暴発の新人類~馴染めないナチュラル・ヒール~/北尾光司【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第109回 暴発の新人類~馴染めないナチュラル・ヒール~/北尾光司
シリーズ 日本の悪役②



坂口征二
 「自分にとっての後悔は北尾光司と小川直也をプロレスラー として大成させることができなかったことである」

長州力
「(もし北尾光司がプロレスをやり続けていれば)いいインパクトはつくれるという部分はあった。最終的にどっかで、ポンと(誰か大物レスラーを)食っちゃえばパッと上がれる可能性はあったんですよ」

富永巽(元SWS代表)
「SWSにもいい選手がたくさんいました。私が一番もったいないと思ったのは、北尾光司選手ですね。あれだけの体をもっていたんだから、上手に育てていれば、団体を背負う人材になれていたんじゃないかと思いますね」

元大相撲横綱・北尾光司は未完のままプロレス人生を終えた大器である。
200cm 170kgの巨体と恵まれた身体能力がありながら、その武器を生かし切れず彼はリングを去った。

かつて武藤敬司は北尾をこう評したことがある。

「ナチュラル・ヒール」

役柄や仕事ではなく、"素"で嫌われていたという意味でいうとこれほど的確な表現はない。
今回は、ナチュラル・ヒールと呼ばれた怪物のレスラー人生に迫る。

北尾光司は1963年8月12日三重県津市に生まれた。
父は建設会社の取締役で彼は一人息子だった。
子供の時から柔道を始め、小学生の時から相撲を始めた。
地元の相撲大会に出場し、優勝することで相撲にはまった。

中学生になると同級生や高校生でも彼の相手はいなくなるほどの実力を持っていた。
中学を卒業すると、「5年で関取になれなかったら帰ってくる」という条件付きで大相撲・立浪部屋に入門する。

入門時から北尾は角界で話題となった新星。
まるでバスケットボール選手のような肉体と素質に将来が有望視されていた。
1984年には新入幕を果たし、1985年には関脇、千代の富士や隆の里といった横綱を破る金星を挙げ、1986年には大関に昇進する。

この頃から北尾は癖のある性格を露呈させている。
少しでも厳しい稽古をつけると、「故郷に帰らせていただきます」と親方に注文を付けたり、稽古をさぼり、喫茶店にいったりしたこともあったという。
肉体や素質に恵まれながらも、心の部分で彼は脆さがあったのかもしれない。

1986年9月に北尾は横綱に昇進する。
ただ、優勝経験のない北尾の横綱昇進は物議を呼んだ。
当時の横綱審議委員の稲葉修氏はこう述べている。

「(幕内)優勝経験が一度も無い力士が(横綱に)なるのはおかしい」
「身体は文句無しだが、精神面に甘さがある」

横綱昇進と共に四股名を「双羽黒」に改名。
横綱昇進伝達式で北尾はこのような口上を述べた。

「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」

しかし、横綱昇進後は怪我や体調不良による欠場が相次ぎ、批判を浴びた。
そして、1987年12月27日、北尾はトラブルを起こし、角界から去った。

1987年12月27日、立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、そのまま「(破門同然の)廃業」という事態になった。
発端は、同日の夜に部屋の若い衆が「『あんなちゃんこが食えるか』と横綱(双羽黒)が言っている」と立浪に言いつけたことだった。立浪の主張によれば、ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に入った女将を突き飛ばし、「二度と戻らない」と言って部屋を出て行ったという。一方、北尾自らの著書では「(ちゃんこが)美味い・不味いの問題ではなく、若い衆が料理を作れないほどたるんでいることで、(立浪)親方に再三指導するよう求めてきたが全く取り合ってもらえず、逆に親方から若い衆に謝罪するよう求められた。それが納得できず、部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。すると親方がそれを見て『(女将に)暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と明かしている。確かにこの件では「立浪と双羽黒の言い分が大きく食い違っていること」「被害者側からの公的な告訴が無かったこと」から、立浪の発言に関して信憑性を疑う余地もある。双羽黒本人が引退後にバラエティ番組に出演した際は、「殴っていないとしても、実は足で蹴ったりしたんでしょう」と茶化されたが、双羽黒は苦笑しながら「腕力を自慢する訳では無いが、僕のような大男が女性(女将)を殴ったら少々の怪我では済まされない。場合によっては命に関わるでしょう」と返答し、女将への暴力行為は頑なに否定した。部屋を出て行った双羽黒は都内のマンションの一室に籠城していたところ、武隈が居場所を見つけて部屋に戻るように説得するも失敗、その間に立浪が協会へ双羽黒の廃業届を提出した。この事態を受け、同年12月31日に緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業届を受理することを正式決定した。同日、双羽黒は緊急記者会見を開き、「私はもう(相撲界に)未練は無い。相撲は好きだが、幕下の時から相撲道の違いで(師匠・立浪には)とても付いて行けない(と思っていた)。『横綱』の名を汚したことは公私共に良くないが、人間として自分を貫いた」と述べて、正式に大相撲の廃業を発表した。
(wikipedia/北尾光司)

