川の流れのように~国民的巨人となった"金のなる木”~/ジャイアント馬場【俺達のプロレス | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第131回 川の流れのように~国民的巨人となった"金のなる木"~/ジャイアント馬場
シリーズ 巨人 ①



昭和20年8月の終戦からすでに半世紀の時が流れています。あの焦土と化した日本から、50年後の日本から、50年後の今日の日本を予想した人が何人いるでしょうか?あれから50年。日本は大きく変わりました。(中略)ところで"戦後"という言葉を聞いて、思い浮かぶスターといったら誰でしょう? 歌手の美空ひばり。俳優の石原裕次郎。プロ野球の長嶋茂雄。これが代表的3人だと思います。彼らは"歌"と"映画"と"スポーツ"によって、我々に夢を与えてくれました。では戦後の国民的英雄は誰だろうか?私は力道山に尽きると思います。昭和30年代、テレビの前にかじりついてプロレスに熱狂した思い出を、私を含めて40代以上の日本人はみんな持っているはずです。(中略)敗戦によってうちひしがれていた日本人の心に、力道山が夢と希望と勇気を与えてくれた。その功績はまさに"英雄"というにふさわしいものだったと私は記憶しています。(中略)力道山は戦後の日本が完全に復興をはたすまでの時間を、疾風怒濤のように駆け抜けていった大ヒーローでした。力道山を通じて我々があとで知ったことは、プロレスはいつも時代や世相と共に存在するということでした。その時々の時代の気分や世相を反映した形で、プロレスは成り立っています。他のあらゆるジャンルと比較しても、プロレスが一番それを色濃く持っていると思われます。だから私は日本のプロレスの歴史は、そのまま日本の世相史とリンクしていると考えています。
【日本プロレス全史 1995年 ベースボールマガジン社/刊行の言葉 ベースボール・マガジン社 社長(当時) 池田郁男】

プロレスは時代を移す鏡である。
力道山はまさしくプロレスを通じて一時代を作り、戦後復興のシンボルとなった国民的英雄だった。
日本における復興を証明したのが1964年に開催された東京オリンピック。
しかし、東京オリンピックを見ることなく、力道山は1963年12月、急死した。

東京オリンピックで復興を世界にアピールした1964年の日本。
今回の主人公は東京オリンピック後の日本を支えてきた一人のプロレスラーの物語。
男の名はジャイアント馬場。
力道山が"国民的英雄"ならば、馬場は"国民的巨人"だった。

「これまでの日本のプロレスは力道山が自身より大きい外国人レスラーをリングで倒していく構図だったが、馬場さんが主役になってからは、馬場さんより大きい外国人レスラーは少なくなり、がらりと風景は変わった」

かつてプロレス実況を担当したことがあるフリーアナウンサーの徳光和夫氏はこう語っている。馬場は日本プロレス史上初の巨人レスラーだった。
209cm 135kgの巨体と「16文キック(カウンターのビッグブーツ)」や「32文ロケット砲(ドロックキック)」、脳天唐竹割り、ココナッツクラッシュ(ヤシの実割り)、ランニング・ネックブリーカードロップ、河津落としといったダイナミックなムーブで、馬場はアントニオ猪木と共に力道山亡き後の日本プロレス界を長年、牽引していった。

そもそも巨人レスラーはどちらかというと、エースの座になるよりは、観客動員や一見さん向けの見世物という枠になるケースが多かった。
巨人レスラーの代表格といえばアンドレ・ザ・ジャイアントがいるが、アンドレはエースの座になるよりも、プロモーター側は彼をタイトル戦線に絡ませるよりも”無冠の帝王”として観客動員のためのキラーコンテンツという位置づけをした。

しかし、馬場は巨人レスラーの枠を越えて、日本プロレス界のエースとして活躍してきた。
今回は、ジャイアント馬場のレスラー人生を追う。

馬場は1938年1月23日新潟県三条市に生まれた。
実家は八百屋だった。
両親は「正しく、素直に、平和に伸び伸びと育ってほしい」と願い、"正平"と名付けた。
生まれたときは平均よりだいぶ小さかった馬場だが。小学5年になってから身長が急激に伸びてきた。

成長ホルモンの過剰分泌により、身体が大きくなると馬場は実家の八百屋を手伝った。
リアカーに野菜を積んで、毎日早朝にリアカーを引いて、売り歩いた。
中学に入学する頃には馬場の身長は180cmを越えていた。

馬場に合う靴は地元の三条にはなかった。
だから特性の下駄や裸足で過ごした。
馬場には優れた運動神経があった。
野球、相撲、バスケットボール、水泳、卓球…。
誰もクラスメイトは馬場には敵わなかった。
高校進学する頃の馬場の身長は190cmを越えていた。

