底知れぬ爆発力を生む我道スラッガーの「愚直」と「鈍感」/後藤洋央紀【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第82回 底知れぬ爆発力を生む我道スラッガーの「愚直」と「鈍感」/後藤洋央紀



後藤洋央紀は天下を獲る一歩手前にいた。
2007年11月11日、両国国技館で棚橋弘至が保持するIWGPヘビー級王座に初挑戦することになった後藤はこれでもかという爆発力で王者・棚橋を追い込んだ。
同年8月にメキシコから凱旋帰国を果たし、"荒武者"と呼ばれるほど大変貌を遂げた。
ファンからの大きな後押しや新日本プロレスの救世主になってほしいという期待が場内を大歓声と熱狂に包んだ。
しかし、最後の最後で後藤は棚橋のテキサス・クローバーホールドにギブアップ負けを喫した。
後藤の怒涛の攻めと棚橋の受けの凄さが見事に重なり、名勝負となった。

この試合についてプロレスライターの小佐野景浩氏はこのように評している。

「棚橋VS後藤。この新世代によるIWGP戦は新日本にとって賭けであり、未来への希望であり、祈りでもあっただろう。そして…そこには未来の光が見えた!まず驚かされたのが、後藤に対する観客の熱い声援。今、いかに新日本ファンが新しいヒーローを求めているかということだ。後藤は、そうしたファンが期待するに価する雰囲気を身に付けている。1年のメキシコ修行で体をヘビー級に改造し、面構えも変わったし、ファイトも変わった。1年でこれほどイメージが変わった選手も珍しい。骨太な雰囲気は新日本ファンが頼もしさを感じて当然である。」

 「一方、王者の棚橋はそんな後藤一辺倒の空気の中で王者としての巧さ、したたかさを存分に発揮した。ロープ・ブレークの際の張り手などの細かい反則で正攻法の後藤を挑発、そして低空ドロップキック、バリエーションに富んだ各種ドラゴン・スクリュー、足4の字と徹底した足攻め。観客をも掌に乗せてブーイングを楽しんでいる感じでもあった。このあたりの切り返しは数々の修羅場を潜り抜けてきた男のしたたかさを感じさせられた。敗れた後藤も大健闘。まだまだ棚橋と横一線とはいかないが、初のIWGP挑戦、初の両国メインにふさわしいファイトをやってくれたと思う。ここから“時の勢い”だけではない後藤洋央紀を見せていってほしい。」

棚橋は後にこの後藤戦が自信と後藤と新日本プロレスにとってのターニングポイントとなったと語っている。

「棚橋VS後藤のIWGP戦をメインイベントにしたこのときの両国大会は集客に苦しみ、実質2000人ちょっとくらいしかお客さんが入っていなかった。だけど大会は異常に盛り上がった。特にメインがものすごい盛り上がりを見せて、観戦した東京ダイナマイトのハチミツ二郎さんは『平成新日本のベストバウトだ!』と絶賛してくれた。あとから考えると、あの両国がターニングポイントになった。僕にとっても、後藤にとっても、新日本のプロレスラーにとっても。」

その後、後藤にはあの棚橋戦や凱旋当時の"時の勢い"をいかにして乗り越えるのかという茨の道が待っていた。
あの時、後藤が勝利していれば、一気に新日本プロレスの救世主になったかもしれない。
しかし、彼のレスラー人生を振り返ると、最初から茨の道が待っていたのだ。
今回は"荒武者"後藤洋央紀のレスラー人生を追う。

後藤は1979年6月25日三重県桑名市に生まれた。
遊びとイタズラに明け暮れる活発な幼少期を過ごした。
中学校に入るとみんながあまりやっていないスポーツをしたくてソフトテニス部に入部する。
その頃、後藤がソフトテニスと共に夢中になったのがプロレスだった。

先輩が録画した「全日本プロレス中継」を見て、大きな外国人プロレスラーが暴れまわる姿に後藤はプロレスの虜となった。
またスーパーファミコンのプロレスゲームにも熱中し、さまざまなプロレス団体を雑誌やテレビで観るようになった。

