熟練職人レスラーの巧妙で性悪なコンダクト/タリー・ブランチャード【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第121回 熟練職人レスラーの巧妙で性悪なコンダクト/タリー・ブランチャード
シリーズ 職人レスラー ①



今回から三回に渡り、"職人レスラー"というテーマで取り上げることになった。
職人レスラーとはどんな対戦相手でも試合を成立させ、引き立てることができるバイプレイヤー。
演劇の世界では主人公を引き立ている名脇役といっていいのが"職人レスラー"と言っていいかもしれない。

初回に取り上げるのがタリー・ブランチャードというプロレスラー。
日本のプロレスファンにはあまり馴染みのない選手かもしれないが、彼こそアメリカン・プロレス伝説のユニット「フォー・ホースメン」のオリジナルメンバーだった。
180cm 100kgという決して恵まれた肉体ではなかったが、彼は熟練のテクニックでのし上がっていった職人レスラーである。

そんなタリー・ブランチャードが歩んだレスラー人生とは…。

タリーは1954年1月22日アメリカ・テキサス州サンアントニオで生まれた。
父は地元サンアントニオでプロレスラー兼プロモーターとして活躍したジョー・ブランチャード。
タリーは子供の時から現場でプロレスを見てきた。
父ジョーの団体で彼はパンフレットやコーラ、ピーナッツの売り子をしていた。

あのスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディ、テッド・デビアスが在籍したウエスト・テキサス大学アメリカン・フットボール部ではクォーターバックとして活躍し、NFLを目指すも声はかからず、プロレスラーになることを目指す。

最初は父ジョーの団体でレフェリーをつとめ、父や地元のレスラー達の指導を受けて、1975年にプロデビューする。
デビューした3年弱でサウスウエスト・ヘビー級王座を獲得し、経験を積んでいった。
1979年にヒールに転向した。
父のジョーはタリーのヒールっぷりをこう評している。

「生粋の悪役だった。お客さんは、私には声援を送っても、タリーは嫌っていた」

また父は世界の大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントとタリーとの試合を絶賛している。

「突撃しては投げ捨てられて、しまいにゃジャイアントはタリーを見失ってしまった。ありゃよかったね。タリーは悪役で、みんなジャイアントがこっぴどくお仕置きするのを見たかったんだから」

不良系ヒールとして活躍していたジノ・ヘルナンデスと"ダイナミック・デュオ"を結成し、アクの限りを尽くした。

タリーの試合を見ていた関係者はこう語っている。

「タリーには惚れ惚れした。観客は心底タリーを憎んでいた。体格は問題じゃなかった。喋りがうまくて、観衆を炎上させる達人。これほどの名人たり得た理由は、プロレスが彼のために造られていたからだと思うほどだ」

タリーの若手時代を知るトム・プリチャードはこう語っている。

「ベビーフェイスとして振る舞おうとしているときは、怪しいことこの上なく、しかもそれがうまく決まるんだ。タリーは根っからのヒールだったね。尊大な自惚れ屋さんで、ヒトをゴミみたいに扱って、そのまんま。演技じゃないよ。本性で、それが大成功につながったんだ。ヒールのときはどこが違うって、ちょっと攻撃的になったくらいかな。相手をコーナーに追い込んでタコ殴りとかしてたけど、やってることは大差なかったね。偉ぶったところとか、自信過剰なところは前面にでていたね」

タリーは若くしてプロレスラーとしての才能を開花させていた。
元来の性悪な部分を見事にプロレスに落とし込むことに成功していたのだ。
ある意味、プロレスの天才だったといってもいい。

1984年にNWAに参戦し、NWA世界TV王座やUSヘビー級王座を獲得した。
もちろん、ポジションはヒール。
ずる賢く憎たらしいシングルプレーヤーとしてタリーはNWAでトップ戦線で活躍する。

タリーは相手を素早く徹底的に叩きのめし観客のヒートを買い、相手の長所を中盤に引き出した上で勝利するというスタイル。
得意技は抱え上げてトップロープに打ち付けた反動で投げるブレーンバスター。この技はスリングショット・スープレックスと呼ばれた。

タリーと同じサンアントニオ出身のスーパースターであるショーン・マイケルズはタリーについてこう語っている。

「タリー・ブランチャードはクールな悪党の元祖だ。若者達は彼に憧れた。業界で名を上げて人気者になった後も依然として悪党路線を貫き、若者達の支持を得た」

ベイビー・ドールという女性マネージャーをつけ、インタビュー中に抱き合ったり、高級車やワイン、上等なスーツを身にまとい遊びにふけり、リング上では熟練されたテクニックとヒールぶりを発揮する彼のアティチュードはNWAでも際立っていた。
ニックネームはミッドナイト・スタリオン(真夜中の種馬)。
この異名に偽りなしである。

フレアーのライバルでNWAのブッカーだった"アメリカン・ドリーム"ダスティ・ローデスや次世代のエースと言われたマグナムTAとはUS王座やTV王座をかけて幾度も激闘を繰り広げ、絶対的なベビーフェースである彼らの対角線に立つことでステータスをさらに上げてきた。

ダスティはタリーについてこう語る。

「タリーは悪の権化のような男だ。フォー・ホースメンのファンでもタリーにはブーイングを浴びせたんだ」

そんなタリーとNWA世界ヘビー級王者リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、アーン・アンダーソンで結成したのが伝説のユニット「フォー・ホースメン」だった。

