリズムと音が大切なんだよ」

これらの馬場からの教えはデビュー後に生きてくるのである。
秋山はデビューする前から、ある意味完成されていた。

1992年9月17日に秋山は後楽園ホール大会のセミファイナルで異例のデビュー戦を行うことになった。対戦相手は、秋山を鍛えてくれた先輩・小橋だった。
試合には敗れたものの、100点満点のデビュー戦だった。

超新星、ジャンボ鶴田二世と呼ばれた秋山は10月シリーズには早くも外国人選手にタッグマッチで勝利を挙げるなど大活躍をする。
青のショートタイツ、レスリング仕込みのスープレックス、きれいなファイトスタイル、確かなテクニック…秋山は新人離れしていた。

秋山自身は「最初は先輩達と試合をしているというより、試合をさせられている操り人形でした」と語るが、彼らのレベルについていける技量があったから、秋山は周囲の期待に応え続けた。

1992年の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦では、鶴田の代打でエントリーしていた秋山は田上明とのコンビで三沢光晴&川田利明と日本武道館のメインイベントで対戦した。
デビュー3ヶ月で日本武道館のメインに立った秋山はその年のプロレス大賞新人賞を獲得した。

1993年1月シリーズで秋山には試練の7番勝負が組まれた。
しかし、この舞台で秋山はプロレスの恐ろしさを味わう。
川田の容赦ないキックで脳震盪を起こし、スタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットで顎が外れ、テリー・ゴディやスティーブ・ウィリアムスとの対戦では記憶を飛ばされた。最終戦の三沢戦では、三沢のスピンキックで脳震盪を起こし、恐怖症になった。

三沢には試合後、コメントで秋山にダメ出しをした。

「あいつのキャリアでこれだけの闘いを強いるのはかわいそうだけど、試合になれば先輩後輩もないんだから、やり返してこないと。技に今いち感情移入ができていない。若い者同士で感情をぶつけ合う試合をすることも大事だと思う。」

秋山は大スランプに陥る。
試合中に右肩を負傷し欠場した。
復帰後には、三沢や小橋が在籍する超世代軍入りするも、聖鬼軍の川田利明にはジェラシーを交えたかのような感情がこもった潰しに合った。

もうプロレスをやめよう…。
秋山の心は折れていた。
しかし、そんな秋山を引き留めたのは小橋だった。
小橋は同じ関西出身で、エリートでありながら気骨のある後輩をここでやめさせたくなかった。
そういえば、エリートである秋山は新弟子時代から、周囲の先輩からの嫉妬に心身ともに疲れていた。そんな秋山を救ったのは他ならぬ小橋だった。

小橋は秋山についてこう語っている。

「『コイツは強くなる』と秋山準と初めて練習をしたときにそう思った。誰もがエリートと言ったが、合宿所に入ったら他の練習生と何ら変わらない。もちろん特別扱いはしないし、雑用もイチからやる。スカウトされて入ってきたといっても、そんなことは俺の中で全く関係なかったし、一人の新弟子として接していた。ただ一緒に練習しながら、馬場さんがスカウトした理由がわかった。とにかく吸収するのが早い。ガンガン練習するからずいぶん刺激された。」

小橋の支えで秋山はもう一度、立ち上がった。
1994年の若手参加のリーグ戦「あすなろ杯」を全勝優勝を果たす。
同期の大森隆男との決勝戦の終盤で披露したのが、変型裏投げだった。
この技は小橋との練習で編み出したオリジナル技「エクスプロイダー」と命名された。
受け身の天才である三沢はこう語る。

「秋山のスープレックス(エクスプロイダー)は通常とは違い横向きに投げられるので受身が取りづらい。はっきり言ってやっかいだよ」

トップにのし上がるために切り札を取得した秋山は頭角を現す。
1995年1月に大森とのコンビでアジアタッグ王座を獲得し、1996年1月に四天王の一人である田上明をタッグマッチで破り、5月には三沢とのコンビで川田&田上を破り、若干26歳で世界タッグ王者となった。

 この頃について秋山はこう振り返る。

「三沢さんと組ませていただいたのは多分、馬場さんが三沢さんに『組んでやれ』って言ってくれたと思うんです。『トップ選手とはどういうものか、三沢の背中を見ろ』ということだったと思うんです。三沢さんはやりづらかったと思いますけど。タッグを組んでいるときは、自由にさせてもらっている感じでした。」

