生き様伝道師~雑草がいなきゃプロレスは面白くねぇんだよ!~/真壁刀義【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第130回 生き様伝道師~雑草がいなきゃプロレスは面白くねぇんだよ!~/真壁刀義



「プロレスはルールのある喧嘩である」

日本プロレス界の父・力道山が残した名言である。
プロレスとは本当に他に比類なきジャンルである。
プロレスとは、格闘技でもあり、スポーツでもあり、エンターテイメントでもある。
だからその定義は多種多様である。

相撲を国技にしている日本という国でプロレスがいかにブレイクするのかという答えを力道山はこの言葉に見出した。
決して喧嘩をするわけではない、プロとして魅了する真っ向勝負を見せること。
それが日本プロレスの起源だった。
だが、それだけではいかないのが「底が丸見えの底なし沼」と言われるプロレス。
今、プロレスとは定義するなら、この言葉しかない。

「プロレスはプロレスである」

この言葉を元にして各々が「プロレスとは何か?」を探求すればいいのだ。
答えなきテーマを探し求めるのもプロレスの奥深さと面白さでもあるのだから…。

力道山の名言である「プロレスとはルールのある喧嘩である」を21世紀のプロレス界で実践しているプロレスラーが今回の主役だ。

「プロレスとは、酒場の喧嘩でもあり、アスリート同士の喧嘩でもあると俺は思っている。技術と体力があるやつがぶつかり合う、要はカウボーイの喧嘩だ。肉弾戦で先に倒れたほうが負けで、真正面から撃って撃たれて、全力で受け止める。時には騙しあいもある」

真壁刀義にとってプロレスとは男と男のぶつかり合いである。
181cm 110kgの肉体でリングで相手の攻撃を受け止めた上でがっちりと"ぶちかます"男。
よく真壁のプロレスを昭和のプロレスと形容されることがあるが、彼はこれに反論する。

「俺のスタイルは非常に正面突破な感じでありし、ある意味泥臭い。よく"昭和のプロレス"を彷彿させるなんて感想を聞くこともある。確かにそういう一面もあるし、それを狙っているところもある。だが、決定的に昭和のレスラーと俺が違うのは、リングでの動きの良さだろう。バッカンバッカンぶちのめし合ったうえで、さらにリング上で激しく動きまくる。時間と共にプロレスは今流に進化している。そうした変化を取り入れながら、俺は昔のプロレスのいい部分を掘り起こしてやろうと思った。ヘビー級でこれだけ動き回るっていうのは昭和のプロレスにはなかった」

プロレスがメディアで取り上げられる機会が増えてきた昨今。
真壁は地上波テレビ局の情報番組のレギュラーを長年務め、多くのテレビ番組や媒体に登場する"プロレス界の歩く広告塔"だ。
そんな今だからこそ考察したい。
真壁刀義というプロレスラーを…。

真壁は1972年9月29日神奈川県相模原市に生まれた。
本名は真壁伸也。
少年時代からプロレス番組「ワールド・プロレスリング」を見て育った真壁は根っからのプロレスファンだった。
周りの子供たちとの会話はいつだってプロレス。
少年時代の真壁にとってプロレスとは"見せる喧嘩"。
リング上からレスラーが発するリアルな感情に真壁の心は摑まされたのだ。

「お前、金曜のプロレス見たか?あれ面白くねぇ?」
「すげぇ面白れぇ!」

真壁が12歳の時にロサンゼルス・オリンピック柔道で金メダルを獲得した山下泰裕が金メダルを獲得した映像を見て、「格闘技をしてみたい」と思うようになった。
中学に入ってから始めた柔道。
練習に打ち込み、プロレスを見る機会が離れるほど柔道に明け暮れた。
高校に入っても柔道を続けた。
柔道は二段を取得するも、なかなか結果を残すことはできなかった。
全国大会どころか地方大会でも上には行けなかった。

高校卒業後、一浪してから1992年4月に帝京大学に進学すると、真壁はプロレス研究会に入部する。いわば学生プロレスである。だが、プロレス研究会は決してチャラけたサークルではなく他の格闘技を経験した若者が集った体育会系だった。また大学時代にはUWFインターナショナルのリング屋アルバイトも経験した。

