1986年からの前田日明~カリスマとなった俺達のアキラ~/前田日明【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第100回 1986年からの前田日明~カリスマとなった俺達のアキラ~/前田日明
シリーズ カリスマ②



「前田日明選手の入場です!」

リングアナウンサーからの前口上を受けて、会場からは歓声が上がる。
代表的な入場テーマ曲「キャプチュード」 の旋律が流れると自然と「前田」コールが発生する。
花道にファンが殺到し、大歓声に包まれる中で、192cm 115kgの前田日明は姿を現す。
そして、リングインすると彼は右腕を上げる。
リングアナからコールされると再び、右腕を上げる。
試合が始まれば、空手仕込みの打撃、足がピーンと伸びた芸術的なフライング・ニールキック、天性の柔軟さがもたらしたブリッジのきいた数々のスープレックス、カール・ゴッチや藤原喜明との鍛練やサンボで磨かれたサブミッションで妥協なき格闘プロレスを貫き、観客を熱狂させる。男はプロレス界が生んだカリスマだった。

前田日明について考えることはプロレス者にとっては高度な宿題である。
その一方で前田日明について考えることは喜びでもある。
この男の発言やファイトスタイルに容赦はない。
それが「前田信者」 と呼ばれる熱狂的なファン達を生んだ要因である。

カリスマにはその輝きに魅せられた熱狂的なファンの存在がいるのだ。
前田日明は何故カリスマになったのだろうか!?

元々プロレスラーになんてなるつもりもなかった。
そもそもプロレスが好きでもなかった。
大阪府大阪市に生まれた前田(1959年1月24日生まれ)が格闘技を始めたきっかけはウルトラマンを破ったゼットンへの敵討ちだった。
少林寺拳法、空手を鍛錬した前田。
空手を始めるきっかけとなったのは極真会館の創始者・大山倍達氏の著書「わがカラテ人生」だったという。

将来の夢はアメリカで空手道場を開くことだった。
その一方で高校時代に喧嘩に明け暮れ、大阪では敵なしだったと言われている。

しかし、前田の運命は思わぬ形で変わることになる。
当時、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿氏からスカウトを受けた前田。
新間氏は前田をこう口説いた。

「モハメド・アリのジムと提携してるので一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」

新間氏にはもちろんその気はなかったが、純粋な前田はこの口説きに応じた。
1977年、新日本プロレスに入門した前田。
彼のレスラー人生はこうして始まった。

アントニオ猪木の付き人を務めた前田。
前田に猪木への憧れはなかった。
1978年8月25日、彼は山本小鉄戦でデビューを果たす。

同期は平田淳嗣(スーパー・ストロング・マシン)、ジョージ高野、ヒロ斎藤だった。

「今までのプロレス人生を振り返って考えるとき、新日本プロレス時代の思い出を抜きにはできません。同期のメンバーには、互いにライバル心を燃やしていました」

特に平田とは前座で熱くて壮絶な名勝負を展開した。
平田はこう語る。

「一番のライバルは前田さん。この男だけには負けたくないなっていうのが自分を育てた。プロレスだと『ここでこうきてほしいな』っていうのがあるんだけど、前田さんはきてくれなくてね。そこでイライラして、向こうもすごいのを返してきてから前座のあの試合に繋がった。唇は切るわ、歯は折れたり…。他の団体と同じ若手の試合と思われるのは嫌だったので、それが出せたのはよかった」

プロレス入りしても前田は「いつアメリカに送ってくれるのかな」と考えながらプロレスをしていた前田。
新日本での前座で彼は勝ち負けより、いい試合をすること、負け方が大事だということを叩きこまれた。

1982年2月、前田はイギリス遠征に旅立つ。
猪木は前田の将来を嘱望していた。

「前田にとって、アメリカにいかせるより、ヨーロッパスタイルを覚えさせた方が将来のためにはいい」

イギリスではウェイン・ブリッジを破り、ヨーロッパヘビー級王座を獲得した前田は1983年4月に凱旋帰国。
同5月の第一回IWGPリーグ戦ではヨーロッパ代表として出場した。
このアイデアを出したのは猪木だったという。

