四面楚歌を乗り越えた人間山脈の繊細と豪胆/アンドレ・ザ・ジャイアント【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第76回 四面楚歌を乗り越えた人間山脈の繊細と豪胆/アンドレ・ザ・ジャイアント



アクロメガリーという病気がある。
別名先端巨大症と呼ばれ脳下垂体という器官にできた良性の腫瘍によって成長ホルモンが必要以上に分泌されてしまう病気である。手足が肥大したり、額やあごが突出したり、鼻や唇、舌などの軟部組織が大きくなる。脳下垂体に腫瘍ができる原因は、今なおはっきりとした原因はわからない。日常の食事や生活習慣とは関係なく、遺伝でもないという。子どものときに発症することは稀で、その場合は骨の成長にも影響し、身長や手足が異常に伸びる、いわゆる「巨人症」となる。

223cm 236kgの大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントはこのアクロメガリーが原因で、食事と運動量には関係なく成人後も身長、体重が増加し続けた。身体の肥大化は彼の心も体も次第にボロボロにしていった。

世界各国の成人男性平均身長で最も高いのはオランダで183cmだと言われている。また世界各国の成人男性平均体重で最も重いのはオセアニアのミクロネシア連邦の87.4kgだと言われている。

223cm 236kgのアンドレは長年、一般社会から桁違いの肉体が故に好奇の目で見られる苦痛を味わい続けた。

怪物や巨人と形容されるプロレスラーには肉体という最大の武器があるため、テクニックがない、プロレスが出来ないただ大きいだけのデクの棒という偏見で捉えられてきた。しかし、中には例外もいるのが現実だ。

223cm 236kgのアンドレには多くの巨人・怪物レスラーとは違い、本格的なレスリング・テクニックの持ち主だった。腕を取って固めるにしても基本に忠実で、相手の弱点を一点集中攻撃も得意だった。全盛期のアンドレの試合運びは人間離れした肉体とパワーという豪快さと確かなレスリング・テクニックという繊細さに満ちていた。

アクロメガリーという病気、世間からの好奇の目、プロレス界からの偏見の目…。思えばアンドレは目に見えない敵が立ち塞がる四面楚歌の中でレスラー人生を全うした生涯だった。

ワールドプロレスリングの実況アナだった古館伊知郎氏にとってアンドレはあらゆる形容詞を創作しがいのある絶好の対象だった。

大巨人。
巨大なる人間山脈。
一人民族大移動。
一人というには大きすぎる、二人といったら世界人口の辻褄が合わない。
人間というより化け物。
都市型破壊怪獣ゴジラ。
怪物コンプレックス。
一人大恐竜。
ガリバーシンドローム。
ガリバー旅行記。

今こそ知ってほしい。
世界一のプロレスラーと呼ばれた巨大なる偉人がこの世に存在したことを…。

アンドレ・ザ・ジャイアントは1946年5月19日フランス・グルノーブルに生まれた。
本名はアンドレ・ルネ・ロシモフという。
アクロメガリーにより肉体はどんどん肥大化していった。
少年時代にはサッカー、ラグビー、ボクシングなどのスポーツを経験し、家具運送会社で働いていたアンドレはフランスのハリー・ゴールドスタインというプロモーターにスカウトされ1964年にプロレスデビューを果たした。(アンドレのデビュー年には1963年、1964年、1965年、1967年などの諸説がある)
当時のリングネームはアンドレ・ロシモフだった。

転機となったのは1969年。
アンドレはパリで日本からやって来た国際プロレスのストロング小林&豊登と対戦した。
この模様を見た国際プロレスの吉原功社長はアンドレに目を付けた。

地元のプロモーターは吉原にこう言ったという。

「あいつは二流だぜ。ただのデクの棒。」

しかし吉原はアンドレの素質にほれ込んでいた。当時の日本プロレス界のエースである東洋の巨人ジャイアント馬場よりも大きく、まだ若くて、しかも運動神経も抜群だったからだ。

1970年2月にアンドレはモンスター・ロシモフというリングネームで国際プロレスに初来日を果たした。
このモンスター・ロシモフというリングネームは国際プロレスの吉原社長とプロレスライターの菊池孝氏が命名したものだった。


そして同時期に来日していたアメリカAWAの帝王バーン・ガニアに才能を見込まれて、それがきっかけとなり北米進出する。ちなみにガニアは当初はボクサーとしてアンドレをスカウトしようとしたがアンドレはこれを固辞している。全米学生選手権(NCAA)優勝経験があったレスリングの強豪だったガニアから、アンドレは徹底的にテクニックを叩きこまれた。この経験がアンドレにとって財産となる。