この頃から真壁には明確な目的意識を持つようになる。

「新日本プロレスに入門して、プロレスラーになる」

そのためにはまずは肉体作りだ。
筋トレを本格的に始め、独学でプロレスラーになるためにトレーニングに没頭する。
スクワットは毎日100回をこなすことで半年後には1000回をクリア。
何種類もあるプッシュアップも各1000回をこなした。
大学時代の後輩で、練習パートナーを務めていたDDTのHARASHIMAはこう証言する。

「真壁さんと自主練をよくやってましたねぇ。基本的に練習場に集まってみんなで練習するんですよ。受け身があって、技の練習をして、そのあとに試合形式の練習をやったりして。で、真壁さんは新日本の入門テストを受けるために練習場が開く前から踊り場とかで基礎体を延々とやってたんです。真壁さんがカッコいいのは、ボクも練習が好きだったんで早めに練習場に行ってたんですよ。そうしたらまだ練習場は空いてなくて、廊下から息遣いが聞こえてきて、見たら真壁さんがひとりで腹筋をやってて『……見られちまったな(苦笑)』って。それでも真壁さんは一度は新日本のテストを落ちてるんですよね。やっぱアマレスのエリートが入ってくるような団体ですから。真壁さんは高校時代は柔道をやってましたけど、学生プロレスという肩書きはなかなか難しかったんじゃないですかね。僕らからすれば『真壁さんは新日本プロレスに入って当然』というか。ほかの誰よりも練習してましたし、誰よりもプロレスができてましたし。身体も凄かったですからね。考え方もしっかりしてましたし。そんな真壁さんでも新日本に入ったあと『プロでは全然通用しない。受け身からして違う』とは言ってましたね。先輩のしごきも凄かったんでしょうけど。真壁さんがよく言っていたのは『プロは受け身の音からして違う』と。そこは体重の違いもあると思うんですけどね」

そんな日々の努力が結実し真壁は二度目の入門テストに合格。
帝京大学卒業後の1996年4月30日に新日本プロレスに入門した。
ちなみに360人が受験して合格したのは真壁を含む2名だった。
これは学生プロレスに対して激しいアレルギーが強かった当時の新日本プロレスにおいて、学生プロレス出身者の真壁が入門した事実は後に大きな意味をなしてくる。
前日の同年4月29日に真壁は観客として東京ドーム大会を観戦していた。

「明日から俺も向こう側の人間になるのか…」

感慨にふけっていた真壁に待ち受けていたのは地獄のようなシゴキだった。
日本一の練習量を誇る新日本プロレスで生き残るは過酷で容易なことではない。
一緒に合格した同期は一日で夜逃げし、練習生は真壁だけになった。

デビューするまで外出禁止。
世間と隔離された状況で1日中、練習と雑用に追われる。
心身とも追い込まれる中で、生き残れる者こそが、新日本プロレスの若獅子になれるのだ。

入門から半月後の1996年5月。
真壁に後輩ができた。
だが、この後輩はとんでもない怪物だった。

レスリング全日本選手権4連覇、アトランタ・オリンピックレスリング日本代表候補になった藤田和之。

藤田はエリートだった。
だから雑用はやはり真壁に集中してしまう。
先輩のパシリをやらされるのはいつも真壁だった。
藤田とは半年間は会話をしなかったというが、ひょんなきっかけで話す機会を得ると、二人は打ち解けていった。

「あいつ、いい奴じゃねぇか」

互いに敬意を表しているからこそ、真壁は藤田を「藤田君」と呼び、藤田は真壁を「真壁さん」と呼ぶ。
アントニオ猪木に目をかけられていた藤田はエリートとしての苦悩を抱えていた。
真壁はよく、藤田の愚痴を聞いたうえで、自身も藤田に愚痴っていた。
また藤田はそんな真壁に共鳴していたのか、よく飲みに誘っていた。

「真壁さん部屋で飲みましょうよ!」

これが新人時代の藤田の口癖だった。

真壁は学生プロレス出身者だ。
だからかもしれないが彼に対しては尋常じゃないシゴキが待っていた。
真壁いわく「辞めさせるための」練習を越えたいじめである。

当時のコーチは根性論の佐々木健介。
だからどんなに怪我をしても休むことは許されなかった。
真壁はスクワット、ジャンピングスクワットも誰よりも大きな声でこなしても、コーチにはぶん殴られる。
続いてはプッシュアップ。
ここでも真壁は声を出してこなす。
だが、コーチの鉄拳、罵声が飛ぶ。
このやり取りが毎日、何時間も続いた。
練習をこなしては殴られ、どんなに頑張っても上から押さえつけられる。

