フリースタイル・シンドローム ワイルドカードと魔剣の旅/ケニー・オメガ【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第117回 フリースタイル・シンドローム~ワイルドカードと魔剣の旅~/ケニー・オメガ




DDTプロレス社長・高木三四郎は"彼"の売り込みに全く気が付かなかった。
ホームページに幾度も送られる"彼"からのメール。

「DDTに参戦したい」
「飯伏幸太と対戦したい」

だが英語が理解できない高木は"彼"からのメールを読まないでスルーしていた。
それでもDDTに参戦したい"彼"は別の手段でDDT参戦を訴える手段に出る。
動画サイトyoutubeで自身の試合を投稿したのだ。
しかも、普通の試合ではなく家や崖、湖などを舞台にした路上プロレスである。
183cm 92kgの肉体はエニウェアという舞台で躍動していた。
普段は学校の先生をしているというマイク・エンジェルスを相手に"彼"はどこまでも過激でどこからコミカルでアクロバティックなプロレスを展開した。その動画は話題となった。

するとネットに敏感な高木の目に留まった。
こうして2008年8月に"カナダの路上王"ケニー・オメガはDDTに初来日を果たした。
"日本の路上王"と呼ばれていた飯伏幸太を闘うために…。
これはケニーにとっては人生を変える大きな一歩となった。
今回は路上プロレスの王者からメジャー王者にまで成り上がった男の物語である。

ケニー・オメガは1983年10月16日カナダ・マニトバ州に生まれた。
子供の頃から日本のアニメ、漫画、ゲームに熱中していた。
試合で使用するケニーのムーブはこのサブカルチャーからヒントを得ている。
波動拳はゲーム「ストリートファイターⅡ」のケンの必殺技。
必殺技の片翼の天使はゲーム「ファイナルファンタジー」の曲名から命名している。

カナダの国技といえばアイスホッケー。
ケニーもアイスホッケーを経験したが、目指したのはプロレスラーだった。
ただ、何のバックボーンがない状態でプロレスラーになるのはちょっと違う。
日本のプロレスマニアだったケニーはビデオでUWFやパンクラスを見るとプロレスラーは強くなければいけないと感じた。
(ケニーの日本のプロレスマニアぶりはすさまじく、メジャー団体から田中安全プロレスといったどインディーに至るまで多岐にわたっている)

そこで柔術を始めた。
才能に目覚めたケニーは柔術のカナダ王者になった。
当時は総合格闘技ブームが起き始めていた。

「でも俺はやっぱりプロレスラーとして成功したい」

ケニーは柔術のトレーニングを並行しながら2000年2月に地元のローカル団体でデビューを果たす。ケニーにはコーチといえる師匠はいなかった。だから独学で学ぶ、試行錯誤していった。
元々はハワイのサーファーというギミックだったが、その後ゲームやアニメ好きのオタクへとイメージチェンジしていった。

地元はプロレスがさかんではなかった。
だから成功を求めてアメリカへと主戦場を移した。
ROH、PWG、JAPWといったアメリカのインディー団体で経験を積んだ。
そこで先輩レスラーで対戦することでアドバイスを求めスキルを研鑽していった。

2005年に行われた日本のプロレスリング・ノアとアメリカWLWが主催したレスリングキャンプに参加したケニー。そこでWWE副社長のジョン・ローリナイティスの目に留まった。
ケニーは世界最高峰のプロレス団体WWEと契約し、二軍団体DSWでトレーニングを積んだ。
だが…。

「レスラーとしての環境としては最高だが、ロボットに作り替えられるようだった」

ケニーは2006年9月にWWEを退団した。
WWE退団後はプロレスから離れ、総合格闘技に転向した。
迷走し始めたケニーのレスリングロードを修正したのは当時、アメリカ・インディー界の大物でTNAのスターとして活躍していた"天才"AJスタイルズとの試合だった。