後藤が憧れたプロレスラーは長州力だった。
怒りに満ちた長州を見て、元来は穏やかで人のいい後藤には「ああいう風に俺もキレてみたい」と思ったという。
いつしか中学校卒業する頃には後藤はプロレスラーを志すようになる。
三重県立桑名工業高校に入学するとレスリング部に入部する。

その時、後藤はレスリングム顧問・橋爪幸彦先生にこう直訴したという。

「プロレスラーになりたいんです!だからレスリング部に入れてください。」

実は橋爪先生は新日本の永田裕志の大学時代の後輩でプロレスが大好きだったのだ。
そして、このレスリング部には"盟友"と言える男に出会う。
柴田勝頼である。

柴田はあの元プロレスラーで新日本プロレスの柴田勝久レフェリーの息子である。
しかし、柴田は父への反抗期でプロレスラーを志さず、中学時代はバスケットボールに汗を流していた。
レスリングを始めたのも、競技として興味を持っていたからだ。

橋爪先生はプロレスラー志望の後藤のために配慮をしてくれた。
身体を大きくしないといけないから、減量をさせず、増量をさせた。
レスリング部の道場に炊飯器を持ち込み、好きなだけご飯を食べさせてくれた。
最新のプロテインも用意してくれた。
食事をしている間もプロレス・ビデオを鑑賞した。
この時、柴田はまだその輪には入っていなかった。

高校二年生の時、レスリング部の道場に、橋爪先生の先輩・永田裕志と石澤常光(ケンドー・カシン)と柴田の父・柴田勝久レフェリーがやって来た。
後藤と柴田は永田と石澤とレスリングのスパーリングを行った。
そこで感じたのはプロレスラーの強さだった。

その日の夜、後藤と柴田は新日本の四日市大会を観戦した。
そして、その帰路に就く途中、柴田は後藤にこんなことを言った。

「俺、プロレスラーになるわ」

柴田はこの日の興業を観戦して葛藤の末、プロレスラーになる決意を固めたのだ。
後藤は本当に嬉しかった。柴田と一緒にプロレスラーになる道を歩みたかったからだ。

「シバちゃん(後藤は柴田のことをこう呼ぶ)、やっとその気になってくれたか!俺は嬉しいよ!」

二人はがっちり握手を交わした。ようやく、後藤と柴田は同じ志を共有することになったのである。

後藤と柴田はあの日以降、より練習熱心になった。
そして、橋爪先生のサポート付きである。
この二人の夢を叶えてあげたいという一念で、時には授業を休ませてレスリングに集中させたこともあった。
身長が伸びると考えて懸垂の練習をさせたり、逆に身長が伸びないと考えてあまりスクワットはさせなかったり、プロレスラーになるためのメニューを考えたのも橋爪先生だった。

レスリング部のキャプテンに柴田が、副キャプテンに後藤が務めるようになると練習はさらに熱を帯びたものに…。
高校の先輩は彼らを「桑名工業高校の馳健(馳浩&佐々木健介)」と呼んだという。

そして、大学進学が決まっていた柴田だったがなんと新日本プロレスの入門テストを受けて、合格する。
柴田からその報告を受けた時、大学進学を決めていた後藤はとにかく喜んだ。

「シバちゃん!すげぇ!受かったんや!俺を大学を卒業したら行くから待っててよ!」

柴田は後藤にこう言った。

「後藤、俺は新日本のリングで待ってるよ。いつか俺達で新日本のメインイベントを取ろうな」

国士舘大学に進学するとレスリング部に入った後藤。
1999年東日本学生春季新人戦フリー76kg級3位、4年生時には国士大の76kg級レギュラーとして活躍し、2001年全日本大学選手権85kg級7位といった実績を上げた後藤。実は大学時代に後に新日本で同期となる中邑真輔にレスリングの試合で対戦し、勝利したことがあるという。

