偶然と必然が産んだ世界が恐れる悪魔忍者のヒール革命/グレート・ムタ【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第110回 偶然と必然が産んだ世界が恐れる悪魔忍者のヒール革命/グレート・ムタ
シリーズ 日本の悪役③









プロレスに必要不可欠なポジションであるヒールの歴史は古い。

プロレスにおけるヒール(Heel)とは、プロレス興行のギミック上、悪役として振舞うプロレスラーのこと。悪役、悪玉、悪党派などとも呼ばれる。通常、ヒールは反則を多用したラフファイトを展開する。金的への攻撃、凶器の使用といった反則はもちろん、レフェリーへの暴行、挑発行為、観客席での場外乱闘、果ては他者の試合への乱入なども行う。ヒールの対義語としてはベビーフェイス(善玉、正統派)が存在する。1920年代、アメリカの都市部で隆盛したレスリング・ショーにおいて「正義」対「悪」という、勧善懲悪的アングルが興行を盛り上げる上で必要と考えられたため、「ベビーフェイス」と同時に「ヒール」が発祥した。日本でも力道山時代には、外国人=ヒールという図式のもと、アメリカ人の悪役を日本人である力道山が倒すのが定番の流れだった。戦勝国であるアメリカの大柄なレスラーを、敗戦で意気消沈した日本の小柄な力道山が倒すという展開に当時の日本のファンは熱狂した。しかし1970年代に入ると、日本のプロレス界ではアメリカ人のドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの兄弟がベビーフェイスとして人気を得た。スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディなどは本来はヒール的な役回りでありながら、その強さで日本人ベビーフェイス以上の人気を得た。逆に上田馬之助や極悪同盟は日本人でありながら日本国内でもヒールであった。アメリカでも、1980年代末の冷戦終結後は、ロシア人ギミックのニキタ・コロフがベビーフェイスとして活躍している。1983年にロード・ウォリアーズがNWA世界タッグチーム王座を獲得した以降は単純な勧善懲悪の時代も終わり、1990年代にはストーン・コールド・スティーブ・オースチンやジ・アンダーテイカー、またnWoやD-ジェネレーションXに代表されるような、かっこいいヒール(=アンチヒーロー)が人気を博した。
(wikipedia/ヒール)

そして、ヒールというポジションはある一人のプロレスラーによって劇的に変化するようになる。

ザ・グレート・ムタ(愚零闘武多)

プロレスリング・マスター武藤敬司の化身。
日本とアメリカを始め、世界中のプロレス界を席巻した悪魔忍者。
常に悪の華を咲かせることで、彼は人気者となった。
グレート・ムタこそ、プロレス史において時代を変えた男だった。
今回は、極悪忍者、平成の悪魔、東洋の神秘、悪の化身、魔界の王と呼ばれる天才ヒール物語を取り上げる。

グレート・ムタが誕生したのは日本ではなくアメリカだ。
どういう過程でグレート・ムタは誕生したのだろうか?

当時、新日本プロレス期待の新人レスラーだった武藤敬司はデビューして一年の1985年11月にアメリカで武者修行に旅立った。
アメリカ・フロリダ州タンパを本拠地にして、ホワイト・ニンジャ、ザ・ニンジャというリングネームで活動することになる。
最初はベビーフェースだったが、途中からヒールに転向し、先輩レスラーのケンドー・ナガサキと組んで暴れまわった。
だが、アメリカでも武藤は残酷なファイトはあまりせずに、日本で培った技術で勝負した。

「ベビーフェースと対戦した時点で、何をやってもヒールなんだから。運動神経や技術でベビーフェースを上回った時点で、それはそれで嫌味っぽくなるんだよ」

武藤にとってアメリカン・プロレスとの出会いは衝撃だった。

「リングの中の技術を100%を身につけたとしても、アメリカン・プロレスというカテゴリーの中では多分40%にしか過ぎない。残りの60%はもっと違ったものなんだよね。やっぱりエンターテイメントだから、ルックスであり、喋りであり、身体のデカさであったり、筋肉だったり…人に好かれるか、好かれてないかも重要視されているよ。プロレスは点ではなく線として見せるわけだし、そこには飽きさせないように工夫しなきゃいけないだろうし、当然ストーリーも重要になるしね」