馬場にはプロ野球選手になるという夢があった。
だが足に合うスパイクがない。
仕方なく美術部に入り、絵を描き続けた。

高校二年の春、馬場に野球部長から馬場に合うスパイクを渡される。
馬場はこのスパイクを得て、野球部に入部するとエース・四番を任され、活躍する。
甲子園予選で敗れた馬場に読売ジャイアンツからスカウトされ、1954年11月に高校を中退し、入団した。16歳で馬場はプロ野球選手になったのである。

憧れのジャイアンツに入団した馬場はピッチャーとして1956年には12勝1敗で二軍最多勝を獲得した。二軍で好成績を上げた馬場だったが一軍では大きな活躍はできなかった。
そんな中で1957年の秋、馬場に異変が起きていた。
視力が急激に低下し、病院で診察を受けると「脳腫瘍」と宣告され、手術を受けることになった。馬場は死を覚悟して開頭手術を受けることになる。

手術は成功。
術後一週間で完治できた。
障害も残らなかった。
馬場はこれを「奇跡」と感じていた。

だが、プロ野球の世界で馬場に「奇跡」は起きなかった。
「大男だから足腰が弱い」というレッテル、プロとして生き残るための人間関係の構築などの課題が馬場にはあった。
馬場は身長が高すぎるが故に、マウンド上は見世物小屋と化してしまう。
二軍で最多勝を獲得したにも関わらず、1958年にジャイアンツから解雇され、1960年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)にテスト生としてキャンプに参加するも、風呂場で転倒し、左腕から肩にかけて20数針を縫う大怪我を負った。
この転倒により、左ヒジの腱を切り、中指と薬指が伸びなくなり、馬場の大洋入りはなくなった。
馬場正平はプロ野球の世界から足を洗った。
身長が大きすぎる22歳の巨人が味わった悲しすぎる挫折だった。

「俺は今後どうしたらいいのか…」

地元に帰る?
しっぽを巻いて帰ってきたと揶揄されるだけだ。
相撲取りになる?
子供の時から散々言われてきたからどうしても嫌だ。
キャバレーの呼び込み? ホテルマン?
俺は好奇の目にさらされるのは嫌だ。

「俺は巨人軍をクビになった男だけで終わりたくない。絶対に一旗上げてやるんだ」

ボクシングジムでトレーニングを重ねていた馬場が再起をかけて飛び込んだ世界はプロレスだった。
プロレスなら金にもなるし、テレビに映り全国に存在をアピールできる。
日本プロレスの道場を訪れた馬場は力道山からヒンズースクワット50回×2セットを指示すると、馬場はこれをクリアする。

力道山は「明日からこい」と誘うと、馬場はこう答えた。

「いくらくれますか?」

力道山は馬場に月給3万円(現在でいう36万円)を保証する。
馬場は過酷なプロレスのトレーニングに耐えた。
巡業移動中、青森から北海道の青函連絡船に揺られている期間、スクワットをぶっ通しで行い足元には汗によって大きな水たまりができた。
移動中には60kgのダンベルを持たされた。
足腰を鍛えるためにスクワット3000回は力道山が馬場に課したノルマだった。
受け身、スパーリングを持ち前の運動神経でこなしながら馬場はプロレスラーへの道を歩んだ。

馬場が入門した1960年。
馬場という大器を獲得した力道山はもう一人の大器を獲得している。
猪木寛至、後のアントニオ猪木である。
馬場と猪木は1960年9月30日台東体育館でデビューを果たす。
猪木の相手は先輩の大木金太郎。
馬場の相手は田中米太郎だった。

猪木は大木に敗れ、馬場は田中に完勝した。
二人の明暗はくっきりと分かれた。

1961年にワールド・リーグ戦で来日していたミスターX(ビル・ミラー)ら大物外国人レスラーとの対戦するチャンスに恵まれ敗れるも、力道山は馬場の才能を買い、早期に海外遠征に旅立たせることを思案する。
そのためには海外で生き残る武器が必要だ。
力道山は馬場に自身の得意技である空手チョップを伝授し、手のひらを固くするために木槌で何度も馬場の手を叩いた。血が出て皮膚が破れて、くっつく工程を繰り返すことで馬場の手は石のように固くなった。

1961年7月に馬場は芳の里、マンモス鈴木と共にアメリカ遠征に旅立つ。
プロレスというジャンルを客観視できる頭脳があった馬場はショーヘイ・ビッグ・ババ、ババ・ザ・ジャイアントというリングネームで全米各地で暴れる。
マネージャーには"東洋の大悪魔"グレート東郷がいたので、当然悪役だ。
実は馬場には新人時代から「自分がプロレス界で生き残るのは悪役になるべきかもしれない」と考えていた。
田吾作タイツに裸足に下駄でリングに上がり、塩をまいてしこを踏むという東郷を中心としてアメリカで築き上げた日本人ヒールを演じ、連勝を続ける馬場。
ロサンゼルスやニューヨークを中心に馬場はヒールサイドのトップレスラーとなっていった。