「俺はあいつを殺す」

理不尽な状況に真壁は健介に殺意を抱いていたと言われている。
それでも真壁は逃げなかった。
それでもしごきは続いた。
そして、ある日ついに真壁の心が折れた。

練習をこなしたにも関わらず、意味も分からず、コーチは「出ていけ!!」と道場から閉め出された。
ここまでくるとしごきを越えたいじめだ。
真壁の怒りは頂点に達していた。

シャワー室に向かった真壁にかつて鬼軍曹と恐れられた山本小鉄と遭遇した。
様子がおかしい真壁に山本は声をかけた。

「どうした、真壁?」
「何でもないです」
「何でもないわけないだろ!何があったから言ってみろ!」

真壁は山本に溜まりに溜まった想いをぶちまけた。

「僕は誰よりも声を出して、誰よりも正しいフォームで、ごまかさずに正しい回数で、誰よりも多い回数でトレーニングをやっているのに、ぶん殴られて、責められて、罵声を浴びせられて、道場から閉め出されて…。僕は何が正しいかわかんないです」

すると山本はこう言った。

「バカヤロー!誰よりも強くなれ! 誰よりも強くなれば、誰もお前に文句言わねぇよ!」

真壁の中で何かが弾けた。

「そうだ!誰よりも強くなって文句を言わせねぇ!」

一種の開き直りと覚悟が男をさらに変えた。
まずはスパーリングで相手を黙らせればいい。
練習を重ねていくにつれて、先輩達は真壁への攻撃を辞めていった。
先輩達は真壁からスパーリングで極められていたのだ。
そして、3年後には誰も真壁から一本もスパーリングを挑む先輩はいなくなった。
ただし、ケンドー・カシンこと石澤常光だけは真壁からの要求から逃げずにスパーリングをしたという。

「新日本で一番練習しているのは真壁です」

先輩達は真壁にこう評価した。
真壁は実力で皆を黙らせたのだ。

そんな真壁にとって、この人は違うと思った人物がいた。
天山広吉だ。
当時の天山は25歳ながらメインイベンターだったが、雑用係の真壁にも優しかった。
チャンコを食べている時に、立っていた真壁に「真壁、一緒に食べようよ」と声をかけてくれた。
これだけでもうれしかった。
ちなみに真壁の名前を呼んでくれたのは新日本では天山だけだったという。
また、当時新日本にフリーとして参戦していた天龍源一郎との初対面。
ほとんどのレスラーが挨拶しても無視する中で天龍は「オウ、頑張れよ」と声をかけてくれた。
プロレスラーも捨てたものじゃない、心が温かい人間はたくさんいるのだ。

1997年2月15日に真壁は約10か月の下積み期間を経て、大谷晋二郎戦でデビューを果たす。
学生プロレス出身初の新日本選手の誕生である。
真壁にとって大谷は同学年の教育係であり、恩人だ。
大谷は真壁に注意する時も、きちんと筋を通し、理論的に言ってくれた。
口達者でアウトローだった真壁にとって、大谷の教えには反発することはなかった。

そんな真壁は大谷から心の支えにした言葉をもらっている。

「雑草がいなければプロレスは面白くねぇんだよ!」

デビューから2年後のプロレス雑誌のインタビューで真壁が語った言葉。
これこそ、真壁のアイデンティティーともいえる”雑草魂”である。
雑草とは真壁の境遇と生き方を表現した魂の言葉だった。

新人時代は藤田と前座戦線で幾度も闘った。
どこまでも泥臭く、ゴツゴツとした攻防はヤングライオンらしい試合だった。
真壁は藤田との闘いをこう振り返っている。

「数え切れないくらいシングルやったけど、全部イカれてる」

そんな藤田との別れは突然だった。
プロレス界のトップに立つためには順番待ちをしなくていけない状況に業を煮やした藤田は2000年1月に新日本を離脱し、総合格闘技PRIDEに戦場を変えたのだ。
いわば序列を変える飛び級を狙う藤田和之の賭けだった。
藤田が道場に挨拶に訪れた。
真壁は藤田に「頑張れよ」とエールを送った。

エリートと雑草、怪物とアウトロー…境遇は違えど二人に確かな絆があった。
二人のやり取りを見てなぜかもらい泣きをしている男がいた。
その男は当時デビューしたばかりで現在、新日本のエースとして活躍中の棚橋弘至である。

