腕一本で生きる流浪の職人レスラーの哲学/ザ・グレート・カブキ【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第98回 腕一本で生きる流浪の職人レスラーの哲学/ザ・グレート・カブキ



「僕が全日本プロレスにいたときは、馬場さん、鶴田さん、マスカラス、ファンクスというこれぞスーパースターって人達がいるわけじゃないですか。だけど僕が見ていたのは違う。本当のプロレスラーとは、腕一本で生きていく職人レスラーだろうと。ザ・グレート・カブキさん、タイガー戸口さん、佐藤昭雄さん、桜田一男さん…そういう本物の人達を僕は一番下から憧れの目で見ていたんです」

"ド演歌ファイター"越中詩郎はかつてこのように語ったことがある。
彼がプロレス入りした時の指導をしたプロレスラーが今回の主人公である。

ザ・グレート・カブキ。
181cm 110kgの肉体で日本やアメリカのあらゆる団体を渡り歩いた流浪の男である。
彼こそ、越中が憧れた腕一本で生きる職人レスラーである。

今回は東洋の神秘と呼ばれたプロレスラーの物語である。

カブキは1948年9月8日宮崎県延岡市に生まれた。
本名は米良 明久(めら あきひさ)という。
学生時代は水泳選手として活躍。

中学卒業後の1964年3月に米良は日本プロレスに入門する。
この前年の12月に"日本の英雄"力道山が不慮の死を遂げている。
彼は力道山没後に新弟子第一号だった。

「俺は当時中学校3年生で愛知県に住んでいて、力道山に入門を直訴するために単身上京するところだった。俺が乗ってた夜行列車の前の電車が事故に遭ってね、結局、東京駅までたどり着かず、新橋で降ろされた。赤坂の道場まで道を聞きながら歩いて、着いたのは朝5時半くらいかな。まだ合宿所は開いてないから、脇の石段でお袋がつくってくれたオニギリをほお張りながら待ってね。でも、この日は力道山には会えなかったし、事故もあってお袋が心配しているだろうから出直すことにしたんだ。(翌月、暴漢に刺された傷が原因で力道山が死去) 年が明けて1月15日にもう一回上京してね、渋谷のリキスポーツパレス(ここに日本プロレスの事務所があった)を訪ねた。営業の人に『新弟子希望なんですけど』って言ったら、『先生(力道山)が亡くなったから、どうなるかわからないよ』って言われた。そこに豊登さんが来て、『おう坊や、年はいくつだ?』と聞かれて。『まだ15歳で在学中です』って答えたら、『じゃあ、卒業したらおいで』って。それで入門OK。でも口約束じゃ頼りないんで、『入門を許可する』と一筆書いてもらって。卒業した後、3月に入門したんだ」

米良は同年10月31日の山本小鉄戦にてデビューする。
この時のリングネームは出身地にちなんで豊登が命名した高千穂明久だった。

10代の青年はプロレスという業界を通じて世の中を知る。

「普通、レスラーひとりに付き人がひとり付くんだけど、俺は豊登さん、吉村道明さん、芳の里さん…3人(幹部)の付き人をやっていた。この3人の幹部についていろんなことを学んだのは財産だよ。地方に行けば現地の大会社の社長さんや有力者とメシ食うでしょ。俺は給仕をやりながら、いろんな話をきくわけ。神戸に行けば山口組三代目の田岡(一雄)さんが来てね、俺は隅のほうで聞かないふりして耳をダンボにしてたけど(笑)。相手が誰だかわからず大失敗したこともあったね。リキパレスの興行でチケットのモギリをやってたら、軍服みたいなのを着た知らないオジサンが来てね。『すいません、切符は?』って聞いたら、『オジサンはなくてもいいんだよ』とか言うから、『いやいや、ダメですよ』と押し問答してたら、奥から日プロの営業の人が走ってきて、『この人はいいんだよ!』って通してね。『あれ誰?』って聞いたら、『バカヤロウ! 児玉誉士夫先生(政財界の黒幕)だよ!』って。あぁ、あの人が児玉さんか~ってね(笑)」

