怒れる爆走トラックは"穴ボコ"を埋められたのか?/ケビン・ナッシュ【俺達のプ | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第105回 怒れる爆走トラックは"穴ボコ"を埋められたのか?/ケビン・ナッシュ



ここはアメリカ・ミシガン州サギノー。
月曜日のゴールデンタイムに放映されている「WCWマンデーナイトロ」の収録会場だ。
この時期に繰り広げられていた月曜テレビ戦争は1997年4月はWCWがWWE(当時WWF)の「マンデーナイト・ロウ」を視聴率で上回っていた。
日本よりも小さいグレーキャンパスのリングに現れたのは新世界秩序nWo。
この黒いヒール集団nWoの出現がWWEの後塵を拝していたWCWを世界最高峰のプロレス団体へと押し上げた。

あの黒い旋律が場内に流れるだけで、会場の雰囲気が変わる。
ブーイングも歓声も彼らにとっては声援である。
何も反応されないよりはマシだからだ。
彼らは「ナイトロ」で試合をするわけではない。
リングに上がってマイクを掴んでWCW勢を挑発するためにやってきた。
nWoJAPANとして日本で大暴れしたスコット・ノートンやバフ・バグウェル、nWoスティングはいる、ボディーガードのビンセントやコナンもいる。そして、盟友のショーン・ウォルトマンことシックスもいた。

しかし、この日はやや趣が違った。
それは一人の男のマイクという銃弾がきっかけだった。

「7年前(1990年)のことさ。新人だった俺はプロレスの"道"を探していた。そうしたらこのビジネスは落とし穴だらけの迷路だった。若者には何も与えるなってか?」

カメラはその男にズームアップする中で、さらにその舌鋒は激しさを増す。

「WCWってとこは血縁関係で成り立っているケチな会社だった。親父がいれば(プロレスラーや幹部の息子は)出世コースさ。俺はそれを実感した。スコット・ホールは才能のある若手だったんだ。このリングに全力を注いでいた。なのに大幅なギャラダウンさ。だから逃げたんだ、ニューヨーク(WWE)へな!」

そう語る彼のその目はプロレスという範疇を超えた怒りに満ちていた。そして、重みがあり真実味があった。

「WWEはどんなところだと思う? 飲めや歌えやの大騒ぎか? そうじゃなかったぜ!ニューヨークの道もやっぱり"穴ボコ"だらけだったぜ。尊重されなければ尊重されない。そういう気にさせてくれよ!」

ここで彼は本題に踏み込む。彼の怒りの矛先はリック・フレアーを始めとする旧世代と旧体制、伝統だった。

「俺達の出番だぜ!俺達の世代は若いライオン達の集まりさ。ジジイどもの言いなりにはならん! リムジンにでも乗ってろよ。自家用ジェット機か? シャンパン? ブスな追っかけ? 俺達はボロ飛行機での移動だって構わねぇのさ。野郎同士で安ホテルに泊まるのも気にしない。こういうことさ。俺達の使命ってのはお前たちがこしらえた"穴ボコ"を埋めていくことなんだよ!」

男の名はケビン・ナッシュ。
211cm 145kgの巨体、怒りをガソリンとして,野心的頭脳というエンジンを積んだ人間爆走トラックはアメリカ二大団体(WWE&WCW)を制した。
これは時代と伝統に歯向かい、立ち向かった大男の物語である。

ケビン・ナッシュは1959年7月9日アメリカ・ミシガン州トレントンに生まれた。
プロレス入りする前に彼が打ち込んだスポーツはバスケットボール。
高校時代は地区MVPプレーヤーに選出され、スポーツ奨学金をもらってテネシー大学に進学する。
NBAプレーヤーを目指すしたが、人員に空きがなくドイツに渡り、プロバスケットボールプレーヤーになるも4年で退団。

その後、陸軍に入隊しドイツに駐屯する。
除隊するとアメリカに戻り、ジョージア州アトランタでバーのバウンサー(用心棒)をしていた。
そこで当時アメリカ第二のプロレス団体WCWのジム・ハード副社長にスカウトされプロレスの道へ。
この時、彼は30歳を過ぎていた。

