日本最凶のヒール王 壮絶な覚悟とプロ意識/上田馬之助【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第108回 日本最凶のヒール王 壮絶な覚悟とプロ意識/上田馬之助
シリーズ 日本の悪役①



直木賞作家・船戸与一の短編集に「蝕みの果実」という本がある。
アメリカにおけるスポーツ社会で生きる日本人の生き方を取りあげた小説である。
その中にはアメリカで生きる日本人のベテラン悪役レスラーと、元相撲取りの新人レスラーを主人公にした「からっ風の街」という作品が収録されている。
プロの世界を甘く見ていた新人レスラーが、そのベテラン悪役レスラーの息子をアドリブで勝手に名乗ることになり、ファンのヒートを買いすぎて、リング上でファンから銃撃され、絶命してしまうという衝撃の結末が待っていた。

悪役レスラーは対戦相手だけでなく、会場の観客やファンとの闘いが宿命である。
ある者は観客からナイフで頬を傷つけれた。
ある者はリングに乱入してきた観客からイス攻撃を浴びた。
ある者は観客からピストルを突き付けられた。
またファンからの自宅への嫌がらせやいたずら電話に悩まされた者もいた。
またファンからカミソリ入りの手紙が届き、指を負傷した…。

命懸けで「悪」を務め上げ、興業を成立させるのがプロレスのおけるスパイス的役割であるヒールだ。

「日本一の悪役レスラー」

彼はこのように呼ばれている。
男の名は上田馬之助。
日本人が善玉で、外国人が悪役だった日本のプロレス界において、本格的な日本人ヒールとなったパイオニア。
また金髪や茶髪に染めた日本人がほとんどいなかった時代に金髪に染めた男。

190cm 118kgの恵まれた肉体とガチンコ、シュートに強いと言われた影の実力を持ち、まだら狼、或いは金狼という異名を持つ上田は日本やアメリカのリングで悪の限りを尽くした。
それが上田馬之助だった。
今回は「日本一の悪役レスラー」、「日本最凶のヒール王」の生き方に迫る。

上田は1940年6月20日愛知県弥富市に生まれた。
本名は上田裕司という。
1958年に高校を中退し、大相撲・追手風部屋に入門し、力士になる道を選んだ。
しかし、1960年に同期のミスター林の誘いを受けて、日本プロレスに入門する。

同時期に日本プロレスに入門した中には後のスーパースターとなるジャイアント馬場とアントニオ猪木がいた。

1961年4月に平井光明戦でプロデビューする。
日本プロレスでの日々は上田にとって財産だった。
だから日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を常に肌身離さず持ち歩いていたという。
それがプロレスラー上田馬之助の誇りだった。

若手時代から上田はスパーリングやシュートで強さを発揮していた。新人選手対象のトーナメントが開催されると、上田は腕がらみ(チキンウイング・アームロック)を武器に、対戦相手から一本を取り優勝した経歴を持つ。
相撲で培った腰と引きの強さとアマレス出身者のタックルさばきの上手さと関節技の強さが当時の上田の武器だった。
しかし、あまりに派手さがない試合が多かったため、眠狂四郎という異名が付けられた。

1966年、上田はアメリカに渡った。
テネシーやテキサスを転戦。
プロフェッサー・イトー、ミスター・イトーというリングネームでヒールレスラーとなった。
NWA世界タッグ王座やNWA世界ジュニアヘビー級王座にも輝いた。
ヒールとしてアメリカで生き残るために上田は悪役としての顔の表情を磨いた。
鏡の前で足をつねり、洗濯バサミで顔をはさみ、ヒールに見えるように努力したという。

1970年3月に帰国した上田。
しかし、当時の日本プロレスのトップレスラーだったジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二の陰に隠れた存在で埋もれていた。
ここで上田の名が思わぬ形でクローズアップされることになる。

1971年の上田密告事件である。

力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。上田は「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告していた。

一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、このことに気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。

当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」はプロレスに限らず良くも悪くも現在の価値観で言う暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」としている。

また、馬場の自伝においては、猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だったとされ、これに関係していた上田を馬場が詰問したら「上田が全部しゃべったんです」との記述がある。雑誌ゴングの元編集長竹内宏介(馬場の側近としても有名だった)も「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。