秋山の上には三沢、川田、田上、小橋の四天王という確固たるトップがいた。当時、秋山の台頭により、全日本は五強時代に突入する。
しかし、秋山は…。

「もう『五強』と呼ばれるのがものすごく嫌だった。その中に入れないでくれと思いました。本当にあの人たち(四天王)は凄かったんです。受け身も、受け身じゃないみたいな…。体は大きいのにジュニアヘビー級みたいに速く動くし。どこまでやるんだよって思ってましたから。そこに入れられて、俺もこんなことをやらないといけないのかって。」

「四天王を『追いつこう』とか『追い越そう』というすらなかったかもしれないですね。完成したものを見せられているような気がして『同じ山を登ったら到達できないな』っていう感じでしたね。それで『あの人たちにないものは何なんだろう?』って考えて、徹底した一点集中攻撃とか
言葉での発信とか違う方向に行ったんだと思います。」

秋山はここで思い知り、決意する。
彼らと同じ山を登るのでなく、違う山を登ることで、四天王にはできないプロレスを構築することを。

ここからだろうか。
秋山の試合には四天王にない冷徹さや残虐さが際立つようになった。
ツームストンパイルドライバーは足抱き式で、よりダメージを与えた。
垂直落下式ブレーンバスターであの川田を失神させたこともあった。
鉄柵やコーナーポストを利用にした理にかなった攻撃で相手の弱点を一点集中攻撃。
人は彼のスタイルを「意外性」や「暴力性」とも評した。

そんな秋山が一番プロレスについて考える期間となったのは1998年の小橋とのバーニング結成である。
小橋と秋山とのコンビを馬場は、このコンビが誕生すると敵がいなくなるため渋ったが、本人たちが強引に押し切った。

小橋と秋山は「これで会社で迷惑をかけたら、二人でアメリカにでもいくか」と話していたという。

1998年と1999年の世界最強タッグ決定リーグ戦を連覇、1999年1月には世界タッグも獲得した。小橋と秋山の「AK砲」は世紀末に現れた日本最強コンビだった。

2000年3月には日本武道館で三沢光晴を破り、悲願の「三沢越え」を果たした。
プロレスラーとして実績を残していった秋山だったが、全日本プロレスは分裂騒動に突入する。2000年6月、三沢光晴を筆頭とした多くの選手やスタッフが全日本を離脱し、新団体「プロレスリング・ノア」を設立した。
1999年1月に創始者・ジャイアント馬場逝去後、後任社長となった三沢光晴とオーナーサイドが衝突し、このような事態に発展した。

新団体に参加した秋山はこの時のことをこう振り返る。

「三沢さんについていったというより、そのときは小橋建太についていったからというのが一番の理由でした。俺がプロレスで上に行くためにはあの人が必要だったし、試合をやってても一番燃える相手だった。」

新団体ノアに移籍してから秋山は青から白のショートタイツにリニューアルした。
2000年8月5日のノア旗揚げ戦のメインのタッグマッチで三沢と田上を破り、翌日にはシングルマッチで小橋に初勝利を収めた。
三沢と小橋を破ったのは新兵器のフロント・ネックロック。
冷酷に対戦相手を絞め落とすこの技は新しい秋山の代名詞となった。

ノアを旗揚げしてから秋山は、苛立っていた。
小橋がヒザの負傷により長期離脱、団体を引っ張っていかないといけないという責任感、若手選手や中堅選手の伸び悩みなどを考えているといつの間にか自律神経失調症にもなった。
それでも秋山は克服し、前を向いて走り続けた。
2001年7月には三沢を破り、第二代GHCヘビー級王者となった。

秋山はノア旗揚げ時のことをこう振り返る。

「全日本と分かれる時は『三沢さんが作る会社』っていう意識だったかもしれないが、いざ独立すると、ノアって言っても誰も知らないわけだから、『とにかく名前を覚えてもらわないといけない』っていうところから、自分で色々やっていかないといけないと思いました。ノアの合言葉が『自由と信念』だったじゃないですか。難しいんですよ、これが。下手したらグチャグチャになっちゃいますから。」