「AJと試合をするというのは本当に夢みたいなことだったんだ。AJと試合をしたことで、僕にとってレスリングはこんなにも重要なことだったんだ!って気がついたんだ」

プロレスに復帰したケニーは2008年3月にロウキーを破り、JAPWヘビー級王者となった。
アクティブになったケニーの視界にはあの男への興味が広がっていた。

「今一番好きな日本人プロレスラーは…(しばし考える)コータ・イブシ(飯伏幸太)!彼はインディー団体所属だよね?まだ若くて、すごく練習熱心で、格好も良くて、蹴りも鋭くて、とにかくグレートレスラーだと思う。小さな団体に所属しながらも、努力を続けて行って、その結果こうやってブレイクしてライジングスターになったでしょ?その環境が僕と似ているから、僕もコータを目標にして頑張ってるんだ。僕もコータになりたいよ!!是非彼とは試合をしてみたいなぁ」

飯伏幸太というプロレスラーはケニーにとって人種を言語を越えた部分で共鳴できる合わせ鏡だったのかもしれない。
そして日本のプロレスに触れたいという欲望も広がっていった。

「僕がプロレスを始めた時に比べて、プロレスのスタイルはかなり変わったと思うんだ。今はもっとストーリー中心になっていて、ファイティングスピリットを感じさせるものではないでしょ?でも日本のプロレスは違う。もっと深いものなんだ。僕はそのスタイルをウィニペグに広めようとしたんだけど、誰も理解を示してくれなかった。でもここではそのスタイルが好まれる。例えばロウ・キーなんてジャパニーズスタイルだし、デイビー・リチャーズもジャパニーズスタイル。カナダではこのスタイルは好まれないんだ。でも僕はできる限りこのスタイルでやっていこうと考えてるよ。ファンが応援してくれる限りね」

2008年8月6日新木場1stRINGで行われたDDTのビアガーデン興業。
このビアガーデン興業は一週間、新木場で開催される名物イベントで初来日を果たしたケニーは標的の飯伏とシングルで対戦した。
この試合は61分3本勝負でリング上で路上で一本ずつ獲った方が勝ちという変則ルール。
路上でもリング上で二人はプロレスで会話をした。
イスで山盛りになった路上でケニーはみちのくドライバーⅡを放ち、飯伏の記憶はぶっ飛んだ。
一本目を取ったのはケニー。
しかし、飯伏はケニーの想像を超える男。
何の躊躇もなくイスで山盛りになった路上で急角度のバックドロップを放つ。

常軌を逸した飯伏はテーブルにケニーを寝かせると自動販売機の上に登ってからのフェニックス・スプラッシュでカウント3を奪い、二本目は飯伏が取った。

三本目はリング上で決着させなければいけない。
二人はハイレベルな攻防を展開した。
そして、この試合を制したのは飯伏。
雪崩式ドラゴン・スープレックスからのバズソーキック3連発でケニーを破った。
壮絶な試合は2008年の日本インディー大賞のベストバウトに選出されるほどだった。

試合後、ケニーはこう語った。

「僕は自分と同じハートを持った人間を探すために小さなインディー団体からキャリアをスタートさせたけど今日、ようやく同じハートを持った男と巡り合ったよ。飯伏と僕には、他の誰とも違うフィーリングがある。グレート・ワンであり、タフ・ワンであり、僕が見てきた中でベストテクニシャンだ。あんな男はアメリカにもカナダにもいない。日本のオーディエンスも、初めて日本に来た僕をこれほど熱狂的に受け入れてくれるとは想像もしていなかった。日本のレスリングファン、DDTのレスリングファンは素晴らしい」

同年8月10日のビアガーデン興業最終日のメインイベントに出場したケニーは、高木三四郎と対戦した。エニウェアルールで対戦したケニーは日本のファンの心をがっちりとつかんだ。
最後は高木に敗れるもDDTファンはケニーを単なる来日外国人ではなく、かけがえのない仲間として認めたのだ。