フロリダ・ヘビー級王座、USジュニアヘビー級王座を獲得し、1986年10月に武藤は凱旋帰国することになる。
スペース・ローン・ウルフを名乗り、越中詩郎とのコンビでIWGPタッグ王座を獲得するもブレイクできなかった。

1988年1月に武藤は再び海外へ。
遠征先はプエルトリコWWC。
ムタのベースとなったスーパー・ブラック・ニンジャとなった。

「俺は空手5段、柔道4段だ」という台詞とともに、空手の型を披露するプロモーションビデオが作成されるほど売り出された。
WWC TV王座、プエルトリコヘビー級王座を獲得すると、アメリカ・テキサス州ダラスにあるWCCWに主戦場を変える。

この地は鉄の爪フリック・フォン・エリックが主催する団体。
スーパー・ブラック・ニンジャとして闘うことになった武藤は「東京でエリックのアイアンクローでKOされた日本人レスラーの息子で、復讐するために適すテキサスまでやって来た」という設定だった。
時には1 VS 4のハンディ戦でも勝利した。

そんな武藤に世界最高峰のNWAを買収したテレビ王テッド・ターナーが立ち上げた新団体WCWからスカウトの声がかかった。
当時のWCWはWWE(当時WWF)と並びアメリカ二大勢力の一つ。

「1988年の年末にWCWにスカウトされたんですよ。ジョージ・スコットというブッカーが俺のダラスのテレビ見てスカウトに来たんです」

1989年にWCWと契約した武藤は、"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキの生みの親であるゲーリー・ハートがマネージャーにつき、カブキの息子として売り出されることになった。
リングネームはザ・グレート・ムトー。
だが、アメリカ人がローマ字のMUTOを誤って、MUTAと発音してしまったことで、グレート・ムタという名前で定着した。
グレート・ムタは偶然と間違いによって誕生したリングネームだった。

ゲーリー・ハートとヒロ・マツダの紹介によってテレビマッチに登場したムタは忍者頭巾と「甲賀流」(後に「伊賀流」)と刺繍された黒い道着に身にまとった日本人ヒールとしてセンセーショナルに登場した。
WCW入りすると、ジョバー相手に次々と秒殺していくムタ。
切れ味抜群のローリング・ソバット、188cm 110kgの巨体で舞うプランチャとミサイルキック、ムタロックとアメリカで呼ばれた鎌固め、アキレス腱固めといったサブミッション、綺麗なブリッジを描くジャーマン・スープレックス・ホールド、そしてフィニッシュには武藤時代から使っている月面爆弾ムーンサルト・プレス。
「忍」と「炎」が反転した漢字で描かれたペイントとカブキばりの毒霧と神秘的な空手や忍法ポーズ。
それは毒々しくも華麗で異彩を放つ魅力にあふれていた。

「こんなプロレスラーは世界中探してもいない」

WCWでムタはヒールの大物としてスターになっていく。
リック・フレアー、スティング、レックス・ルガーが名を連ねるWCWトップクラスの一人にまでにまで上り詰めた。
日本人レスラーでアメリカのメジャー団体でここまでの地位を築いた男は、未だにムタしかいない。
(ジャイアント馬場はアメリカ遠征時代にNWA、WWE、WWAの世界王座に挑戦し日本人ヒールとして活躍したが、馬場はアメリカでは特定の団体に所属はせずに転戦をしていた)