また米良は日本プロレスでは若きテクニシャンとして評価されていた。

ジャイアント馬場はこう語る。

「基本に忠実な理にかなったプロレスをする」

1970年にアメリカ遠征に旅立つ。
デビル・サトというリングネームで全米を転戦した。
またガチンコを仕掛けられたこともあった。
それでも彼は生き残った。

「まだ22歳で子供みたいだったから、よく試合で試された。そこで負けずに返していくと、向こうも認めてくれて、通常の試合になるんだ」

1972年に日系レスラーのミツ荒川と組んで,NWF世界タッグ王座を獲得する。
アメリカで米良が学んだのは、自分一人で四角いジャングルを生き抜くための技術と度胸だった。

「アメリカでは自分で稼いで食っていかないと。仕事に遅れたり休んだりして、ダメな烙印がつくとどこも雇ってくれないよ。骨折だって自分で治すし。病院に行かずに、基本的にケガは自分で治す。テーピングをガッチリ巻いて試合に出ながらね。(遠征先には)ナイフを持ってるヤツもいたしね。あるとき、控え室まで押しかけてきた客がいたから、バーンとぶん殴ってやったら訴えられてね」

1972年9月、日本プロレス崩壊の危機に直面し、彼は帰国することになる。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木が去った日本プロレスを守っていたエース・坂口征二と組んで、NWAタッグリーグ戦に出場し、優勝を果たす。
また、1973年にジョニー・バレンタインを破り、UNヘビー級王座を獲得する。

しかし、日本プロレスは崩壊し、全日本プロレスに移籍する。
また日本やアメリカ、オーストラリアと各地を転戦していく。

日本では全日本プロレスの若手コーチに抜擢され、数多くのレスラーを育てた。
彼は若手にはいつもこう言っていた。

「一試合目には一試合目の試合内容がある。沸かせるのはメインイベントで出ている馬場さんやジャンボ鶴田であって、一試合目で大技や場外乱闘やったら、ジャンボや馬場さんが大技やった時に沸かないだろう?だからお前達はお前達で、相手の腕を攻めるなら腕を攻めなさい。それだけでいい。あとをグラウンドをやりなさい」

オーストラリアではヒト・トージョー、アメリカNWAテリトリーではミスター・サトー、タカチホというリングネームでヒールとして活躍する。マサ斎藤とのコンビではNWAフロリダタッグ王座を獲得する。

この頃、フロリダではマサ斎藤と組んで、後に新日本プロレスのレフェリーとなるタイガー服部がマネージャーを務めて活動していた。

タイガー服部はカブキを絶賛する。

「カブキさんのうまさは一言でいうのは難しいけど、とにかく奥が深い。一番思うのは体が柔らかい。いろんな角度から全部受け身がとれるんだよ。どんな技でもダメージを最小限にできる、だからアメリカのプロモーター達は皆すごく喜んでいた。今の選手でもカブキさんに教わったら、もっとうまくなる選手はいっぱいいるよ。だけどカブキさんレベルまでの選手はなかなか出てこないだろうな」

マサ斎藤と米良と服部でフロリダを回っているところにアメリカ武者修行時代の天龍源一郎も加わった。
天龍は燻っていた時期。
アメリカでの試合があまり組まれない日々。
プロレスがうまくできない。
どうすればいいのかわからない。
もう日本ではなくアメリカで生きていくことも視野に入れていた。
やけっぱちになっていた天龍を諭したのは、米良だった。

「源ちゃん、日本に帰ったらビッグネームがあるじゃん。ここでちょっと辛抱して日本に帰って、日本でプロレスを覚えた方がいいよ」

米良はアメリカで腐っているプロレスラーをたくさん見てきた。
天龍にはそんな人間たちのようになってほしくなかったのだ。
天龍と米良はこの時期から盟友関係を築くことになる。