試合後、ケニーの実力を認めた高木はマイクで叫んだ。

「オメガ、お前最高のガイジンだよ!日本に来ていきなり飯伏みたいなわけわかんねえやつとやらされて、お前はDDTに来るためにやってきたガイジンだよ!」

ケニーは中澤マイケルに通訳を頼み、マイクで語り始めた。

「僕はWWEと契約するくらい恵まれたレスリング人生だし、次はROHに参戦する。そしてついにDDTに参戦することができた。ほかの誰が何を言おうと関係ない。DDTは最高の会社で最高の選手がいて、最高のファンがいる。みんなが求めてくれる限り、高木さんが僕を求めてくれる限り、僕は必ず帰ってきます。なぜなら、ここが僕の居場所だからです」

会場は大「オメガ」コールに包まれた。
最後のリング上で選手全員がビール片手で乾杯する場面にはケニーの姿があった。
DDTのケニー・オメガ誕生の瞬間である。

2009年1月にケニーは飯伏とゴールデン☆ラヴァーズを結成し、HARASHIMA&大鷲透を破りKODタッグ王者となった。フィニッシュとなったダブルのファイバーバード・スプラッシュというウルトラD難度の大技はゴールデン・シャワーと命名された。

飯伏と通訳と世話役を買って出た中澤マイケルとはプライベートでも仲良しだった。
一緒にゲーセンにもいったし、激辛ピザのロシアンルーレットという遊びをしたこともあった。
ケニーは飯伏を「愛する人」と公言している。

日本での活躍は世界中に轟くようになった。
今や動画サイトで世界中の誰でも検索すればあらゆるプロレスが視聴できる時代だ。
かつて一年間在籍してたWWEからは実に三度もオファーがあったが、ケニーは断っている。

「日本には人に敬意を払う文化があるからかもしれないけど、レスラーがファンから本当のリスペクトが得られる。それは米国ではないことです」

これがWWEからのオファーを断り続ける理由の一つだ。
またケニーのプロレスは束縛や規制を取っ払ったようないわばフリースタイルである。
実際にケニーはこのフリースタイルというプロレスの枠から少しはみ出した攻撃によって何人の対戦相手に大怪我を負わせ、長期欠場に追い込んだ"クラッシャー"だ。

「プロレスラーは相手を怪我をさせたら二流、故意に怪我をさせたら三流」と言われているが、ケニーの場合はこの批判を食らってもおかしくないくらいの危険なプロレスを信条としている。
プロレスとは受け身を失敗すれば、生命の危機を直面するジャンルだ。そのジャンルにおいて一歩、いや半歩間違うと相手は大怪我を負ってしまうような技がケニーには多いのだ。

このスタイルは危険度が高い技を制限しているWWEとは水と油なのだ。

2010年1月にケニーは新日本プロレスに参戦し、5月開幕の「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」に出場、10月には飯伏とのコンビでプリンス・デヴィット(フィン・ベイラー)&田口隆佑を破り、IWGPジュニアタッグ王者となった。
さらにこの試合で業界で高い評価を受け、プロレス大賞ベストバウトに選出された。
外国人選手が絡んだ試合が選出されたのは1992年のスタン・ハンセンVS川田利明以来の快挙だった。

日本を主戦場にしていくにつれたケニーは日本語を習得するようになった。

「自分には他の外国人とは違うことができるんだ。だったら日本語もしゃべれるようになってやろうって思いました」

ゲームの日本語勉強ソフトを購入して日本語を学んだケニーはいつの間にか、流暢な日本語を操るようになった。またメールでも漢字、カタカナ、ひらがなを駆使しているという。
ここまで日本に馴染もうとした外国人プロレスラーはなかなかいない。

