天龍源一郎の後継者になれなかった器用なのんびり屋さん/荒谷望誉【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第102回 天龍源一郎の後継者になれなかった器用なのんびり屋さん/荒谷望誉




「誰が1994年の『小橋健太』になるのか」

1993年の週刊プロレスの年末号。
その付録として翌年のカレンダーがついていた。
この年のテーマがこれだった。
小橋健太は当時26歳、プロレス界が誇る若き出世頭だった。

小島聡、折原昌夫、垣原賢人、成瀬昌由、新崎人生、サブゥー、大谷晋二郎、大森隆男、石川雄規、高橋義生、秋山準…。

今後の活躍が期待された各団体の若手12名が選出されたが、その中で2月に掲載されたのがコーナーから場外へのムーンサルト・アタック(ラ・ケプラーダ)を決めて見せた彼の姿があった。
男の名は荒谷望誉(当時は信孝)。
当時25歳、キャリア1年弱。
日本インディー界の新星と呼ばれた期待の大器だった。
そんな彼は"ミスター・プロレス"天龍源一郎の後継者になる可能性が最も高かったレスラーだった。
今回は"平成の生傷男"のレスラー人生を追う。

荒谷は1968年3月7日神奈川県茅ヶ崎市に生まれた。
中学校卒業後、大相撲の世界へ。
九重部屋に入門した荒谷だったが、最高位は序二段。
40勝51敗7休という成績で17歳で廃業。
その後、プロレスラー鶴見五郎のジムで肉体を鍛えていた。

元・国際プロレスの剛竜馬が旗揚げした新団体オリエンタル・プロレスに入門し、1992年7月26日にデビューを果たす。しかし、同団体は経営難により崩壊。荒谷はIWA流山という団体に移籍するもこちらも崩壊。

W★INGにフリーとして参戦していた時に、彼は場外へのムーンサルトで舞ったのだ。

「荒谷、おまえしかいないんだ!」

当時のW★INGの試合レポートが週刊プロレスの見出しに掲載されていた。
この時代は得意技のムーンサルト・プレス、奥の手のムーンサルト・アタックができるヘビー級戦士は少なかった時代。
それだけ彼は期待されていたのだ。
ちなみにムーンサルトは、W★INGの常連外国人として来日していたクラッシュ・ザ・ターミネーター(ビル・デモット)から伝授された代物だった。

1994年、W★INGやFMWの悪徳マネージャーとして活躍したビクター・キニョネスが代表を務める新団体IWA JAPANが旗揚げされ、荒谷はエースとして参加した。後楽園からのバルコニーダイブを敢行し、話題を提供した。しかし、外敵として参戦していた金村ゆきひろ(キンタロー)の大暴れが目立ち、エースとして不甲斐ない試合が続いた。それでも金村との一騎打ちでは、その直前のメキシコ短期遠征で披露したペイント姿でリングに上がり、イス攻撃など悪の限りを尽くし、見事に金村を破って見せた。

1994年7月のIWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに荒谷は決勝進出するも、"喧嘩番長"ディック・スレーターに敗れた。
またキニョネスとのブッキングにより参戦していたテリー・ファンクとのコンビで経験を積んだ。

しかし、荒谷は1995年5月に天龍源一郎率いるWARに移籍する。
"空爆重戦車"嵐(高木功)、"格闘戦士"北原光騎との隅田川三兄弟(このユニット名の由来は嵐が冬木弘道に敗れ、罰ゲームとして隅田川に飛び込んだことがきっかけで名付けられた。隅田川に飛び込んだ嵐は「川にいたくらげが冬木に見えた…」と伝説のコメントを残している)でWAR世界6人タッグ王座を獲得する。

1996年3月の新日本プロレスで開催されたワンデー・タッグトーナメント。
新日本、UWFインターナショナル、WCW、WARといった各団体の代表が入り混じったミニ・オールスター戦に、WAR代表として出場したのが天龍と荒谷だった。一回戦で藤波辰爾&越中詩郎と対戦する。
天龍、藤波、越中といった大ベテランに囲まれたデビュー4年の荒谷。
藤波と越中の前に防戦一方になるも爪痕を残そうと奮闘する。
フライング・ニールキック、雪崩式フランケンシュタイナー、ラリアット、ジャーマン・スープレックスホールド、ムーンサルト・プレス…。
そんな姿に解説のマサ斎藤はこう語った。

「僕は荒谷という男を買いますね」

そのあと実況の辻よしなりアナが「武藤敬司ばりですね!」と付け加えていた。

試合には敗れたが、WARの次期エース候補の雄姿を全国ネットで伝えることが荒谷を指名した天龍とWARの狙いだったのではないだろうか。
1996年7月のWAR両国大会で開催された6人タッグトーナメントでは天龍と髙田延彦の初遭遇が話題となった。
この試合にも荒谷は天龍のパートナーして参戦していた。
(もう一人は藤波辰爾)

WARの次期エース候補であり、天龍源一郎が後継者として育成しようとした男。
185cm 120kgの恵まれた肉体と器用なプロレスセンスと運動神経。
荒谷は数々の団体を渡り歩きながら、ごり押しながら選ばれし人間となっていた。
WARが経営が苦しくなり、選手達が次々と離脱する中で荒谷は未来を託されていた。
地方でのシングルマッチで荒谷をボコボコにした天龍は大の字になっている荒谷はこう叫んだ!