1981年1月、アメリカ・テキサスにて、東洋人のペイントレスラーが出現した。
ザ・グレート・カブキ。
米良がペイントした姿だった。
正統派テクニシャンは、キャラクター・レスラーに変貌した。

「最初は、マネジャーのゲイリー・ハートが歌舞伎の連獅子の写真を持ってきて、『おまえ、こういう格好できるか?』って。アメリカではハロウィーンで大人から子供までメイクするから、そういう感じで顔にペイントすればいいやって思ってね。でも、歌舞伎役者の細い隈(くま)取じゃ観客に見えにくいから、太い線をガッと入れて。女性用の口紅とかいろいろな塗料を試して完成させていったねペイントだけじゃ面白くないからね。ヌンチャク一本振り回すのは誰にでもできるから、俺は両手でダブルにしてね。日本だったら、伝統芸能の名前を借りてやるのは抵抗あっただろうけど。そもそも連獅子がヌンチャク振ってるっていうのはおかしいでしょ」

悪徳マネージャーのゲーリー・ハートがシンガポールで発掘した格闘技の達人というキャラクターだった。
当初はマスクマンになる予定だったが、本人の希望により、悪役ペイントレスラーとなった。
歌舞伎役者のようなペイント、ブルース・リーばりのヌンチャク捌きは地元の子供に教えてもらったものだという。
また鎖とチェーンで作られたコスチュームはお手製だった。
般若の面を付けた連獅子姿や鎖帷子に日本刀を携えた忍者スタイルは全米を席巻した。

試合の流れを変えるトラースキック、音が出る魔法のアッパーカット(サイクロン・ネグロというボクシング出身のレスラーに習ったという)、セカンドロープからダウンしている相手に振り下ろす正拳突き。
カブキ・オリジナルのムーブが生まれる中で、最大の発明となったのは毒霧だった。

後にグレート・ムタ、TAJIRIといった世界が認めたジャパニーズ・レスラーに継承された毒霧はいかにして生まれたのか?

ある日、シャワーを浴びている時に思いついたものだという。
さまざまな色を試してみると、赤と緑がリング上のカクテル照明に映えた。
液体状の染料を入れたコンドームを口の中に隠し、それを奥歯で噛みきって毒霧を噴射するものだった。

テキサスのWCCWではチャン・チュン(桜田一男/ケンドー・ナガサキ)と組んで、テキサス版NWA世界タッグ王座を獲得し、あの"バイオ・オブ・タイガー"ケリー・フォン・エリックを破り、NWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取する。
全米各地に転戦し、ヒールのメインイベンターとしてカブキはブレイクする。

カブキにとってヒールとは…。

「ヒールだからって、殴る蹴るだけじゃダメでね。試合の序盤はレスリングで強さを見せて、『こいつには敵わない』と思わせたところで、バーンとぶん殴る。そうすると、観客がブーイングするわけ。その後、相手が復活して攻撃に転じたらポンポン技を受けてやる。俺はどんな投げ方をされても、パーンと綺麗に受身をとるから見栄えもいい。でも最後に、反則のパンチ一発で相手を寝かせれば、お客はまた大ブーイング。それが本来のヒールなんだよ」

カブキのアメリカでの人気を感じ取った全日本プロレスは1983年2月にカブキのキャラクターのまま、日本に凱旋帰国させた。カブキ人気は日本でも爆発する。

専門誌だけでなく一般誌にも取り上げられ、子供向けの印刷媒体にまで登場し、馬場や鶴田にも引けを取らない人気を集める。

後年のインタビューでは、カブキの凱旋帰国シリーズがTV放映権料を除く興行収益で2月シリーズでは全日本設立以来初の黒字だったが、一般マスコミからのTV出演依頼が殺到したりしたため、馬場を含む先輩レスラー達の嫉妬を買ってしまう。配給会社から名指しで出演を依頼された映画『カランバ』のプロモーションにおいても、出演に関して直前までもめたという。
本人にとっては、待遇面においては決して満足できる扱いではなかった。
アメリカと日本を行き来する中で、全日本に長州力率いるジャパン・プロレスが参戦するとカブキの扱いはさらに悪くなった。
外国人レスラーサイドで闘っているものの、ファイトマネーは外国人レスラー達よりも安いという不遇。
彼にとって、それは屈辱だったかもしれない。