こうして角界を去った北尾はスポーツ冒険家なるタレント活動を経て、1989年6月にプロレス転向の記者会見を行った。
北尾の主戦場は日本最大のプロレス団体・新日本プロレスに決定した。
会見後、北尾はアメリカのルー・テーズ道場に渡り、約2ヶ月間に渡りトレーニングを積んだ。
「僕のプロレスの師匠はルーお父さん」と北尾は語ったと言われている。

1990年2月10日、東京ドームの大舞台で北尾はプロレスデビュー戦を行った。
相手はプロレスの上手さに定評がある"刺青獣"クラッシャー・バンバン・ビガロ。
北尾は刺々しい黒の革ジャンにサングラス姿で入場、コスチュームは黄のダブルショルダータイツ。
タンクトップを引きちぎったり、相手を挑発したりとプロレス界のスーパースターであるハルク・ホーガンを真似たパフォーマンスを展開。
最後はホーガンの得意技のギロチンドロップ(レッグドロップ)でビガロを破った。

ただ、自信満々の"ニューヒーロー"北尾とは裏腹にプロレスファンは彼の姿に失笑を禁じ得なかった。

平成2年2月10日、対ビガロのデビュー戦。私自身、北尾がどのような雄姿を見せてくれるのだろうかとかたずを飲んで見守っていた。
と、その時。私の視界に前び込んできたのは、北尾のあまりにも衝撃“笑劇”の姿だった。ホーガンをモチーフにしたイエローTシャツに、
ワケの分からないパフォーマンス。“ズッコけた”というのは、まさにこういうことだ。東京ドーム中があんな失笑に包まれたのも前代未聞だろう。
さらにデビュー戦であれだけ大ブーイングを浴びた選手も初めてだろう。最後に叫んだ「ありがとー」なんて、まるで小学狡の学芸会である。
(玉袋筋太郎/私の胸を熱くした 伝説のレスラー 2002年11月6日付 東京スポーツ)

プロレスファンは心が伝わらない見かけた倒しのヒーローに支持も声援など送らないのだ。
リングで生き様を見せつける者にファンは喝采を浴びせるのだ。

プロレスデビュー以後、格下相手に連戦連勝するも、当たり前の話かもしれないが試合運びは一向によくならない。

「相手の技を受けない」
「試合運びがきこちない」
「練習嫌いの問題児」

レスラー仲間からも北尾の評判は芳しいものではなかった。
練習に参加しなかったり、試合をドタキャンしたりとしていくうちにその評判はさらに悪化していった。
デンジャラス新人類と呼ばれた男は、本当に危険な時限爆弾だった。

「自分の試合が早く終わるので、客はそれに不満に思ってブーイングが起きる」と北尾を嘯いたというが、それは北尾光司そのものへの不満がブーイングへとつながり、いつしかヒールの枠でも収まらないほどの嫌われ者になっていった。

北尾の評価が決定的になったのは1990年6月のビッグバン・ベイダー戦。
最強外国人ベイダーの前に北尾のパフォーマンスは通用しなかった。
情け容赦なく北尾を攻めつけ、勝利を収めた。

ビッグバン・ベイダー
「思った以上にガッツはないな。あれだけパンチを入れてやったら、普通ならコノヤローと思って、すごい反撃を仕掛けてくるもんさ。やられたらやり返す。それがプロレスだよ。恨みっこなしだぜ。それから、俺がヤツを場外に放り出したときのことさ。あいつ、ロープとロープの間から一直線に床に落ちていったよ。もっとディフェンスを覚えなくちゃいけないぜ。技を仕掛けるときも、ディフェンスにまわるときも、常に次の動きを頭に入れておかなければいけない。デカい口を叩くなら、リングの中でもっとガンガンやってこい!」

マサ斎藤
「北尾はどうして道場に来ないのか? 他の仕事が忙しくて、プロレスの練習している暇がないとか言っているそうだけど、そんな理屈は通用しねぇぞ。他人の話に聞く耳を持たなくなったらおしまいよ。北尾もそれなりのプロレス観を持ってるつもりらしいけど、俺から見れば子供の理屈。能書きはいいから、もっとトレーニングをやってくれ。イイ受け身が取れるようになってくれ」