カナダ・モントリオールを拠点にすると、ジャン・フェレというリングネームで活動する。またこの時から世界八番目の不思議と呼ばれるようになった。

フランス人レスラーのエドワード・カーペンティアが故郷旅行中に山奥で木こりをしていたアンドレを発見してカナダ・モントリオールに連れ帰ったというプロフェールが作られた。

1971年には国際プロレス「IWAワールド・シリーズ」でカール・ゴッチ、ビル・ロビンソンを抑えて優勝を果たす。

この頃のアンドレはヨーロピアンスタイルのレスラーで、サイド・スープレックスやサブミッション、奥の手でツームストン・パイルドライバーまで使用していた。

1973年、WWE(当時WWWF)に移籍後、彼はアンドレ・ザ・ジャイアントと改名する。
実はこのアンドレ・ザ・ジャイアントというリングネームで彼はWWE移籍する少し前からアメリカ・シカゴで試合をしていた。
このリングネームの考案者はシカゴ地区のプロモーターだった"生傷男"ディック・ザ・ブルーザーだったという。

WWEと契約したことにより、アンドレは国際を離れ、1974年からWWEと提携していた新日本プロレスに参戦するようになる。

WWEのプロモーターであるビンス・マクマホン・シニアはアンドレをNWA、AWA、カナダ、メキシコ、日本(新日本)などの世界中のマットにレンタルすることで、「滅多に出会えない怪物」に会えるというアンドレの商品価値の意地と向上、世界市場リサーチを図った。

だから世界各地のエース達が彼をボディースラムで投げ、自分達の団体とステータスを高めていった。

その計画は成功し、アンドレは世界マット界のビッグネームとなり、WWEはその後の世界新種の足掛かりを作ることができた。
1974年のギネスブックにアンドレは「年俸世界一のプロレスラー(年俸40万ドル(当時は1ドル=300円換算で約1億2千万円)」に認定された。

アメリカで知名度を得たアンドレは映画やテレビ番組に引っ張りだことなり、彼の半生が映画化されるところまで計画されていたが、アンドレはそれを望まなかった。

新日本でのアンドレは「日本人嫌い」のヒールというキャラクターであり続けた。日本以外では彼は絶対的ベビーフェースだったという。

他の国でもそうだったが、日本でもアンドレは1VS2,1VS3のハンディキャップマッチを敢行し、怪物性を大いに発揮した。
また新日本ナンバー2である196cm 130kgの巨体を誇る"荒鷲"坂口征二はシングルとタッグ、6人タッグを含めてなんと合計150回もアンドレと対戦した。アンドレのヒップドロップ、ジャイアント・プレス、ヘッドバットの餌食に坂口は合い続けた。
アントニオ猪木、藤波辰爾(辰巳)、長州力、スタン・ハンセン、ダスティ・ローデス、ハルク・ホーガンなどの強豪と数々の名勝負を残した。
特に1981年9月23日東京・田園コロシアムでのスタン・ハンセン戦は、今でも日本プロレス界史上最高の外国人対決として後世に語り継がれている。

またファンが近寄ってきても決してサインなどしようとせずに追い払った。
ファンから罵声が飛んだら、その客に掴みにかかろうとした。
リング内でもリング外でも彼はプロであり続けた。
また試合中に対戦相手に怪我を負わせることは一部の例外を除いてほとんどなかったという。
信頼したプロモーターの要望なら何でも聞いた。
マスクマンになってほしいというオファーに喜んで受け、正体バレバレのマスクマン「ジャイアント・マシーン」に変身しエンジョイしていたという。

ただ暴飲暴食だけは辞めなかった。
特に酒に関しては生涯辞めることはなかった。
それが原因でコンディションを落としたと指摘する者もいる。

ある時は車で800km移動する間に缶ビールを118本飲み、到着後更に5ガロン(約19リットル)のワインを飲み干したという。
ある時はアンドレともうひとりのレスラー二人で一度に瓶ビールを136本空けたという。
ある時は飛行機の機内にあったビールをなんと全部アンドレが飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついたという。
ある時はビール園で大ジョッキ89杯を空け、空港で50分でビール108本を空け、ホテルのバーでビール327本を空けたという。

またビールだけでなくワインも飲んでいたという。白ワインが好みで、水のように飲み干していたという。

アンドレのライバルの一人であるハルク・ホーガン曰く「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」と証言している。
酒が原因で晩年は歩行すらままならない状態となり、移動にバギーバイクを使用していた。

何故彼は酒で肉体を滅ぼす道を選んだのか。
周囲には酒を辞めることを進言した者もいた。
それは未だに彼の身長は伸びていたのである。

明日には動けなくなって死んでしまうかもしれない。
ならば自分の好きなものを楽しんで生きた方が悔いはない。
だから彼は酒を飲み続けた。
酒が身を滅ぼすことも明日死ぬかもしれないと知りながら…。

