転がる宝石~凄いヤツになれなかった日本最強アマレスラー~/谷津嘉章【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第90回 転がる宝石~凄いヤツになれなかった日本最強アマレスラー~/谷津嘉章




「モスクワ・オリンピックを日本がボイコットしたことでプロレスに入って“凄いヤツになれ”と言われ、強ければ何とかなると思ったんですけど、それだけじゃないことを思い知らされました。本当の自分は“駄目なヤツ”になってしまったような気もします」

2010年11月30日、30年間のレスラー人生に幕を下ろした谷津嘉章はこのように語った。

日本アマチュアレスリング界重量級史上最強の男、幻の金メダリストと呼ばれた男、186cm 120kgの恵まれた肉体とレスリング仕込みのテクニックを持つ男、それが谷津だった。
鳴り物入りでプロレス転向を果たすも、トップを取ることは出来なかった。
彼の足跡を追うことで、プロレスの難しさと奥深さが分かるのかもしれない。

谷津嘉章は1956年7月19日、群馬県邑楽郡明和町に生まれた。
レスリングを始めたのは高校に入ってからのことだった。
足利工大附属高校レスリングに入部する。ちなみにこのレスリング部の後輩には三沢光晴、川田利明がいる名門である。

日本大学進学後、谷津はレスリングで日本に敵なしの強さを誇るようになる。
全日本学生選手権フリースタイル100kg級4連覇、全日本選手権は大学二年生から階級を上げながら実に五連覇という輝かしい成績を上げた。1976年のモントリオールオリンピック・フリースタイル90kg級日本代表となり、8位になる。

その後、大学卒業後、足利工業大学に籍を置きながら、1980年のモスクワ五輪を目指した。1978年アジア大会フリースタイル100kg超級金メダル、1979年レスリングアジア選手権フリー100kg級金メダルを獲得、日本アマレス界史上初の重量級での五輪金メダル獲得なるかと期待された。

しかし、1980年、アメリカからの西側諸国への要請を受け、日本政府は大会ボイコットの方針を固め、JOCも抵抗するも政治決断で、モスクワオリンピックを日本はボイコットすることになった。谷津はこう呼ばれるようになった。

「幻の金メダリスト」

谷津は次の1984年ロサンゼルスオリンピックを目指さず、プロレス転向を果たした。

「プロレス入りはジャイアント馬場さん(全日本プロレス)からも誘いはあったけど、アントニオ猪木さん(新日本プロレス)からの誘いが熱かった。1978年のレスリング世界選手権で猪木さんが、お小遣いに3000ドルくれたの!まだ1ドル240円の頃ですよ。猪木さんが去ると、新間寿さんが『こんなのお小遣い。プロレスは儲かるんだよ』っていうからシビれちゃって。モスクワオリンピックがダメになって、行くところは3000ドルしかないでしょう」

1980年、谷津は新日本プロレス入りを表明する。京王プラザホテルで行われた記者会見ではオリンピック日本代表の深紅のブレザーに身を包んだ彼の姿は、まさしくダイヤモンド、宝石そのものだった。次代のエース候補誕生である。

しかし、谷津はいきなりプロレスに幻滅する光景に直面する。
歓迎会の席でのこと、谷津は先輩達から、薩摩焼酎をしこたま飲まされ、酔っぱらうが、先輩達は何杯飲んでもケロッとしている。「やっぱりレスラーは酒が強いな」と谷津は思っていると、先輩の一人で、谷津と同じくレスリング出身の長州力が教えてくれた。

「みんな飲んでいたのは水だよ。それがプロレスだよ」

これらのプロレスならではの光景に、彼は失望していった。
谷津は後にこう述懐する。

「プロレスに幻滅した。プロレスは嫌いになった。プロレスなんて辞めてやれと思ったけど、辞められない。俺は鳴り物入りで入った。契約金は1500万円程出ている。当時の1500万円って今の6000万円ぐらいの価値がありますよ。プロレスというのは陰湿なんです。他の人間を蹴落としたいとみんな考えている。これまでフェアな世界で生きてきたのに、とんでもないところに入ったと思いましたよ」