真壁は藤田のPRIDE初陣を観戦している。
2000年1月30日の東京ドーム大会で"オランダの喧嘩屋"ハンス・ナイマンを袈裟固めで完勝した藤田を我がことのように喜んだのが真壁だった。

「藤田くんが最初にPRIDEでハンス・ナイマンとやったとき、寮生全員で東京ドームまで応援に行ったね。あのときはのちに総合に行く柴田勝頼もいたし、亡くなった福田(雅一)くんもいたし。みんなで『よし、いけーっつ!』って応援して、最後、袈裟固めでギブアップ取って『うわー!』ってみんなで喜んでさ。他人の勝利で、あんなに嬉しかったのは、あとにもさきにもあの時だけだね」

いつしか後輩も増えた真壁は寮長になっていた。
後輩達にとって厳しい先輩だったが、理不尽なことをする人ではなかったので慕われていたという。
先輩から新人レスラーに文句があった場合でも、真壁はまずは自分を通してもらうようにした。

「俺からあいつに言いますので…」

後輩がちょっとしたミスをした時で、先輩が怒っていた場合も仲裁するのは真壁だ。

「俺があいつに食らわせますから…」

こういって、真壁は後輩を庇い、食らわすことなく注意のみしたのである。

真壁は理不尽なことを嫌う親分肌の人間だ。
井上亘はある日、道場で理不尽なことがあって、雑用を放棄したことがあった。
生真面目な井上が放棄するには何か事情があると踏んだ真壁は、井上に話を聞くと「わかった。今日は雑用をしなくていいよ」と了解したという。
また棚橋弘至は新弟子時代に真壁から「お前、頑張っているから」とお金を渡されたことを今でも覚えている。棚橋は「いつか俺もこんな先輩になりたい」と思うようになったという。
実は新弟子時代の真壁も山本小鉄から「お前、頑張っているから、これで遊びに行ってこい」とお金をもらったことがあった。嬉しかった真壁はこのお金を一切、使わずに大切に保管しているという。
新日本プロレスの厳しさは今も変わらないが、理不尽ないじめに関しては真壁以降は行われていないと言われている。
これも寮長として新人達を厳しくも自ら身を挺して守って見せた真壁の功績かもしれない。

リング外で、道場で一目置かれるようになった真壁だが、リングではどこかもがいている印象が強かった。それでも練習は誰よりもこなした。
新人時代の真壁は美しいジャーマン・スープレックス・ホールドを得意としていた。
これは練習の賜物で身につけたブリッジワークだった。

2001年3月、真壁は長州力と組んで天山広吉&小島聡が保持するIWGPタッグ王座に挑戦する機会を得た。
実は現場監督・長州が真壁を大抜擢したのだ。

「プロレスラーの仕事は試合をすること、テレビに映ることももちろんあるが、大切なのは練習」

真壁は長州の付き人をしていた時期もあった。
長州はこのポリシーを実践する真壁を評価していたのだ。

2001年8月、真壁は無期限海外武者修行に出ることになった。
真壁はこれを「左遷」だと受け止めていた。

「最初に向かったのは、カナダのジョー大剛さんのところ。彼の道場で俺は朝8時から午後2時ぐらいまでぶっ通しでトレーニングをした。その後に徹底的に食べ続けた。野菜や肉、ご飯などの炭水化物からプロテインまで非常にバランスはいいのだが、全部食べなきゃいけない。ひたすら食べる。たっぷり食べた後に寝て。夜の筋力トレーニングをやって、シメにプロテインを飲む…そんな毎日をここでは過ごすことになった。大剛さんの組んだメニューはさすがの効果を俺の体にもたらしてくれた。この繰り返しのおかげで、身体は猛烈にデカくなったんだ」

カナダからイギリスに渡った真壁は同年10月に自身初のタイトルであるオールスタープロ認定インターコンチネンタル王者となった。
その後、プエルトリコに渡るもここで真壁だったが、プエルトリコの風土や団体側に馴染めずに、クビとなり、アメリカ・ロサンゼルスの新日本プロレスLA道場でトレーニングを積んで、2002年10月に帰国した。

真壁は新日本プロレスに不信感を持っていた。
いきなり海外に左遷させられ、帰国させる理由は「体が大きくなったから」だと。
ふざけるな、俺は会社の操り人形じゃねぇよ!
真壁は凱旋帰国第1戦を新日本ではなく、プエルトリコ時代にお世話になったKAIENTAI DOJOで行ったのもその反骨心からくるものだった。