フォー・ホースメン(The Four Horsemen)は、1986年から1990年代後半にかけて、アメリカ合衆国で活動したプロレスのユニットの名称。NWAのジム・クロケット・プロモーションズで結成され、その後継団体のWCWでも活躍した。親指を除く4本の指を突き立てるポーズをトレードマークに、アメリカのプロレス界において伝説的な名ユニットとして語り継がれている。
(wikipedia/フォー・ホースメン)

タリーにとって「フォー・ホースメン」とは…。

「フォー・ホースメンは悪党一味として恐れられた。あのポーズは好きなことに挑戦して頂点を目指せということなんだ。ある会場で客席の前列に20人ほどの大学生が陣取っていた。彼らはブルース・ブラザースみたいな恰好でフォー・ホースメンのカードを持っていた。するとプロモーターのジム・クロケットJrが私に"評判は上々だな"と言った。1500人だった観客がフォー・ホースメンを結成してから1万8000人に増えていた。大した評判だ」

NWAではシングル・プレーヤーとして大暴れしていたタリーにとってベスト・パートナーとなったのはホースメンの仲間であり、タリーと同じく職人レスラーのアーン・アンダーソンだった。

「業界で生き残るには他のレスラーとは違う技術が必要だった。私は180cm 100kgと小柄だったからな。勝つためにはどんな手を使う男と"殺し屋"と呼ばれる大型(185cm 116kg)のアーン・アンダーソンと組んだ。相性は抜群だった。私はアーンはお互いの長所を生かして敵を封じていた。ズル賢い手を使うには熟練した技術が必要だ。一方がうまく立ち回ってレフェリーの注意をそらして、その隙に相棒が反則技を使った。技が決まればこっちのものだ。私達の連携は実に見事だった。だが巧みな連携は偶然に生まれるわけじゃない。私達は事前に計算していたのだ」

二人は1987年9月にロックンロール・エクスプレスを破り、NWA世界タッグ王座に輝いた。
アーンにとってもタリーとのコンビには特別な思い入れがあった。

「タリーはスピードを武器に連携で相手を追い詰める。俺は肉弾戦が得意だった。俺達は肌が合い、抜群のチームワークを見せた。何試合かこなした後は視線だけで意思の疎通が図れたんだ。まるでテレパシーだ。タリーと世界タッグ王座に輝いた日のことは忘れない。そこに至るまでの長い道程もあったから喜びも大きかった。俺のキャリアにおいても特別だった」

だが、そんな二人をテレビ王テッド・ターナーに身売りした新生NWA(後のWCW)はあまり評価していなかった。給料面でも二人は冷遇された。
不満が爆発した二人は1988年9月に離脱し、ライバル団体WWE(当時WWF)に移籍した。

二人は"ブレーンバスターズ"というチームを結成し、WWE世界タッグ王座を獲得しするも、ハードスケジュールに嫌気がさした二人はWWEを離脱し、WCWに復帰することを決意する。
しかし、実際に復帰したのはアーンだけだった。
タリーには復帰できないある問題があった。
それは薬物問題だった。

「私はビンス・マクマホンに辞表を提出してWCWに戻る準備を進めていた。コカインを一発決めた翌日に会場でドラッグテストが行われ、違反が見つかった。その後、リック・フレアーから電話があり、ドラッグテストの結果、私の契約が破棄された。それでアーンだけ戻った」

タリーはその後、インディー団体に転戦するものの、メジャーシーンに再浮上することはなくセミリタイア状態となった。
タリーは自らの生活を悔い改め、キリスト教徒となり宣教師となった。

1995年10月に「無我」旗揚げ戦のメインイベントで藤波辰爾の対戦相手として初来日を果たした時は、もう宣教師だった。
2000年代に入り、フォー・ホースメンでの活躍が再評価されるようになり、2006年にはWWEのエージェントになった時期もあった。
現在はテキサスダラスを拠点とする国際的福祉活動機関チャンピオンズ・フォー・ライフの刑務所奉仕事業の主任として、犯罪者の更生に尽力しているという。

タリー・ブランチャードのプロレスとは、性悪な自分自身を生かし、まるで名指揮者のような巧妙なコンダクト(指揮)で、対戦相手と観客を見事に操るズル買いスタイル。
しかし、そのコンダクトは一つの過ちがきっかけでコントロールできなくなり、転落していった。

タリーはかつてこう語っている。

「番組を見れば、俺の魅力がわかるだろう。俺は上品な服を着て、高級車を乗り回し、試合では手加減しない。"タリー・ブランチャードは面白い"と感じてくれたら、俺は満足なんだ」

もしかしたらタリーのプロレスにはどこまでもリアリティーがあったのかもしれない。
それがファンのヒートを買い、若者達の支持を得た。
プロレスがいくらフェイクだと評されようとも、最終的にリングに出るのはレスラー達の人間性なのだ。

最後に「フォー・ホースメン」のメンバーであり、アメリカン・プロレスの象徴となったリック・フレアーはかつてこんなことを語っている。

「試合で対戦相手を強く見せること。そうすれば最終的に自分が評価され、成功につながるんだ」

この哲学を実践してきた熟練職人レスラーであるタリー・ブランチャードの巧妙で性悪なコンダクトは人々の心を引きつける旋律に導いている。