俺に明日はない~職業 大巨人レスラーの存在意義~/ビッグ・ショー【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第133回 俺に明日はない~職業 大巨人レスラーの存在意義~/ビッグ・ショー
シリーズ 巨人 ③



1995年のアメリカ第二の団体WCW。
彼は突然、我々の前に姿を現した。
あの伝説の大巨人"アンドレ・ザ・ジャイアントの息子"ザ・ジャイアントとして。

アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant、本名:André René Roussimoff、1946年5月19日 - 1993年1月27日)は、フランス・グルノーブル出身のプロレスラー。公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では "The 8th Wonder of the World"(世界8番目の不思議)、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれた。圧倒的な体格もさることながら、アームロックなどのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍した。
【アンドレ・ザ・ジャイアント/wikipedia】

俺達のプロレスラーDX
第76回 四面楚歌を乗り越えた人間山脈の繊細と豪胆/アンドレ・ザ・ジャイアント

ザ・ジャイアントは"正式"デビュー戦でハルク・ホーガンが保持するWCW世界ヘビー級王座に挑戦し、王座を獲得するという快挙を成し遂げた。
桁違いのデビューを果たしたこの男は後にWWEに移籍し、「ビッグ・ショー」というリングネームに改名し、現在の大巨人伝説を築くのである。

その巨体のため、ブロック・レスナーやジョン・シナとの抗争の中彼らに投げられることが試合の見所となっていた。中でも、2003年6月・フロリダ州オーランド大会での対レスナー戦において雪崩式ブレーンバスターで投げられた直後、リング下を結んでいたワイヤーが着地の際の衝撃で切れ(フジTVでのDDT社長・高木三四郎の解説による)、リングが崩壊したシーンは今もなお語り草となっている。後にプロレス上の演出であると言う事をWWEのシェイン・マクマホンが説明しているが、この事態は世界プロレス史上初の出来事である(リングに穴が開くことはよくある)。また、2011年10月のPPV大会ヴェンジェンスでは世界ヘビー級王座戦に挑戦者としてマーク・ヘンリーと対戦するも、再び雪崩式ブレーンバスターで投げられた直後にリングが崩壊した。
【ビッグ・ショーwikipedia】

かつてのアンドレ・ザ・ジャイアントやビッグ・ジョン・スタッドを彷彿とさせるビッグショーは、その巨体でひと睨みするだけで対戦相手を縮み上がらせることのできる恐るべき戦士だ。世界最大のアスリートのサイズは驚異的だ。身長213cm、体重200kg、靴のサイズは22EEEEE(40cm以上!)、胸囲は163cm。
【WWE公式ホームページ】

アンドレの息子というギミックを名乗らなくなっても、彼は大巨人アンドレの後継者であり続けている。今回は大巨人レスラーという職業を生きる男の物語である。

ビッグ・ショーは1972年2月8日アメリカ・サウスカロライナ州エイキンに生まれた。
本名はポール・ドナルド・ワイト・ジュニアという。
学生時代はバスケットボールの選手だったというビッグ・ショーは元々プロレスファンだった。
憧れのレスラーはリック・フレアー。
フレアーのトレードマークである「Wooooo!」という雄たけびをよく真似をしていたという。

そんなビッグ・ショーがプロレスと出会うのは"アメリカン・プロレスのスーパースター"ハルク・ホーガンとの邂逅だった。ホーガンからスカウトされ、クラッシャー・バンバン・ビガロを育てた名伯楽ラリー・シャープが運営するプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー」でトレーニングを積み、その後、WCWトレーニング機関「パワープラント」での鍛錬を経て、1995年10月のWCW・PPVイベントでハルク・ホーガンとのWCW世界戦で"正式"デビューを果たした。
入念に準備を積んでデビューした彼はホーガンのアイデアによってアンドレ・ザ・ジャイアントの息子というギミックで、黒のワンショルダータイツ姿で現れた。
ケビン・サリバンをボスとする怪物同盟の刺客として現れたビッグ・ショーは業界に入ってからアンドレの後継者という宿命を背負わされた。