1990年8月24日にドクターXというリングネームでデビュー。
スティールというリングネームに改名し、ブレイドというレスラーと組んでマスター・ブラスターズ結成するも半年でコンビ解消。
その後、オズの魔法使いをイメージしたオズ(グレート・オズ)というキャラクターに変身する。
このキャラクターで1991年10月に新日本プロレスに初来日している。
獣神サンダー・ライガーとのタッグ結成や橋本真也とのシングルマッチを行った。
当時のキャラクター先行のデグの棒というイメージが余りにも強く、プロレスは下手だった。
随分大人になって出会ったプロレス。
そもそも彼はプロレス少年でもなかった。

その後、ラスベガスの用心棒ビニー・ベガスに変身し、ミスター・ヒューズ、ダイヤモンド・ダラス・ペイジとのコンビで活動するも鳴かず飛ばず、1993年6月にWCWを退団する。まるで脱兎のごとく逃げるように…。

当時のWCWはメディア王テッド・ターナーがオーナーのプロレス団体で、資金力は潤沢だったが、次から次へと団体の責任者が変わり迷走していた。ナッシュにとってWCWとは旧態依然している代表的な組織そのものだったのかもしれない。

1993年8月、当時ヒールの若きスターだったショーン・マイケルズのボディーガード・ディーゼルとしてWWEに入団した。
ディーゼルとは彼の公式プロフィールで出身地とされていた自動車産業の街デトロイトにちなんだものだった。

ディーゼルに変身したナッシュはWWEで才能を開花させる。
1994年4月には盟友のレーザー・ラモン(スコット・ホール)を破り、インターコンチネンタル王座を獲得。
同年8月にはショーンとのコンビでヘッドシュリンカーズ(サムー&ファトゥ)を破り、WWE世界タッグ王座を獲得する。

得意技はジャックナイフ(投げっぱなしパワーボム)、ビッグ・ブーツ、サイドスラム(サイドバスター)。
その破壊力で1994年のロイヤルランブルでは7人を敗退に追い込んだ。

親分であるショーンと仲間割れし、ベビーフェースに転向したナッシュは1994年11月26日にボブ・バックランドを秒殺し、WWE世界ヘビー級王座を獲得する。
デビューして4年のオールド・ルーキーが頂点に立った。

ナッシュはWWEでかけがえのない友人達を見つけた。
レーザー・ラモンを名乗っていたスコット・ホール、ショーン・マイケルズ、WWE入りしたばかりのトリプルH(当時はハンター・ハースト・ヘルムスリー)、1-2-3キッドを名乗っていたショーン・ウォルトマンである。
彼らはクリック(派閥)と呼ばれていた。
プロレス下手だったナッシュのプロレス頭も彼らとの交流によって培われた。

クリックはリング上で軍団になるのではなく、互いにライバルになることで、メインイベントを務めた。
5人が束となってオーナーのビンス・マクマホンと交渉やアイデアを提供する手段で団体内で発言権を強めた。

しかし、1996年5月。
ナッシュはスコット・ホールとともに契約期間が残っているにも関わらずWWEを離脱し、WCWに移籍する。
この時の真相をナッシュはこう語っている。

「スコット・ホールが『ターナー(WCW)から誘いがあった』と言うので、契約金額を尋ねてみた。150日間の契約にしては法外な金額だった。かなりの大金で支払いが保証されていた。俺は仲介役のダイヤモンド・ダラス・ペイジ(DDP)に電話したよ。当時のWCW副社長エリック・ビショフは俺達と直接には話したがらず、DDPを通じて交渉した上で契約を申し出た。そこで俺はビンスに相談を持ちかけた。WCW側の契約条件を示し、『同じ条件をのめるなら残留したい』と告げたんだ。ビンスは応じてくれなかった」

1996年5月19日。
MSGでのハウスショーがナッシュとホールのWWE最終試合となった。
メインイベントにはナッシュとショーン・マイケルズのケージマッチが組まれた。
試合終了後、欠場中のショーン・ウォルトマン以外のクリックメンバーがリングインして抱き合った。
これはイベント進行上でなかった彼らの単独行動。
当然、オーナーのビンスは激怒したという。