後藤は2001年の新日本プロレス入門テストに合格し、大学卒業後の2002年,新日本プロレス入門を果たす。
ちなみに入門テストを見ていた柴田は「やっぱりあいつはすごいな!ぶっちぎりだ」と誇らしかったという。
高校時代に柴田と交わした約束を後藤は守ったのである。

新日本プロレスに入門を果たした後藤。この年(2002年)は中邑真輔、田口隆佑、山本尚文(ヨシタツ)など有望な新人が多くいた年だった。
先輩となった同級生・柴田は厳しかった。
後藤は柴田を「シバちゃん」ではなく、あくまでも「柴田さん」と呼び、敬語で話した。
これに違和感を覚えた柴田は「ふたりっきりの時は敬語は使わないでいいよ」と気を遣ってくれた。

しかし、入門してから一か月後、後藤は田口とのスパーリング中に肩を脱臼してしまう。
どうやら手術をしなければいけないほどの重症だという。
後藤は新日本プロレスからクビを宣告される。
後藤のプロレスラーへの道はあっという間に閉ざされた。

「ちょっと待ってください!クビってなんすか!」

会社に抗議したは同級生の柴田だった。
最終的には「怪我を直したらもう一度、入門テストを受けて判断する」という了解を取り付けた。

故郷の桑名に帰るしなかいのかと諦めていた後藤に柴田はこう言った。

「後藤、必ず肩を直せよ。そうしたら、おまえは絶対に新日本に戻って来られる。それまでは面倒見るから心配するな。俺のマンションに住んでいいから。ここから病院やリハビリに通って、また練習できるようになったら練習して、テストを受けれるようになったら受けようよ。」

後藤は柴田に感謝した。
暗闇の中から一筋の光が見えたのだ。
ならばこの光に向かって俺は歩むしかない。
後藤はリハビリに励んだ。
柴田は後藤の食事の面倒まで見てくれた。
しかし、柴田に頼りっぱなしではいけない。

腕がなんとか動かせるようになった後藤は桑名に帰り、トレーニングを積み続けた。
恩師・橋爪先生にお願いして、桑名工業高校レスリング部で練習を積み、新日本流のトレーニングを黙々と重ねるのだった。

「シバちゃんが待っている!こんなところで挫けられない!」

その一念で孤独なトレーニングを耐えた後藤は2002年11月に新日本プロレスの入門テストを再び受け、またも「ぶっちぎりの内容」で合格するのであった
後藤というプロレスラーはデビュー後にはとんとん拍子にスターダムを駆け上がったという印象が強いが、彼にとってはデビューするまでの道程があまりにも険しかったのだ。

2003年3月に新日本プロレス道場に帰ってきた後藤。
道場と合宿所の管理人である小林邦昭にはこう言われた。

「本当に帰って来るなんて思わなかったよ。こんな大ケガをして帰ってきたのはお前が初めてだよ」

2003年7月6日の岐阜産業会館にて後藤は田口隆祐戦でデビューした。
ようやく後藤はプロレスラーとしてのスタートラインに立った。

後藤の出世は早かった。
同年11月には田口と組んで、邪道&外道とのIWGPジュニアタッグ戦で初のタイトルマッチを経験した。
しかし、同期のスーパー・ルーキー・中邑は後藤の遥か先を走っていた。
同年12月には最高峰のIWGP王座を若干23歳で獲得。
後藤は中邑へのジェラシーの一念に駆り立てられた。

同級生の柴田とは会社が用意した"柴田喧嘩道"なるユニットで6人タッグやタッグマッチでタッグを組む機会もあった。
柴田から誘いを受けて一緒にキックボクシングを習ったこともあった。
打撃と古くからのストロングスタイルに傾倒していた柴田は当時の新日本では"喧嘩ストロングスタイル"と呼ばれ、危険なプロレスラーとして新日マットを荒らしていた。
そんな柴田は会社との方針が合わず、2005年1月に新日本を退団した。