ユセフ・トルコも自著での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、あれを上層部にいったのは間違いなく上田」と語っており、元日本プロレスの経理部長である三澤正和も「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言している。

ただ2007年1月から5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」「証拠となるメモも残っている」と語っている。(但しそのメモが公開されることはついになかった)
(wikipediaより・上田密告事件)

上田が理想とするプロレスラー像はこちらの5つである。

1 .基本がしっかりできていること
2. 誰が見ても体がレスラーに見えること
3 .打たれ強いこと
4.お客さんと勝負できること
5.いざという時、セメントで勝負できること

上田が考える理想のプロレスラー像はもしかしたらアントニオ猪木だったのかもしれない。
若手時代の上田と猪木はセメントの強さと練習熱心さには定評があったという。

「若手の頃から、なぜか猪木さんとはウマが合った。いつの間にか道場では一番気の合う仲間となった。私と一緒で、猪木さんは人一倍稽古も熱心だった。だから一番の親友だった寛ちゃんから、公然と裏切り者呼ばわりされるようになった。これがなによりも悲しかった。今でも、その気持ちは変わらない」

この上田密告事件で猪木を日本プロレスを追放され、馬場は独立し、坂口は猪木が設立した新日本プロレスに移籍した。
残された上田は大木金太郎とのコンビでインターナショナル・タッグ王座を奪取するも、その一か月後に日本プロレスは崩壊した。

その後、馬場が設立した全日本プロレスに、日本テレビと契約したレスラーとして参戦したが、マッチメイクは冷遇される。
上田はフリーランスになるも、日本テレビとの契約が残っていたため、テレビ朝日と契約している新日本プロレスやテレビ東京と契約している国際プロレスへの参戦が出来ず、再び渡米し、ヒールとして暴れまわった。

1976年、上田は日本テレビとの契約が切れ、国際プロレスに参戦する。
この頃、上田は前髪を金髪に染めたまだら狼となった。
そこには若手時代の実力をひた隠しにして、イスや竹刀での反則主体の悪役ファイトを前面にする上田の姿があった。
日本プロレス界に本格的日本人ヒールレスラーが誕生した。

「(日本人選手の)誰かがヒールをやらなくては…。アメリカ人がヒールで日本人がベビーフェースでは面白くない」

後年、上田はこう振り返っている。

1976年6月にラッシャー木村を破り、IWA世界ヘビー級王座を奪取し、実績を残した。
国際プロレスでの上田のヒールとしての仕事に目をつけたのが新日本プロレスだった。

1977年1月に上田は新日本プロレスのリングに現れた。
ネクタイなしのスーツ姿で現れた上田は猪木に挑戦状を叩きつけた。
スーツ姿の上田と猪木は掴み合いの乱闘を繰り広げた。

上田は新日本最凶ヒールのタイガー・ジェット・シンと凶悪コンビを結成し、リングを血で染めつくした。
1977年2月に坂口征二&ストロング小林を破り、NWA北米タッグ王座を獲得した名タッグチームとなった。

上田は狂虎シンの猛獣使いとして、見事に操った。
またクレバーなシンは上田のエキスを吸収した。
一度は壮絶な仲間割れを起こして抗争に発展してもい二人はその後、再結束した。
相乗効果を生むヒールコンビ…それがシン&上田だった。
上田はシンにこのようなアドバイスをしたという。

「タイガー・ジェット・シンは普段はターバンを着けていなかった。でも彼にアドバイスしたらずっと普段からターバンをするようになった。ターバンを着けていれば誰だって、タイガー・ジェット・シンってわかる」

シンにとって上田は兄弟分だという。

「彼は偉大なファイターでありウォリアーだった。それと同時にリングを降りれば本当の紳士で、彼のような人というのはめったにいない。本当に素晴らしい人間だ。上田さんは本物のプロフェッショナルで、ヒールとして他のレスラーと食事をしたり行動をするようなことをしなかった。だから朝起きるといつも私を起こしに来てくれて、朝食を一緒に摂って、それから昼食も夕食もいつも彼と一緒だった。我々はいつも一緒に行動していた。インドと日本、生まれた場所は違うけど本当の兄弟のように付き合い、同じ時を過ごした。我々は世界一のヒールタッグだったし、上田さんとの友情は40年に渡って続いてきた。それは今までも、そしてこれからもずっと変わらないものなんだ」