腕を取られたときにヘッドスプリングで起き上がったり、、豪快なドロックキックを放ったり、試合では公開しなかったがムーンサルト・プレスができる類いまれなる運動神経、ネックハンギング・ツリーやビッグブーツ、ジャンピング・エルボードロップといったアンドレを彷彿とさせるムーブ、ボディーシザースといった古典的な痛めつけ技で相手のスタミナを奪い、最後はジャイアント・チョークスラムで叩きつけるというのが彼のプロレススタイルだった。

初来日は正式デビュー後の1995年11月の新日本プロレスだった。
ここでドロップキックやミサイルキックを放ち、プロレスファンに強烈なインパクトを残した。

世紀末に出現した大巨人は20代前半でありながら、多くのトップレスラーを打ち破ってきた。
1996年4月に憧れのリック・フレアーをジャイアント・チョークスラムで破り、二度目のWCW世界ヘビー級王座戴冠後、彼の前には強力なチャレンジャーが立ちはだかる。

スティング、レックス・ルガー、ランディ・サベージ、ジョン・テンタ(ザ・シャーク)、スコット・スタイナー、アーン・アンダーソン…。

彼らをビッグ・ショーはバッタバッタを破って見せた。
だが、そんな男の前に現れたのがヒールに転向したホーガン。
ホーガンの軍門に下り、王座陥落したビッグ・ショーはホーガン率いるnWo入りする。

nWoは団体を乗っ取るヒールユニットして時代の流れに乗った。
連日敢行される乱入、テロ行為、黒スプレーでの落書きは"勧善懲悪"というワンパターン化されていた当時のアメリカン・プロレスの概念を打ち破る革命だった。

誰が正しいのではない、誰がスゲェのか。

ヒールなのに正統派以上に人気を得たnWoの出現とWWEでのストーンコールドやDXの登場により、典型的なベビーフェースやヒールの時代は終焉を迎えた。
nWoに入ればどんなレスラーでもテレビに映り、スターになる。
だから多くのレスラーは生き残るためにnWo入りを熱望し、メンバーはどんどん膨れ上がった。

そういう状況に嫌気がさしたビッグ・ショーはnWoを離脱し、WCW正規軍の一員となった。
あのNBAの問題児デニス・ロッドマンのデビュー戦(タッグマッチ)の相手にも選ばれた。
nWo時代から仲が良くなかったケビン・ナッシュとの大巨人抗争ではすっぽ抜けのジャックナイツ(投げっぱなしパワーボム)を食らい首を負傷したこともあった。
WCWの政治闘争に疲れたのかもしれない。
彼は1999年にWCWを退団し、新天地WWE(当時WWF)に移籍する。

リングネームは"ビッグ・ショー"ポール・ワイトとなり、その後ビッグ・ショーに定着する。
1999年11月にはWWE世界ヘビー級王座を獲得する。
20代でWWEとWCWの世界王座を戴冠したレスラーは数少ない。
そう考えても彼は早熟だった。

WWEに入るとビッグ・ショーはコミカルな部分を披露した。
ホーガンのパロディや他のレスラーの物まねをしたりとレスラーとしての幅を示した。
悪のマネージャーであるポール・ヘイマンと組んでからは、ヒールサイドのトップとして君臨し、2002年11月にはブロック・レスナーを破り、WWEヘビー級王座を獲得する。

マネージャーと同時に一部のストーリーラインを組んでいたヘイマンによって、ビッグ・ショーは198cm 150kgの怪物レスラーAトレイン(ジャイアント・バーナード)とのコンビで暴れまわった。

WWEで大巨人伝説を築こうとするビッグ・ショーだったが、コンディション不良、体重過多によって、二軍落ちになったこともあったが、そのたびに減量して一軍に復帰していった。
WWEがECWを復活させるとビッグ・ショーは刺激を与えるカンフル剤としてECWの一員となり、ECWヘビー級王者となった。

一度はWWEを離れたが、一年後には復帰した。
時代は変わっても、歴史が変わっても、WWEは"大巨人"を必要としていた。
また"大巨人"はWWEというプロレスクリエイターグループの一員として尽くすことを生きがいにした。