当時全日本にいた天龍源一郎と対戦したい、或いは新日本の永田裕志と対戦したいなど、秋山はノアを世間に知ってもらうためにフライングのような言動をした。
ノア内部からは秋山をフリーにするべきではとの声もあったというが、これを食い止めていたのが社長の三沢だった。
三沢は秋山の意図を理解していた。

だからなるべく秋山の想いに応えるため、交渉の場に立った。
新日本との交渉も全面的に立ったのは三沢だった。
そんな両団体の努力により、2001年10月に秋山は永田と組んで、新日本に参戦し、全日本の三冠王者・武藤敬司&馳浩と対戦するというドリームマッチが実現した。

また2002年1月4日の東京ドーム大会のメインで予定されていた藤田和之VS永田裕志のIWGP戦が、藤田の負傷により、宙に浮いてしまう。新日本は当時GHC王者の秋山に参戦オファーをかけて、永田とのGHC戦を実現させようと動く。しかし、新日本オーナー・アントニオ猪木がその案に反対。猪木は、藤田が返上したIWGP王座決定トーナメント開催を提案し、その中で秋山VS永田をやればいいという発言。これに激怒した秋山は東京ドーム大会辞退を示唆する。そこで動いたのは三沢だった。なんと秋山の代わりにドーム大会出場をするつもりだったという。最終的に秋山VS永田が実現した。

秋山は三沢には頭が上がらない。
本当に感謝しているという。

「俺が勝手に言っていることも、三沢さんはなるべく叶えてくれていたと思います。会社内で摩擦がありましたが、三沢さんが抑えてくれた。俺が自由だったということは、俺の自由を三沢さんがかなり守ってくれていたからだと思います。それは本当に感謝しています。」

そして、秋山はライバルであり、尊敬する先輩・小橋がヒザの負傷のため欠場中も、ずっと小橋が帰ってくる舞台を守るという気持ちで闘い続けた。
だから自身がGHC王座を戴冠する舞台に欠場中の小橋を招待した。
復帰戦も自ら買って出た。

そんな小橋は2003年3月に三沢を破り、GHC王座を戴冠すると、絶対王者に君臨する。
秋山はそんな小橋の姿を、時には他団体に参戦しながら、眺めていた。
そして、2004年7月のノア初の東京ドーム大会のメインイベントで小橋のGHC王座に挑戦した秋山。
「肉体がぶっ壊れてもいい」という覚悟を決めてこの試合に挑んだ秋山は、小橋を徹底的に攻め、小橋の攻めを受け切った。
最後は、小橋の最終兵器のバーニング・ハンマーが炸裂し、秋山は敗れた。
試合後、小橋と秋山はがっちりと握手した。
そして、小橋はマイクで秋山にこう叫んだ。

「準、お前、最高だよ!」

花道に引き上げる秋山は照れくれそうに右手を上げた。
この試合はその年のプロレス大賞のベストバウトに選出された。

秋山はノアにおいてさまざまなアイデアを駆使し、話題を提供した。
中堅選手の底上げと自由な発想ができるタイトルGHCハードコア王座を設立した。
自信が率いた軍団「スターネス」入りを賭けて、泉田純に入団テストや減量指令を出したりした。
小橋との軍団抗争で、小橋が負けたら爆ゲームとして当時流行していたヨン様になることを命じたり、ファンとの食事会を開き、自腹で支払いをさせるという全日本時代には考えられないこともさせた。
すべては新鮮な話題を提供することでノアに還元するためだった。

ノアを旗揚げしてから数年が経過した頃だっただろうか。
秋山はこのようなことを語っている。

「例え、あまり面白くない映画でも予告編がしっかりしていて面白かったら、その映画を見に行きたいと思う。うちはこの予告編がしっかりしてしない。試合のクオリティーは誇れるものがあるのだから、ノアでこの予告編を大切にしていきたい。」

しかし、そんな秋山にとってショッキングな出来事が起こる。
小橋が腎臓ガンで倒れたのだ。
秋山は小橋から電話でこの事実を告げられた。
二人は言葉が出てこなくて、泣き続けた。
そして、秋山はこんなことを考えたという。