だから、1987年に天龍が全日本内で革命を起こそうとしていた時、カブキはこう進言したという。

「源ちゃん、ウチの会社の体質はどうやったって変わらないんだから、やめた方がいい」

天龍と阿修羅・原が起こした天龍革命が全日本、プロレス界を活性化させるとカブキは敢えて、天龍と敵対する道を選び、天龍革命を試合でバックアップした。

「(天龍同盟との対戦は)最高に面白かったね。あの頃は最高だったよ。お客さんは入ってくるしさ。お客さんは大喜びするのよ。こういうものを全日本で作り上げたのは天龍源一郎だなって。じゃあ(意気に応えて)俺らはやらなきゃってのはあったね」

カブキはこの頃に若手達にこう語っている。

「俺達は源ちゃんと阿修羅に食わせてもらっているんだぞ!」

アメリカ経験の長いカブキ。
彼が生きてきたアメリカマット界はその日の観客動員でレスラーのギャラが決まるシステム。
人気選手が出場すれば、観客動員は増加し、その分ギャラが上がるのだ。
カブキはそのことをこの言葉で若手達に伝えたかったのだろう。

1990年4月、盟友・天龍源一郎が全日本を退団することになった。
カブキは天龍のいない全日本に残る意思はなかった。
天龍とカブキは横浜のホテルでこんな会話をしたという。

天龍 「実は全日本を辞めます」
カブキ 「どこへ行くの!?」
天龍 「今は話せないんですよ」
カブキ 「そりゃないよ。もう全日本にいても魅力ないし、俺も出たいから連れてってよ」
天龍 「いやぁ、女房子供がいる人は誘ってないんですよ」
カブキ 「そんなことを言わないで連れてってよ。もう全然、全日本にいたくないし。源ちゃんいなくなったら、余計におもしろくなし」
天龍 「いいんですか?」
カブキ 「いいよ」

カブキの移籍は、天龍の移籍先となる新会社SWSからの承諾を得る。

カブキ 「正直な話、全日本から何人ぐらい出るの?」
天龍 「3~4人出ます」
カブキ 「じゃあ、俺がしんがり務めるよ。俺が最後に出るから。もし(移籍する選手に)手を出すようなヤツがいたら俺がいくから」

カブキは天龍にそう約束した。
いつの間にか天龍は泣いていた…。
カブキはその時、決意する。

「こんなに一生懸命やってきた人に、こんなに苦労をかけるのかよ、全日本プロレスは…。俺は最後までこいつについていこう!」

ちなみにカブキが最後にSWSに移籍した理由としてプロレスライターの小佐野景浩氏はこう語っている。

「カブキさんは馬場さんやジャンボとそりが合わなかったから、『源ちゃんがいないんだったら全日本にいても仕方ない』と思ったんでしょうね。カブキさんはSWSに行きたい選手が全員出て行ったあと最後にやめた。カブキさんは日本プロレス末期、団体をやめようとした選手がボコボコに制裁されたところを見てるから。SWSに移る選手が何事もないのを見届けたかったんでしょう。みんながやめてから、カブキさんは全日本で1シリーズだけこなしたんです。そこでジャンボと世界タッグのタイトルを獲ったけど、シリーズが終わったらベルトを返上して離脱。シリーズ最終戦の翌日、全日本事務所でギャラの支払いがあったんですけど。カブキさんはその場で『辞めます』と伝えたんですよね」

こうしてカブキは1990年7月30日に全日本プロレスを退団し、SWSに移籍する。
カブキはSWSのマッチメーカーとなる。
しかし、SWSは派閥による権力闘争とゴタゴタにより、1992年に崩壊。
カブキは天龍率いるWARに参加した。