特にWCWの象徴スティング、アメリカのミスタープロレスとも言われるフレアーとの対戦でムタは大ブレイクしていく。
"テキサスの荒馬"テリー・ファンク、用心棒ドラゴン・マスター(ケンドー・ナガサキ)、バズ・ソイヤーらとともに"J-TEX"というユニットを結成し、暴れまくった。
PPVイベントではメインイベントも務めた。
1989年9月にはスティングを破り、NWA世界TV王座を奪取した。
ヒールという立場でありながらいつしか人気者になっていった。
単純な勧善懲悪が受けなくなりつつあった現状にムタがブレイクしたのはある意味、必然だったのかもしれない。

「年俸は、今考えたって凄くいい契約だった。いくら円安といっても1ドル=160円ぐらいだから、ウン千万円にはなるよ。ああいう技術を持つレスラーがいなかったから、俺はオーバーしたよ。ムタがやると首四の字さえもミステリアスな技になるというか。俺がやることは、すべてがミステリアスだよ。そこで他のアメリカンレスラーとは違うという異質さを出していたと思うよ」

「俺がWCWに入った時にはね、スティングはすでにスターだったんですよ。こっちはグレート・ムタをこれからつくっていかなくちゃいけない時だったんで、彼と俺の間には大きな開きってもんがありました。スティングと俺は、お互いに尊敬し合っているようなところがあるんですよね」

「ムタは最初からトップ扱いで、半年間バーッと売り出した後、スティングとの抗争に入ったんだよね。まだ新日本とWCWにパイプがなかった時代だし、裸一貫で俺自身の力で這い上がったという自負、プライドは持ってますよ。それまで、いろんなプロレスラーを見てきて『なんでこいつがトップでやってんのかな。絶対、俺の方がすべての面で上回ってるな』っていう自信があった。ただ、リック・フレアーに関しては俺もNWA世界王座に何度も何度もチャレンジしたけど『ああ、なるほど。これが世界最高峰の座に何度も就いた実力っていうものか』っていうのを感じました。実際にやってみたら、猪木さんと同じで柳みたいに相手の力を受け流してしまう巧さっていうのを持ってるんですよ。フレアーとの試合は楽しかったですね。力と力のプロレスではなく、チェスみたいな駆け引きのプロレスなんですよ。ああきたらこういくっていう組み立てがやってて楽しかったね」

「ゲーリー・ハートは俺といることで自分自身の首を守らなくちゃいけないから、いろいろな発想でグレート・ムタをいい形にしていってくれたよね。もちろんプロテクトしてくれたし。ベビーフェースとヒールを超越した存在になることで、俺は上がったんですよ。WCWはテレビ局がバックにある大手だから、たぶんムタは新しいスタイルのプロレスを世間に伝えたよね。だから、当時のファンだった今のレスラー達がムタに感銘を受けたんですよ」

だが、ムタは1990年2月を最後にWCWを離脱する。

「ゲーリー・ハートがクビになったのは一つの原因だった。それまでWCWに不満があったりしても、ゲーリーが俺のことを守ってくれたんです。そのゲーリーがクビになった時に『自分の首は自分で守れよ』って言い残していったんだけど、マッチメークとか、いろんな面で不満が出てきた時、『じゃあやめてやる』っていうことになった。WCWと契約した時に、『日本での仕事に関しては別にしてくれ』って一文を契約書に入れてもらったので、日本に戻ること自体は問題はなかった。俺自身の気持ちとしては本当はWWEに行きたかったんですよ。向こうのジム・デュランとか、そういう偉そうな人達が甘い言葉をかけてたりしてたんでね。WCWを制して、さらにWWEを制覇するのが俺のなかのステータスっていうかね、そういう希望を強く持っていたんです」
だが、ムタはWWE入りすることはなかった。
日本で新日本プロレスとメガネスーパーがオーナーを務めるSWSとの争奪戦が繰り広げられ、武藤敬司は1990年3月に新日本プロレスに凱旋帰国する。