「自分のキャリアで最も重要なことは、ダイナマイト・キッドのように、誰もが覚えているような選手になることなんですよ」

輝かしい記録より強烈な記憶に残るプロレスラーになる。
それがケニーのモチベーションだった。

だが、その選択は一方で何かを失うという覚悟を伴うものだった。

「僕は日本で過ごしている。その分、家族と離ればなれでいるわけで、今ここにいるだけで犠牲を払っていることになる。じつは父が病気になってしまって、容態が悪いことを日本で聞かなければならないこともあったり、飼っていたペットが死んでしまったこともあった」

2011年6月に飯伏が「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」優勝&IWGPジュニアヘビー級王座奪取するとケニーは2011年10月に全日本プロレスでKAIを破り、世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。全日本では中澤マイケルをセコンドにつけてヒール体験もしてみた。
ケニーのスキルはさらに上昇していった。

2012年8月18日、DDT日本武道館大会のメインを務めたのは飯伏とケニーのKOD無差別級タイトルマッチだった。
二人の対戦は実に4年ぶり。
4年で二人はインディー団体のスターから、プロレス界のスターへと成長を遂げた。
飯伏は新日本のジュニア王者となり、ケニーは全日本のジュニア王者となった。

明るくて陽気なケニーと圧倒的な華やかさと狂気という暗闇を同居させ、どこか陰気な飯伏。
実力もヤバい思考回路もすべての部分で拮抗している二人はお互いのことを知りすぎるからこそ、相手を倒すには最終的には"潰す"しかないと考えていた。

ケニーは飯伏の弱点である肩を徹底的に攻めた。
飯伏を再起不能に追いこむ覚悟は決めていた。
試合も全くの互角の攻防が続く中で飯伏はケニーに殺人級の大技を炸裂。
場外への雪崩式フランケンシュタイナーをくりだした際は会場から悲鳴が聞こえてきた。

実況の村田晴郎アナはこのように嘆いた。

「なぜ、ここまでやらないといけないのでしょうか…」

会場からさすがに「ケニー、もう立たないでくれ」という声まで飛び交う中でケニーは場外カウントが続く中でリングに戻った。
愛し合っている二人はリングに戻ると、思いっきり拳で殴り合った。
ケニーは必殺技・片翼の天使を見舞うも飯伏にキックアウトされた。飯伏はキックアウトするとコーナーに右ストレートを見舞った。その表情は凶気と狂気に満ちていた。

飯伏が終盤に見舞った雪崩式フェニックス・プレックスをケニーがキックアウトした際には「もうやめてあげてくれ」という声まで上がる。
最後は飯伏のフェニックス・スプラッシュで37分に及ぶ死闘に終止符を打った。

ダメージを負ったケニーは試合後、コメントはできなかった。

試合後、解説の鈴木健氏はこう語った。

「ものすごい試合でしたが、まずは二人が無事でよかったです…」

勝者の飯伏のコメントの第一声は「ケニーは大丈夫ですか? ケニーが心配です」だった。

「こういう激しい試合はいいかなって。エスカレートしていくだけだし、違った形のすごい試合を次からします。僕? 大丈夫じゃないです(苦笑)。 限界です。気持ちよかったですけど。ただこの形はMAXまでやったと思います。次は死にますよ、本当に(苦笑)。 (観客からの声援は?)みんなやめろって言ってたけど、やめないです。(ケニーとこういった試合は最初で最後にする?)勝って逃げるのは嫌ですけど、正直、自分が限界ですね。もし挑まれたら、負けるのも嫌ですけど、降参すると思います。(場外への雪崩式フランケンは?)あれは、ケニーごめんなさい。でもやるしかなかったです」

DDT最強外国人レスラーであるケニーがDDTの頂点に立ったのは初来日から4年4か月後の2012年12月23日、後楽園ホールで行われたDDT年内最終興業で友人のエル・ジェネリコ(サミ・ゼイン)を破り、KOD無差別級王者となった。