そういえば、SWS最終興業の日。
天龍は試合後にマイクでファンに挨拶を行うと、対戦相手だったカブキは天龍にマイクでこう叫んだ。

「バカヤロー!天龍!これからが始まりだ!」

敵であっても二人の心はいつも繋がっていた。

カブキはその後、新日本プロレスに参戦し、越中詩郎率いるユニット平成維震軍に加入する。

「個人的に平成維震軍の頃というのは、気を遣わなくて一番楽しかった時代ですよ」

新日本参戦時に実現したのが、カブキの息子と名乗り、NWA(WCW)のトップヒールにのし上がった武藤敬司の化身グレート・ムタとの親子対決だった。
そこで行われたのはテレビ局が放送を自粛するほどの大流血戦だった。

「お客の想定内の試合をしようとは思いませんでした。お客の思うような内容だったら『はいはい、よくやった』で終わっちゃう。期待の上をいかないと!お客は座席から前のめりになって見入ってくれないんです」

カブキはその後、新日本を去り、東京プロレス、IWA JAPANと流浪していき、1998年に引退した。

引退後は居酒屋を経営する傍らで、2010年、天龍の死に場所とした立ち上がった「天龍プロジェクト」が創設されると、カブキは不定期にリングに上がるようになった。

2015年11月15日、天龍が引退したあの日の興業にもカブキは前座で闘っていた。
試合後、カブキはこう語った。

「出られたのはうれしいです。やっぱり引退興行はさびしいね。でもすごいね。こんなにお客を入れて」

カブキは最後の最後まで天龍についていったのである。
あの日の決意が天龍引退の日まで継続されていたのである。
プロレス入りしてから50年。
ザ・グレート・カブキはプロレスの酸いも甘いも知っている生き証人である。
この男のプロレス哲学には深みと重みがある。

「俺が思うに一つの試合で一度飛べばそれで充分なのだ」

「格好だけ派手なレスラーは、興味を持たれてもすぐに飽きられてしまう。どんなに派手な格好をしていようが、重要なのは試合の中身なのだ」

「若い頃はいろいろなレスラーの試合を見て学び実際に戦って肌で覚えていった。料理も同じで、とにかくやってみて覚えるしかない」

「受け身にしても基本を身につけたら『どうすれば、より見栄えのいい技になるか?」と自分で考え、工夫していかなければならない」

「使える技を制限されているからこそ、観客が沸くような試合の組み立てを覚えられる。俺は今でもそうだと思っている」

「プロレスというのは自分の立場をしっかりと理解することが重要だ」

「プロレスというものは、相手と試合をしながら、観客も意識することを忘れてはいけない」

「俺はプロレスをもう50年やってきたけど、『達成した』っていうのはないんだよ。その土地柄や民族性とかいろいろあるから。たとえば東京でやった試合をそのまま大阪に持っていってもダメ。東京のファンは技術的なセンスを見るけど、大阪では泥臭い試合が求められる。その土地土地のお客さんをどう喜ばそうか、いまだにそればっかり考えてるね。プロレスに答えは見つからないね。昔、日プロのとき、芳の里さんに『なんの商売でもバカじゃできない。利口でもできない。中途半端じゃ、尚できない』とよく言われたよ。利口だったらバカになることも必要だし、中途半端になってもいいけど、とにかく仕事はひとつだよ、ということ」

「一生懸命やってるのに認められていないと思えば、当然もっと評価してくれる新しいところを探すでしょ。昔は今より義理人情に絡まれていたから、自分の道は自分で探していったほうがいいなと、アメリカと日本を往復するうちに気づいたよね。しっかり仕事をして結果を出していれば、プロモーターはそれをちゃんと見てくれる。とにかく、自分の仕事を誠実にやるっていうことだね!」

腕一本で生きぬいた流浪の職人レスラーの哲学とは自らの仕事に対して常に誠実であることが基本として組み立てられている。
ザ・グレート・カブキの人生は、プロレスとプロ意識を我々に教えてくれている。