アンドレは新日本への要望として、古巣の国際プロレスに参戦した時期もあった。
新日本がブッキングして、国際にリースとしてアンドレを貸し出していた。

アンドレは三人のプロモーターを恩人として一目置いていた。

ビンス・マクマホン・シニア
バーン・ガニア
吉原功

この三人に対してはアンドレは忠誠を誓っていた。
アンドレを新日本からレンタルという形で参戦させていた吉原社長はある日、アンドレにこう声をかけた。

「お前を国際に呼べるのもこれが最後かも知れないなぁ…。」

しかし、アンドレは吉原にこう声を掛けて激励したという。

「吉原さん、この世界は水ものです。今は悪くても、また良くなる時期が来ます。だから俺も力になるから、頑張ってください!」

しかし、国際プロレスは1981年に崩壊し、吉原社長は1985年に55歳の若さで急死した。
アンドレは恩人・吉原の死をどう受け止めていたのだろうか…。

1986年4月29日三重・津市体育館で行われたUWFのリーダー前田日明との一戦は伝説のセメントマッチとも呼ばれ、プロレス界に波紋を投げかけてしまう。
この試合で最強と呼ばれた大巨人神話は崩壊した。

6月のIWGP公式戦でアントニオ猪木に腕折り固めで生涯唯一のギブアップ負けを喫した。このシリーズを最後に大巨人は日本から姿を消した。

新日本とWWEの関係が切れ、WWEでの活動に専念せざる負えなくなったアンドレはヒールに転向し、1987年3月のレッスルマニア3のメインイベントでハルク・ホーガンと対戦し敗れた。
9万3173人が会場に詰めかけ、当時の世界インドア・スポーツ観客動員数記録を更新した。

しかし、その後アンドレはアルティメット・ウォリアーに敗れトップ戦線から交代する。
体力的な衰え、トレーニング不足、コンディションの悪さも日に日に目立つようになった。
豪快に受け身は取れず、18文キック、人間エグゾセミサイルと呼ばれたカウンターのビッグブーツはヒザの悪化により足がほとんど上がらなくなっていた。

1990年アンドレはWWEを離脱し、全日本に移籍した。
全日本移籍後、アンドレは新日本時代と異なりベビーフェースとなり、日本人サイドとして闘った。
遂に実現したジャイアント馬場との大巨人コンビは日本プロレス界の長年の夢だった。

初めて二人がコンビを組んだ時、日本テレビの中継で実況の若林健治アナと解説の竹内宏介氏は次のようなやりとりをしている。

(若林)「竹内さん、われわれの夢がかないましたね!」

(竹内)「このコンビの夢を何回見ましたかねえ!」

このやりとりが全てを物語っている。

馬場とのコンビについてプロレスライターの菊池孝氏はこう評している。

「恐らくアンドレにとって馬場と組んでいるときがレスラー人生で一番楽しかったのではないだろうか。今までチームを組んでもアンドレがリーダーになることが多かった。しかし、馬場とのコンビではリーダーは馬場なので、アンドレは自由にやれた。信頼できるパートナーであり、良き兄貴分にアンドレは晩年出会ったのではないだろうか。」

1990年と1991年の世界最強タッグ決定リーグ戦に大巨人コンビはエントリーした。1990年には優勝候補筆頭のテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスの殺人魚雷コンビを破ってみせた。しかし、リーグ終盤戦の馬場の負傷により、全勝のまま途中リタイアという結末を迎えた。1991年は優勝候補の三沢光晴&川田利明を破り、12戦10勝2敗の20点で準優勝を果たした。

アンドレにとって全日本プロレスは居心地がよかった。
ライバルのスタン・ハンセンは全日本外国人選手達のボスだった。
彼はアンドレをプロレスの先輩として尊敬していた。
久しぶりに全日本で約10年ぶりの巡業に同行できることを喜び、試合後はよく二人で飲食に出かけたという。

巡業バスの座席はアンドレ用の特注サイズが用意され、宿泊先のベッドは普通のベッドでは足が出るため、ビールケースで継ぎ足して特製ベッドを事前に用意し、アンドレを喜ばせた。
全てはアンドレの気持ちが分かる馬場の配慮だった。

馬場こそアンドレの気持ちが最も理解できるプロモーターである。
何故ならば、アンドレが味わった心の痛みも四面楚歌の境遇も209cm 135kgの巨体を持つ馬場自身が味わった道なのだ。
世間から好奇の目で見られるという苦痛、元来テクニシャンにも関わらず周囲から「デクの棒」と軽蔑されるという四面楚歌は味わった者しかわからない。馬場もアンドレもプライベートでは世間からの目を逃れるかのようにインドア生活を過ごしていた。
馬場は時代劇の「水戸黄門」が好きで、アンドレは大の映画すきだった。
これまでのレスラー人生で接点が少なかった大巨人コンビは国籍違いの心の"兄弟"関係だったのかもしれない。

