精密なベーシック・マシン~頭脳派職人レスラーの計算~/マイク・ロトンド【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第123回 精密なベーシック・マシン~頭脳派職人レスラーの計算~/マイク・ロトンド
シリーズ 職人レスラー ③



マイク・ロトンド。
この男の試合を始めて見たのは四半世紀以上前のこと。
VHSでアメリカ第二のプロレス団体WCWを観戦すると、前座に登場したのがロトンドだった。
191㎝ 112kgの肉体とアマチュア・レスリング仕込みのテクニックを売りにしていた彼はZ-MANと呼ばれたトム・ジンクとの対戦。
ロトンドは攻めも受けにおいても、トム・ジンクを見事にコントロールしていたのだ。
結果はトム・ジンクに逆転負けを喫するも、試合内容やテクニックではロトンドが圧倒していたのは明白だった。

「プロレスは勝敗が第一だが、すべてではない」

そのことを私に教えてくれたのはマイク・ロトンドだった。
だから今回、職人レスラーというテーマで取り上げる時、このロトンドは外せなかった。
彼こそ主役を食うことなく、脇役に徹した実力派レスラー。
今回は、マイク・ロトンドのレスラー人生を追う。

マイク・ロトンドは1958年3月30日アメリカ・フロリダ州セントピーターズバーグに生まれた。
プロレス入りする以前はシラキュース大学時代にアマチュア・レスリングで活躍。
AAUやNCAAで優秀な成績を上げたレスリングエリートだった。
そんなロトンドに目をつけたのが大学の大先輩で名レスラーの"白覆面の魔王"ザ・デストロイヤーだった。
デストロイヤーからスカウトされ、1981年9月に西ドイツでプロレスデビューを果たしたロトンドは卒業旅行のつもりで海外でプロレスを続けていたという。
西ドイツには四か月滞在し、その後カナダ・モントリオールに転戦する。
デストロイヤーのコーチがよかったのか、本人の才能がずば抜けていたのか。
新人でありながらベテランレスラーと対等に渡り合っていたという。
自信がついたロトンドはプロレスラーとして生きていく決心をする。

「スターになろうとか有名人になろうとか、そんなことを考えているわけじゃないんだ。俺はレスリングがやりたい、金をもらってね」

実はアメリカのアマチュア・レスラーは例え世界王者にも五輪メダリストになっても、よっぽどの大手のスポンサーがつかない限り、なかなかレスリング一本では生きていけないと言われている。そういった背景があり、後年優秀なアマチュア・レスラーはUFCやPRIDEといった大金が入るMMAの世界に進出していった。
ただ、当時はMMAがない時代、アマチュア・レスラーがレスリングで生活をするために選択されやすかったのがプロレスだったのだ。ロトンドもその道を選んだ。

1982年にアメリカに戻るとノースカロライナのジム・クロケット・ジュニアが主催するテリトリーに参加すると、NWAミッドアトランティックTV王座、NWAカナディアンTV王座といったシングル王座を獲得する。
当時は端正な顔立ちの技巧派ベビーフェースとして活躍した。
ノースカロライナやフロリダを転戦したロトンドにとって、多くのベテランレスラーが集うこのサーキットがプロレスラーとしての原点になったという。

フロリダでダスティ・ローデスのアイデアによって、若きスターであるバリー・ウィンダムとコンビを結成することになったロトンド。
チーム名はヤング・ライオンズだった。
フロリダではUSタッグ王座にもついた新星タッグは良き友人となった。

「我々は、即座に友人になった。我々はサーキット中は晩、車の中にいました。我々は若くて、楽しい一時を過ごしたよ」

ちなみにロトンドは後にウィンダムの妹と結婚している。
二人は義兄弟、今でも釣りやバーベキューに一緒に出掛けるほど仲がいい。

プロレスラーとしてステックアップしていくロトンドは1984年にウィンダムと共にWWE(当時WWF)入りを果たし、USエクスプレスというタッグチームを結成した。
1985年1月には新日本でトップ戦線で活躍した名タッグチームのディック・マードック&アドリアン・アドニスを破り、WWE世界タッグ王者となった。
1986年1月には全日本プロレスでウィンダムとのコンビで初来日を果たした。
その後、ウィンダムがWWE離脱し、ダニー・スパイビーをパートナーにしてアメリカン・エクスプレスとして活動するも成功することはなかった。

