巨大で邪悪な問題児によるサイコな世界征服/セッド・ビシャス【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第132回 巨大で邪悪な問題児によるサイコな世界征服/セッド・ビシャス
シリーズ 巨人 ②



セッド・ビシャス(シッド・ビシャス)は本当に摩訶不思議なプロレスラーである。

206cm 144kgの桁外れの体格は巨人レスラーのカテゴリに属し、筋骨隆々の肉体、凶暴で人間離れしたパワーを持ちながら、プロレス下手でレスラーとしての器量もあまりなく、素行不良で問題行動が多く、レスラー仲間達には嫌われていた。なのに1990年代のWWE(当時WCW)やWCWでは何度も世界王者になっている。
信頼と尊敬が重んじられるアメリカン・プロレスのトップレスラーグループにおいて彼の存在は異端児の中の異端児だ。

あの"アメリカのミスター・プロレス"リック・フレアーは語る。

「奴は無能で態度がデカいだけの男だ」

それでも時代は彼を必要とした。
これは1990年代のアメリカン・プロレスにおいて不可思議現象である。
今回はセッド・ビシャス、セッド・ジャスティス、サイコ・セッド、ビシャス・ウォリアーとあらゆるリングネームで活躍した邪悪な問題児のレスラー人生を追う。

セッド・ビシャスは1960年7月4日アメリカ・アーカンソー州ウェスト・メンフィス という田舎町に生まれた。セッドは母子家庭で、学生時代はかなりの悪ガキだったという。
野球やフットボールで汗を流し、秋になると叔父の農場を手伝っていた。
将来は何になりたいという願望などなかった。
何がやりたいかもわからなかった。

アメリカン・フットボールリーグUSFLのヒューストン・ギャンブラーズに入団し、プロのフットボーラーになるも長続きせず辞めた。

地元に戻り、トラクターに乗り、畑仕事をしていたセッドに転機が訪れる。
メンフィスのジムでWWEで活躍していたスーパースターであるランディ・サベージと出会ったのだ。サベージはセッドに惚れ込み、プロレス入りを勧めた。

日系レスラーのトージョー・ヤマモトのコーチを受けて、1987年にプロレスデビューする。アイスホッケーのマスクをつけた覆面レスラーに変身して、アラバマ地区で活動する。
その後、テネシーに転戦するとセッド・ビシャスに改名する。
初来日は1989年2月の新日本プロレス。
ビシャス・ウォリアーというリングネームでいきなり藤波辰巳(現・藤波辰爾)が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦するチャンスを獲得する。
試合には敗れたものの、彼はオリジナルテクニックを披露する。
カナディアン・バックブリーカーに抱えて、エアプレーン・スピンのように旋回し、落下させる大技。スピニング・バックブリーカー、あるいはヘリコプター・スラムとも呼ばれた荒技を持つセッドには大気の片鱗が伺えた。

実はセッドはアメリカン・プロレスにおいてパワーファイター達の先駆けとなるムーブをやってのけている。
今や多くの怪物レスラー達が多用するチョークスラムをテレビで初公開したのはセッドだった。片手で喉元をつかみ豪快に叩きつけるチョークスラムはまさに圧巻。

またパワーボムもそうだ。彼が使う以前はパワーボムはポピュラーな技ではなかった。彼がパワーボム(セッドの場合は投げっぱなし式)をフィニッシャーにすることでその威力を全米に証明して見せた。

そう考えるとセッドはある意味、アメリカン・プロレス史に一石を投じたともいえる。

その後、セッドはWCWに入団し、全日本で活躍する203cmの長身ダニー・スパイビーとスカイスクレイパーズを結成し、ロード・ウォリアーズ、スタイナー・ブラザーズとタッグ戦線で抗争を繰り広げた。

この当時のセッドの試合を見た記憶がある。
試合はまだまだ粗削りで力任せでやっている印象は強かったが、底知れぬ可能性と潜在能力を感じさせるものだった。1980年代のパワーファイターの代表格ともいえるロード・ウォリアーズ相手にサイズでもパワーでも圧倒してのけたのは衝撃的だった。

1990年5月。
セッドは名門ユニット「フォー・ホースメン」に加入する。
これはセッドの才能に惚れ込んだ団体サイドにゆるプッシュとホースメンの主要メンバーのリック・フレアーとアーン・アンダーソンの彼に対する期待だった。
だが…。

アーン・アンダーソン
「セッド・ビシャスの魅力はパワー、サイズ、恐ろしさだ。業界を渡り歩くすべをよく知る男だ。俺達はヤツを教育することでチームプレーヤーにできると思っていた。だがヤツは初日から和を乱した。あいつはフォー・ホースメンを利用することだけを考えていたようだ」