「荒谷、お前しかいないんだよ!」

竹刀、グーパンチでボコボコにされ、顔面蹴りを何度も食らわされた。
これは天龍からの愛の叱咤激励だった。
それが実を結んだのが1998年1月の"伝説の力道山ベルト"日本J1選手権トーナメント決勝での天龍戦だった。
天龍は場外へのトぺコンヒーロ、プランチャなどめったに出さない飛び技を披露、荒谷も天龍に触発されるようにハッスルし追い込んだ。
最後は天龍のラリアットに沈んだが、同年の東スポプロレス大賞ベストバウト候補に選出されるほどの激闘だった。

WAR時代にはこんなエピソードがあった。
それは荒谷を始めとして何人かの若手が朝まで飲んだ時。
酒が入れば誰でも愚痴っぽくなったり、普段は口にしない不平や不満が爆裂する場合もある。
ある若手が天龍さんやWARという会社についての不満を口にしたという。
その時、荒谷はこう言った。

「お前ね、天龍さんも必死に一生懸命やってんのね。会社だって大変なの。だから俺たちが頑張らなきゃいけないの。わかるでしょ?」

決して怒鳴るのではなく、穏やかに諭すように彼は若手に語りかけ、その場の悪い空気は変わった。
普段の荒谷は穏やかで明るくてひょうきんないい人だという。

WARは1998年に全選手を解雇し、興行会社として2000年まで存続した。
フリーとなった荒谷はインディー団体を転戦していった。
この頃には結婚していて子供もいた荒谷。
生活が苦しかった。

そんな荒谷を救ったのが天龍だった。
2000年8月、天龍の推薦により全日本プロレスに入団した。
これにより、それまでのインディー団体での転戦生活よりも数倍の給料を貰うようになった。
同年の世界最強タッグ決定リーグ戦は天龍とのコンビで初出場した。

その後、天龍が全日本でWAR軍を立ち上げ、荒谷もその軍団員となった。
ダブル・ショルダースパッツ、ハーツタイツとコスチュームを変えてきた荒谷はこの頃になると天龍ばりに黒のショートタイツとなった。
2002年4月には先輩・嵐とのコンビでアジアタッグ王座を獲得する。
また同年の全日本に移籍してきた小島聡にはライバル意識をむき出しにして立ち向かった。
大阪大会でシングルマッチは荒谷自身のベストバウトだった。
思えばこの時が荒谷のピークだったのかもしれない。

嵐とのコンビを解消と同時にリングネームを荒谷望誉(のぶたか)に改名するも、伸び悩む。
肉体改造に励み20kgの減量するも活躍が長続きせず、平井伸和(ヘイト、スーパー・ヘイト)との圏外タッグで活動するようになった。

ここから荒谷はお笑いプロレスの世界に進む。
菊タローとのからみでダメおやじぶりを発揮し、前座を沸かせるようになる。

・味方にラリアットが誤爆。
・コーナーへの串刺しラリアットの失敗。味方が相次いで成功するのに、荒谷だけが蹴り返される。
・味方の菊タローに股間を蹴られて痛がる。
・菊タローにコーナーに登るよう指示され、ほっとかれる。
・味方の菊タローから殴る蹴るの暴行を受ける。
・間違えてレフェリーにカンチョーまたは金的蹴り。
・数々の失敗で哀愁を漂わせた上で切ない退場曲がかかり、さらにダメおやじぶりが際立つ。

これが荒谷がたどりついたダメおやじプロレスである。
天龍の後継者と目されていた荒谷だったが実はこんなプロレスがやりたいという願望があったという。

「俺の目標とするプロレスラーは大熊元司さん。中堅どころでお笑いをやっているのが一番好きなの」

荒谷は語る。

「今の世の中、辛い人が多いじゃないですか。でも、俺の試合を見たら“自分の方がマシだ!”って思うでしょ(苦笑)。それで次の日に元気に会社や学校に行ってくれたらいいんですよ(苦笑)」