後藤にとっては寝耳に水だった。
しかし、柴田の決断を尊重するしかなかった。

新日本道場に柴田が挨拶にやって来た。そして、後藤に声を掛けた。

「後藤、これ使うか?」

柴田は後藤に愛用していたレガースを渡した。
後には頼んだぞという意思表示だった。

「シバちゃん、ありがとう。」

後藤はこのレガースをいつか使う時が来るまで大切に保管することにした。

2005年のヤングライオン杯を優勝した後藤はジュニアヘビー級戦線に参入し、金本浩二や四代目タイガーマスクとバチバチの打撃戦を展開する。同年5月には稔(田中稔)と組んで、IWGPジュニアタッグ王座を獲得する。後藤はヒールユニットCTUに加入し、天然ボケという素顔がフューチャーされてしまう。しかし、後藤にとっては本意ではなかった。

その後、2006年8月にメキシコ遠征に旅立った。
そこで後藤はなんと肉体を大きくして、ヘビー級戦士になることに成功する。
182cmの後藤はメキシコ遠征前は90kgだったが、日本に帰る頃には102kgへと増量したのだ。

メキシコで後藤はルード(悪役)となり、荒武者となった。
髪を伸ばし、髭をはやし、黒袴にコスチュームを変えた後藤はNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王者になるなどの実績を作った。
元全日本でメキシコに長期滞在中のOKUMURA[奥村茂雄)と現在はプロレスリング・ノアに在籍している大原はじめとトリオを結成し、暴れまわった。

2007年8月に後藤は新日本に凱旋する。
その風貌に誰もが驚いた。

「あれが後藤なのか?」
「ものすごくかっこよくなっているじゃないか!」

そう思わせるほどの大変貌を遂げて"強い男"となった帰ってきたのだ。
ジュニアヘビー級時代の動きもやりつつも、よりワイルドにパワフルになった後藤。
それでいて新日本伝統のストロングスタイルも備わっていた。
その強さに一時期は"ストロングスタイルの化身"と形容されたほどである。
凱旋帰国時のインパクトでは後藤は1995年の天山広吉と匹敵するほどだった。
そんな後藤に立ちはだかったのが誰あろう天山だった。

実は後藤は天山の付き人を務めたことがあった。
言わば、恩人の一人だ。
そして、誰よりも凱旋帰国後の"時の勢い"とその後の苦しみをよく知っている男でもある。
同年10月両国大会でシングルマッチで二人は対戦する。
天山は後藤を血だるまにした。
しかし、後藤は天山の攻撃を耐え続け、その顔からはさらに凄味が増していった。

終盤に後藤が放ったフィッシャーマンズスープレックスの体勢から持ち上げてからの膝に後頭部を落とす変型バックブリーカーによって、天山の動きは止まった。後に"牛殺し"と名付けられた荒技である。
最後はオリジナルホールドの昇天(ブレーンバスターの体制で持ち上げてからの前方に落とす荒技)で勝利を収めて、天山越えを果たして見せた。

棚橋とのIWGP戦を乗り越えた後藤は棚橋、中邑、真壁刀義と共に新日本・四天王の一角を担うようになる。
2008年8月のG1CLIMAXで後藤は初出場初優勝という快挙を成し遂げる。
そして、試合後後藤はある男の名前を口にする。

「(優勝の喜びを誰に伝えたいですか?)いまプロレス界から遠ざかっていますけど、格闘技界の柴田勝頼、彼に一番伝えてたいですね。彼は昔からのライバルであり、恩人であり、彼がいなかったらプロレスラーになっていなかったかもしれない。いまこの場にいることも、彼のお陰。もちろんいままで応援してくれたファンのお陰でもあるけど、彼に(G1を獲ったことを)伝えたい」

その男の名は新日本を退団し、紆余曲折の末、総合格闘技のリングに参戦していた同級生・柴田だった。
後藤は柴田の名前を勝手に出してしまったことにより、後日会社から説教を食らった。
それでも後藤は正直に己の想いを吐露したことに後悔はなかった。