試合後、ケニーはマイクで日本語を駆使して語りだした。

「ジェネリコさん、最強の日本のガイジンレスラー、本当にありがとうございました。これは今年最後の大会ですね。だからコメントしないほうがいいかもしれないけど、今年本当にありがとうございました。これからも、来年も、お客さんにいい年であるように。ですよね? 初めてなんですけれども、三本締めしたいと思います」

そして、カナダ人のケニーによるリング上での三本締めが行われた。
いかにもケニーらしい戴冠劇だった。

「ありがとうございます。武道館ほど難しかった。ケガがいっぱいあるんで、カナダに帰って家族と一緒に治したい。外国人選手としてたくさんのことを証明しなくてはいけなかった。信用というのは非常に大切なものだ。まずDDTはオレのことを信用して今日のメインを任せてくれた。そしてその信頼を得るために4年の歳月をかけてきた。そして武道館と今日の試合を見てもうわかってくれたと思う。ベストの外国人選手はここにいると分かってくれたと思う。外国人レスラーは日本にたくさんいるけれど、中には意識の低い選手もいる。これから自分がやっていく事はDDTを代表して、このベルトの保持者として、今までのトラディショナルなプロレスじゃなくて、ニュースタイル、マイスタイルを築き上げたい。前にも言ったけれど、レスリングはどんな可能性も秘めている。ひょっとしたらオレのことをタダのスタントマンと思っているヤツもいるかも知れない。そいつらに見せつけてやらなくてはいけない。もしかしたら、ただの危険な技を出すだけの選手と思っているヤツもいうかも知れない。それならオレがやれることをちゃんと見せつけてやる。見ててくれ。オレが今リング上で見せたことが大切なこと。プロレスはハート。お金じゃない。正しいやり方で物事を進めていこう。今までDDTがそうしてきたように。人生についていくつか重要な瞬間はあるけれど、自分でないものになれる瞬間。それがチャンピオンとそうでない選手との違いだと思う。でも誰もが自分でない何かになれる可能性はあるんですよ。自分ができたのだから、みなさんにもできると思いますよ」

ケニーの実力はDDTの範疇に収まらなくなっていた。
エクストリームでハチャメチャで自由なプロレスがDDTでは思う存分味わえる。
だが、ケニーはプロレスラーとしてもアスリートとしての能力も高い。
飯伏はケニーの底知れぬ能力をこう評している。

「普通、瞬発力と持久力って反比例するんです。瞬発力の人は、そこまで持久力が伴わない。ケニーはどちらもあるんです。マックスの瞬発力で最後の最後まで動き続けることができる」

DDTは自分のスタイルは合っている。
だが、アスリートの部分も含めてケニーの能力に双璧を成すのは残念ながら、DDTでは飯伏以外にいなかったのではないか。
競技者としてレベルの高いところで闘いたい,満たされたいというフラストレーションは徐々に募るようになり、ケニーは悩みの中に陥ることになる。

「僕はエースでもこの団体のマスコットやアイコンでもないのだから。加えて、新宿や新木場でいくらいい試合をしても、それが届くのは限られたファンであって、もっと大きなところでなければより多くの人たちに伝わらないという思いもあった。日本語を覚えるのだってそうさ。僕はどのガイジンレスラーよりも日本語を勉強している自負がある。伝えるためには、やらなければならないことだもん。自分がリタイアしたあとでもDVDやYouTubeを見た世代に自分たちのやっていることが伝われば、それは素晴らしいことだと思えるんだ。この6年のほとんどを、。だけどそれをネガティヴに受け取らないようにしているんだ。辛いことはあとで好きなだけ愚痴ればいいじゃないか。それよりも辛いのは、自分にチャンスが訪れているにもかかわらず気づかなかったことなんだ。最初の新木場がその時の僕にとっては東京ドームのようなものだったから。それほど大きな夢だった。そこからは…DDTが大きくなるために自分は何ができるかを考えてやってきた。その結果、本当に大きくなっている」