WCWに移籍したナッシュ。
当時はWWEからの刺客として売り出された。
「WWE VS WCW」という図式が生まれた。
ディーゼルやレーザー・ラモンというリングネームは使えないが、名前を名乗らなくても彼らはWWEのスーパースターのディーゼルであり、ラモンだった。
彼らはよそ者、アウトサイダーズと呼ばれ、リングネームも本名を名乗った。

「ここが"大男の遊び場(当時WCWのキャッチフレーズ)"? 笑わせるんじゃねぇ!俺達は本気だ!」

この二人に絶対的なベビーフェースだったハルク・ホーガンがヒールに電撃的に転向して誕生したのが「nWo」だった。
nWoとはニュー・ワールド・オーダーの略だ。
新世界戦略、新世界秩序という意味だ。
nWoとそれ以前のヒールユニットとの最大の違いは、彼らは団体内ユニットではなく、独立した団体として売り出されたことである。
このユニットのモチーフはファイトスタイルは当時、新日本で大暴れしていた狼群団で、ストーリーラインは新日本プロレスVS UWFインターナショナルの団体対抗戦からエリック・ビショフがインスパイヤされたという。

彼らはテレビマッチの試合途中に乱入し、無差別にベビーやヒール関係なく襲撃する。
黒いスプレーで背中に「nWo」と落書きする。
そして、横暴ぶりにヒートしたファンからは無数の物が飛び交う。
WCWを盛り上げるのではなく、nWoがWCWを乗っ取るという断固たる意思表示。
悪党の枠を越えたテロリストぶりに全米が震撼した。
彼らには次から次へと仲間が増えていった。
いつもまにはメンバーは20人近くに膨れ上がっていた。
ちなみに当時WCWに所属していた選手によると、この一連の流れはWCWでもごく一部の人間しか知らず、これが現実なのか、筋書きなのか見分けがつかなかったという。

またnWoのPVはかなり斬新でイカしていた。
PV誕生秘話をナッシュが明かしてくれた。

「当時、スコットと俺は決めていた。アウトサイダーズとして登場する数か月間は素のままでやろうとな。大げさに叫ぶ演技はいらない、だが、nWo初のPV撮影でホーガンが昔のプロレス式で5分近く吠え続けた。彼は満足気だったが、俺は正直しらけた。俺はスコットに言った。『これじゃうまくいかない。昔ながらのプロレス的な印象でありきたりすぎる。もっと面白くできるのにもったいない』とな。すると製作担当の奴がこう言ったんだ。『何とかしよう。発言を断片的に使って映像を白黒にする。そうすればいける』とね」

ショーン・ウォルトマンがナッシュとホールを追ってWCWにやってきた。
リングネームはシックスに改名する。
彼ら三人はウルフパックという三人組を結成するつもりだったらしい。
しかし、そのプランはnWo誕生に伴い幻となった。

nWoムーブメントはWWEを一時期、倒産寸前に追い込み、WCWを世界最大のプロレス団体に押し上げた。
ナッシュがこの時期に目の敵にしていたのがリック・フレアーを代表する伝統を重んじる体制だった。

「Tradition bites(伝統なんてクソ食らえ!)」

マイクパフォーマンスで散々、彼らを罵倒し続けた。

「お前らがこしらえた"穴ボコ"を俺達が埋めてやる!」

堂々の宣戦布告だった。
しかし、nWoはWCWに隆盛と崩壊を呼び込んだ。

当時WCW役員だったダスティ・ローデスはこう語る。

「"赤&黒"と"白&黒"の抗争からnWoとWCWの転落が始まった。あれは筋書きのはずだった。以前のnWoには筋書きを越えた面白さがあった。WCW乗っ取り事件は全米の注目を集めたほどさ。だが、あの分裂でnWoは終わったんだ」

1998年12月には当時無敗だったゴールドバーグを破り、WCW世界ヘビー級王者となったナッシュ。
nWoブームにより、ナッシュは団体内で発言力を増していき、現場の実権を握っていった。
要求は次から次へと通ったという。