ロトンドはいつの間にかレスリングが楽しめなくなっていった。
年間250試合組まれるWWEのサーキット生活に追われたロトンドはWWEを離れ、フロリダに戻った。
毎日、日光浴をしながら、人生の洗濯をするなかでロトンドの心に去来したのは"レスリングへの渇望"だった。

「やっぱり俺はレスリングがしたい」

1988年にNWA(後のWCW)に参戦したロトンドは初めてヒールとなった。
"キャプテン"マイク・ロトンドの誕生である。
ロトンドと同じくアマレス・エリートのリック・スタイナーと体育会系ユニット"バーシティ・クラブ"を結成した。
ショートタイツからアマレスの吊りパンにマイナーチェンジした。
その後、パートナーをスティーブ・ウィリアムスに変えると1989年4月にあの暴走戦士ロード・ウォリアーズを破り、NWA世界タッグ王者となった。
ロトンドはヒールになることでプロレスの楽しみ方は増えた。
ここからロトンドはスターになるのではなく、職人レスラーとして生きる道を選んだような気がする。
ちなみに冒頭に触れたロトンドのシングルマッチはこの時期を指している。

その後、ロトンドは1990年にWCWで"闘う証券マン"マイケル・ウォールストリートに変身する。
コンピューターがはじき出したデータにのっとり、緻密なレスリングで相手を翻弄するというスタイルだ。
このキャラクターは一般受けし、背広姿のロトンドがUSAトゥデイの表紙になったほどだ。
しかし、この現象に嫌気がさしたのはロトンド自身だった。

WCWを去ると、1991年3月に新日本プロレスに参戦する。
ロトンドに声をかけたのはこちらもレスリングエリートのブラッド・レイガンズだった。
ここでロトンドは初心に帰るためにシラキュース大学時代のスタジアム・ジャンパーを引っ張り出して、これを入場時に着用した。

「これを着ると、また最初からレスリングをやり直す気持ちが沸いてくるんだ」

新日本に参戦した翌月の同年4月にロトンドはWWEに復帰する。
IRSことアーウィン・R・シャイスターというリングネームを名乗り、悪の国税当局員となった。
シルバーのブリーフケース、丸メガネ、半袖のYシャツとスラックス、ネクタイとサスペンダーといういで立ちでリングに上がった。
ちなみにIRSとはアメリカではアメリカでは国税当局の略である。
マイクパフォーマンスでは納税を促した。

実にWWEらしいショーマン溢れたキャラクターだが、その試合スタイルは堅実そのもの。
ロープを握りながらの反則コブラ・ツイスト(アドミナル・ストレッチ)、ロープに足をかけながらのスリーパーといったねちっこい攻撃で対戦相手のスタミナを奪い、最終的にはストック・マーケット・クラッシュ(バックフリップ)につなげるのが彼のスタイルだ。
どこまでもベーシックなレスリングスタイルにこだわる。
技術はあってもあえて出し惜しみし、基本技に忠実なのだ。
ロトンドがキャリアを重ねるに連れて己の計算機ではじき出したのは、ベーシック(基本、基礎)・イズ・マイ・ウェイだった。
派手な技やアクロバティックな攻防が中心軸となる中で、ベーシックなレスリングスタイルを追求した精密機械になることで個性が際立つという計算が彼に働いていたのかもしれない。

1991年のキング・オブ・ザ・リング準優勝という実績を残し、1992年2月には"億万長者"ミリオンダラー・マン(テッド・デビアス)とマネー・インクを結成し、リージョン・オブ・ドゥーム(ロード・ウォリアーズ)を破り、WWE世界タッグ王座を奪取した。
ロトンドと同じく試合巧者のミリオンダラー・マンことデビアスとのコンビは互いの長所を相乗効果で伸ばしていく玄人受けするタッグチームだった。

マネー・インクはデビアスのWWE離脱で解消されるも、ロトンドは職人レスラーとして、スター選手の対戦相手として重宝された。
ジ・アンダーテイカー、レーザー・ラモン(スコット・ホール)といったスーパースター達の好敵手となった。