道場の寮には入らず、エース候補生として新日本から期待された谷津は渡米し、1980年12月29日、谷津はニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダ戦でデビューを果たした。MSGでプロレスデビューをした日本人レスラーは現段階では谷津しかいない。

アメリカでは谷津にプロレスを教える師匠などいなかった。当時、一緒にサーキットを回っていたキラー・カーンにプロレスでの見せ方を教わりながら、谷津はグレート・ヤツというリングネームで半年間アメリカを転戦する。

1981年6月24日、蔵前国技館で谷津は猪木と組んで、スタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャーとメインイベントで対戦することになった。ゴールデンルーキーの日本第一戦、ブッチャー新日本移籍第一戦として注目されたこの試合。
谷津は試合前のインタビューでテレビカメラの前でこう語った。

「何もかも初登場で、初めてつくしで。一生懸命頑張ります」

試合は谷津がハンセンとブッチャーに一方的に叩き潰す展開が続いた。血だるまになる谷津はハンセンのウエスタン・ラリアットに沈んだ。彼といえばオールドファンならこの試合での壮絶なやられっぷりの印象が強いかもしれない。ラフファイトに気後れする谷津の心の弱さが際立った試合だった。

「猪木イズムはオリンピックよりも凄いんだ、プロレスは厳しいものだというのをみんなに教えられる。だから"史上最強の重量級選手"などと持ち上げられて、あんだけ流血させられたんですよ」

谷津はその後、再び渡米する。
ニューヨーク、フロリダ、テキサス州ダラス…。
全米各地を転戦し、自分のプロマイドとビデオテープをプロモーションに売り込むゴールデン・ルーキー。
次代のエース候補でありながら、彼はどこか雑草のような境遇に遭っていた。

トラ・ヤツというリングネームで、1983年に"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキと破り、WCCW・TV王座を獲得する。谷津は田五作スタイルで肉体を絞り、髪や髭を伸ばした"荒武者"と変貌し、1983年10月に新日本凱旋し、長州力率いる維新軍入りする。維新軍の若き侍として、長州に次ぐ副将格に成長していく。

ちなみに83年10月7日、後楽園ホールにおける凱旋試合でブライアン・ブレアーを破った技は日本ではまだ使い手がいなかったパワースラム(当時はスクープサーモンと呼ばれている)だった。

1983年11月には猪木との生涯唯一の一騎打ちをするも、猪木と積極的に絡もうとせず、リング下に逃げる作戦を見せるも惜敗。猪木の評価は谷津に厳しかった。

維新軍は1984年9月に新日本を撤退し、新会社「新日本プロレス興業」(後のジャパン・プロレス)入りし、全日本プロレスと提携することになった。

谷津にとって全日本プロレスは好印象だった。
アメリカ修業時代にはハル薗田、ジャンボ鶴田らと面識を持った。

薗田からこう言われた。

「谷津ちゃん、アメリカ来たら、新日本も全日本もないよ」

谷津はアメリカ修業時代からこう感じていた。

「俺は全日本の方が面白いな、みんな優しいな」

谷津は長州とのコンビ、全日本のエースタッグであるジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビとの火花散る抗争で名を上げた。1986年2月には鶴龍コンビを破り、インターナショナル・タッグ王座を奪取する。最後に決めたのは谷津。天龍を奥の手であるジャーマン・スープレックスホールドで破って見せたのだ。彼はプロレスの世界で開花する兆しを満天下に見せたのだ。

1986年6月、谷津はなんとレスリングの世界に復帰する。
プロ・アマオープン化に流れを受けて、全日本選手権に出場し、フリースタイル130kg級優勝。
彼は優勝するまでの全四試合で相手に1ポイントも許さない完勝劇を見せた。