「あっ、俺も終わるのかな…」

腎臓ガンの手術成功後、プロレス復帰に向けてトレーニングに励む小橋だったが、秋山は当初、復帰には反対だった。小橋にはとにかく生きてほしかったのだ。しかし、小橋のリング復帰への想いに打たれて、秋山は小橋の復帰をバックアップするようになる。
自身のブログで小橋の経過を伝えたりすることでファンの不安を和らげたりすることをした。
そして、小橋の復帰戦の相手は秋山は務めた。小橋は高山善廣と組んで、三沢&秋山と対戦した。
終盤、小橋の渾身のマシンガンチョップとローリングケサ斬りチョップを食らいコーナーでダウンした秋山は、どこか笑っていたように見えた。

「やっぱり小橋さんは凄い。相変わらずだな…」

小橋が復帰や欠場を繰り返す中、秋山の体調も優れない時もあった。
それでも秋山は闘い続けた。

しかし、今度はノアの創設者の三沢が2009年6月13日広島大会、リング渦のためこの世を去ったのである。
当時GHC王者だった秋山はこの時はどんな状況だったのか?

「広島の前々日に大阪で試合したんですけど、腰椎椎間板ヘルニアで動けなくなって、次の日の早朝にブロック注射を打ってもらうために東京に戻って、広島の日は東京から直接行ったんです。それでもブロック注射も効かなくて、全く動けなかったんですね。試合後、治療を受けながらモニターを観ていて、何が起こったのは寝ててわかったんで、リングに行こうと思ったんですけど、花道の途中で倒れてうずくまってました。僕も三沢さんと同じ病院に直行でした…。」

「三沢さんは首が悪かったじゃないですか。それでも絶対に文句も弱音も吐かない人が、亡くなる数ヵ月前に僕は三沢さんから『キツイな』という言葉を聞いたんです。その時、20年近く一緒にいて、初めてキツイという言葉を聞きました。」

「実は生前、三沢さんから呼び出されて、潮崎豪のタッグパートナーを誰にするのかという相談を受けました。『潮崎をどうしてもうまく育てたい、お前は誰と組ませるのがいいと思う?』と聞いてきたんです。僕は社長の横にいて、帝王学というか、トップレスラーとはこういうものなんだということを行動で見せるのがいいと思ったんです。だから三沢さんと潮崎が組むべきだと思いました。三沢さんなら潮崎を押し出すこともできる。三沢さんもそう思っていたんでしょうね。だから僕に確認したかったんだと。その後に『ありがとな、そうだな』と言われました。」

秋山は三沢逝去後翌日の博多大会で予定されていた力皇猛との防衛戦を怪我のため、辞退に王座を返上した。
秋山はリング上に立って謝罪した。
彼は泣いていた。

「ふがいなさと申し訳なさでいっぱいです。GHCチャンピオンとして三沢社長に最高の試合を見せたいが、できません。今日は森嶋選手を始め、代打を名乗りを上げてくれましたが、昨日、三沢社長と最後まで闘った潮崎を指名させていただきました。三沢社長の遺志を継いで一生懸命頑張ります」

そして、潮崎は力皇を破り、GHC王者となった。
秋山にとって、潮崎を育てることは三沢からの最後の約束だと受け止めているという。

怪我から復帰した秋山はもう一花咲かせるために奮闘する。
ノアの経営は悪化していた。
集客にも苦戦していた。
地上波中継は終了した。
それでも秋山は、ノアを離れなかった。

2010年に行われた「第一回グローバル・リーグ戦」にエントリーした秋山は体調を整えていた。
そして、GHC王者の杉浦貴を破り、決勝に進出し、高山善廣に敗れ準優勝した。

新日本では盟友・永田裕志が40歳を過ぎてもアンチエイチングを掲げて、第一線で闘っていた。秋山も負けるわけにはいかなかった。
2011年に、全日本プロレスに参戦した秋山は怪物・諏訪魔を破り、三冠ヘビー級王座を獲得した。もし全日本に残っていれば、もっと早く巻くことができた至宝をようやく手にすることができた。

しかし、ノアのゴタゴタが続いた。
特にひどかったのは、秋山のパートナーであり、第一線で活躍している齋藤彰俊をノアがフリーにした一件だった。
(2014年に齋藤はノア再入団を果たしている)
2012年1月、フリーになった齋藤と組んで、GHCタッグ王者となった秋山は遂に公の場で怒りをぶちまけた。

「何でこんなにノアのためにやってる人間がフリーに切られて、なんでこのタイトルマッチに出てんだよ! (机を激しく叩きながら)いい加減にしろ! ちゃんとやれよ!! ちゃんとやれよ、全部! 普通にやれよ!! なんだよ!! 選手の気持ち考えろ!!!」