凱旋後の真壁のカードはメイン戦線には絡まずに、休憩前の試合がメインだった。
新日本と契約保留にしていた時期もあり、リング上で制裁されたこともあったが、真壁は挫けなかった。フリーとして新日本を我が物顔を暴れる高山善廣と組んで、新日本やノアで暴れたこともあったが、長続きせず燻っている期間が続いた。
本名の真壁伸也から真壁刀義(とうぎ)に改名しても効果は出なかった。
新日本正規軍入りしても真壁はなかなか日の目を見なかった。

「俺は会社に必要とされていない」

そう感じていた真壁に悲劇が襲う。

2005年のG1CLIMAXでの中邑真輔戦でアキレス腱断裂という重傷を負ってしまった。

「アキレス腱を切ったのがG1の2日目で、しかも入院したのが両国国技館の横の病院で。もう最悪で。うわぇ…って思っていたら、G1の試合が終わった選手が見舞いに来て。あの時は本当に『終わったな』と。本当にへこんだ。最悪だった。俺は最悪の患者でしたよ。ムカついて看護士に給食を叩きつけたり、『てめぇ、この野郎!』とか怒鳴ったことが何回もあった。もうイライラが最高潮になって。左足のアキレス腱を切ったけど、ほかは全部動ける。しかも隣でG1をやってて、出入りする客はわかる。それを見てると『何やってんだよ!』って。それが一番の苦痛だった」

新日本プロレスは黄金期を終え、低迷期を迎えていた。
一度不渡りを出していたのもこの時期だった。
棚橋弘至、中邑真輔といった後輩レスラーがトップ戦線で活躍し、シングル王座を獲得する中でどこまでも真壁は足掻いていた。

そんな真壁がトップ戦線に入るきっかけとなった3つの出来事があった。
1つ目は2006年に復帰後に半年にわたって行われた地獄の抗争。
これは真壁が越中詩郎と組んで、矢野通&石井智宏と果てなき抗争を繰り広げるものだった。
会場がどんなに観客が少なくても彼らはイスで殴り合い、バチバチにやりあった。

「後楽園ホールでも、ありえない(観客の)数のときがあった。でもその時、こいつらに今日、最高の試合を見せてやろうと。それを続けてたら、決着なんかつかないのに、客がワーワー言い始めるようになった。コレなんだなと思った」

2つ目はインディー団体との抗争だ。
アパッチプロレス軍との抗争で、真壁はデスマッチに参入していく。
同年9月には金村キンタローを破り、WEWヘビー級王者となった。

「右も左もわからないなか。俺は自己流ではあったが徹底的にデスマッチを研究した。過去の試合のビデオはもちろん、生で試合を見るために会場にもたびたび足を運んだ。デスマッチは、極端なことを言えば、力と技なんてものはいらない。じゃあ何が必要かというと、ハート、魂だ。あのインディペンデントへの参戦がなかったら、マジで今の俺はないと思っている」

3つ目はちょっとした出来事だった。
ある時、真壁は海外遠征から帰国後も自分の荷物を控室ではなく、廊下に置いていた。
すると、蝶野正洋が通りかかった。

「荷物なんか控室にドンと置いてちまえばいいんだよ。そうしたら周りはズバッと場所を空けるんだから」

遠慮している真壁に蝶野はこう続ける。

「お前、遠慮していたら、ずっとこのままだぞ」

いいアドバイスだった。
そして、これはリング上にも応用できることだった。
遠慮せずにリング上で吐き出せばいいのだ。
そのために真壁はヒール(悪役)の道を選んだ。

2006年10月に地獄の抗争を繰り広げた4人に天山広吉を加えたメンバーで「G.B.H」を結成、またブルーザー・ブロディを彷彿とさせるチェーンをトレードマークにするようになる。
テーマ曲もブロディのテーマ曲である「移民の歌」に変更した。
暴走キングコングの誕生である。
エリートレスラーの中邑真輔に噛みつくことで、新日本での真壁の地位はブーイングと共に上がっていった。
一歩一歩、歩みを止めないでいた真壁にようやくスポットライトを浴びる機会がやってきた。