新間氏は語る。

「猪木はIWGPのヨーロッパ代表に前田を選んだことによって、彼を後継者にしようと考えたのかなと感じた」

人気レスラーとなった前田だったが、一部から危険と言われたファイトスタイルから現場で注文を受けた。

「フロントからの投げ(フロント・スープレックスなど)はやめてくれ」
「蹴りは使うな」
「ニールキックは使うな」

前田は雁字がらめの状況に嫌気がさしていく。

「新日本を辞めたかった。自由に海外に行ってやりたいと思っていた。その矢先に母が事故に遭って…。莫大な治療費が必要になった。そこでUWFの話が持ちかけられた」

1984年4月に新日本を退社した新間氏が立ち上げた第一次UWFに前田は新日本を辞め、参加することになった。
当初は猪木や長州力など新日本の主力メンバーが参加すると発表され、フジテレビの中継も決まったがどれも実現しなかった。
しかも、新間氏が新日本に戻ることになった。
前田はUWFという島に取り残された。
しかし、前田は逃げなかった。

前田を育てた藤原喜明、後輩の髙田延彦(当時は伸彦)がUWFに合流し、新日本道場での関節技の取り合いスパーリングをベースとし、打撃を取り入れた新しいプロレスを追求した。

妥協なき格闘プロレス・UWFの誕生である。

「目指す理想のレスラーは蹴ってはキックボクサーを上回り、投げてはアマレスラー、柔道家を上回り、組めばサンビストを上回るレスラー」

しかし、UWFで前田が実感したのが、プロレス界の厳しい現実だった。
後楽園ホールなどの首都圏は満員でも、地方に行けば散々たる観客動員数。
ある地方大会ではなんと20人しかこなかったという。

「アントニオ猪木、ジャイアント馬場は知られていても、自分達は知られていない」

1985年9月11日後楽園大会を最後に第一次UWFは経営難により興業停止となった。
前田はどの選択肢を取るのか?
アメリカに行くなどという夢は吹っ飛んでいた。
UWFの選手、スタッフ、彼らの家族を養っていかないといけないという覚悟が芽生えていた。
全日本プロレスからの誘いを断った。
もう前田は一人じゃない。
彼の周りには仲間がいるのだから…。
最悪、自分がどんな立場になってもついてきてくれた人間を生活させないといけないと前田は考えていた。

1985年12月6日、新日本・両国大会に前田はUWF選手を率いてスーツ姿で来場した。

「この一年半のUWFの闘いがなんであったかを確認するために新日本に来ました。試合を観てください」

新日本と業身提携したUWFは1986年1月、新日本プロレスに参戦した。
前田は新日本がマッチメイクした猪木への挑戦権を賭けたUWF選手同士のリーグ戦に出ることになる。
仲間同士のつぶし合い。
それでも前田とUWF選手は妥協しなかった。
決勝戦は藤原戦では藤原のレッグロックと前田のスリーパーの掛け合いで、ギブアップした藤原が泡を吹いて失神した。

前田はファンの前で試合後に語った。

「新日本の最初のシリーズをみんなで潰し合いのような形になりました。僕達は一秒たりとも手を抜いていないことをファンの皆さんに誓います」

しかし、UWF代表となった藤原と猪木との試合で前田の怒りは爆発する。
猪木の急所蹴り、藤原のアキレス腱固めへの「極める方向が違う」というアクション、反則のナックル(肘打ち)…。
藤原をスリーパーで絞め落とした猪木に対して前田は不意打ちのハイキックで襲撃した。

「アントニオ猪木なら何をやってもいいのか?」
「じゃあ足を折ってしまってもいいのか?折ってこない藤原喜明だからそんなことをやるんだろ!」

その後、新日本との対抗戦に移行するも、新日本とUWFのイデオロギー闘争は、前田の心に闇がつつむ。
さらに1986年4月29日の三重県・津市体育館で急きょ決定したアンドレ・ザ・ジャイアント戦で、不可解なシュートマッチに発展。
アンドレへの恨みがない前田は疑心暗鬼に陥る。

「誰がアンドレを焚き付けたんや!」
「アンドレを殺らないと、俺は殺られるやないか!」

元々、新日本に戻りたくなかった。
UWFの仲間達を食わせるための選択。
いざ戻ってみても新日本に燃えるものを感じなかった。
標的と定めた猪木や外国人選手は前田との対戦を拒む。
「俺が前田とやってやる」と言っていた選手は口先だけで試合をしていても響かない。
連鎖していく数々の不満が憂鬱となっていった。
いつクビになってもよかった。
黒髪のロペスピエールと呼ばれた革命家・前田は心の中で孤独になっていっった。