当時は日本人ヒールはアメリカマット界では最大の悪党。馬場は背中に硫酸をかけられ、ナイフでふくらはぎを刺され、車を運転中に銃撃され殺されかかったこともあった。
しかし、馬場には東郷にはない恵まれた運動神経と体格があった。
典型的な日本人ヒールの枠に収まる人材ではなかった。
関係者達は馬場をこう評価していた。

「馬場の大きさは異常だと思われたが、いったん彼の試合を目にするとファンはすぐに心変わりした。本物のアスリートであり、それゆえアメリカ遠征に来た時に、塩を撒くような日本人ヒール像を演じる必要はなかった。彼は東郷に完全に服従していた。試合後の控室で東郷は馬場を殴りつけ、下駄で側頭部を殴りつけた。これには本当に驚いた。馬場は素晴らしい青年で、私は折に触れ、彼を守ろうとした。馬場を育てたいのなら、なぜジムへ行ったり、マットの上で練習したりしないのか私には理解できなかった。馬場は東郷に対して何も言えなかったが、すでに東郷よりも人気のあるスターだった」
(フレッド・ブラッシー)

「馬場はただの巨人レスラーではない。仮に馬場がデクの棒だったら、レスリングの技術を身につけていなければ通用しない1960年代にトップを取れなかっただろう。私は馬場をメインに起用したのはレスラーとしての力量を認めていたからだ。だから、馬場の身長があと20cm低くても同じように扱っていただろう」
(ビンス・マクマホン・シニア)

それでも東郷は馬場を人間ではなく"商品"として奴隷のごとく扱った。
馬場はその理不尽な仕打ちを時には泣きながら耐え忍ぶしかなかった。

そんな馬場にアメリカマットでの師匠となるレスラーとの出会いが待っていた。
フレッド・アトキンス。
東郷はアトキンスを馬場のマネージャーに指名したのだ。
オーストラリアの猛牛と呼ばれ、かつて力道山を破った実績を持つプロレスラー。
さらにマネージャーやトレーナーとしても一流で、シュートにも強かった。
ただあまりにも強すぎるが故に、世界王者達から敬遠され、タイトルには縁がなかった。

アトキンスはスパーリングで馬場を徹底的に鍛え上げた。
来る日も来る日も馬場はアトキンスとの関節技の極めあい、綱の引っ張り合いを続けた。

控室のレスラー達は馬場にこう声をかけたという。

「お前、よくアトキンスのところから逃げ出さないなぁ…」

しかし、馬場はこう受け止めていた。

「今の生活は俺のために必要なことなんだ」

フレッド・ブラッシー、バディ・ロジャース、ザ・デストロイヤーといった各地の世界王者のライバルとなった馬場は公式に認定されてなかったが、この時期にNWA世界ヘビー級王座も獲得していた。キャリア数年の巨人レスラーが当時世界最高峰の王座と言われたNWA王座を巻くのだから、馬場の技量はプロモーターにそれほど認められていたのだろう。

1963年3月に馬場は一時期日本に帰国する。
だがアトキンスと東郷は馬場の再渡米を希望していた。
力道山は馬場に「マット界のことはお前に任せる」とニンジンをぶら下げた。
馬場は彼らにとって"金のなる木"だったからだ。

力道山は馬場の帰国会見は自分はアメリカでバディ・ロジャースを破った、ロジャースはだらしない奴だという大ウソをついたことがあった。馬場にとってロジャースはライバルであり、尊敬するプロレスラーだった。
ただただ呆れるしかなかった。
事業を拡大し、資金がどうしても必要だった力道山はアメリカで馬場が稼いだ金に手をつけ、馬場から15000ドル(現在の約3000万円)を借りた。
馬場が力道山から受け取ったのは5000ドル分に相当する180万円(現在の約1000万円)だったという。馬場は力道山に借用書を書かせた。
それは馬場が力道山の奴隷ではなく、一種の対等な立場に立てることを意味していたのだが、力道山にとっては借用書は紙切れ一枚に過ぎなかった。

アメリカで経験を積んだ凱旋帰国後の馬場のプロレスについて当時新弟子だったグレート小鹿はこう語っている。

「足の使い方、ロープの使い方、フットワーク、試合の流れの作り方。馬場さんは本当に素晴らしかった。試合の流れの中で、どの場面で自分を大きく見せればいいのかを、馬場さんは全部わかっている」