2008年、荒谷はあーちゃんというリングネームでハッスルに参戦する。
そこで出会ったのがかつての師匠・天龍だった。
天龍にはマイクでこうなじられた。

「ふざけんな、この野郎!中途半端なことをやってるとヤキ入れるぞ」 
「昔、お前にスリーミリオン使ったんだ。ちっとも成長してないな。涙が出るよ」

この天龍発言は荒谷に対するもどかしさが現れた本音だったのではないだろうか。
天龍だけではない。
彼を「エース候補」として期待していたプロレスファンの声でもあったのかもしれない。

「昔から欲はない。レスラーとしてはマイナスでしょ。これは性格だから治らないでしょ。目立ちたかり屋ではないし」

巨漢でムーンサルトができるという才能と器用さに我々は彼に期待した。
しかし、当人にはエースなどになれる器量はなく、それを望んでいなかった。
それを一番よくわかっていたのは荒谷自身だった。
彼はのんびり屋さんなのだ。
性格はプロレスラー向きではなかったのかもしれない。
これも荒谷自身がよく分かっていた。

しかし、荒谷はただののんびり屋さんではない。
WAR時代に当時新日本の安田忠夫と対戦した荒谷はムーンサルト・プレスに失敗し、額からキャンバスに突っ込んで第七頸椎棘突骨折という重傷を負いながらも、試合を諦めずにラリアットの連発で勝利した荒谷はこう叫んだ。

「チキショー! 何が新日本だよ、チキショー! 何が天龍だよ、畜生 俺がWARだ。俺が、荒谷信孝だ、この野郎ッ!」

こう叫んだ荒谷はその後、救急車に運ばれていった。
エース候補と呼ばれた男の意地だった。

2009年5月、荒谷は引退を表明した。

「40歳を過ぎたあたりから、あと何年間働けるかを考えていて…20年、30年はないだろうと。気持ちとしてはやっていきたいとうのもありますけど、いろいろな事情が重なり、またひとりの父親として考えた時にこういう結論を出しました。他の仕事をやりながらプロレスラーを続けるのは、私の場合はできないです。そんな中途半端にできる仕事ではないので。とりあえずは普通に働いて、普通のおじさんに戻ります。(引退については)だいぶ前から話をしていて、去年の契約更改の時もそうだったし、女房ともいろいろ話して。今回は自分で決めて会社に言って、女房には事後報告でしたけど、うすうす感じていたようで“御苦労さま”みたいな感じでしたね。“これからも頑張っていきましょう”って。娘は最近忙しくて、それに私の今のスタイルが嫌みたいで(苦笑)、試合に来てくれなかったのが、急に優しくなりまして。心配してくれてるんだなと。やっぱりちょっとは寂しいみたいですね。振り返ってみて全日本プロレスで終われるは凄く幸せなこと。この会社に来て、いい仲間ができて、凄く楽しかったです。最後にここでみんなと仕事ができて終われるのは幸せです」

2009年7月26日の引退試合。
この試合で串刺し攻撃失敗回数が5000回を記録した。
引退試合では荒谷は己が辿り着いたお笑いプロレスにこだわった。

「プロレスが大好きなんで、その気持ちのまま辞められてよかったと思いますよ。周りにいじられて、何とかここまでやってこれました。最初は苦しく、最後は楽しかった。楽しい仲間と楽しい仕事ができました」

男に涙はなく笑顔にあふれていた。
エースにはなれなかったが、彼は多くの仲間達に愛されていた。
これがエースになれず、天龍の後継者になれなかった男の生き方だった。
荒谷自身が「プロレスが好きで、プロレスをやってよかった」と思えているのなら、我々プロレスファンは「たら・れば」という彼への空想や失望を包み隠して、「お疲れ様でした」という労いの言葉をかけるのが筋であり果たすべき務めなのかもしれない。

引退後、荒谷は電気工事会社に勤務しているという。

天龍源一郎にも小橋建太にもなれなかった男はプロレスラーではない第二の人生を歩んでいる。

2015年11月15日、天龍源一郎は39年のレスラー人生に幕を下ろした。
結果的に天龍源一郎は天龍源一郎しかいなかった。
そして、彼の後継者になり得るレスラーなどいなかった。
それが現実だ。
ただ、彼の遺伝子や天龍イズムが各々のレスラーが汲み取ったり、取り入れたり、インスパイヤされることで"天龍源一郎"は伝承されていくのだ。

それでも私は記しておきたいことがある。
天龍源一郎の後継者になれなかった男がいたという事実を。
エース候補であり続けたのんびり屋さんが生きた波乱のレスラー人生を。
あの場外ムーンサルトが年月を越えても未だに煌めきを放っていることを。

成功と栄光ばかりが人生ではない。
失敗と挫折ばかりが人生ではない。
自分の身の丈という現実にぶつかる時があるのが人生だ。
自分の限界を知りながらそれに立ち向かおうとするのもまた人生だ。
人生はプロレスに似ている。
そのことを我々に教えてくれたプロレスラー。

荒谷望誉、私はあなたを忘れない…。