2014年10月、ケニーはDDTを退団し、新日本プロレスに移籍する道を選んだ。

「もちろん今まで新日本は何回も出たことがあるんですけど、それはゲストとしてという感じでした。今こそ新日本のメンバーと言えます。一年に1度、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで自分の力を試すことできる。でも今年のが終わってから、もっとできる気がして、もっともっと新日本で試合をしたいと思いました。本当は日本だけじゃなくて、世界のトップクラスの選手が新日本にいると思います。だから新日本で頑張って、ジュニアとしてトップクラスを見せたいと思います。もちろんこれからが新しいスタート。だからハードワークしてファンたちをガッカリさせないように頑張ります。あとはDDTを離れることは辛いし、寂しいですけれども、私のアスリートとしてのコンディションのピークは今です。もし、今100%限界まで挑戦しないと、自分自身がガッカリするかもしれない」

「新日本のことを考えたら、いつも"キング・オブ・スポーツ"というキャッチを思い出します。DDTは「やりたい放題」みたいな団体ですけど。新日本の昔は、凄くシリアスなスタイルですよね。ただ、いまの新日本は、ワタシが子供のときとは違う。ホントにいまの新日本って、ワタシが一番フィットするリングなんです。アメリカンスタイルのプロレスもあるし、格闘技スタイルやストロングスタイルもある。だからオールラウンドプレイヤーにとって、新日本は一番いい場所。だから、昔の新日本を思い出したら、(獣神サンダー・)ライガーさんが『SUPER J CUP』で勝ったときとか、『SUPER Jr.』も思い出しますし、ちょっと前に格闘技ファイターが一杯いた時も思い出します。だけど、いまの新日本は全然違う。いまの新日本は私の一番好きなスタイルをやってる場所なんです。だからね、新日本はずっと"キング・オブ・スポーツ"と呼ばれてましたけど、いまは"キング・オブ・スポーツ"だけじゃなく、"キング・オブ・プロレスリング"になりました」

悩みに悩んだ末のケニーの結論。
この選択は、フリースタイルなケニーにとって大きな転機である。
新日本プロレスというリングはフリースタイルだけでは生き残ることはできない過酷な戦場で、現在日本で唯一のメジャー団体だ。

WWE入りに入れば金銭的には満たされ、トップレスラーのレベルは高い。だが、やっぱりフリースタイルなケニーの欲求は満たされない。ケニーにとって日本のプロレス界が自身の原点であり最高峰なのだ。

「WWEがゴールという選手も多い。でも、私は新日本の方を選びました。外国人選手のほとんどは普通は、WWEを目指す。それはみんなの夢。もう当たり前のように思われてますよね。みんな子供のときからずっとテレビで見れるのはWWEだけだから。私もそうでした。でも、15歳から日本のプロレス好きになって、日本にいきたくなった。私は日本でうまくいって、その上でWWEに行きたいわけじゃない。なぜなら、ホントに日本のプロレスが世界のベストだと思ってます。そして、同時に私は選手としても自分がトップだと思ってるんです」

新日本に移籍するということはあの愛するDDTファンとも別れなくてはならない。
だが、日本のプロレス界から離れるわけではないのだ。

2014年10月26日後楽園ホールで行われたケニーの壮行試合は飯伏と組んで、男色ディーノ&竹下幸之助とエニウェアタッグマッチ。
カナダの路上王と呼ばれたケニーらしい壮行試合だった。
最後はゴールデンシャワーが決まり、有終の美を飾った。
試合後の送別会で、高木はケニーのこう語った。

「別に引退するわけじゃないからさようならは適しない。新日本にいっても頑張れ! 花束も用意していない。これはDDT全選手からのメッセージが書いてある。これを受け取ってくれ」

そう語ると高木はケニーにフード付きのタオルを手渡した。

「私はどこにいてもDDTの魂で試合をやるんだよ。6年間でDDTで試合をしてキャリアのベストはここでやった。それは絶対忘れない。私が新日本にいくのに応援してください。すごくさびしいけど大成功するため新日本で精いっぱい頑張る。ありがとう」