「日本でトップを取るためにグレート・ムタを捨てる」

武藤は日本でも天下取りに動き始めた。
現場監督の長州力は「ムタを日本でさせない」と宣言していた。

だが、日本のファンはムタを欲した。
映像ではなく、誌面でしか見たことがないムタをこの目で見たかったのだ。

1990年9月7日大阪大会でムタはサムライ・シロー(越中詩郎)戦で日本初見参した。
だが、武藤自身は日本でムタをやりたくなかったという。
試合は日本のファンが想像した姿とは違っていた。

「越中さんとの初めての試合はホントに違和感があった。アメリカでは武藤敬司をそのままやってもムタは通用するけど、その調子で日本で同じことをやってからファンも違和感があったんだろうね」

ファンからはこんな野次が…。

「これじゃ武藤と変わらないじゃないか」

武藤敬司が無理にムタを演じていた姿に大阪のファンの反応は乏しかった。
そんな中で迎えたのは1990年9月14日広島大会での馳浩戦だった。

「一回、ムタを日本でやってみて、反省点があったから馳戦ではかなり吹っ切れたっていうかね」

試合途中、馳の往復ビンタによってムタのペイントが剥げることでムタが逆上。
馳を血祭りに上げたムタは担架でレフェリーに暴行を働いて反則負け。
試合後、ムタは馳を担架に乗せてムーンサルト・プレスを放った。
そして、コーナーに上がり大見得を切った。
ファンはムタに大ブーイングを浴びせた。
その光景にムタは中指を立ててリングを下りていった。

対戦相手の馳浩は後にこう振り返っている。

「ムタの"勝っても負けても関係ない。試合なんか壊れたっていいんだ。俺のやりたいことをやるんだ"という部分を出し切れたんじゃないかなと。それを出せないまま終わったら、お客さんに失望だけが残っていただろうなと思うので、そうならなかったという評価を得たならば、狙い通りでよかったと思いますね。やっぱり彼なりに悩んでいましたから。武藤らしいムタが表現できて良かったと。いい作品になったと思います」

ここで重要なポイントなるのが武藤敬司の化身であるグレート・ムタにも二つの顔があるということだ。
アメリカでのムタは武藤敬司の試合とほどんど同じで、日本でのムタはアメリカよりも極悪非道なヒールとなったのだ。
1989年にアメリカで産まれたのがTHE GREAT MUTAで、1990年の馳戦で"日本版のムタ"愚零闘武多(コスチュームに刺繍されているムタの当て字)が誕生したのだ。

ムタは日本でもドル箱スターとなった。
東京ドームのビッグマッチでは武藤敬司は封印され、グレート・ムタが姿を現した。
リングの内外に存在するあらゆる凶器を駆使に悪の限りを尽くした。
アメリカで産まれたキャラクターだったため、インタビューでは英単語を使い、逆輸入プロレスラーという商品価値を高めていった。(当初はごくまれに日本語で話すことはあった。)
時には試合は凡戦になったりすることもあったが、それでもムタの商品価値は落ちることはなかった。
1992年8月に武藤よりも先にムタは長州力を破り、IWGPヘビー級王座を獲得し、1993年1月には蝶野正洋を破り、念願のNWA世界ヘビー級王座を手にした。

「WCWでのムタよりも、日本のムタの方が極悪なんだよね。やっぱり日本でムタをやるのは憂鬱だったね。やりたくないのは当然だった。だって日本には地の武藤敬司が存在しているんだから。ただ、それをこなしきれるかどうかで俺のプロレスラーとしての器量が問われただろうし」

「(日本での)グレート・ムタ自体、模索しながら出来上がったものだからね。常に完成されているわけじゃないし、常に何を起こすのかがわからないっていうのがムタの魅力だと思うしね。途中からムタが武藤を抜いちゃって、ファンもムタを認めてくれたっていうかね。東京ドームにムタが出るってことは、武藤より商品価値があるから出る訳で、その時点で武藤はムタに負けているんですよ」