クラッシャー・バンバン・ビガロ
「北尾はこのビジネスの救世主じゃねぇか? ファンのリアクションを見ればすぐにわかるよ。あいつは本物の嫌われ者さ。みんなヤツがやられるのを観に来てるんだ。俺達のギャラを払ってくれるのはファンなんだからな。あれだけのヒールはなかなかいないぜ。でも、ヤツは根本的にビジネスを理解してねぇみたいだな。レスラーはレスリングをやらなくちゃいけねぇんだ。スターがリングに上がるんじゃなくて、リングに上がっているのがスターなんだ。ホーガンの真似をしても、ホーガンにはなれねぇんだ。誰も認めやしねぇよ、そんなこと。認めてもらえないということは、もうそれだけで失格ってことなんだ」

プロレスライターの斎藤文彦氏は北尾をこう評している。

「北尾はふでふでしい発言がマスコミに大きく取り上げられ、リング上ではまるでプロレスになっていないぎこちない動きを見せているうちに、嫌われ者の大ヒールとなってしまった。元横綱なのだから強いことは間違いない。本気になってプロレスに取り組んだらすごいことになる。ところが北尾の体からはなんとなくポーズだけでプロレスと付き合っているインチキ臭さが漂っている。本音の部分をさらけ出さないと、日本のファンは絶対についてこない。かっこよくやろうとすればするほどファンは拒絶反応を示す。本音の部分が大切なのだ」

1990年7月、新日本の現場監督・長州力と衝突する。
長州は北尾にこう言った。

「プロレスラーは常に多少なりとも故障を抱えて試合に臨んでいる。フロントがどう言おうと、練習をしない奴は試合で使わない」

北尾は長州に反発した。

「何か文句があるなら勝負(喧嘩)して、負けたら言うことを聞く。怖いのか?この朝鮮人野郎!」

長州は在日韓国人二世のため北尾はこのような発言したのだが、当時長州はこの事実を公表していなかった。北尾の発言は明らかに度が過ぎていた。
北尾はその場で新日本との契約が解除された。

その後、北尾は大相撲の先輩である天龍源一郎がいるSWSに入団する。
だが、このリングでも北尾は問題を起こす。
あの「八百長野郎事件」である。

元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク、元幕下・琴天山)との試合中にレフェリーを蹴り、反則負けを宣せられた挙句、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの(八百長試合)見て面白いのか!」と叫んだ。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼する北尾の姿はその会場のみならずプロレス業界全体を騒然とさせたが、北尾本人はこの直後に満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう?」と話している。その後は北尾の発言のみが一人歩きしてしまい、「北尾事件」として一般週刊誌もスキャンダラスに報じるようになり、天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と当時就いていた3つの役職(取締役・「レボリューション」道場主・理事会長)に関し田中八郎社長に辞表を提出し(田中は慰留)、ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦はオレがやる」と発言するなど、波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾を解雇する決断を下した。この決定にはさすがに「仕方ありません」と受け入れざるを得なかった。
(wikipedia/北尾光司)

北尾は自らの過ちによって、リングを追われた。
素質は一級品、怪物級。しかし、性格が幼いが故に彼は問題児となった。
それは角界でもプロレス界でも同様だった。
関係者がこのように才能が開花してほしいという期待とは違う方向に彼はいつも悪い意味で"暴発"していた。

1992年、武道家に転向した北尾はUWFインターナショナルに"外敵"として参戦することになった。同年5月にナンバー2の山崎一夫を強さを見せつけて一蹴した。
この時に披露した蹴りと裏投げはインパクト抜群だった。
また新日本やSWS時代とは違い、「礼にはじめり礼に終わる」という姿勢を貫き、その強さから最強説が流れた。

1992年10月23日に北尾はUインターのエース髙田延彦と「格闘技世界一決定戦」で対戦する。
実はこの試合は当初は時間無制限一本勝負で決まっていたが、試合前日になり北尾からUインターに電話がかかってきた。

「明日は3分5ラウンド制で、勝負がつかなかったら引き分けにしてほしい。じゃなかったら試合できない。寝技は困るけど、打撃はコレ(シュート)でいいよ」

慌てた関係者は対戦相手の髙田に了解を取り、3分5ラウンドに変更になった。

その日の夜、内心怒っていた髙田は当時、新人レスラーの髙山善廣(196cm)を道場に呼び、ハイキックの練習に没頭した。
髙田は関係者にこう語った。

「俺はアイツ(北尾)にプロレスラーの怖さを教えてやる」

そして、試合は3ラウンド46秒、髙田の見事で強烈なハイキックが決まり、北尾の巨体はドスンと沈んだ。
完璧なまでの髙田のKO勝ち。
一部で最強とも言われていた北尾を破り、髙田は「平成の格闘王」の称号を手に入れることになった。
北尾最強説は一気に消滅した。
自らが撒いたあらゆる火種が、髙田戦で一気に自分に真っ赤な炎となって返ってきたのだった。まさしく自業自得である。