2007年7月6日の後楽園ホール大会で真壁は永田裕志が保持するIWGPヘビー級王座に初挑戦した。最強の挑戦者として…。
真壁は花道ではなく、南側の客席から現れた。
すると会場から大歓声が起こった。
試合は壮絶を極めた。
真壁のハサミ攻撃で永田は流血するも、永田の反則のムエタイ式エルボー(ヒジの先端で放つプロレスにおいては禁じ手)で真壁の額はカット。大流血に追い込まれた。
真壁の金髪は赤毛になっていく。
これは格闘技の試合なら即ドクターストップ、試合続行不可能だ。
だがアクシデントが起こっても試合は続くのがプロレスだ。
真壁は永田に3カウントを喫するまで、心は折れなかった。

王者・永田は真壁を絶賛した。

「肘で切れて大流血した真壁がああやって立ってくる。 やっぱりレスラーって凄いですね。あれは普通だったら試合が終わりだよね。立ってくる自分自身が不思議だったし、あれだけの流血をして立ってくる真壁も強 いなと思いました。何年か前なら真壁なんて、この舞台(タイトルマッチ)に立つなんて誰も想像しなかったでしょう。真壁の気力は肌で十分感じたなと。あのスタイルは正しいとは思いませんけど、俺はこの道で生きていくという執念を物凄く感じた」

執念の権化と化した真壁は試合後も吠え続けた。

「次もIWGPだ、おい! いいな、IWGPだ。必ずIWGP組めよ。おい、今日は誰のおかげだ? チャレンジャー、この俺のおかげだろ! 永田!! いいか、首洗って待ってろよ。今日みてぇにいかないぞ。分かんねぇもんだな、女もベルトも。突然切り替えやがった。いいな、これだけは言っておいてやるよ。俺は永田を認めないぞ、この野郎。いいな、地の果てまでだ。アイツを引きずり落としてやる」

プロレス界でようやく認知された真壁。
そんな真壁のプロレスに説得力が出てくる。

2007年11月にIWGP王者の棚橋弘至に挑戦表明したケガから復帰したばかりの中邑真輔に真壁はこう言ってのけた。

「おい、よく聞けこの野郎! 病み上がりで挑戦できる程、IWGPは甘くねぇんだよ。いいか、次はこの俺だ! てめぇは顔じゃねぇんだよ」

会場は説得力のある真壁を支持した。
新日本でトップ戦線で活躍するようになった真壁は矢野通とのコンビ(MVP)で2007年プロレス大賞最優秀タッグチーム賞、IWGPタッグ王座を獲得。
2008年のG1CLIMAX準優勝、天山広吉を追い出しG.B.Hのリーダーとなった。

だが、ここ一番ではなかなか結果は出なかった。
G.B.Hは矢野通を中心としたメンバーが中邑真輔と結託することで、残ったのは本間朋晃のみ。
ここからが正念場。
しかし真壁はこの逆境を"スーパースター"になる好機にして見せた。

2009年のG1CLIMAXで中邑真輔を破り、優勝を果たした。
苦節13年の雑草がリングの花になった感動的瞬間だった。
真壁に表彰状を渡したのは山本小鉄だった。
山本は泣いていた。

「よく諦めないでここまで来たな…」

翌年(2010年)8月に山本は逝去した。
真壁は今でも定期的に恩師への墓参りを欠かさないという。

「俺が地獄の新弟子時代を過ごしているときに、こてっちゃんは俺の名前を覚えてくれて、俺の名前を呼んでくれて、ケアをしてくれた。それが全てのあの人の器の大きさだと思う。それができるやつ、できないやつ。色々いるけど、俺にとっては最高の人だ…」

真壁のスタンスは正規軍入りしても変わらない。
汚い言葉を使って罵倒し、気に入らない相手をぶちのめし、真っ向勝負をしていくだけだ。
周囲の見方を変えたり、ブレイクするのは"ほんの一握りのきっかけ"かもしれない。
だが、この"ほんの一握りのきっかけ"を摑むのがどれほど難しいのか。
それを真壁は教えてくれた。
試合後のリング上インタビューで真壁はこう語った。

「九分九厘の人間が、『もう真壁は終わりだ』と思ったんだろうな。どうだ、お前ら?(『そんなことないぞ』の声が飛ぶ) だけどよ、そう思われれば思われるほど、言われれば言われるほど、腹の底からこみ上げて来るんだよ。“コンチクショー”っていうのがよ。ホントはよ、オメェらみたいな奴らにゃ死んでも言いたくねぇんだ。死んでも言いたくねぇけどよ、今回ばかりはサンキューな(大歓声&真壁コール)」