馬場の活躍は日本プロレスの先輩レスラーの嫉妬を買った。
あるレスラーは「馬場に喧嘩をふっかけて怪我をさせろ」と後輩レスラーを焚き付けたが、来日していた馬場のトレーナーであるフレッド・アトキンスに制裁され、腕をへし折られた。
アトキンスは"金のなる木"である馬場を力づくで守り、不穏な動きはやがて収まった。

東郷とアトキンスの再三の説得に馬場を後継者として考えていた力道山は馬場の再渡米を決断する。
1963年10月に馬場は再渡米する。

ハワイで短期間のサーキットに出てから、アトキンスが暮らすニューヨーク近くのカナダのクリスタルビーチにたどりついた馬場はここで練習漬けの日々を過ごす。
これまでも過酷な練習に耐えてきた馬場が「死んだほうがマシ」と語るほどだった。
この練習にさぼると、アトキンスから口をきいてくれない。
馬場はアトキンスに感謝している。
そして、頑固で冷酷でも、どこか温かかったアトキンスが人間的に好きだった。
もしかしたら力道山よりも…。

WWE(当時WWWF)、NWA、WWAの世界三大タイトルに連続挑戦という偉業も成し遂げた。
聖地マディソン・スクウェア・ガーデンでメインイベンターとなった。
馬場はアメリカマット界で伝説を残した。プロモーター達も"金のなる木"を必要としていたのだ。
しかし、1963年12月、師匠・力道山が急死。
馬場を巡る日米の争奪戦が始まった。

アメリカに留まってほしい東郷にはこう言われた。

「力道山が死んで、日本のプロレスは終わりだ。だからお前はアメリカに残れ」

東郷が用意した契約書には「年収手取り27万ドル(現在の5~6億円)」と破格の金額が提示された。だが、馬場は東郷という人物が嫌いで信用できなかった。

資金力では東郷に太刀打ちできなかった日本プロレスは念書を馬場に渡す。

「エースの豊登と同等の給料と立場を保証する」
「力道山が貴君に残した借金は、日本プロレスが責任をもって返済する」
「数年後にはエースにし、日本プロレスの重役として迎える」

馬場が選んだ道は帰国だった。
実は内心では馬場にアメリカに残ってほしいと願っていたもう一人の師匠アトキンスが「お前自身が考える問題で、結論はお前が出せ」と言ってくれたことで、冷静に考えることができた。
馬場はもしきちんとした契約がなされたなら、日本でプロレスをするべきだと思うようになり、帰国の道を選んだ。

1964年4月に凱旋すると馬場は豊登とアジアタッグ王座を獲得、1965年11月には"生傷男"ディック・ザ・ブルーザーを破り、力道山以来の日本人二人目のインターナショナルヘビー級王座を獲得し、日本プロレスのエースとなった。
王者として母校の新潟県三条市にある三条実業高校で試合をした。
馬場はプロレスラーになることで一旗を上げることによって、故郷に錦を上げた。
試合後、拍手をもらったとき馬場は泣きそうだったという。
馬場は力道山に代わる国民的英雄となり、日本プロレスを支えた。

馬場の後にアメリカ遠征に旅立ったアントニオ猪木は日本プロレスを追放された豊登が設立した新団体「東京プロレス」に参加するも崩壊し、日本プロレス復帰すると馬場と伝説のタッグチーム「BI砲」を結成、インターナショナル・タッグ王者としてあらゆるタッグチーム相手に防衛を続けた。「BI砲」は日本のプロレスファンを熱狂させた。
猪木には豊富な練習量による絶対的な強さと才能があった。
だから先輩・馬場にも負けない自信があった。
馬場VS猪木を望むファンは多かったが、時代が二人の対決を望まなかった。
日本プロレスがこれを許さなかった。
プロモーターからすると二人がリング上で相見えることは、一方の商品価値を落とすことになり、それはプロモーター側にとってはマイナスだ。

何度も猪木から「対戦要望書」を突きつけられても馬場は相手にすることはなかった。
1979年8月の「プロレス夢のオールスター戦」でBI砲が復活し、試合後猪木は馬場に馬場との対戦をアピールしても、二人の対戦は実現しなかった。
これは馬場による"優雅なる無視"だった。
プロレスファンは"馬場派"と"猪木派"に分断された。

両雄、相見えず。
その構図は永遠に変わることはなかった。

日本プロレスは1970年代に入ると内ゲバを繰り返した。
経営方針に多くのレスラー達は不満を抱いていた。
もちろん馬場も猪木もだ。
猪木が団体を乗っ取るクーデター計画があることが発覚すると追放され、猪木は新団体「新日本プロレス」を旗揚げする。