1994年、北尾は格闘塾「北尾道場」(後の武輝道場)を旗揚げし、天龍率いるWARを主戦場にしていく。
この武輝道場は後にドラゴンゲートの社長となる岡村隆志や"ドラゴンゲートの蹴撃王"望月成晃、"殺戮用心棒"TARUといったレスラーを輩出している。
またPRIDEやUFCといった初期の総合格闘技の世界にも参戦した。
新日本やSWSに比べるとプロレスはこなせるようになった。

豪快な北尾ドリラー(シットダウン式ツームストン・パイルドライバー)やラリアット、セントーンやSTFなどを使うようにはなった。

ただ最後まで受け身や試合運びはどこかぎこちなかった…。

ヒールではなくなり、少しずつ人気も得たのだが…。

1998年5月に全日本プロレス・東京ドーム大会で田上明とのシングルマッチが決定していた北尾はなんとカード発表直後にキャンセルし、その後、現役を引退した。10月には引退セレモニーを行った。

「やりたいことをやり終えた」

35歳の若さでリングを去った怪物。
実に八年の短きレスラー人生だった。
どこまでも彼は我々の想像をいい意味でも悪い意味でも裏切り続けた。

2003年、北尾は古巣・立浪部屋のアドバイザーに就任した。
若手力士への細かいアドバイスや新弟子のスカウトにも携わったという。

北尾は後年、自らの人生をこう振り返っている。

「私は、自分のまわりにいた若い子たちに、少しでも楽をさせてあげたいという気持ちがありましたが、師匠は、昔風に、若い者にはつらい思いをさせないと強くなれないという考えだったので、そこに心のズレがあったように思います。修行途中で、精神的な部分がまだ未熟な人間に贅沢をさせたり、わがままを聞いたりすると、こういうことになってしまう。相手をつぶしてしまうことだったんだということを、当時の自分は把握できていなかった。私自身の心の未熟さだった思っています。現在は表立った活動は特にしていません。このまま時が経って、風化されればいいかなぁという気持ちだけですね」

表舞台から消えた怪物。
角界でもプロレス界でも新人類と呼ばれた大砲。
北尾の人生を振り返ってみると、やはり業界独特のしきたりや風習といったルールに悪い意味で収まることができず、馴染めなかったという印象が強い。

その一方で、もしこの"ナチュラル・ヒール"という独特のキャラクターがプロレス界においていい意味で"暴発"していれば…。
恵まれた巨体と身体能力が開花し、プロレスに順応していれば…。
現役時代に少しでも他人の話を聞き入れる器量があれば…。

この世には存在しない「たら・れば」。
だが、これらの「たら・れば」が噛み合っていれば、我々は未だ見たことがないヒール・モンスター誕生を目撃していたかもしれない。

北尾光司という男の人生は幻想と未完という霧に覆われている…。


【2019年3月29日更新】

 大相撲の第60代横綱双羽黒で、プロレス、格闘界でも活躍した北尾光司さんが死去していたことが、分かった。55歳だった。

 1963年8月12日生まれ。三重・津市出身で、79年3月に立浪部屋の力士として初土俵を踏んだ。同期には後の横綱北勝海(現・八角親方=日本相撲協会理事長)、大関小錦(KONISHIKI)らがおり「花のサンパチ組」と呼ばれ、活躍した。

 幕内優勝経験がないまま、86年に22歳の若さで横綱に昇進。しこ名を北尾から双羽黒に改名した。スケールの大きな相撲で大横綱千代の富士の後継者と期待されたが、翌年12月に突然の廃業。部屋のおかみさんに暴力をふるったとも言われたが、その後、本人が否定していた。

 廃業後は「スポーツ冒険家」としてタレント活動を行い、90年2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会でプロレスデビュー。クラッシャー・バンバン・ビガロと対戦し、ド派手なコスチュームが話題になった。

 その後、SWSに参加し、91年3月には天龍源一郎とのタッグで、WWF(現WWE)の祭典「レッスルマニア7」にも出場した。SWS離脱後は、フリーの格闘家に転向。92年10月のUWFインターでは高田延彦にハイキックでKOされた試合が伝説になった。

 また格闘技塾「北尾道場(後の武輝道場)」を旗揚げ。ドラゴンゲート前社長の岡村隆志氏や望月成晃が弟子にいる。

 PRIDEやUFCマットにも出場したが、98年に引退を表明し、同年10月のPRIDEマットで引退セレモニーが行われた。2003年には古巣・立浪部屋のアドバイザーに就任していた。

【元横綱、格闘家の北尾光司さん 55歳で死去/東京スポーツ 2019年3月29日】


北尾光司さんのご冥福をお祈りします。