後日、秋山が新聞紙上で、この発言に真意について語った。

「もうさあ、『あれっ?』って思うことはしないでほしい。昨日のことに関しては、会社が『齋藤さんと秋山に(タイトル戦を)任せる』と言った後に、齋藤さんが『フリーですよ』って言われた。自分からフリーになった人と、された人間は違う。俺からすれば、タイトルマッチか絡む人間は「会社の中心選手じゃないの?」って思う。フリーにされるというのは、なかば『必要ないよ』ってことなんじゃないの」

「タイトル戦に行く前に齋藤さんに確認を取ってあげてもいいんじゃないか。『今回、こういうことになるけど、行ってもらえますか?』って。俺は(12月に)自分が契約した後に知ったから、何もできなくて、すごく昨年末から嫌だった。齋藤さんの気持ちを考えるといたたまれないよね」

「『秋山さんと齋藤さんで頑張ってください』っていうのが丸藤正道(副社長)で、齋藤さんのフリーを考えたのが執行部。それもまた(意見が)違う。中枢なんだから、連携してくれないと。これじゃあ『選手と社員が一丸となって』と言っても難しいよね。丸藤なんかはいい方向に変えていこうという気持ちはあるんだろうから、いいと思うことは押し切ってもらいたいと思う」

秋山はこの頃からノアに嫌気がさしていたのではないだろうか。
それでも秋山は堪えた。
しかし、それも限界だった。

小橋が2013年5月に引退を決意したからである。
もう小橋がいないリングに上がるというモチベーションがなかった。
秋山にとって小橋は、それだけの男だった。
小橋の引退試合ではタッグパートナーを務めた秋山は試合後、泣いていた。

2012年12月、秋山は潮崎、金丸義信、鈴木鼓太郎、青木篤志とともにノアを離脱し、フリーとなった。この五人でバーニングを再結成した。

秋山の最後の相手はノア副社長の丸藤正道だった。
試合は秋山が勝利を収めて、ノアでの有終の美を飾った。

試合後、秋山はこのようなコメントを残した。

「試合行く前はこの前はグローバル(リーグ戦)で負けているので、絶対負けられない、あのまぁ変な話、ここで負けたら自分のフリーとしてやっていく自分の価値が落ちるんで、あの、もしかしたら普通のままだったら負けていたかもしれない。だけどやっぱり俺の中にもう、助けてくれる人がいないっていうのがね。今までだったらノアって後ろにバックがあって、俺も他団体に行くときはノアのバスタオル背中に背負って、自分でひとりで行っているようで、やっぱりノアっていう大きい看板に、あの助けてもらっていたところがあると思うけども、これからはもう俺しかないから。それで負けることは出来なかったです。あいつも、もちろん何だかんだ言って俺らはノアを飛び出していくんだから、そんな人間に負けられないという意地もあっただろう。今日は俺の意地が少し勝った(まさった)のかも。」

「まぁ、あの頑張ってくれと。あいつが頑張ってくれないといけないと思うし、あいつは天性明るい人間なので、やっぱりなんか、今のポジションになってから、なんか暗くなっちゃっていたし、それは俺らがしっかりあいつのあれを出来なかったのかもわからないけど、でももっともっと選手には本当にリング上で集中、なかなか人数少ないから難しいかもわかんないですけど、なるべく選手にはリングに集中できるような環境を作ってもらいたいな、と。丸藤が天性の明るいプロレスを出来るように、やってもらいたいな、と思いますね。」

 「思い残すこと?って言ったら自分で『もう一度トップに』って言ってできなかったのが、それがいつも頭にありましたね。申し訳ない、ということが。何も出来なかったというのが。ただ、あの今、そうやってやろうとしている光があるので、その光を大切に。優しく大切じゃなくて、良い形で大切に。ただ選手はその厳しくガンガンやれば良いけど、会社の中はそれに応援してやってもらいたいな、と。今、最高の商品がお客さんの目の前まで到達して、それをどういう風に作り上げていくかっていうのも、やっぱり会社のやり方だと思うんで、そこはしっかりやってもらいたいと思います。」