 1993年1月27日、父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していたアンドレはまるで父の後を追うようにパリのホテル内で急性心不全でこの世を去った。
享年46歳。若すぎる死だった。

アンドレの訃報は世界中に配信され、アメリカでは3大ネットワークテレビやCNN、ESPNが別枠で特集コーナーを組んで故人を偲んだ。
「死後48時間以内の火葬」を希望したアンドレの遺骨は彼が所有していた広大な牧場の土となった。

日本で1993年1月発売のプロレス週刊誌にて、現地在住の記者によるアンドレの自宅訪問という記事が掲載された、
その記事が掲載されてからすぐ、大巨人は天国へと旅立っていった。
大巨人のプレイベートを公開してからすぐに亡くなるとは…私はこの訃報を聞いた時、愕然としたことを記憶している。

アンドレの訃報を表紙で報じる週刊誌の見出しにはこのようなキャッチコピーが…。

「神様、これ以上我々を悲しませないでください、お願いします…」

プロレスが好きで、アンドレが好きな全ての者の悲痛な叫びが聞こえてきそうだった。
1993年2月、全日本プロレス日本武道館大会でアンドレの追悼セレモニーが行われた。その際に流れたBGMはアンドレの入場テーマ曲「ジャイアント・プレス」ではなく、映画「ゴッドファーザー 愛のテーマ」だった。
その選曲が悲しみを増長させた。

元新日本プロレス営業本部長・新間寿氏はアンドレについてこのように語った。

「20世紀スポーツ界のスーパースターはモハメド・アリなら、20世紀プロレス界のスーパースターはアンドレ・ザ・ジャイアント。彼に尽きます。」

20世紀プロレスのスーパースターであるアンドレは生前、このような発言を残している。

「どんな人よりも美味しいものをたらふく食ったし、大好きなビールもワインも浴びるほど飲んだ。世界中を回ったし…。後悔はしてない。」

繊細さと豪胆さで四面楚歌を乗り越えたアンドレは己の生き様を貫いてみせたのだ。

アンドレの死を悲しむ馬場。
そんな馬場にアメリカから革製の特製イスが届いた。
差出人はアンドレだったという。
馬場はこのイスを終生、愛用していたという。

1993年の世界最強タッグ決定リーグ戦。
馬場はライバルのスタン・ハンセンと「巨艦砲」を結成し、エントリーした。
11月24日の大阪大会で優勝候補の川田利明&田上明と対戦した。
馬場にとってはアンドレとのコンビでゴディ&ウィリアムスを破った思い出の地。
STFやミドルキックなどの普段見せない引き出しを披露した馬場は終盤、全盛期の川田と田上の猛攻を一人で受け続けた。

実況の若林アナの叫びが木魂する。

「アンドレの死に悲しみ、国内5000試合出場の喜びを噛みしめ、デストロイヤーの引退に憧れの眼差し、フリッツ・フォン・エリックとの再会に喜んだ馬場の一年!」

「世界の巨人、倒れるか?倒れない!ジャイアント馬場、不敵な笑み。これでは倒されないという意思表示か?さぁ、馬場頑張る、馬場頑張る、頑張れ!頑張れ!馬場頑張れ!馬場頑張れ!」

そして馬場は最後の力を振り絞って立ち上がった。
まるで”心の兄弟分”アンドレの想いを込めて、55歳の馬場は田上に目掛けて走った…。

「馬場立ち上がった!NWA世界王座を3回極めた、世界の巨人!フラフラながらも立ちあがった。これがプロの意地!これがプロの意地!日本プロレス!ジャイアント馬場!ランニングネックブリーカードロップ!試合終了!30分時間切れ引き分け!」

この試合は時間切れ引き分けだった。
壮絶だった。
語りがいのある素晴らしい名勝負だった。

試合後、座り込む馬場にハンセンが「よくやった!」と抱きつきながら労った。
そしてハンセンは馬場を起こして、馬場の手を上げた。
私にはこの時、後ろからアンドレが馬場の肩に手を回して称えていたように映った。

馬場は1999年1月30日に逝去した。今頃はアンドレと天国で再会を果たしているかもしれない。

20世紀のガリバー旅行記は人間の愚かさと奥深さと尊厳性を教えてくれる。

アンドレ・ザ・ジャイアントはプロレス界の伝説、俺達の人間山脈である。