そんな前田に光が射しこむ。
1986年6月12日、大阪城ホールで行われたIWGPリーグ戦の藤波辰爾(当時は辰巳)との一戦。
前田は己のすべてを藤波にぶつけることにした。
そして、藤波は前田のすべてを受け止めることにした。
それが伝説の名勝負として語り継がれることになった。

前田の顔面へのハイキックに何発も食らっても藤波は立ち上がってきた。
藤波は前田の打撃をさばきながらも、プロレス技で対抗していった。
終盤、前田の大車輪キックで右まぶたを切りながらも藤波は闘い抜いた。
最後は両者KO。
藤波と前田は試合後に抱き合っていた。

前田は試合後にこう語った。

「寄港する先がなかったUWFがある島にやっとたどり着き、無人島だと思ったら仲間がいた」

それは前田にとって最大級の賛辞だった。
憂鬱で真っ暗だった心の空にやや晴やらになっていた。

1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」で、アメリカの強豪キックボクサーであるドン・中矢・ニールセンとの「異種格闘技戦」で対戦した。
前田は新日本に対戦相手の資料がほしいといっても、渡されたのはニールセンのプロマイドと戦歴のみ。
ルールはフリーノックダウン、フリーエスケープ、寝技は5秒以内という特別ルール。
寝技を得意とするプロレスラーには不利なルールでもある。

「新日本は俺を異種格闘技戦で潰そうとしているのか?」
「ニールセンは新日本が用意した俺潰しの刺客か?」

その後、関係者が入手したニールセンの映像を見ると強豪だということが判明する。
特に左ストレートが伸びてくるという。

試合は壮絶だった。
ニールセンの左ストレートで前田の記憶は飛んだ。
それでも前田はニールセンの蹴り足を捕えることに執念を燃やした。
片逆エビ固め(ハーフ・ボストンクラブ)でギブアップ勝ちを収めた前田は両手を上げた。

セコンドの髙田や藤原が駆け寄る。
そこにはシュートボクシングのシーザー武志と師匠のカール・ゴッチもいた。
皆、泣いていた。

前田は後にこう語る。

「レスラーとして訓練された部分でいい面も悪い面も出た。いい試合をしようとしていた、反則をやらないで、ちゃんと決着をつけようと…。それを意識していたわけじゃないけど、それは骨の髄まで沁みこんでいるから。ただあのルールでは二度とやりたくない」

第一次UWF、第二次UWFで前田と共に行動した山崎一夫はこう語る。

「ルールの問題は大事で、ロープに逃げる、逃げない。何回ダウンしたのかという…。後のUWFでポイント制を導入したのは選手の体を守るためではあるけど、一回ロープに逃げたらおしまいだとすぐに終わるので、見る側の視線とやる側の視線の両方を考えないといきなかったですよね。前田さん自身がルールを確立しないといけないということをこの試合で身に染みて感じたのではないだろうか」

もしかしたらこのニールセン戦での経験が第二次UWFルールやリングスルールの立案と確立へとつながったのかもしれない。
前田はこの試合で新・格闘王と呼ばれるようになった。
前田信者と呼ばれる熱狂的なファンも増加。
彼は逆境や憂鬱を乗り越えて、スーパー・デンジャラス・ヒーローと呼ばれた。
1986年、プロレス界に新しいカリスマが生まれた。
前田日明にとってのターニングポイントとなったのはこの年だった。

そんな前田にとって新たな脅威が到来する。
1987年、全日本プロレスを活性化させた天龍源一郎による「天龍革命」だった。
どんな会場でも全力ファイト。
対戦相手が元大相撲横綱でも団体のエースでも外国人エースでも、リングシューズで顔面を蹴りあげ、怒らせ、反撃を思いっきり受け止める。