ムタは日本でも活動と並行しながら、アメリカWCWでも短期間サーキットに参加していた。
アメリカではムタはヒールではなくベビーフェースとして扱われていた。
1992年のWCW年末最大PPVイベント「スターケード」のメインイベントに勝利し、イベントを締めたのはアメリカ人レスラーではなく、ムタだった。
セカンドロープで大見得を切ったムタに、会場には大きな花火が打ちあがった。
その音に反応しながら、ムタはリング上で空手ポーズを決めた。
さすが千両役者である。

ムタは日本でキャリアを重ねるに連れてアジャストするようになり、心に残る名勝負を残すようになった。
二度にわたる馳浩戦、アントニオ猪木戦、天龍源一郎戦、白使(新崎人生)戦、小川直也戦…。

特に1994年のアントニオ猪木戦は二人の独特の世界観がぶつかる"世界闘争"だった。
あの"鬼より怖い"アントニオ猪木に対して、ムタはプロレスセンスで互角に渡り合い、試合には敗れたものの、猪木を喰った試合を敢行した。

「猪木さんってすべてがキャラクターなんですよ。キャラクターVSキャラクターという部分の闘いで、俺自身はやってて面白かった。試合は負けたけど、キャラクターの勝負では俺、負けてなかったと思う」

「ムタで気に入っているのは猪木戦だよ。あの試合は猪木さんが緑(毒霧によって)になれば、こっちの勝ちだと思ってたから。どんなに吠えようと、どんな結果でも不細工に緑になっていれば、ムタ色になるわけだから。一説によると猪木さんが試合後にリング上でメチャクチャ怒っていたんだって?」

武藤にとって猪木はどう転んでも師匠である。
武藤VS猪木では師弟対決という色が強くなり、例え試合に勝ったとしても猪木を越えることなど難しい。
だが、武藤はムタに変身することで、絶対的カリスマ猪木に立ち向かい、世界闘争に持ち込んで試合を喰うことができ、存在感で猪木を上回ることが出来たのではないだろうか。
ムタと何度も対戦した天龍源一郎はこう語る。

「本音を探られたくないから、武藤にはムタが必要なんだと思うよ」

間接的な猪木越えを果たすために必然とムタを利用した武藤のスマートさを私は感じる。

さらにはこんなことがあった。
あるタッグマッチに出場した武藤は相手選手に挑発され控室に戻り、試合終盤にムタに変身する早着替えを披露したこともあった。
これも誰も見たことがない、まるで特撮作品での変身シーンのようだった。
またムタがnWoジャパン入りしていた頃に試合中に蝶野と仲間割れを起こすと、リングに降りると、試合終盤に素顔の武藤が現れると蝶野に攻撃すると見せかけて対戦相手に攻撃し、なんと武藤としてnWoジャパン入りをしたこともあった。
武藤というレスラーは存在していないアメリカではまず見れない光景だった。

2000年、武藤はWCWと再び契約し、アメリカへと渡った。

「新日本の思想、やり方が俺と合わなくなったというか、当時の新日本は格闘技ブームに感化されていたというか。だから情熱が薄れていた時期だったよ。ちょうどWCWがビジネス的にWWEに追いつけないという状況でね。"WWEと同じようなプロレスでは太刀打ちできないから、クラシックなプロレスに戻したい"という訳で、俺に白羽の矢が立ったわけ。俺を呼んだのはエリック・ビショフなんですよ。でも、向こうに渡るとエリックがいなかった。だから、困っちゃってさ。当時、団体を仕切っていたビンス・ルッソーは人種差別野郎でさ。俺だけじゃなくて、メキシカンや黒人に対してもそうだったし、"カラードは嫌いだ"って公言していたんだから」