真壁節は控室でも冴えわたっていた。

「気分は最高だよ。俺たちはプロレスラーなんだよ。俺は、ブレた覚えは1度もねぇぞ。それで今の地位を掴んだんだ。俺の言いたいことはそれだけだ。誰もがだ。プロレスファン、マスコミ、会社の人間がよぉ、『真壁はもう終わり』だと思ってたろ? ところがどっこいよぉ、そうは問屋が卸さねぇんだよ。俺の反骨心は強すぎんだよ。生半可な奴らじゃ抑えきれねぇんだよ。アキレス腱(切ったの)も因縁だよ な。中邑だよ。(2005年の)G1の最中に欠場したろ? 俺は、もうG1も終わり、選手(生命)も終わりだと思ったよ。もう辞めようと思った。だけどよぉ、悔しければ悔しいほどよぉ(力が出る)。俺もよぉ、こん なちっちぇ時によぉ、プロレスラーに夢を見て育った。
現に俺がレスラーになったろ? 誰に夢を見せんだよ? 見てる奴にだろ。あとは、自分自身だ。
人に夢を与える奴がよぉ、テメェで夢見なかったらよぉ、夢なんて与えられねぇんだよ。時代はよぉ、俺にみてぇなバカな奴を必要としてんだよ。夢のねぇ時代だろ? だから夢を持つんだよ! 」

夢のない時代だから、時代は俺を必要としているんだ。
これは真壁らしいリアリティー溢れる発言である。

真壁はG1優勝後にこんな夢を語っている。

「ライバルは強いて言うなら唯一の同期である藤田和之くん。最初の半年は口も利かなかったけど、そのうち一緒に酒を飲んだり、愚痴を言ったり。今は違う道だけど、『こんだけのもん見せてるぞ、この野郎』と。藤田くんも第一線でやってるし、いつも見ている。絶対に借り返さなきゃいけねえ」

そして、藤田は真壁の活躍を誇りに感じている。

「本当に耐えて耐えて、言葉にできない扱いを受けて勝ち取った優勝。これまでの誰よりも価値がある。約束は覚えています。もし戦うときはどこのリングでも構いません。ただもう少し時間を下さい。真壁さんの優勝と肩を並べられる男になったときは、一挑戦者として名乗りを上げさせてもらいます」

真壁と藤田の約束はいつ成就されるのだろうか。

2010年5月、真壁は中邑真輔を破り、悲願のIWGPヘビー級王座を獲得する。

「雑草にメッセージ? そんなもんはねぇんだけどよ。自分で勝ち取るってことなんだけどな。でもよ、俺がこうやってベルトを巻いてるよな、今な? なんでだかわかるかよ? (ファンから『スーパースターだから!』の声があがる)あ? 聞こえねぇよ、なんだって?(より大きく『スーパースターだから!』の声があがる)わかってんじゃねえか、この野郎。それならいいんだよ。だから、こうやってお前らみたいな物好きな真壁ファンっているだろ? あと、テレビ見てるヤツら。会場に来なくてもいいよ、プロレスが大好きなヤツら? 今夜はよ、うんめぇ酒飲めるだろ、お前らよ。な? あとはいま言った物好きな真壁ファン、俺が泣かず飛ばずだったときに支えてくれたダチ公たち、それと関係者たち、それとテレビの前(にいるヤツら)、ここに来てるヤツら、日本のプロレスファンのヤツら全員によ、一言だけ……言いたくねぇよ、こんなこと。マジでさ、テメェらなんかに言いたくねぇんだ、ホントによ! まぁ、一言だけだよな、一言だけ。サンキューな!(大歓声)」

新日本プロレスの頂点に立った雑草。
真壁のサクセスストーリー第1章はIWGP王座獲得によって、幕を下ろした。
だが、サクセスストーリーには続きがある。
プロレスとはゴールにないマラソンだ。

真壁のサクセスストーリー第2章は同年10月に王座転落後から始まったかもしれない。
彼には新日本より強大な敵が待っていた。
世間である。

テレビ朝日からの勧めでブログを始めた真壁は趣味であるスイーツの紹介記事を書くようになった。これは新日本プロレスの戦略だった。
真壁を世間に出すことで、新日本の広告塔にしていこうとしたのだ。
ブログ開設から3か月後に、なんとテレビ朝日ではなく日本テレビ朝の情報番組「スッキリ!!」からオファーが来たのだ。

