アメプロの"名大関"となった究極の善玉/リッキー・スティムボート【俺達のプロ | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ

 

俺達のプロレスラーDX
第93回 アメプロの"名大関"となった究極の善玉/リッキー・スティムボート



「最高のベビーフェイス」

通算16度の世界王座を獲得したミスタープロレスと呼ばれるリック・フレアーは彼をこう評した。
まさしく善玉であり続けるためにプロレス道を歩んだ男…それがリッキー・スティムボートだった。

今回はアメリカンプロレスの名優のレスラー人生を追う。

リッキー・スティムボートは1953年2月28日、アメリカ・フロリダ州タンパに生まれた。公式プロフィールではハワイ州ホノルルとなっている。
父はポーランド系イギリス人、母は京都出身の日本人のハーフである。
東洋人の血を継いだことが彼のレスラー人生を決定させた。

高校の時に、レスリングのフロリダ州大会二位の成績を収め、フロリダ州立大学に進学するも中退し、ミネアポリスのバーン・ガニア道場に入門し、プロレスラーを志す。バーン・ガニア、アイアン・シークのコーチを受けて、1976年2月にガニアが主催するプロレス団体AWAでプロデビューを果たす。

元々は本名であるリチャード・ブラッドで闘っていたが、1960年代に活躍したハワイアン・プロレスラーのサム・スティムボートの甥というギミックで試合をするようになり、リングネームもリッキー・スティムボートに改名する。

その後、リッキーはAWAを離れ、NWAミッドアトランティック地区(ノースカロライナ州シャーロット)に合流してからブレイクする。

180cm 107kg、リングを離れると穏やかで物腰が柔らかい人物、試合が始まるとオーラとエネルギーを発揮し会場を沸かせた。端正な顔立ちと鍛え上げられた肉体を持ち、レスリング技術も兼ね備えたロール・モデル(青少年のお手本)。
彼は典型的なベビーフェースとして活躍する。
この時に出会ったライバルがリック・フレアーとジミー・スヌーカだった。
特にフレアーとは数えきれないほどの激闘を繰り広げた。
またスヌーカとも筋骨隆々の似た者同士としてライバル関係を築いた。
ちなみに三人とも偶然だが、バックハンド・チョップ(逆水平チョップ/ナイフエッジ・チョップ)を得意にしていた。

1980年11月に、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に期待の新星として初来日する。ファンク一門のディック・スレーターとのコンビでエントリーしたリッキーは日本でも人気を獲得していく。

ラフファイトにも屈しない精神力。
ファンの心を掴む喜怒哀楽の表現方法。
どんな相手でも対応できる確かなレスリング技術。
YMOの名曲「ライディーン」に乗っての軽快な入場シーン。
芸術的なアーム・ドラッグ(サイクロン・ホイップ)、カンフー殺法、必殺技のダイビング・ボディアタック。

リッキー・スティムボートは日本で「南海の黒豹」と呼ばれ、全日本の常連外国人レスラーとなった。

1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦。
リッキーはNWA世界タッグを獲得した時のパートナーのジェイ・ヤングブラッドとのコンビでエントリーする。
この年の最強タッグの目玉は、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクル・パワーコンビ衝撃の初参戦。
開幕戦で対戦したのがリッキーとジェイだった。
一方的にやられてしまうのかという周囲の予想に反し、リッキーとジェイは善戦する。
最後はジェイがハンセンのウエスタン・ラリアットに沈んだが、最強タッグに爪痕は残し、この試合は名勝負として後世に語り継がれている。

1985年にリッキーはWWE(当時WWF)に移籍する。
そこでブルース・リーをイメージしたキャラクターである「ザ・ドラゴン」に変身。
ショートタイツから龍の刺繍が入ったロングタイツにチェンジし、道着姿のカンフーファイターとなった。