 「小橋さんも引退して、なんか新しい時代に俺はボロボロまでまだやっていないですけど、それもタイミングじゃないですか。それがタイミングだと思うし、本当に。田上さんとかにはね、全日本で8年、ノアになってから12年、お世話になって、最初は最強タッグだから、何も分からないガキを手取り足取り教えてもらって、ここまでしてもらって、最後、ちょっと休みたいと言ったら『ノアに所属でも良いから休めと、全然そんなの気にすることないから、休め』と言っていただいたの、本当に感謝しています。みんな本当にうるさい目の上のたんこぶの後輩、先輩かも分からないけど、本当にみんなに世話になって感謝しています。」

良くも悪くもプロレス界は離合集散の繰り返しである。
残った人間、辞めた人間にも大義はある。その大義や生きざまを各々が信じた舞台でぶつけることが彼らの宿命となった。

秋山らが目指した先は古巣・全日本プロレスだった。
2013年から参戦し、6月には全日本入団を果たした。

「選手としてラストランに入っているので、武藤体制で中身が違っていましたが、最後は全日本で終わりたいなっていうのはありましたね。」

しかし、全日本ではまたもゴタゴタがあり、体制が変わった。
新しいオーナーはどうやらプロレスというものを理解していない者だった。
オーナーの介入により、途中からは給料も滞納が目立つようになった。
このままでは全日本はオーナーの私物化、食い物にされる。

2014年6月、選手やスタッフがこのオーナーの会社から独立し、新会社「オールジャパン・プロレスリング」を設立した。その社長に就任したのが、秋山だった。
そして、全日本から一線を引いていた馬場元子氏の協力を得ることになった。

信用は失った。
スポンサーもいない。
節約できるところは節約しなければいけない。
選手が一人一人チケットを手売りするようになった。
頼れるものはできる限り、いい意味で利用しないと生きていけないと秋山は判断したのではないだろうか。

馬場元子氏は語る。

「秋山君なら馬場さんの遺志を継いで、その存在をないがしろにせず、しっかりと後輩に伝えてくれると思うんです。」

王道回帰を掲げた秋山は語る。

「まず来てもらったお客さんに満足してもらう、そこから始めないと何も進まない。外面だけ王道回帰しても、試合が元に戻ってなかったら、それこそ怒られますよね。以前の四天王スタイルに戻すかどうかはわからないですけど、試合のクオリティーは戻していきたいと思ってます。」

「馬場さんと三沢さんは年齢も違いますし、考え方も違ったと思うんですよ。でもお二人と共通していたのはお金に関してものすごくキレイだったんですよ。プロレス界はそのへんがごちゃごちゃしているところが多いけど、お二人はそのへんは本当にしっかりしていた。そこは僕も見習わなきゃいけないと思っています。」

「今は地上波の放送がないですからいかにして選手達をメディアに出るチャンスを作ってあげられるかっていうのが僕の仕事だと思ってます。見てもらえたら面白さは分かってもらえると思うんですよね。」

今後の全日本プロレスを秋山が舵取りするか見ものである。

かつて作家の内館牧子氏が秋山のことをこのように評したことがある。

「秋山ほど『他力本願』に手を染めない男は少ないのではないだろうか。秋山はひときわダイナミックなのは、他人をアテにせず、自分を追い込んで道を拓くからだ。周到な計算の上に成り立った潔さは『智将』と呼ばれた毛利元就に似ている。」

プロレス界の毛利元就・秋山準のレスラー人生を振り返ると、彼は両極端のイデオロギーをうまい具合に調合して、プロレスに昇華させることができる稀有なプロレスラーである。

冷徹と熱血、残虐と気品、伝統と革新といった相反する主義やサイコロジーを秋山は見事にまとめ上げて、秋山のプロレスを完成させてみせた。

確かにプロレス界のエースや天下を獲ったかと言われれば、そうではなかったかもしれない。
しかし、彼が業界のカンフル剤になることで、20世紀末から21世紀初頭にかけて大いに沸かせ、時代を動かしたことは事実である。

「我、天下を競望せず。」

毛利元就が臨終に際して、居合わせた息子や孫達に言って聞かせたという言葉である。織田信長などが天下統一を目論んで邁進するようなご時世だったにもかかわらず、元就は息子や孫達に「天下を争う事なかれ」と言い残し、過ぎた野心を持つことを戒めたのだ。

天下を狙わなかった智将は四天王とは違う気高き山をプロレス界に構築して見せたのである。