ケニーは日本語で語り、壮行試合を終えた。彼ほど日本に染まろうとした外国人プロレスラーは近年ではいなかった。そしてそんなケニーの人間性をファンは愛しているのだ。

それから二週間後、新日本プロレスには「ザ・クリーナー(殺し屋)」を名乗る我々が見たことがなかったケニーがいた。
ヒールユニット「BULLET CLUB」の新メンバーとなったケニーは黒のサングラス、黒のロングコートを身にまとっていた。
そして、習得した日本語を封印し、英語でIWGPジュニア王者の田口隆佑を挑発した。

「確かに自分はある時、日本語の勉強をしていた。それはファンのためだと思ってやってきたことだ。それによってファンの間で人気も高まる、そう思ってやってきた。実際そうだと思う。でも結果なにが残ったと言うのでしょう。なにも得るものは結局なかった。本当のファンというものは私が勝つこと、私がベルトを巻くこと。これを望んでいる、そう確信することに至った。だからもうファンのために日本語を話すとか、一切気にかけていない。ただ勝つことに専念する。俺自身、英語で話すことがよりクール、カッコいいと思っている」

こう語るケニーは本格的にヒール転向を果たす。
2015年1月4日に田口隆佑を破り、悲願のIWGPジュニア王者となり、新たなジュニアの王となった。
介入や小悪党ファイトを交えつつ、新日本に合わせたフリースタイルを敢行することでケニーは己のプロレスを表現していった。

2016年1月5日には当時IWGPインターコンチネンタル王者の中邑真輔をタッグマッチながら撃破し、さらに「BULLET CLUB」のリーダーAJスタイルズを追放し、ヘビー級転向を宣言した。

中邑、AJの離脱によって揺れる新日本プロレスでこの機会をチャンスに変えたのはケニーだった。

2016年2月14日の新潟大会でケニーは新日本のエース棚橋弘至とIWGPインターコンチネンタル王座決定戦に挑んだ。
93kgから97kgにウェイトアップしたケニーと長年、プロレス界を支えてきた棚橋と並んだときにそん色のない肉体に仕上げてきた。

ベーシックな攻防、場外パイプイスへのブレーンバスターや鉄柵に上ってからのケプラーダといったハチャメチャさ、介入、過激なフリースタイル…。

棚橋戦でケニーは己が培ったスキルを解放した。
試合は一進一退の熱戦となった。
そして、片翼の天使で棚橋を破り、ケニーはIWGPインターコンチネンタル王者となった。

路上の王者から団体のエースを破り、メジャー団体の王者となった。
この結末は数年前では考えられない事態だ。新日本のエースが元DDT最強外国人に破れたという事実は衝撃的だった。
新日本とDDTは経緯説明は省略するが、一時期緊張関係にあった。
そのきっかけはDDTのエースHARASHIMAを破った棚橋の発言からだった。

「グラウンドで競おうとか、打撃で競おうとか、技で競おうとか。ナメたらダメでしょ。これは悪い傾向にあるけど、全団体を横一列で見てもらったら困るんだよ!ロープへの振りかた、受け身、クラッチの細かいところにいたるまで、違うんだから。『技が上手だね、マスクがいいね、筋肉が凄いね』じゃないところで俺らは勝負してるから」