そこでリッキーはアメリカン・プロレス史に残る名勝負を残す。
1987年3月のレッスルマニア3。
"マッチョマン"ランディ・サベージが保持するインターコンチネンタル王座に挑戦したリッキー。
両者のプロレス技量がいかんなく発揮され、9万人の観衆を魅了する。
心地のいいシンフォニーにファンは酔いしれた。
その中でリッキーはサベージを破り、インターコンチネンタル王座を獲得する。
この試合は多くのファンに感動を与え、後にプロレスラーになった若者達に多大なる影響を与えたベストバウトだった。

しかし、リッキーは1988年にWWEを脱退し、1989年にWCW(NWA)に移籍する。
リッキーの前に立ちはだかったのは若手時代からのライバルであるフレアーだった。
同年2月に、フレアーと対戦したリッキーはまたもスリリングな名勝負を展開し、悲願のNWA世界ヘビー級王座を獲得する。
しかし、その三か月後にフレアーに奪回されてしまう。

1990年9月に長年、全日本の常連外国人レスラーだったリッキーは新日本プロレスに参戦する。
対戦相手はWCWでスターとなった東洋の神秘グレート・ムタ。
しかし、試合は凡戦に終わってしまい、この一戦がリッキーにとっての唯一の新日本参戦となった。

その後、リッキーは1991年3月にWWEに再入団する。
ドラゴンをイメージしたコスチュームと火を吹くパフォーマンスを披露するも、ブレイクすることなく退団。
同年11月にWCWに再入団。
正統派の重鎮として、なくてはならない存在となる。

リッキーはこの時、プロレスに新たな歴史を作っている。

1992年6月に行われた"ラビシング"リック・ルードとの一戦はプロレス史上初の試合形式が採用された。

「アイアンマン・マッチ」

設定された制限時間内(多くの場合60分もしくは30分)に、3カウント、ギブアップ、反則、リングアウトでどれだけ勝利数を稼げるかを競い、時間切れの時点で勝利数が上回っていたら勝利という過酷な試合形式。裁定に関しては通常の試合形式と同様。時間切れの地点で同点だった場合は、そのまま時間無制限1本勝負のサドンデスによる延長戦に突入する。
高いレベルの技術と体力が要求されるため、プロレスラーにとっては難易度が高い試合形式である。

リッキーとルードはここで名勝負を残し、アイアンマン・マッチという歴史を生み出したのだった。

リッキーはWCWで試合巧者たちと名勝負、ライバル関係を築く。
リック・ルード、ロード・スティーブン・リーガル(ウィリアム・リーガル)、スティーブ・オースチン。

1994年8月にストーンコールドになる前にスティーブ・オースチンを破り、USヘビー級王座を奪取するも、長年の激闘により患っていた腰痛が悪化し、王者のまま引退した。

レスラー人生18年。
悪役を演じることはほとんどなく、正義の味方であり続けた究極の善玉はアメリカン・プロレス(アメプロ)の"名大関"だった。
フレアーを破り、NWA世界王者となるも、決して横綱になることはなかった。
数多くの名勝負を残し、レスラー仲間からも信頼を集めた男。
また長年、正義の味方というポジションでいられるだけの人格者であり続けた。
もしかしたらリッキーはアメリカの藤波辰爾だったのかもしれない。

現状に甘んじず、進化をしていくのもプロなら、一つの求められた、或いは信じた道を究めようとするのも真のプロフェッショナルではないだろうか。

リッキー・スティムボートはその生き方を試合を通じて我々に教えてくれたような気がするのだ。

引退後、リッキーはプロレスの裏方として生きる道を選んだ。
2005年からはWWEのロード・エージェントとして活動するようになった。
クリス・ジェリコを相手に試合を行ったり、レジェンドレスラーと共にゲストとして試合をしたりしている。
現在はWWEのプロデューサーとして活躍し、後進の指導の一環でハウスショーでテストマッチとして若手相手に試合を行なっているという。

リッキーにとっての生涯最大のライバルであるリック・フレアーはこう語る。

「カリスマ性、働く量、強烈さ、レスリング界でも屈指の体…リッキー・スティムボートはすべてを持ち合わせていた。 とにかく驚くべき人物だった」

今後もリッキー・スティムボートに影響を受けて、プロレスの門をたたく若者は後を絶たないことだろう。