後藤は柴田に電話で優勝報告をすると。後日、桑名に戻り柴田道場で柴田と柴田の父・勝久氏と後藤の三人でトレーニングをすることになった。
そして、トレーニングの締めに柴田からの誘いでプロレスをすることになった。
大の字になった二人はこう思った。

「いつか俺達で東京ドームのメインイベントで絶対やろう!」

同年8月31日全日本・両国大会、全日本に流出したIWGP王座を取り戻すため、G1王者・後藤が挑戦した。
しかし、武藤の世界にドップリはまり、完敗。
試合後、後藤は柴田から電話でダメ出しをされる。

「いくら武藤さんだからって、遠慮しすぎだぞ!なんでぶち込まないんだ!」

後藤の弱点として挙げられるのは試合の中で覗かせる人の良さだと言われている。
人の良さはプロレスラーとして悪いことでない。
しかし、後藤の場合はそれが相手への遠慮という悪いケースに作用しているためは弱点と言わなければいけないのだ。

その一方で後藤には標的や目標を見つけた時、格好のライバルに出会った時の爆発力は最大の武器と言ってもいい。
恐らくその爆発力は未だに底知れないものである。

そして、後藤というプロレスラーの最大の特徴なのは、本来彼はオールラウンド・プレイヤーなのだ。
攻めも受けも豪快で、器用な選手だ。

小島聡は後藤についてこのように評している。

「洋央紀は、とても器用な選手。それでいて、技は豪快でオリジナリティに溢れています。逆に、技の種類が多すぎて、器用貧乏に感じる時もあるくらい。あと、常に試合内容が素晴らしいという印象もあります。どんな状況、どんな相手とでも、必ず平均点以上の内容を残し、豪快な試合をする男。」

しかし、後藤は敢えてその器用な部分を強調せず、真っ向勝負にこだわる。野球で例えるなら、彼はアベレージヒッター(功打者)タイプなのに、敢えてスラッガー(強打者)になろうとしているのだ。

長州力や天龍源一郎、小橋建太、佐々木健介。さらに後藤のライバルとなった田中将斗、石井智宏といった男達は肉体と肉体を正面衝突させる真っ向勝負にこだわるプロレス界のスラッガーである。
後藤は万能型にも関わらず、敢えてスラッガーであることにこだわる。
これは本来器用であらゆるプロレスにも対応できるのに、敢えて真っ向勝負にこだわった小橋建太に似ているかもしれない。

しかし、野球においてスラッガーは常にホームランを打ち続けなければいけないという宿命を背負っている。
後藤はホームランを狙うがあまりに豪快に三振をしてしまう"ブンブン丸"なのかもしれない。
ブンブン丸とは気持ちがいいほどフルスイングをするためファンによっては賞賛されるが、しかし多くのファンから三振し続けることを批判を浴びる。ヒットを打ったところでプラスではない、結果を出すことでしかスラッガーは生き残れない。

スラッガーとは賞賛と批判が紙一重なのである。

後藤はファンの声に良くも悪くも「鈍感」なのだ。
逆に言えば、「鈍感」だから己が信じた道を一途に歩めるのだ。

作家の渡辺純一さんは今の世の中で生きていくうえで必要な要素として「鈍感力」であると述べている。

「『鈍感』というと、一般的にマイナスのイメージがあるでしょう。周りの状況が読めないとか、人の言うことにすぐ対応できないとか。だから鈍感であってはいけない、敏感な方がいい、とされている。でも、鈍感なのは素晴らしいことなんですよ。傷ついてもすぐに立ち直れるし、いろいろなことを言われてもすぐに忘れられる。私が言う『鈍感力』とは、どんな時もくよくよしないで、へこたれずに、物事を前向きに捉えていく力のことです。 」

後藤にはその「鈍感力」が天性で備わっているのかもしれない。

その後、春のニュージャパン・カップを三度制し(2009,2010,2012)、何度もIWGP王座に挑戦するも王座奪取には至らなかった。(実に7度も挑戦歴がある)
チャンスをもらった時はとてつもない爆発力を発揮するのだが、その爆発力を抑えると大人しいと周囲から捉えられてしまう。
これの繰り返しだった。