1978年2月には猪木と史上初の釘板デスマッチで決着戦を行い、TKO負け。
リング上で完全決着しても、上田の猪木への慙愧の念は消えなかった。

新日本での徹底したヒールぶりがきっかけになったのだろう。
上田は悪役レスラーを越えた嫌われる存在となった。
アンチファンからの嫌がらせや危害を恐れた上田は家族で海外に移住していたという。
上田は日本でもアメリカでどこにいってもヒールだった。
親兄弟にも迷惑をかけた。

上田の実家にはこんな誹謗中傷の電話が多数かかってきたという。

「お前のところは一体どういう教育をしているんだ!」

家族からこんなことを言われた。

「頼むから身内だと言わないでくれ」

親戚の子供にはこう言われた。

「おじちゃんは家に来ないで!」

プロのヒールである上田も人間である。
本当に心が痛んだ。
それでも自分が生きる道を定めたヒールという生き方を辞める訳にはいかなかった。
家族を犠牲にしても、男はヒールを極める覚悟があった。

「自分は日本でもアメリカでもどこでもヒールでやってきた。自分は世界一のヒールだと思う」

そんな彼は実はプロレス界きっての人格者。
上田は陰で施設慰問やダウン症の子供達のレクリエーションに参加していた。
テレビ画面から伝わってくるあの凶悪な顔とは程遠い優しくて穏やかな男だ。

巡業中に、旅客機に乗った上田の隣の席に一人の紳士が泣きながら乗っていた。恩人が急死したため、告別式に行くのだと言う。飛行機が目的地に着くまで、彼の話し相手になった涙ぐんだ上田は心打たれ、半紙に紙幣を包み、これを故人の御霊前にお供えしてくださいと手渡しをしたという。

地方会場でパートナーのシンが観客席に乱入した。観客は脱兎の如く逃げた。だが、一人の老婦人が腰が抜けて逃げ遅れて椅子に座ったままでいた。 シンは観客席に傾れ込んだそのままの勢いで老婦人めがけて突進した。 老婦人を守るため上田はシンの前に立ちはだかった。両手を広げタイガーに向かい合いながら、背中越しに老婦人に絶叫した。

「こら、このやろう!おばあちゃん!どきやがれ!早く逃げろ!あぶないよ!」

サインをせがむ男の子に「馬鹿野郎!あっちへ行け!」と怒鳴ったところ、その子が悲しそうな顔をしたので後から若手レスラーに呼びに行かせ、控え室で男の子に謝った上でサインをしたという。

いきなり、カメラのフラッシュをたいた少年ファンを叱り付けたが、物陰に連れて行き、写真が欲しいなら、名前を名乗り、写真を撮らせて下さいと断ってからにしなさいとマナーを教えた。

上田の後援会関係者はこう語る。

「巡業があったので後援会の会員達で一席設けた。楽しかった。腰の低い人でねえ。良く勉強しているし、話題も豊富でなかなかの紳士だ。リングの上とは全然違うが、そこが彼の最大の魅力だ。」

ヒールレスラーはトップになればなるほど、人格者である。
この業界の通説は本当だった。

1981年、上田はシンとともに全日本プロレスに戦場を移し、悪の華を咲かせ続けた。
シンとのコンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田を破り、、インターナショナル・タッグ王座を奪取した。

1983年3月に告発事件以降、因縁があった馬場とのシングルマッチも実現した。
馬場のジャンピング・アームブリーカーでレフェリーストップに追い込まれた伝説の試合。
しかし、序盤から中盤にかけて二人が繰り広げたのは寝技の攻防だった。
上田が馬場に仕掛けたのはなんとアキレス腱固め。
まだUWF誕生以前のこの時期である。

1985年に上田は一人で新日本プロレスに参戦する。
若手ヒールのヒロ斎藤とコンビを結成するも、仲間割れ。
シングルマッチでの決着戦では敗れたものの、一方的に齋藤を攻め続けた。
勝者であるはずの齋藤はまるで敗者のように試合後、悔し泣きをしたという。