日本テレビとNET(テレビ朝日)の二局中継していた日本プロレスが、日本テレビ側の看板レスラーである馬場をNETに中継してしまったことに、日本テレビが激怒し、日本プロレスの中継を打ち切り、馬場に独立を促した。
当時の日本テレビの社長・小林與三次氏はこう語っていたという。

「プロレスは正力松太郎さんの遺産だから日本テレビはプロレスを続けなければいけない。そのためには大スターのジャイアント馬場でなければいけない」

当時のプロレス中継は30%の視聴率を叩きだす優良コンテンツ。
日本テレビは簡単に手放すわけにはいかなかった。そして、馬場はプロレス中継においての"金のなる木"だった。

慎重居士・馬場はテレビ局がバックアップする中で独立を決意する。
1972年7月に日本プロレスに辞表を提出した。
実は馬場は38歳になって日本プロレスを退団し、ハワイに移住してアメリカマット界に戻るという夢があったが、人生計画の軌道修正を余儀なくされる。
個人主義者だった馬場にとって、団体の旗揚げなど予期していない事態だった。
新団体「全日本プロレス」はテレビ局の豊富な資金力を盾に多くの強豪外国人レスラーを獲得していく。お膳立ては迅速に整っていった。

1972年10月21日、東京・町田市体育館で全日本プロレスは旗揚げ戦を行った。
34歳になった馬場だったが、巨人レスラー特有の成長ホルモンの過剰分泌によって、老化が襲ってくる。
力道山が所有していたインターナショナル・ヘビー級王座を「PWFヘビー級王座」に改め、馬場は初代王者となり、38回連続防衛を果たし、エースとして団体を牽引していった馬場。
エースとして、社長として、プロレスラーとして馬場は試練に立っていた。

観客動員に苦戦した。
視聴率にも苦戦した。
老化によって馬場の腕は細くなり、スピードも鈍るようになった。
身長の大きさや動きの遅さがお笑い芸人のネタにされ、嘲笑の対象となった。
これを馬場は耐え忍ぶんだ。
馬場にはテクニシャンだったのでごまかしながらプロレスができたが、それも限界だった。

ライバル団体の新日本プロレスはテレビ朝日の中継が始まり、アントニオ猪木が過激なストロングスタイルで馬場にはできないプロレスでファンを熱狂させていた。毎週20%の視聴率を獲得。全日本プロレス中継は10%台に低迷していた。

日本プロレスは洋風仕立ての和食と評したのはプロレスライターの竹内宏介氏だったが、馬場が全日本プロレスで展開していたのは日本プロレスの延長で、新日本プロレスが展開したのは洋風ではなく、「何が飛び出すかわからない」創作和食だった。
団体としてオリジナルのプロレスを先に世間に提示したのは馬場ではなく猪木だった。

それでも馬場は高額のギャラを外国人レスラーに払い続けた。
彼らは馬場をこう称える。

「馬場は世界一のプロモーターだ」

その一方で日本人レスラーには有望な新人ジャンボ鶴田を除いた多くのレスラーは冷遇された。レスラーは個人事業主というのが馬場の考えだ。
時代が変わり、レスラーに福利厚生がつけたり、怪我の治療費を団体側が負担するプロレス団体が出てきても、全日本プロレスに福利厚生が長年、つかなかったのは馬場のこの哲学が原因なのかもしれない。また日本プロレス時代に馬場は日本人レスラーとの人間関係にかなり苦労していた。だから、どこかで彼らを信用できなかったのかもしれない。

1974年12月に馬場はジャック・ブリズコを破り、日本人初のNWA世界ヘビー級王座を戴冠する。馬場が猪木との差別化を図るために求めたのは世界王座というブランドだった。

馬場がプロレスラーとして満天下に健在ぶりを示したのは1982年2月4日の東京体育館でのスタン・ハンセン戦だった。ハンセンは新日本プロレスで最強外国人レスラーに君臨し、全盛期を迎えていた。対する馬場は当時44歳。持病の腰痛もあり、ハンセンとの一戦は「引退をかけた大一番」と位置づけされていたが、馬場は大一番で底力を見せつけた。
実は馬場はこの試合に向けて、深夜の自宅の地下室で毎日、特訓しコンディションを整えていたのだ。

ウエスタン・ラリアットを必殺技にしていたハンセンの左腕を徹底的に殺し、フットワークやテクニックでハンセンに対抗。ハンセンのブルファイトも馬場は正面から受け止めた。
この試合は両者反則で終わるも、馬場健在を示し、同年のプロレス大賞年間最高試合に選出されたほどの衝撃だった。