バリー・ウィンダム
「プロレスの技術はないに等しい」

リック・フレアー
「恥ずかしい。ヤツを仲間と呼ばねばならんとは…。あの男の加入は間違いだった。バカバカしいほど、ヤツと我々とはレベルが違い過ぎた」

フォー・ホースメンに馴染めず、嫌われたセッドは孤立していく。
これはプロレスラーとしての器量のみならず、彼の性格の悪さが災いしたのかもしれない。
ビッグマッチでは怪物性を発揮するが、タイトル戦線にはなかなか絡まない。
遂には233cmの新大巨人エル・ヒガンテの相手を務め、秒殺されるという始末。

そんな中でセッドの秘めたるスター性に目を付けたのがライバル団体WWEだった。
1991年5月にセッドはWWEに引き抜かれる。
リングネームはセッド・ジャスティス。
邪悪(ビシャス)な男は一転して、正義(ジャスティス)な男に転身した。

同年8月のサマースラムにおいてメインイベントの特別レフェリーを務めたり、WWEのカリスマであるハルク・ホーガンの後継者として注目を浴びる。
ホーガン後継者筆頭だったアルティメット・ウォリアーがWWEを離脱し、オーナーのビンス・マクマホンはホーガンよりも大柄で若くてパワーがあるセッドに目をつけたのかもしれない。

これまで散々、悪党を演じてきた(セッドの場合は演じるというよりは素を出していたのかもしれないが)セッドがベビーフェースを続けるのにはやはり無理があった。
そのアクの強い風貌と性悪な荒くれ者という本性は彼をヒール転向に導いた。

1992年のロイヤル・ランブルでこれまで共闘路線をひいていたハルク・ホーガンを裏切り、ヒールになると、セッドはホーガンを標的にしていく。

"ドクター"ハービー・ウィップルマンをマネーシャーに従え、セッドはテレビマッチで暴れまわる。
得意のチョークスラム、パワーボムでジョバー(やられ役)達をバッタバッタと倒していく。
そして、試合後にはホーガン得意の耳当てポーズまでやる暴挙を見せた。

「ルール・ザ・ワールド(世界征服)」

セッド自身とマネージャーのウィップルマンがさかんに強調していた文句はエゴと凶暴さに満ちていた。デビューして5年、期待される怪物がいよいよスーパースターへと上り詰めようとしていた。

「すべてはうまくいっていたんだ。ファーストクラスの扱いを受け、まわりの人間が常に俺のために何かをしてくれようとしていた。俺は俺で、なんだか急に偉くなったような気がして、そのつもりで胸を張って歩いていた。正直な話、プロレスラーになって、あんなにいい気分を味わったことはなかった」

1992年のレッスルマニアのメインイベントでホーガンとのシングルマッチが実現するも、反則負けになり、この抗争は続くものかと思われたが…。
一か月後にはセッドはWWEを去っていた。

「ミステークを犯したんだ。WWEに入って、レッスルマニアのメインでハルク・ホーガンと闘った時は、これで俺は願っていたものをすべて手に入れたと思ったよ。今まで足を踏み入れたことのない次元に到達し、しっかりと右足を踏みしめ、片足を踏み入れようとしたところで、下から足元をすくわれた。バイセップ(上腕二頭筋)を切って、肺の一部が潰れて、ケガしたタイミングも悪くて、そんなことが重なって、気がついた時にはすべてを失っていた。顔に平手打ちを食らったみたいな気がしたよ。さぁこれからって時にケガをしてリングを離れたとたん、もうゴミ扱いだ。一夜たったら、ただの人ってやつよ」

実は一説にはプロレスをやるよりも、地元で仲間達とビールを飲みながら、ソフトボールを楽しんだ方がいいからWWEと喧嘩して離れたという噂も上がったが、本人は否定している。

1993年にWCWに復帰する。
ヒールサイドのトップレスラーとして当時WCW世界王者のベイダー(ビッグバン・ベイダー)と"マスター・オブ・パワーボム"という最強チームを結成した。
ちなみにこの二人の仲は最悪だったと言われている。
若手時代、プロレスを教えてくれたというカーネル・パーカーをマネージャーにつけ、エースのスティング、デイビーボーイ・スミス、ダスティン・ローデスと対戦していくセッド。

「俺はWCWによくなってもらいたい。そういう気持ちでここに戻ってきたつもりさ。盛り上がっているアリーナをリングの上からながめるほど気持ちのいいことはないからな。今はこのオフィスをサクセスフルにすることを考えたい」