1986年、前田日明率いるUWFが新日本に参戦すると、上田は新日本正規軍の助っ人としてUWFに立ちはだかった。
UWF若大将の前田の打撃を真っ向から受け止めるタフネスぶりを発揮し、寝技でも攻防でも引くことなく、極めあいに応じた。

「上田は実はセメント最強」

上田はUWFとの対戦でこの都市伝説を証明して見せた。
上田はこう語る。

「当時、他のレスラーは前田日明のキックを恐れていたが、前田のキックが何だといいたい。別にどうってことはない」

1990年代に入ると、日本のインディー団体を転戦し、健在ぶりを示していた。
だが、あの事故が上田の運命が変わる出来事に遭遇する。

1996年3月、IWAジャパンのシリーズ最終戦が行われた仙台市から東京への帰京中、東北自動車道で交通事故に遭遇。助手席の上田はフロントガラスを突き破り、車外に投げ出され、 アスファルトに叩きつけられる大事故だったが一命を取り留めた。上田本人は車が衝突した瞬間以降のことは記憶に残っていなかったという。その事故により頸椎損傷の大怪我を負い、胸下不随となり車椅子での生活を余儀なくされた。運転していたIWAジャパンの営業部員が死亡し、その話を聞いたときは「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
(wikipediaより/上田馬之助)

上田はこの大怪我によって引退に追い込まれた。

引退後、上田は妻の故郷の大分県臼杵市に移住し、リサイクルショップを経営しながらリハビリに励んだ。
また全国各地の施設慰問や交通事故の遺児を励ますボランティア活動や講演活動をした。
半身不随となり、食事は排泄も満足にできず、自殺を考えていた上田を支えたのは妻だった。
妻は昼夜問わず、上田を介護をし続けた。