馬場のプロレス哲学を証明して見せたのは、自身ではなくジャンボ鶴田や天龍源一郎といった弟子達だったのかもしれない。
1987年から始まった鶴龍対決は互いのアイデンティティーをかけた巨漢二人が描く"人生闘争"だった。

馬場の定義はトップに立つレスラーは大きくなけらばいけない。
ただ大きいだけではない。
テクニックもスピードもあり、頭脳もスピリットもあるビッグガイによるダイナミックなプロレスこそ、馬場が考えた"王道プロレス"であり、"究極のプロレス"だった。
だから馬場は当初、日本人対決路線に取らずに、あくまでも日本人VS外国人、外国人VS外国人という路線を貫いた。
しかし、時代の流れが馬場のプロレス哲学に次々と追記をさせた。

身の回りの世話役としか元来は考えていなかった若手レスラーの存在を周囲の助言を受けてクローズアップさせ、業界に誇れる優秀な若手達を輩出してきた。

レスラーの格とプライドを重視していた馬場だったが、ジャパン・プロレスの長州力を参戦させるとこの考えを改め、日本人対決を実現させていった。
長州離脱後に起こった天龍革命で、馬場はファンの有難みを知る。
グッズの売上に貢献できるのならと、自ら"見せ物"になって会場の売店にイスに座り続けた。

「俺の偏屈な頭が曲がったのか、真っ直ぐになったのかしらんけれど、なるべくファンの要望に応えたい。あとは一生懸命やっている奴にはチャンスを与えたい。どこへ行っても一生懸命にやるのが今の全日本プロレス。全日本プロレスは面白いことは何でもやる」

馬場は賢い男だ。
だから臨機応変に対応し、必要と感じた場合は取り入れたのが馬場のプロレス哲学だった。
命を削るような四天王プロレスが理解できなくなっても、ファンが望むならば排除するという考えはなかった。

ファン第一主義は行動にも表れる。
1995年の阪神大震災で被害を受けた兵庫県に馬場は訪れ、ファンクラブ会員の安否を心配し、馬場自身がファンに電話に一軒一軒、水や食料を供給しに訪れたという。
中には泣き崩れるファンもいた。
この行為を馬場は公にすることはなかった。
心優しき男のダンディズムだった。

1985年7月にハンセンが保持するPWF王座に挑戦し敗れた馬場は第一線から退き、解説者やタレント業、社長業と忙しい日々を過ごした。
プロレスラーとしては前座でファンを沸かせた。
タレントとしてはクイズ番組のレギュラーとしてお茶の間を沸かせた。

馬場のキャラクター・人柄はCMやプロレス中継以外のテレビ番組を通じて、幅広い人気を集めた。中でも準レギュラー出演していた日本テレビ系クイズ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』では、様々な珍解答で視聴者の笑いを誘った。「何を作っているのでしょうか?クイズ」で、終了5秒前にボタンを押した(実際には清水ミチコが押したもの)が、正解の「ボクシンググローブ」がほぼ完成の形で画面に映っているにもかかわらず堂々と「赤べこ」と答え、司会者の逸見政孝を始めとする出演者全員を悶絶させたこともある。逸見はこの馬場の発言で笑い転げ、しばらく起き上がれなかったほどであった。しかし、一方で自身のなじみのある問題ではVTRが始まって数秒のうちにボタンを押し正解する等冴えた一面を披露した(正解は馬場が大好きな葉巻)。特番では代表者になるもののボタンを押さず、業を煮やして高田純次がボタンを押したこともあった。さらに、そのときの正解は「トゥーシューズ」だったために高田がバレリーナを真似て正解を伝えたが、本人は「オッパイにあてるやつ」と答え、周りを悶絶させたこともあった。早押しボタンを押さないことは週刊少年ジャンプの読者ネタにもされるほどであった。ごくまれに逸見・福澤などに「馬場さん、押す気ありますか?」と聞かれることがある。逸見の場合はさらに「わかったら押すんですよね?」と念押しする。それに対して馬場は「そうですよ!」と返す。早押しボタンのすぐそばにコーヒーを置いていたため、隣に座っていた川合俊一に「馬場さん、早押しボタンの上にコーヒーを置いたら危ないんじゃないですか?」と突っ込まれていた。サブ司会の渡辺正行に「押す意志無いじゃないですか」と突っ込まれた。放送143回目のモグラたたき早押しクイズで初めて早押しボタンを押した際にはスタジオ内が大騒ぎとなり、馬場自身も照れてしまいセットの裏に隠れてしまった程だった(そのとき押していたのは実は早押しボタンではなくミリオンスロットのボタン。その回のEDではその場面が使われることになった)。同番組の特番では、パネラー席の早押しボタンが付くかのテストが行われたが、馬場は思いっ切りデスクを叩き、パネラー席を破壊してしまったことがある。山城新伍は、「(演出として)スタッフと相談して、馬場さんに内緒でデスクボードに細工をして落ちやすくしていたが、馬場さんはそれを察していて、知らんふりしてボードを叩き落してくれた」と語っている(スタジオはパニックになり山城は次のクイズの答えを見ていた)。番組初期の頃は右から三番目の解答者席に座っていたこともあったが、基本的には一番左端の席が定着しており番組内では「馬場さんの席」の通称まで付いた程であった。番組中期以降は蛭子能収と交互に準レギュラーとして左端の席で解答した。(中略)山城は逸見の追悼スペシャルにて、逸見が胃癌の闘病生活に入ることを告白してから、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、馬場は大好きな葉巻を断ったエピソードも紹介し、馬場の人柄を讃えた。逸見が亡くなってから、自らのトレードマークだった葉巻を口にすることは生涯無かった。(中略)最終回スペシャルも自身の試合が終わってから、その足でスタジオへ駆け付け、馬場の名場面特集も組まれた。
【wikipedia/ジャイアント馬場】