1995年にWWEを離脱し、WCWに復帰するとV・K・ウォールストリートという金満家キャラに変身する。
1997年には"悪の中枢"nWo入りを果たし、同年7月にはマイケル・ウォールストリートで新日本に参戦する。当時の新日本では蝶野正洋率いるnWo JAPANが席巻していた。
ロトンドはヒロ斎藤と共に参謀、中堅レスラーとして新日本に定着する。
そこでも披露したのは脇役に徹し、緻密で精密なレスリングスタイルだった。

その後、nWo JAPANは武藤敬司派と蝶野正洋派に分裂し、蝶野は新たにTEAM2000を立ち上げ、ロトンドはその一員となった。
2000年にWCWを離脱すると、全日本プロレスに参戦し、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でスティーブ・ウィリアムスとバーシティ・クラブを再結成し、優勝を果たした。
全日本プロレスには2003年まで参戦し、インディー団体IWA JAPANに参戦した。

当時のIWA JAPANはまるで1980年代の全日本プロレスを彷彿とさせるほど懐かしの外国人レスラー天国と化していた。
義兄弟のバリー・ウィンダム、アニマル・ウォリアー、スティーブ・ウィリアムス、ハクソー・ジム・ドゥガン、ジャイアント・キマラ…。

そんなある意味外国人天国と化したIWA JAPANがレスラーとしてのロトンドの死に場所となった。
2004年5月4日、ロトンドはウィンダム、三宅稜と組んで、ハクソー・ジム・ドゥガン、アニマル・ウォリアー、松田慶三との試合で引退した。
試合後、ロトンドはマイクでこう語った。

「応援ありがとうございました。今日残念なのは親友のスティーヴ・ウィリアムスがいないこと。日本での引退試合という舞台を用意してくれたIWAジャパンに感謝します」

ロトンドはどこまでも脇役であり続けた。
それが頭脳派職人レスラー マイク・ロトンドの誇りだったのではないだろうか。

引退後、義理の父のブラックジャック・マリガンが経営する中古車会社で働くも2006年にWWEにエージェントとして復帰する。

ロトンドが引退してからしばらくしてからWWEには彼の遺伝子達が姿を現した。
ブレイ・ワイアットとボー・ダラスという二人の息子である。
特にワイアットは"恐怖の概念を覆す男"というサイコパスキャラで大ブレイクし、今やスーパースターの一人である。
ボー・ダラスは"ボリーブ"精神を啓蒙するニタニタしたスター達のやられ役となっている。
二人の姿に父マイク・ロトンドの影はない。
ただ、二人ともレスリングセンスは抜群、そこらあたりは父譲りなのかもしれない。

「レスリングを楽しみたい」

それがマイク・ロトンドのアイデンティティーでありテーマだった。
あらゆるキャラクターに変身し、レスラー人生を終えたロトンドはこのテーマを果たすことができたのだろうか。
プロレスをなかなか楽しめなかった男はやがて、アメリカン・プロレスでも指折りの職人レスラーになったのである。

対戦相手やトップレスラーを引き立て、脇役という役割を全うする職人レスラーという生き方。
私は彼らの生き方にある種の畏敬の念を禁じ得ない。

プロレスは人生の縮図、世の中の縮図だ。
世の中とは1割の主役と9割の脇役で構成されている。
そもそも人生で頂点を極める者はほんの一握りしかいない。
ほとんどがトップの後塵に拝するか、主役でも脇役でもないオンリーワンになるしかない。

私は職人レスラーは世の中を象徴しているプロレス界の役割ではないのかと考えている。
トップに立てないと悟ったとき、人はそこから避けたり逃げるのか、独自の道を生きるのか、トップを引き立てる脇役になるのか。
その決断に迫られた時、答えのヒントになるのは自分の特性にいかに把握しているかだ。
職人レスラーとは自分自身の特性を知り尽くし、周囲や全体を考えて構築していくプロフェッショナルなのではないだろうか。
職人レスラーの生き方には我々が人生を生きる上での教訓や答えが詰まっているのだ。
今後もプロレス界は職人レスラーが影から支えていくというシステムは変わることはないだろう。