そんなある日、講演で大阪を訪れていた上田に一人の老人がこう罵ったという。

「悪いことばかりしたからそんな風になったんだ」

上田にとってこの暴言は心が傷ついた反面、最高の褒め言葉でもあった。
そこまで嫌われるまでに自分はヒールを全うしたのだという誇りが上田にはあった。

妻はこう語る。

「夫をその方は本当の悪人と思い込んでいた。昔の人は今より真剣にプロレスを見ていた。裕司さん(馬之助の本名)は内心では喜んでいた気がする」

障害を追っても上田は上田だった。

「馬之助が笑っていては、画にはならない」

どんな状況でもカメラの前では彼は悪役レスラーとしての表情をつくって見せた。
車いすでプロレス会場に姿を見せた時は、必ず金髪で染めあげた。

「悪役レスラー上田馬之助を貫く生き様」

それこそが彼の壮絶なまでのプロ意識だった。

2011年12月21日の午前中、上田は果物をのどに詰まらせ同市内の病院に搬送されたが、午前10時7分、息を引き取った。
享年71歳だった。

亡くなる前日、上田はもしかしたら死期を悟っていたのかもしれない。
上田は妻にこんな言葉を残した。

「“上田病院”で暮らせて幸せだった。ありがとう」

上田は病院に入院せず、自宅介護という道を選んだ。あの事故以来、16年。妻は24時間体制で夫を支えた。

上田の死に妻はこう語る。

「私も亡くなった事実が受け入れられないんです。いつも夜中にタンを取ってあげたりしてたんで、いまでも夜何度も目が覚めて『タンがつまってないかな』とか思っちゃうし。スーパーに行ってもティッシュやらなんやら、たくさん買おうとしては「あ、もう買わなくていいんだ」と思ったり……。亡くなる数日前から『最近、ちょっと様子がおかしいなぁ』とは思ってたんですね。それで亡くなった当日の朝も元気がなかったんですよ。それで朝食でパンを一切れちぎって食べさせようとしたら『パンはいいよ』って言うんです。でも、『朝から体力つけんと一日中ダメになるよ。それじゃ、バナナ食べよう』って、バナナを剥いて、ほんのひとかけらを食べさせたんですけど、そしたら『喉までいかない』って。だから『噛むだけ噛んで』って言って、野菜ジュースで流し込むようにして飲ませたんですね。そのあと口が半開きになって、『あら、どうかしたの?』って言ったら、返事も返って来ん。『あれ、おかしいな』って思ってるときに、9時15分か20分くらいに訪問看護の人が来たから、『口が半開きになってから返事が返ってこん』って言って。胸を押さえたりしてみたんですけど、なんか様子がおかしいってことで救急車を呼んで、9時半には救急車が来たんですね。でも、そのとき救急車には訪問看護の人が二人、救急隊員も二人乗ったんで、私は乗れなくて、あとから車でついて行ったんです。で、あの人が病室に入るのと私が着いたのと一緒になって。病院の先生が『MRIにかけていいですか?』って言うから『どうぞ』って言って。そのあと心電図みたいなのがありまして、最初は動いてましたけど、しばらくしたらず~っとまっすぐになっとったですよ。そして『ただいま10時7分、お亡くなりになりました』って……。そのときがやっぱり一番辛かった。座り込んで、立てんようになってしまって。あとから私、自分を責めたんです。私がもうちょっと早く気づいてたら、もうちょっと生きとったものだと思うもんだから。『悪かったね、ごめんね、ごめんね』言うて、ほっぺたを叩いて『起きて、起きて』って言うたけど……。もう『息を引き取った』と言われたとき、あのときが一番辛かったですね。いまはなんかね……さびしい。もの凄くさびしい。唯一、良かったなと思うのは、まったく苦しまずに、静かに息を引き取ったことですかね。でも、私自身は『あのとき、異変に気づいてあげればよかった』って後悔ばかりで……。死んだら、こんなにもさみしいもんなんですね」

盟友であるタイガー・ジェット・シンは上田の訃報にこう語った。

「日本のたくさんのメディアが私に電話を掛けてきた。本当にたくさんのメディアがね。上田さんの死について話してほしいということだったが、私は話さなかった。すごくショックで、とても悲しい出来事だった。上田さんの死は本当に悲しかった。神が与えてくれたパートナーで、1番の親友である上田さんの魂が安らかであることを祈ります」

そして、上田と長年に渡り確執と抗争を繰り広げきた同期のアントニオ猪木はこう語った。

「上田さんはかなりぶきっちょな人だから、かなり努力したと思う。強烈なイメージは新日本に上がったときから。こんな悪いタイガー・ジェット・シンに日本人がどうして加担するんだ?って、(あの二人のコンビは)俺がひらめいたんだ。同期が去って寂しいよ」

そして、話はあの密告事件に及ぶ。

「裏切りの張本人はジャイアント馬場だったが、上田さんは“馬場さんにやらせるわけにはいかないから”と…」

上田の想いは猪木に伝わっていた。
日本一の悪役レスラーはあの密告事件以降、実に40年に渡り、内心では後悔と慙愧の日々を過ごしていた。

上田の密告によって日本プロレスから追放された猪木はこう語っている。

「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」

上田の猪木への想いは一途なものだった。

「一番の親友だった寛ちゃんから、公然と裏切り者呼ばわりされるようになった。これがなによりも悲しかった。今でも、その気持ちは変わらない。寛ちゃん、私は裏切り者ではありません。オヤジ(力道山)の道場でセメントに一番強くなるために一緒に稽古してきた同じセメント・レスラーですから、嘘は言いません」

こうして日本一の悪役レスラーの生涯は終わった。
しかし、上田馬之助の雄姿と伝説は後世に受け継がれていくものとなった。

日本最凶のヒール王・上田馬之助。
彼がなぜオンリーワンの悪役レスラーであり続けたのか。
それは例え家族を犠牲にしてもどんな中傷にも屈しないヒールとしての覚悟と、いついかなる時でも上田馬之助が上田馬之助としての生き様を貫けるプロ意識にあったのではないだろうか。
そしてこの壮絶な覚悟とプロ意識を培えたのは上田自身の人間性と人間力だったのではないだろうか。

プロレスラー上田馬之助の座右の銘にはこんな金言がある。

「俺のライバルはリングの中で闘う対戦相手ではない。お客様だ」

男は馬之助。
真の悪役レスラー・上田馬之助の魂よ、永遠なれ…。