この発言が是が非かを論議するのはこの一件が解決した以上、不毛である。
ただ、この棚橋発言を踏まえた上でケニーは新潟の棚橋戦を闘っていたように思えるのだ。

「お前の土俵で上がった上で周囲を納得させてやる!」

試合後、ケニーはマイクで語った。

「みんなは棚橋が好きなんだろ? みんなは彼に勝ってほしかったんだろ? 今日はバレンタインデーだ。だけど、思っているようなバレンタインデーにはならなかった。そう、今日はバレンタインデーだ。だけど彼は“びょ・う・い・ん行き”となった。でも、気にするな。目の前には新しいバレンタインがあるんだから。新しいヒーローが誕生したんだから。新しい“神”が現れたんだ。俺を愛せはいい。“ザ・クリーナー”を愛せばいい。俺がすることに対して愛せばいい。そうだから俺は闘えるし、話もできる。そして考えられる。BULLET CLUB JAPANは、ますます結束が固くなる。さあ、今夜、俺は新チャンピオンになった。お前たちが望んでいなくても気にしない。お前らが英語がしゃべれなくても俺は気にしない。俺は英語でしゃべる。全然、気にしない」

言いたい放題に英語でまくし立てた上で最後にケニーはこう語った。

「でも、来てくれてありがとうございました」

それは日本のプロレス界で生き抜くために習得したケニーらしい流暢な日本語だった。
彼が歩んできた道程を垣間見える光景だった。

私はケニーのプロレスはフリースタイルだと形容した。
フリースタイルとはジャパニーズ・スタイルをベースにしながら、「こんな技を使ってはダメ」、「プロレスとはこうでなければいけない」という固定観念という束縛や拘束から解き放たれ、「こんなプロレスがしたい」、「こんな無茶苦茶な技を仕掛けたい」というケニーのイマジネーションに率直なプロレスだ。
だが、このスタイルは「独りよがり」、「自己満足」に陥りやすい危険なものだ。
プロレスはひとりではできないのだ。

それでもケニーはこのフリースタイルという魔剣を武器にして、プロレス界を走ってきた。
その中で対戦相手を大怪我をさせてしまったことがあっても、団体は彼を大切に扱ってきた。

「ケニーは団体にとっては家族の一員だった。成長を見守ることも団体の責務」

DDTという居場所を見つけ、プロレスラーとして輝かしい実績も強烈な記憶、数々の名勝負を残してきた。
DDTを離れる時も、ケニーの葛藤として襲ってきたのはフリースタイルという魔剣だった。

「自分のフリースタイルをもっと高いステージで披露したい」

フリースタイル・シンドローム(症候群)という病とも性(さが)ともいえる概念は、ケニーのアイデンティティーだった。
そして、彼は悟っている。
いくら自分がチャンピオンになっても、スターになっても、エースにはなれないことを…。
これはあの飯伏幸太がプロレス界のジョーカーとして、団体の枠を超えた活躍をしている立ち位置と似ている。

ケニーはワイルド・カードのようなプロレスラーなのだ。

ワイルドカードとは…。
1 トランプなどで、他のカードの代用となる特別なカード。
2 スポーツ競技で、主催者の意向などでチーム・選手に与えられた、特別出場枠。
3 不特定の文字や文字列であることを示す記号。コンピューターで、検索などに用いる。
(コトバンクより)


スポーツ、パソコン用語、カードゲームといった多岐にわたってワイルドカードという単語が使用されている。ただ、どの分野でも"特別"、"特殊"というニュアンスで用いられてる。ケニーは今後も特別で特殊な多面性と能力という銃弾でプロレス界全体に波及させていく。

賛否両論もある、それでも後戻りはできない。

ケニーは今、戻れない道を歩んでいる。

リミッター、ストッパーという歯止めとどう向き合い、プロレスラーとしてどう成長するのか?

フリースタイルという唯一無二のスタイルを持つ男がどこまで高いステージに成り上がっていくのか!?

ケニー・オメガのフリースタイルを巡る旅の終着点はまだまだ見えてこない。

それでもフリースタイル・シンドロームという自分自身の心の中に住み着く厄介な概念との闘いの果てにケニー・オメガは何を見るのか…。

「これからも、想像できなかったステージがどんどん待っているのは間違いない。その中で僕は、辛さを何倍も上回るハッピーを求めていくよ」

ケニー・オメガはその欲望と欲求にどこまでもオネスティー(正直)なのだ。