「俺たちはロードの不満を言わないし、家に帰れない不満を言わないし、ちょっとしか眠れなくて午前5時にインタビューを受けることだって、不満を言わな いぜ。団体を成功に導くために何でもしてるから、トップにいられるんだ」

WWEが大巨人レスラーを必要とした理由の一つにやはり対世間というものがあった。
どこからどう見てもプロレスラーだとわかるビッグ・ショーは"スポーツ・エンターテイメント"の醍醐味を世間に届けることができる数少ない男である。

元大相撲横綱・曙とのスモーマッチやボクシング世界王者フロイド・メイウェザー、ハリウッド映画への出演…。

これらの仕事を務めあげることによって、大巨人レスラーは己の存在意義を証明していった。

「俺の地位を奪うようなやつがいないね。それに、まだまだそうさせるつもりはない。俺くらいでかくてすごいやつが現れたら、引退を考えてもいい。それまで はトップに君臨して、できる限りファンを楽しませるつもりさ」

ビッグ・ショーには大巨人レスラーとしてのプライドがある。
そのプライドが彼のアイデンティティーなのだ。

長髪だった20代、クルーカットに変貌した30代、そして40代になった現在はスキンヘッド。
使用する技もキャリアを積み重ねていくと、KOパンチやファイナルカット、キャメルクラッチ(コロッサル・クラッチ)、コブラクラッチ・バックブリーカーとバリエーションがより豊富になっていった。
キャリアも20年を越えても第一線で闘う。
ベビーフェースでもヒールでも立ち回り、やられ役もこなす。
若手レスラーにはよくアドバイスを送り、育成にも熱心だという。
実はビッグ・ショーは万能型レスラーなのだ。
髪型が変貌しても、得意技が変わっても離合集散を繰り返す中でもビッグ・ショーは最強の大巨人レスラーとして長年、君臨している。

大巨人レスラーや巨漢レスラー達は例えリングで活躍し、栄光を摑んだとしても早死にするケースが多い。
アンドレ・ザ・ジャイアントは長生きできないこと、いまだに身長が伸びるという苦しみを暴飲暴食をし、好きなことをして生きることに執心し、46歳の若さでこの世を去った。
ビッグ・ショーはこう語ったことがある。

「自分は長生きはできないことを悟っている」

大巨人レスラーにはまるでウルトラマンのように生きる時間が限られた心のカラータイマーがあるのかもしれない。
そもそも人間の命に永遠は現段階ではない。
限られた命を燃やし、生きた証を残すのが人間の業だ。
人間はいつ死ぬかわからない、だがその事を笑ったり、怒ったり、泣いたり、喜んだりして"人生という壮大な暇つぶし"を生きるのが人間だ。
だが、大巨人レスラーに"壮大な暇つぶし"などない、明日などない、今日を生きることが全てなのだ。

「俺は昔は一所 懸命やってないって批判があったし、その部分に関してはちょっと事実もある。だけど、この長年、1年300日、ハードにやってきたよ。2004、2005年はヘルニア を患って、痛くてやってられなかった。だから1年ほど休みを取ったんだが、やっぱりレスリングが1番やりたいんだってわかったんだ。で、健康を考えるよう になったよ。かつては煙草を吸ってたが、もうやめた。リングのことを第一に考えるようになった。休んだ期間に充電され、態度もずっと良くなった。どれだけ 好きだったか、離れてみてわかるもんさ」

俺に明日はないという悟る男。
だからこそ、一日でも長く生きることで彼はアンドレ・ザ・ジャイアントを筆頭とした偉大なる大巨人レスラー達に立ち向かっているように思えるのだ。

そして、彼が理想となるラストシーンはいつか天国に旅立つ時が来たとき、ビッグ・ショーは「俺はあなたたちに負けないぐらいの伝説を残しましたよ」と胸を張りながら、のっしのしと闊歩することではないだろうか。

実は既に、ビッグ・ショーはプロレス界において"生きる伝説"と化している。
それが彼のレスラー人生を追うことで得た一つの答えだ。

そして、我々は現代の大巨人レスラーの生き様を見届るという貴重な時間を過ごしていることに有難みを感じるべきなのかもしれない。