「真のトップに立てないジレンマがある」

後藤はその現象と自分の立ち位置についてこう評している。

2012年2月にIWGPインターコンチネンタル王座も獲得した。
後藤はどんな時も天下取りの道を諦めなかった。

そんな時、2012年8月にあの柴田が桜庭和志を伴って新日本に帰ってきたのだ。

「元新日本プロレスの柴田です。喧嘩、売りにきました!」

背広姿の柴田はリング中央でマイクで高らかに宣言した。
後藤はその姿を控室のモニターで観ていた。

「うわぁ、シバちゃんだ!」

後藤は驚きと同時に震えが走った。
控室での雰囲気は帰ってきた柴田に対して冷たい目で見ていて、最悪だったという。
しかし、そんなことは後藤には関係ない。
とにかく柴田が帰ってきたことが嬉しかった。
誰よりも柴田を待っていたのは後藤なのだ。

しかし、後藤はすかさず柴田の対戦相手に名乗りを上げなかった。
己自身の実績をつくることにこだわり、溜めの時間をつくったのだ。
その姿勢には「後藤は逃げたのか?」、「後藤、柴田の喧嘩を買えよ!」、「なんでそこでお前が噛みつかないのだ!」といった声もあったがマイペースの後藤には関係はない。
その時が来たら、言われなくても噛みつくからだ。

2013年2月の広島大会で後藤と柴田はタッグマッチで激突した。
二人が向かい合うだけで、そこには二人だけの世界となる。
エルボーの打ち合い、ラリアットとキックのラリー、顔面の張り合い…。

「これがプロレスなんだ!こんな闘いがしたかったんだ!」

柴田は後藤と張り合いながらそう感じていた。
それは後藤も同じだった。

2013年5月3日福岡大会、6月22日大阪大会、7月20日秋田大会。
二ヶ月間で三度もシングルマッチで対戦した後藤と柴田は名勝負を残した。
特に初対決となった福岡大会と大阪大会では二人の恩師の橋爪先生を放送席のスペシャルゲストに招いた。
桑工対決は全国のプロレスファンを感動や熱狂させた。
またこの桑工対決によって、後藤も柴田もステータスを上げたのだった。

2013年8月G1CLIMAXの公式戦で後藤と柴田は対戦することになっていた。
しかし、その数日前後藤は棚橋戦で顎を骨折し、長期欠場に追い込まれた。

柴田は欠場することになった後藤の復帰を新日本のリングで待つと宣言した。

2013年12月の名古屋大会で後藤は2014年1月の東京ドーム大会で復帰を発表。
対戦相手に指名したのは当然、柴田だった。
柴田が現れた。

「お前、アゴ大丈夫なのか?」

後藤は拳で顎を叩きながら言った。

「大丈夫だ、待たせたな!」

2015年1月4日東京ドーム大会で行われた後藤VS柴田。
二人は思う存分、叩きあい、シバキ合い、投げ合い、蹴り合い、魂をぶつけ合った。
試合は後藤の昇天・改(ブレーンバスターの体制で持ち上げてからのエルボードロップを落とすようにロックボトム)で柴田から初勝利を挙げた。
東京ドームの観衆は大激闘に興奮していた。
感動していた。
涙を流す者も多かった。

試合後、二人のリング上でこんな会話をしていた。

柴田「ごめん大丈夫か?」
後藤「大丈夫」
柴田「プロレスってこれだよな!! これがやりたかった俺」
後藤「俺も!!」
柴田「そうだよな!!」

柴田は泣いていた。
後藤も泣いていた。
二人にしかできない「情念のプロレス」はここに極まった。
試合後、二人は肩を組んでリングを降りて行った。
柴田が声をかけると後藤は自然と笑みがこぼれていた…。