馬場は"国民的英雄"から誰からも愛される"国民的巨人"となった。
「馬場さん」、「御大」という愛称で呼ばれるようになり、神や仏のように崇められるようになったのもこの時期からだ。

作家の内館牧子氏は馬場をこう評している。

「人間はひとつのことを徹底して徹底して徹底して追い求めると、"あたたかな寂寥感"が漂うものだと、私は馬場によって気づかされた。それこそが"解脱"と呼んでいいのではないか。晩年の馬場はまさしく、その境地だった」

そういえば盟友のザ・デストロイヤーがこう語ったことがある。

「日本にきて仏像を見ると、いつも馬場のことを思い出す。馬場はブッダなんだ」

1989年11月29日の札幌で行われた世界最強タッグ決定リーグ戦の公式戦で天龍源一郎に敗れ、日本人初のピンフォール負けを喫した。
また、1994年3月4日の日本武道館大会には若きエース三沢光晴にタッグマッチで敗れた。
それでも馬場は試合後、生涯現役を誓った。

三沢に敗れた時、馬場はこう思っていた。

「武道館の天井を俺はいつまで見れるのだろうか」

馬場の肉体はどんどん衰えていく。
プロレスは変わっていく。
世の中も変わっていく。


創立25周年記念として開催された1997年10月の日本武道館大会での三沢光晴VS小橋健太の試合終盤に、放送席にいた解説の馬場は涙を流したという。

全日本プロレスをここまで隆盛に導いたという感慨の涙だったのか。
命を削り合う二人のプロレスラーに見合う待遇を与えられていないという慚愧の念からきた涙だったのか。
もう自分には彼らのプロレスが分からないという困惑の涙だったのか。
あの涙にはあらゆる感情が入り交じったものだったと推測できる。

時代の荒波の中で、馬場は流れに身を任せるようになる。
60歳の還暦になってもリングに上がり続けた。
アントニオ猪木が引退しても馬場は引退はしなかった。
そして、1999年1月31日…。

日本のプロレス界を長く支えてきたジャイアント馬場(本名・馬場正平=ばば・しょうへい)さんが1月31日午後4時4分、肝不全のため、東京都新宿区の病院で死去した。61歳だった。葬儀・告別式の日取りは未定。 馬場さんは新潟県出身。プロ野球の巨人に投手として入団したが、けがなどで引退した。1960年、力道山に認められてプロレス界に転じた。209センチ、140キロの巨体を利した「16文キック」などの技で人気を集めた。 力道山の死後、「全日本プロ・レスリング」を設立、社長を務めながらリングに立った。昨年12月5日の日本武道館での試合を最後に体調を崩し、同月7日に都内の病院に入院した。
【1999年2月1日付朝日新聞】

馬場が去ってから日本のプロレス界は混迷期に突入する。
K-1やPRIDEといった格闘技がプロレスの人気を侵食し、プロレスは低迷期を迎えた。

全日本プロレスは新社長となった三沢光晴とオーナーサイドとの対立により、三沢は団体を去り、多くのレスラーが三沢に追随し、新団体「プロレスリング・ノア」が設立。
全日本プロレスはその後、三人だけの所属レスラーになっても持ちこたえ、新日本プロレスから移籍してきた武藤敬司が新社長となり、パッケージ・プロレスが確立されたが、今度は武藤と新オーナーとなったファンド会社の社長が対立し、武藤は団体を去り、半分のレスラーが武藤に追随し、新団体「WRESTLE-1」が旗揚げされた。
全日本で三冠王者となった曙が元オーナーの馬場夫人である馬場元子氏の後ろ盾を受けて「王道」という団体も生まれた。