前田はこれを「輝きのプロレス」と評し敬意を表したが、その一方で自分達の存在意義が問われている気がした。
これでUWFは天龍革命に飲まれてしまう。

しかし、新日本はその対抗策を取らず、世代闘争に走った。
これでは天龍革命に勝てない…。

世代闘争が勃発した1987年6月12日の両国大会でのマイクでのやり合いを前田は冷めた目で見ていた。
いつしかアホらしくなった前田はひとりこう叫んだ。

「どうせやるなら誰が一番強いのか決まるまでやればいいんだよ!」

世代闘争は短期間で終わり、前田は天龍革命の対抗策として、新日本で長州力との抗争で対抗しようとする。
新日本で一番頑丈の長州力ともの凄いプロレスをやれば、天龍革命も霞むのでは…。
その前田の気負いがあの惨劇に繋がる。

1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田が木戸修にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、顔面をキック(敵の固め技から味方を救うこの様な攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。(wikipediaより)

新日本から解雇された前田に髙田や山崎などのUWF選手達が結集し、1988年5月に第二次UWFは旗揚げされた。
販売からわずか15分でチケットが完売するほどの社会現象を起こし、UWFは一般マスコミにも取り上げられるほどのムーブメントに発展する。
それも新日本との業身提携時代にカリスマとなった前田についていくというファンの心意気もあったのかもしれない。

前田にとってUWFとは何だったのか?

「UWFはプロレス界を背負って、プロレスにはこういう可能性がありますよ、プロレスラーはこういうもんですよ、っていつも胸を張って言えた運動体だった」

「格闘技を食えるようにしたのはUWF」

その後、第二次UWFは内ゲバを繰り返し、1991年1月に解散。
UWFは藤原喜明率いる藤原組、髙田延彦率いるUWFインターナショナル、前田日明率いるリングスと三派に分裂する。

特に前田はひとりぼっちの旗揚げを強いられた。
日本人選手は誰ひとり彼についてこなかった。
しかし、オランダ格闘技界の首領クリス・ドールマンの全面協力を経て、リングスは旗揚げされた。

リングスで彼は何をしたかったのか?

「リングスというのは、色々なジャンルの実績とか高いレベルを持った選手が他の格闘技の選手と統一ルールの下で、交流戦をするための場所なんだよね。自分の力を試す場所なんです」

リングスのキャッチコピーは「世界最強の男はリングスが決める」。
この戦場にはあらゆる格闘技の猛者がやってきた。
特にオランダ、ロシア、グルジア、ブルガリア、リトアニアからは数々の強豪が日本に来襲した。
エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラといった人類最強の男達は元々リングス出身のファイターだった。
新しい格闘プロレスを追求していた前田はいつしか、格闘技界の重鎮となっていた。
選手としての寿命は1991年にヒザの前十字靭帯断裂、側副靭帯という重傷を負ったことで事実上断たれたが、それでも自分についてきてくれた仲間達のために団体のために、彼はニープレスを着用してリングに立ち続けた。
それがカリスマと呼ばれた男の生き方だった。

1999年2月21日、前田は前代未聞の引退試合を行った。
対戦相手はオリンピック・レスリング三連覇を果たした"ロシアの英雄"アレクサンダー・カレリン。
実はこの一戦にはこんなエピソードがあった。

「オリンピックのグレコローマン・スタイルで金メダルを3個も獲っている無敵のレスラーでしたから、そんな奴と闘うなんて無謀だと散々いわれました。とはいえ、ぼくは二つのことを目論んでいました。まずどんなに痛めつけられてもカレリンから1本取ってやろう、そしてうまくいったらテイクダウンを取ろうと密かに狙っていたんです。実際、カレリンはとんでもなく強かったですけど、じつはあの前日の夜遅くまでやるやらないで揉めていたんです。彼の取り巻き連中は全員が反対だったんですよ。前人未到のオリンピック4連覇を目前にして、こういうことはやめたほうがいいという見解でした。しかし、リングス・ロシアの連中が頑張ってくれたんです。旧ソ連国家スポーツ省の事務次官をやっていたウラジミール・パコージンがリングス・ロシアの代表でした。その彼が『ソ連崩壊によってスポーツ振興が途絶え、喰えなくなっていた我が国の格闘家たちが、前田の尽力によって何十人も救われた。ロシアの英雄といわれているあなただ、そんな男のためにたった一試合やるくらい、いいじゃないか』と涙を流してカレリンに訴えてくれたんです。パコージンは後年飛行機の爆弾テロで亡くなってしまったんですが…」