そう意気込んでいたセッドだったが、プロレス史に汚点を残す事件を起こす。

同年10月28日、イギリス遠征中にアーン・アンダーソンと口論になった際、彼の胸部・腹部をハサミで数箇所突き刺し、解雇される(「アンダーソン事件 / Arn Anderson's stabbing incident」とも呼ばれる)。ステロイド剤の常用による情緒不安定が原因とも言われる。
【wikipedia/セッド・ビシャス】

セッド・ビシャスの姿はしばらくリングでは見れない。
或いはこのままフェードアウトするのか。
業界に馴染めず、悪評を重ねた単なる問題児のままで終わるのか。

しかし、当時のアメリカン・プロレスは何故かセッドを必要としていた。

1995年2月、セッドはショーン・マイケルズのボディーガードとしてWWEに復帰する。
リングネームはサイコ・セッド。
精神異常という意味のサイコはセッドにうってつけのリングネーム。
アンダーソン事件やドレッシングルームでの数々の悪評をそのままキャラクターとしてリングに持ち込んだのだ。

ショーンのボディーガードはすぐにやめ、"ミリオンダラーマン"テッド・デビアス率いるミリオンダラー・コーポレーションの一員になり、再びヒールのトップレスラーとなる。
そして、1996年11月にショーン・マイケルズを破り、WWE世界ヘビー級王者となった。

「ひとりじゃ何もできない。しかし、そのジ・ワンになるチャンスを与えられたら、俺はみんなをヘルプし、みんなが俺をヘルプする。いっしょになって何かを創っていくってことだ」

もしかしたら、少しは業界に馴染めてきたのか、あるいに団体側の気まぐれか。
セッドの世界王座戴冠は一種のアップセットだった。

ジ・アンダーテイカー、スティーブ・オースチン、ブレット・ハートと抗争を続けていくセッドはそのキャラクターのままヒールになったり、ベビーフェースになった。
そもそも彼は善でも悪でもない、サイコなのだ。
サイコに善も悪もない、狂乱するだけだ。

1997年夏にWWEを去ると、1999年にWCWに復帰する。
WCWではミレニアム・マン(新千年紀の男)と呼ばれ、2000年1月にはWCW世界ヘビー級王者となった。
フォー・ホースメン時代から視界に入っていたあの"フレアー・ベルト"を十年かけて獲得した。
WWEとWCWの両世界王座を獲得したレスラーは選ばれし者しかいない。
ただし、セッドのその選ばれし者のなかで異彩を放つ。
私が思うに、どんなに悪評を連ねても、それでも懲りずに性悪を貫くセッドにリアリティーを感じた団体側が彼にチャンスを与えたのではないかと推測する。
団体運営、王座運営の中で辛口のスパイスとしてセッドが選ばれたと思うのだ。
そう考えると彼は"選ばれし者"である。

2001年に足を怪我をしWCW崩壊後、セッドはセミリタイア状態となる。
それでも単発でインディー興業には参戦していた。

2012年6月にWWEのRAWにサプライズゲストとして参戦し、ヒース・スレーターをパワーボムで勝利し、健在ぶりをアピールする。

「この業界は"俺様がスターだ"という人間が多過ぎる。テメエのことばかり考えてたんじゃダメだってこと。この世界は、そういう連中が多いけど、それじゃあ、ビジネスはよくならない」

この発言を巨大な問題児セッドがするのもなんだか不思議なのだが、もしかしたら彼自身は本来、"俺が俺が"という性格ではないのかもしれないし、そんな邪悪ではないかもしれない。
だが、生まれ持った"性(さが)"が、セッドの人生をこのような問題児人生にたどり着いたと思えて仕方がないのだ。
セッドの場合は業界から追放されず、ただの問題児に収まらないで、メジャー団体を行き来し、トップレスラーとして君臨している。
これはやはりすごいことであり、稀ではないのか。

「プロレスは信頼と尊敬の芸術」
「この世界はハートの悪いヤツはダメなんだ」
「性格はよくないとヒールはできない」

このような定説のようにプロレスとは人間性が問われるジャンルだ。
人間的に鍛練され、皆にリスペクトされる者こそトップレスラーにのしあがっていく
業界だと見なされてきた。

しかし、セッドの場合は違う。
人間性の"ダークサイド"をあぶりだして、頂点を取ったセッド・ビシャスのレスラー人生はプロレスの奥深さを結果的に体現しているのかもしれない。
まさしく、サイコ(異常、異様)な世界征服はプロレス史に残る不可思議な現象なのだ。

セッド・ビシャスは"無能で態度がデカいだけの男"ではない。
人望がなくても、周囲から嫌われても、何故かブロモーターサイドから必要とされるという究極のレアケースを生きたプロレスラーなのだ。