「俺にとってアマレスは三十路の青春かな」

6年ぶりに全日本選手権優勝を果たした谷津の名言である。

しかし、ジャパン・プロレスは長州の新日本復帰で分裂、谷津は全日本に戻る道を選んだ。

「猪木さんからは、お前らが帰って来るなら1億円出してもいいと言われた。長州の家で監禁されて朝の3時か5時まで『一緒に来い』って言われた。でも俺はうんとは言わなかった。結局は金だろって思ったけど」

「その動きに感づいていた永源遥が、俺に『全日本に残らないか』って持ちかけたんです。馬場さんのことは嫌いではなかったし、残ろうかなと」

全日本に残った谷津は、ジャンボ鶴田は五輪コンビを結成する。ミュンヘン五輪に出場した鶴田とモントリオール五輪に出場した谷津。二人のスポーツマンが手を組んだのだ。
1987年の世界最強タッグ決定リーグ戦優勝、1988年6月にはインターナショナルタッグとPWF世界タッグを統一し、初代世界タッグ王者に認定された。

谷津はようやく自分の居場所を見つけた。
鶴田、天龍に続く全日本ナンバー3の座という確固たる地位を獲得。
どうやら彼はプロレスの入り口の段階から、大きなミステークをしていたのかもしれない。
新日本ではなく全日本の方が彼の性に合っていたのだ。

「新日本は新弟子の苦労もなくアントニオ猪木が事業道楽でプロレスに専念していなかったし、全日本の在籍期間のほうが長かった。ジャイアント馬場とは腹を割って話し合ったこともあるから、師匠はアントニオ猪木ではなくジャイアント馬場と思っている」

「全日本は和やかで平和だった。ギャラも、長州さんが抜けた分の上乗せもあって長州さんと同じにしてくれてた。ギャラに関しては、俺と天龍さんと鶴田さんは特別待遇でした」

そんな谷津にとっての大一番となったのが1988年4月4日、名古屋で"超獣"ブルーザー・ブロディのインター・ヘビー級王座に挑戦した一戦。
しかし谷津は数日前に右足靱帯損傷、右足の腓骨と脛骨を亀裂骨折してしまう。それでも谷津は強行出場する。

「ブロディが遠慮して右足を攻められないと悪いから」

当日の夜に病院に行って麻酔を打つも、その効果が切れたため、再び病院に行って3本の麻酔を打ってもらうや会場に戻り、そのままリングに上がったのだ。
谷津は怪我を言い訳にせず、最後まで試合を成立させて見せた。
"凄いヤツになれ"と言われ続けた男の底力だった。

もうひとつの大一番は1989年7月18日、滋賀県立体育館で行われた天龍源一郎が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦した試合。
同年6月に鶴田を破り、第二代の三冠王者となった天龍の初防衛戦の相手となった谷津。

シングルマッチでのビッグチャンスに燃えていた谷津は試合前にこう語った。

「俺は人のサポートをするのは得意だけど、タッグばかりだと自分を売り出せなくなるし…。自分自身がわからなくなってしまうんだ」

試合は谷津の健闘が光ったものの、天龍の横綱相撲となり敗退、試合後天龍はこう語った。

「谷津はこっちがヤバイと思った時に、“間”を置く。鶴田はガバーッと来る時には来るけど、谷津にはそれがない。要所要所をかさにかかって攻めてこられてたら、負けてたんじゃないかな」

この指摘は的確だった。
もしかしたら谷津嘉章という男を言い合わした表現だったのかもしれない。

「プロレスは技の組み立てとタイミング」と言われることがあるが、谷津はこのタイミングを逃したり、つかみきれなかったり、ズレてしまったりしてしまったのかもしれない。それはもしかしたら彼に関してはプロレスだけでないかもしれない。
プロレスラーの必要要素は強さである。その一方で強さだけでは生き残れないのがプロレスラーである。
谷津には強さはあったが、プラスアルファがなかったのかもしれない。