1992年10月、全日本プロレスは創立20周年パーティーを開いた。
馬場はこのような挨拶を行った。

「20年前(1972年)に、プロレスという小さな木を植えました。やっと…花が咲いた今日この頃であります」

馬場が植えた小さな木には、分裂の運命が訪れた。
馬場も鶴田も三沢も天国に旅立った。
これは悲劇なのか、当然の事象なのか?
全日本プロレスが築いた王道プロレスの花の枝分かれに終わりはないのだろうか…。

2015年1月31日、全日本プロレス・後楽園ホール大会。
「ジャイアント馬場十七回忌追善特別興行」

馬場がこの世を去って16年。
馬場が全日本プロレスを設立してから42年3か月。
馬場がプロレス入りしてから55年9か月。

この興業を見に来た観客の中には馬場をリアルタイムで知らない人間もいた。
そして、馬場のプロレスにリアルタイムで触れてきた往年のファンも来場していた。
馬場という名の元に集った追悼興業。
それは新旧の全日本プロレスファンの集会だった。

メインイベント終了後、馬場の懐刀として長年、支えてきた渕正信はマイクでこう語った。

「みなさん、これからも馬場さんのことを忘れないでいてください!」

渕の発言を天国の馬場はどんな想いで聞いていたのだろうか!?
馬場のプロレスは時代や世代を越えて生きていく。

力道山亡き後の日本のプロレス界はジャイアント馬場とアントニオ猪木の二人のライバルによって、盛り上がり、今や団体の数だけでも30を越える勢いです。これからのプロレス界がどんな未来を創っていくのかは、この世界に身を置くすべての人間に課せられたテーマだと思います。そのためには我々はもう一度「過去から学ぶ」という原点に戻るべくこの「日本プロレス全史」を世に問いたいと考えています。
【日本プロレス全史 1995年 ベースボールマガジン社/刊行の言葉 ベースボール・マガジン社 社長(当時) 池田郁男】

プロレスライターの小佐野景浩氏は馬場について、以前こう評したことがある。

「慎重居士と言われた馬場が好きな言葉は"臨機応変"。その時々の状況に対応しながら変節することで、全日本プロレスは最終的に王道プロレスと呼ばれる平成黄金期を迎えた。変節を繰り返しながら、悠然と構えて自然体で時の流れを受け入れていたからこそ、懐の深いジャイアント馬場というイメージは揺るがないのである」

国民的歌手である美空ひばりの名曲「川の流れのように」はまさしく馬場の人生そのものだ。

知らず知らず 歩いて来た
 細く長い この道
 振り返れば 遥か遠く
 故郷が見える
 でこぼこ道や
 曲がりくねった道
 地図さえない
 それもまた人生
 
ああ 川の流れのように
 ゆるやかに
 いくつも 時代は過ぎて
 ああ 川の流れのように
 とめどなく
 空が黄昏に 染まるだけ

生きることは 旅すること
 終わりのない この道
 愛する人 そばに連れて
 夢探しながら
 雨に降られて
 ぬかるんだ道でも
 いつかは また
 晴れる日が来るから
 
ああ 川の流れのように
 おだやかに
 この身を まかせていたい
 ああ 川の流れのように
 移りゆく
 季節 雪どけを待ちながら

ああ 川の流れのように
 おだやかに
 この身を まかせていたい
 ああ 川の流れのように
 いつまでも
 青いせせらぎを 聞きながら
【川の流れのように 美空ひばり(1989年)/日本コロンビア 作詞 秋元康、作曲 見岳章】

「川の流れのように」に自らの人生を重ねていた美空ひばりは当初はアルバムの一曲に過ぎなかったこの曲だけのシングル発売をスタッフに熱望した。普段はスタッフの意見を尊重する彼女の熱意に圧され、急遽この曲はシングルカットされ、それが彼女の最期のシングルとなった。

日米で"金のなる木"として必要とされた国民的巨人はプロレスで人生を謳いあげていた。時流を読むことで、自然に流れに身を任せることで馬場は壮大なスペクタクルな人生を送った。

「過去や歴史を知ることで、未来に繋がる」

我々は馬場の生涯から学ぶべきものはまだまだあるのかもしれない。

「王道プロレスとは何か?」
「プロレスとは何か?」
「人間とは何か?」
「世の中とは何か?」

今後も我々は、何か迷いが生じたり、壁にぶち当たった時、ジャイアント馬場の生涯を辿ることで心の"沐浴"を続け、各々が答え探しの旅に出るというサイクルが続いていくのだ。

川の流れのように生きた馬場は死後、彼自身が"深き川"となったのである。