それでも現場サイドの強い後押しもあり、ムタはバンピーロと組んでWCW世界タッグ王座に獲得することができた。
2000年末に日本に帰国した武藤はスキンヘッドに変身し、2001年には新日本プロレスに凱旋すると、団体の枠を越えた活躍を果たし、三度目のプロレス大賞MVPに輝いた。
そして、武藤の大活躍とビジュアル変化によってムタは封印された。

「もうムタは見れないのか…」

しかし、2002年全日本プロレスに移籍した武藤はムタをリニューアルさせて復活させた。
それも毒蜘蛛をあしらった不気味なマスクとペイントというおどろしい姿になって…。

「(フェースマスクについて)あれは俺のアイデアですよ。やっぱり髪の毛がないからさ、いろいろ頭を捻って。デザインも俺が考えたよ。ゲーリー・ハートの"プロが一般人が手に取れるものを身に着けちゃいけない"っていうのがムタの原点だから。全日本時代は海外にも出たから、メキシコに行ったらマヤ文明をモチーフにした世界遺産ムタもやったし、イギリス遠征の後は、騎士をモチーフにしたナイト・ムタ、台湾遠征後はチャイニーズ・ムタとかね。インディアン・ムタもあったよ。プエルトリコに行った時は、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』が流行っていたからパイレーツ・ムタでさ。とりあえず、(海外の)どこにいっても感じるのはレスラーにリスペクトされているよね。控室に行ったら、みんな丁重に接してくれるよ」

「パントマイムなんだよ。ムタは世界のどこでも通用するというか…特に髪の毛がなくなってからのムタはビジュアルだけで勝負できるんだよね、不気味さでね。長い月日をかけて、ムタは客を説得してきたんだよ。動かなくても見る側が何かを想像してくれるというのは、そこに今まで蓄積されたものがあるからだよ。だから、動かなくても"ムタは何を仕掛けるのだろう?"って思うんだ、きっと」

いつしかムタは世界のプロレス界でリビング・レジェンドとして君臨している。
世界が認め、世界が恐れ、世界が驚愕した。
全日本では二度、三冠ヘビー級王座を獲得し、王道マットでもムタはムタであり続けた。
新団体WRESTLE-1が誕生してからもムタはビッグマッチに度々、参戦している。

世界には、ムタに憧れてプロレスラーになった者は数知れない。
WCWでかつてタッグを組んでいたバンピーロはムタファンだった。
武藤全日本時代に常連外国人として参戦したディーロ・ブラウンはムタの完コピができるほどのマニア。

あのハリウッドでもスーパースターとなったザ・ロック(ドゥエイン・ジョンソン)もムタの大ファンで、得意技のピープルズ・エルボーはムタ(武藤)のフラッシング・エルボーのオマージュなのだ。

またムタをコピーしたレスラーが日本だけでなく、世界マット界で産声を上げた。

何故、グレート・ムタはヒールを越えた存在になったのだろうか。
それはムタが新日本に姿を現した初期に武藤が残したある言葉にヒントがあるような気がする。

「ヒールがヒーローになっていいじゃないですか!」

偶然と必然によって紡がれたレスラー人生を送る悪魔忍者グレート・ムタはヒールの概念を変え、プロレスの新たな魅力を提示した革新的キャラクターだ。
善玉のやられ役であるはずの悪役が、ダーク・ヒーローになってプロレス界に隆盛をもたらした。

本来は影であるべき忍者自身が、光になったのだ。

グレート・ムタが成し遂げたヒール革命とはその妖しげなキャラクターの裏には、闇によって見えない情念があったのではないだろうか。

「武藤敬司が頑張ると、必然とムタも出てくるわけだから。こんなレスラーは未だかつていないよね。二つのキャラクターを両立させたレスラーは。アメリカで生まれて25年以上にかけて構築して、いまだに進化しているわけだから。これからも武藤敬司とグレート・ムタは、究極のライバルとして競い合っていきますよ」

毒々しくも、まるで太陽のように輝き続けるグレート・ムタの地獄絵巻に終わりはない。