1990年、新団体SWSが旗揚げされると、谷津は全日本を離脱し、参加した。

「全日本を離脱することになった発端はケガ。スティーブ・ウィリアムスとシングルをやったら、バックドロップで骨折しちゃって(肋骨骨折と頸椎捻挫)。そしたら高野俊二や高木功はSWSに移籍してて。俺は全日本復帰はしたんだけど、これからは三沢達が上に行くことがわかった。俺は所詮、外様だし、後輩達もSWSに行った。だから俊二達を通じてSWSの田中八郎社長に入団を直談判した」

SWSは相撲部屋のような道場制度を作っていた。天龍源一郎は「レボリューション」、ジョージ高野は「パライストラ」のエースだった。
谷津は「道場・檄」に所属となり、道場のエースとなり、SWSの選手会長の要職に就いた。

特に"褐色の野獣"キング・ハク(元プリンス・トンガ)とのナチュラル・パワーズでSWSのタッグ戦線で無類の強さを誇り、SWS認定タッグ選手権を獲得するほどの最強コンビだった。

しかし、天龍派と反天龍派(道場・檄とパライストラ)が内部対立が激化し、谷津は「選手会長辞任とSWSからの退団」を突如表明する。
結局、マスコミもファンも天龍派を支持し、谷津と谷津に同調した仲野信市が混乱の責任を取って、引退試合を行ったが、観客からはモノと罵声が飛び交う異常な引退試合となった。

彼は強引な形でプロレス界から一旦フェードアウトする。
宝石のような輝きを放っていた男は、転がる石のように流浪のレスラー人生の果てに泥に塗れ、輝きは失われていった。

1993年、谷津は輸入自動車販売店を経営しながら、新団体SPWFを旗揚げ。
後輩の仲野信市と高木功が新団体に参加した。

その後、1994年に約10年ぶりに新日本に参戦し、G1CLIMAX参戦、維新軍復活、平成維震軍との抗争などで話題を振りまくもやがて新日本からフェードアウトしていく。

谷津の名前がクローズアップされたのは2000年10月の総合格闘技PRIDEでのゲーリー・グッドリッジ戦。
44歳の谷津は、グッドリッジの拳を何十発を食らっても、耐え続け、終盤にはアキレス腱固めでタップアウト寸前にまで追い込むも最後はグッドリッジの拳に沈んだ。
谷津のファイティングスピリットは格闘技界で高く評価された。

2002年、長州力率いるWJプロレス旗揚げに参加するも、興業低迷と内部分裂が生じ、谷津はこのように批判しWJプロレスを退団した。

「長州をはじめとするWJフロント陣はインディー団体を分かってない!」

そして、谷津は東京スポーツにWJプロレスの内幕を暴露したのだった…。

プロレスからフェードアウトした谷津。
運送会社を経営する傍ら、ホルモン焼き屋も経営していた。
(現在は運送会社もホルモン焼き屋も閉鎖)

「恩のある方々にちゃんと挨拶して自らの手でピリオドを打つのが、男だと思うんだ」

谷津は自主興行で引退する道を選んだ。

2010年11月30日、新宿FACEには彼にゆかりのある人物が集まった。犬猿の仲となってしまった長州力や天龍源一郎の姿はないものの、それでも彼はこう言った。

「来てくれなかったけど、今日ですべて水に流す」

最後に谷津はマイクで叫んだ。

「プロレス、ありがとう!」

幻滅していたプロレス、嫌いだったプロレス、馴染めなかったプロレス、強さだけでは生きれないプロレス。

時には自らが感じた率直な発言で評判を下げたこともあった。
どこか、殻を破ることなくレスラー人生にピリオドを打ったかもしれない。

それでも彼が心の拠り所にしていたのはプロレスだった。
アマチュア・レスリング日本最強の男は凄いヤツになれなくても、プロレスに救われ、ここまで生きてこれたのではないだろうか。

転がる宝石はその輝きは失っても、転がり続けることで我々に何かを問いかける石であり続けたのである。