だが、これがWCWを混迷に招いた。

当時WCWに在籍していたビッグショーは語る。

「フィールドで闘う選手が監督を務めるのは不可能だ。自分の能力を過信すれば判断力が鈍るからだ」

混迷のWCWを象徴する出来事は1999年1月4日のフィンガーポーク・オブ・ドゥーム である。
この一件でnWoもWCWの価値は暴落することになる。

低迷するWCWに元WWEのシナリオライターであるビンス・ルッソーが投入され、ナッシュと共に再建を図ることなるも、どれも企画は大外れ。
極めつけは俳優が団体の世界王者となる始末。
プロレスをバカにしていると言われても仕方がない。
ファンは正直である。
そんなバカバカしいショーなど見る気もしない。
彼らの番組の視聴率はガタ落ちする。

WCWに在籍し、WWEで大ブレイクを果たしたクリス・ジェリコはこう語る。

「道化達が団体を支配していた。世間知らずのビンス・ルッソー、お調子者のケビン・ナッシュ…。エリック・ビショフは頭は良かったが、全体をまとめるまでには至らなかった」

"穴ボコ"を埋めると語ったナッシュは結果的に自ら、プロレス界に"穴ボコ"をこしらえた。
リアルな怒りは彼自身がWCWで実権を握っていくことでいつの間に真実味に欠けていった。
それが現実だった。

「残念だが最悪の事態だった。もうやり直せないとわかってた。エゴがぶつかり合い、問題が山積していた。修復不可能な失敗が続いたんだ」

2001年3月にWCWはWWEに買収され崩壊する。
ナッシュは2002年に当時、悪のオーナーだったビンス・マクマホンからの刺客としてホーガンとホールとnWoを再結成し、WWEに帰ってきた。
だがここでのnWoは団体を乗っ取りアウトサイダーではなく、団体内の一ユニットに過ぎなかった。

その後、WWEを離脱しTNAに移籍したナッシュ。
2010年にホールとシックスパック(ショーン・ウォルトマン)とTNA版nWoとも言うべきユニット"ザ・バンド"を結成した。

2015年、ナッシュはWWE殿堂入りを果たす。
プレゼンターは盟友のショーン・マイケルズ。
そしてWWEの重役となっていたトリプルHがいた。
スコット・ホールはアルコール依存症と闘っている。
ショーン・ウォルトマンはアメリカ・インディー団体を転戦している。
そんな五人が授賞式の場で勢ぞろいした。

いつも間にかナッシュは白髪になっていた。
怖いもの知らずのヤングボーイ達は歴史の重みを知るダンディな男達になっていた。

「今、ここに立っていられるのはみんなのおかげだ」

ナッシュは授賞式でこう語った。

ケビン・ナッシュにとってプロレスは金儲けの道具で、政治だったのかもしれない。
だが、それだけではないことを知ったのが彼にとってのnWoの隆盛と崩壊だったのではないだろうか。
またアスリートとして全盛期とのいえた1990年代後期に素質や才能があるにも関わらず、乱入や政治に没頭してしまい、肝心な試合という作品を残すことが出来なかったのも痛かった。
かつてナッシュが罵倒した"穴ボコ"を作ってきた男達は例え権力や政治を駆使していたとしても、試合という作品を数多く輩出してきた。

プロレス界の"穴ボコ"には良質なものと悪質なものがある。
その意味をナッシュは己のレスラー人生で噛みしめたのではないだろうか。

アメリカ・カリフォルニア州ハリウッドにはこんな道があるという。

「ハリウッド名声の花道(ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム)」

ハリウッド大通りとヴァイン通り沿いの約5kmの距離がある歩道で、エンターテイメント界で活躍した人物の名前が彫られた2,000以上の星型のプレートが埋め込んであり、観光名所となっている。

プロレス界にも目には見えないかもしれないが"名声の花道"があるのだ。
その道はプロレスの歴史そのものと言ってもいい。
ケビン・ナッシュがその歴史上の人物となったのも現実である。
プロレスという道に"穴ボコ"を埋めたわけではない、”穴ボコ”をこしらえてしまったかもしれない。
それでも、爆走トラックはデコボコ道を走り続けた。
怒りと野心と政治力を乗せて…。

※俺達のプロレスラーDXは今回が2015年最後の更新となります。

2016年更新分は以下のリンクで更新しています。是非ご覧ください。よろしくお願いいたします!!

俺達のプロレスラーDX2016年更新分