前田の男気はいつしか国境を越えて繋がっていた。
クリス・ドールマンは前田についてこう語り、リングス参加を表明したという。

「日本人選手が離れていっても、前田が前田でなくなるわけじゃない。だから俺はどこまでも前田をバックアップしていく」

リングス・ロシアの看板選手だったヴォルグ・ハンは前田に忠誠を誓う。

「私は前田の兵隊だ、彼から行けといわれたら私はどこへでも行く」

ある国では最も有名な日本人の名に前田日明の名が挙がったという。
何故、彼は国境を越えて人々の心を掴んだのだろうか。

それはあらゆる境遇、困難、憂鬱をオーラに昇華させ、ストレートに己の理想と義侠心を貫くことに全力を注いだアキラの生き様に我々は魅了されたのではないかと私は考えている。
彼こそ語りがいのあるプロレスラーだった。

かつて前田はカリスマについてこう語っている。

「カリスマは実績を越えて心に残る。カリスマ性は勇気がないと身につけられない。コピーではカリスマになれない。オリジナルじゃないと…」

前田はまさしく実績を越えて心に残るカリスマだった。
前田が歩んだ波瀾万丈のレスラー人生とは…。

「反則したり、どさくさ紛れてせこいことをやることはしたくなかった。自分なりに筋を通していたつもり。自分のためだけにやってきたことはない。ただいつも、一緒にいる人達の生活のことばかり考えていた」

UWF時代の後輩である垣原賢人が悪性リンパ腫に倒れ、そのチャリティー興業が2015年8月に開催された。
ファンの心を打ったのは前田の愛ある叱咤激励だった。

「我が愛する後輩・垣原賢人のためにこんなにもたくさん集まっていただきまして、誠にありがとうございます。でもみんな心配しないでください。レスラーは癌とかでは死にません!(※大歓声)垣原が出たらみんなで言ってやってください。癌ぐらいでオタオタするんじゃない!(※大歓声)自分たちの師匠にあたる人、カール・ゴッチという人がいて皆さんご存じでしょうけど、ただの人じゃないんですね。ゴッチさんはよく当時、ある人に言われたことなんですけど『プロレスラーなんでしょう?』と言われたときにゴッチさんは『アイム、リアルワン』って言ったんですね。自分たちはその“リアルワン”の弟子なんです!(※拍手)ただのプロレスラーではありません。だから垣原にもう一度言います。癌ぐらいでオタオタするんじゃない垣原!(※大歓声)お前はリアルワンのプロレスラーだろ? お前家に行ったら亭主だろ? 子供の前では父親だろ? だったらもっとしっかりしろ、しっかり! こんなにも大勢、熱い思いでお前のために集まってきてくれて、こうやって応援してくれるんじゃないか。そんな人たちのためにも……じゃあどうやって、普通の人だったら怖がるような病気を治していったかというのをリアルワンのプロレスラーが見せてやればいいじゃないかよ!(※拍手)」

この魂の叱咤激励にファンは「前田」コールを送り、垣原自身もこの前田発言が大きな励みになったという。

2015年10月12日、6年半ぶりに新日本プロレスに姿を現した前田はファンの前でこう語った。

「プロレスというのは定義がない世界ですから、これからもいろんな選手が出てくると思います。時にはリングの上でケンカなんだか、プロレスなのかわからないようなこともありますし、選手はリングの上で全人格、全人生をさらけ出して戦いますので、どうか応援のほどをよろしくお願いします」

いかにも前田らしいストレートな発言だった。
何故、前田はあらゆる逆境に立ち向かうことが出来たのか?
その答えは前田のこの発言にあるのかもしれない。

「人間はどんな環境でも生きることに素直であれば、何とか頑張る。毎日頑張っているうちに自然と自分の力できるんだ」

前田日明は今後も、誰かのために生きる。
前田日明は誰にも媚びずに己の理想を追い求める。

今の前田の夢は「才能あるヤツを育て、立派な選手にして、有名なチャンピオンを輩出すること」だという。

男の夢はまだまだ尽きない。

「空想は夢でしかないが理想は現実化できるんだ」

1986年に誕生したカリスマはいつまでも我々の心を熱くする"俺達のアキラ"であり続けるのだろう…。