こうして始まったのが「スイーツ真壁のうまいっス!!」というコーナー。
プロレスラーが毎週、食レポをする斬新な企画は評判を呼び、真壁の知名度は上がった。
道を歩いていたら「スイーツ」と声をかけられることもあるほどだ。
「スッキリ!!」がきっかけでバラエティー番組やメディアに露出する機会が増えた。
だが、真壁はこの現象に浮かれてはいない。

「俺はプロレスラーという肩書きがあって、それで食レポをやっている。俺が現役プロレスラーだからこそ、食レポをやることにも意味がある。『プロレス辞めたら食レポやればいいじゃん、タレントやればいいじゃん』と言われるが、それが違うぜと俺は思う。現役レスラーで、しかもバリバリのチャンピオンクラスだからいいわけで、そこをはき違えちゃいけないと思っている。だからこそ、プロレス以外のいろんな仕事をいただくことの意味は重々感じているし、それは本業のプロレスにとっても意味のあることだと思っている」

テレビに出過ぎて怠けていると思われるのは絶対に嫌だ。
だから彼は練習だけは欠かさない。
例え顎が骨折しても、数日後には練習は再開した。
食レポを追求するために食材の知識、テレビ屋が使いやすいしゃべり方を勉強した。
何事も無駄なものはない。
この仕事もプロレスに還元できるはずだ。
これが真壁の生き方だ。

テレビに出るのは、プロレスを世間に広めるために行為。
そして、テレビを見て、会場なりプロレス中継を見た人間たちをプロレスの虜にさせるのがプロレスラーの任務だ。

「俺は世間にもっと顔を売ってプロレスの入り口になるっていうか、このジャンル自体を上げていきたいんだよ」

低迷期の新日本を知っているからこそ、オファーをもらえる有難みも真壁には分かる。
真壁は世間とプロレスをすることで、プロレスの底上げをしたいのだ。

リング上では真壁の試合に衰えも、怠けは1ミリも感じない。

2013年1月、かつての後輩・柴田勝頼との喧嘩マッチ勝利した際にこんな言葉を残した。

「プロレスっていう競技の中で一番すげえのは、一番すげえプロレスラーっていうのは相手の技を受けきって、受けきって、すかすんじゃねえんだよ。すかすっていうのは問題外だよ。受けきって、受けきって、最後に勝つからプロレスラーなんだよ」

この言葉に偽りはない。
2013年6月にオカダ・カズチカとのIWGP戦では真壁の凄みと実力を証明して見せた。
2015年1月には石井智宏を破り、NEVER無差別級王座を獲得し、魂の名勝負を残しても見せた。
2016年1月には本間とのコンビでIWGPタッグ王者となった。
真壁刀義はプロレスの最前線で、闘い抜いている。

近年、真壁はこんな言葉を残している。

「プロレスが見せるものって結局、生き様なんだよ」

今の真壁の姿を見て、この発言に意義を言う人間はいないだろう。
真壁はプロレスを通じて男の生き様"を我々に伝道していったのかもしれない。
彼の足跡はまさしく人生の教科書であり、人々に多くの希望と夢、生きる活力を与えている。

「雑草がいなきゃプロレスは面白くねぇんだよ!」

この言葉を誰よりも体現してきた生き様伝道師は、プロレスというジャンルをもっとメジャーにするために「飽くなき挑戦」を続ける。
そして真壁自身が体感したのは雑草もエリートもプロレス道を極めたいと想う者達は各々で苦労し、模索しているという現実だ。

エリートも雑草もない、本物しか生き残らないのがプロレスなのだ。

真壁刀義のサクセスストーリー第2章にまだまだ終わりはない。
今回の敵はとてつもなく強大だ。
それでも退かないのが男の生き様。
もし、真壁が「プロレスを底上げ」に成功したならば、それは執念の結晶といっていいかもしれない。

「俺は夢を追い続ける。諦めねぇんだよ、本物ってのは」

諦めなかった男・真壁刀義は今日もプロレスで"生き様"を伝道する。

【参考文献】
「だから、俺はプロレスで夢を追う!」(真壁刀義/徳間書店)
「泣けるプロレス ベストマッチ: 心優しきレスラーたちの32のエピソード」 ( 瑞 佐富郎と泣けるプロレス製作委員会/アスペクト文庫)
「泣けるプロレス メモリアルマッチ」 (瑞 佐富郎と泣けるプロレス製作委員会/アスペクト文庫)
「ゴング vol.5」(アイビーレコード)