二人は試合後のこのようにコメントをしている。

柴田勝頼
「まずは、後藤が新日本プロレスにいてくれてありがとう。そして今日、試合して思ったことは、俺は今、青春をしている。ここまでプロレスをやって、 あいつの一発一発がほんとに効いて、何度も立ち上がれないぐらい。だけど立ち上がって、今日は最後、アイツが勝ったっていうだけです。負けたけど、負けた気がしなかった。立ってるのがやっとなんですけど、意地です。ほんとに何か、俺、幸せです。いい同級生を持った。今後のことはよくわからないけど、今日は何か、いいプロレスができた。それだけです。以上です。ありがとうございました」

後藤洋央紀
「このリングにやっと帰って来ることができました。ありがとうございます。俺たちは今日、全力で潰し合いました。それでも、殺し合っているわけじゃないんで、今日の試合は俺とアイツしかできない試合だと思う。もう技一つ一つに『待ってたぞ』という声が聞こえました。今日勝ったことで、やっと面と向かって言えます。『お帰り、プロレスに。お帰り』。(柴田とは)この新日本プロレスで競い合っていきたい。俺はそう思っているんですけど、それは組んだとしても同じだと思うんで、大いにいいと思いますね」

柴田と後藤は同級生タッグを結成する。
タッチワークに関してはうまくいかない部分もあった。
タッグチームとは野球でいうとピッチャーとキャッチャーのバッテリー関係に似ている。

カール・アンダーソン&ドク・ギャローズのギャローズガンをバッテリーで例えるとギャローズは豪速球ピッチャーでアンダーソンが凄腕キャッチャーである。

またシェイン・ヘイスト&マイキー・ニコルスのTMDKはシェインが魔球を使いこなすピッチャーで、マイキーがシェインをリードするキャッチャーとなる。

しかし、後藤&柴田にキャッチャーという存在はなかったと思う。だから時には暴投気味の試合もしたし、コンビネーションもなかなか合わなかった。

それを絆と情念で跳ね除けて2014年の「ワールド・タッグリーグ戦」を優勝し、2015年1月の東京ドーム大会ではIWGPタッグ王者となった。「桑工の馳健」と呼ばれた二人は、かつて馳健も巻いたベルトに戴冠したのだった。

そんな後藤が久しぶりにシングルプレーヤーとして脚光を浴びた。
2015年5月の福岡大会で中邑真輔が保持するIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦し、破って見せたのだ。
新王者となった後藤。
しかし、放送席の解説陣は後藤に辛口だった。
恐らく、後藤の勢いが客観的に見て、持続性に乏しいからだ。
しかし、それは後藤自身が分かっていた。

「諦めなくて良かった。ありがたいね。諦めなかったら結果はついてくると、改めて思います。これがゴールじゃない」

後藤はことタイトルマッチになると爆発力を発揮するも結果だけは付いてくることはなかった。トーナメントやリーグ戦には強いのだが、タイトルマッチの結果だけはついてこなかった。2012年にIWGPインターコンチネンタル王者となった後藤だったが、その後の中邑政権によって、元王者だったというイメージも薄れていった。

もう後藤には結果を出すしかないのだ。
試合内容だけでなく、勝敗、王者としての信頼、真のトップになるという"結果"や"現実”。
これを積み重ねることしか、後藤が天下を獲れる道はない。
バイプレイヤー向きでもないし、タッグ屋でもない、善戦マンなんてもうなりたくもない。
変化するのはいいかもしれない。
しかし、俺には貫きたいプロレス道がある。
後藤は己が信じた道…「我道」を突き進むしかない!

後藤には「鈍感力」ともう一人、大きな武器がある。
自分が信じた道にまい進していける「愚直」な生き方、「愚直力」である。
この二つの力が合わさった時、底知れぬ爆発力が生まれるのだ。

「鈍感力」と「愚直力」、「真っ向勝負」と「元来の器用さ」…。
これらが見事に融合され、プロレスで表現できた時、"我が道を往くスラッガー"後藤洋央紀が天下を獲る日が来るのかもしれない。