塵も積もれば"大魔神"となる~心優しき叩き上げの巨砲伝~/石川修司【俺達のプ | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第134回 塵も積もれば"大魔神"となる~心優しき叩き上げの巨砲伝~/石川修司
シリーズ 巨人 ④

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"世界の巨人"ジャイアント馬場は日本プロレス界が誇る"国民的巨人"となった偉大なるプロレスラーだ。
そして、209cm 135kgの馬場は日本プロレス界において代表的な巨漢レスラーだ。
馬場以後、196cm 127kgのジャンボ鶴田、196cm 135kgの坂口征二、196cm 125kgの高山善廣を始め日本プロレス界には2m近くの巨漢レスラーが誕生していったが、馬場を彷彿とさせる日本人プロレスラーはなかなか現れなかった。

21世紀に入ると思わぬ形で馬場のオマージュレスラーが誕生する。
その男の名は石川修司。
195cm 140kgの巨体を誇る。
人は彼を"21世紀の巨砲"、"巨神"、"デスマッチ巨大戦艦"と呼ぶ。

これは馬場のオマージュレスラーというネタ要員に過ぎなかった男が業界を代表する日本インディー界の巨人となった努力のプロレスラーが歩んだレスラー人生である。

石川修司は1975年9月25日岩手県奥州市に生まれた。
学生時代は柔道に熱中した。
高校時代に在籍していた柔道部の一年先輩には現在、プロレスリングFREEDOMSの代表・佐々木貴がいた。彼は石川との出会いをこう回想している。

殿が高校2年、修司が高校1年の春。殿が通っていた岩手県立一関第二高等学校に新入生として入学して来たのが石川修司でした。ある日の放課後、柔道場に行ってみると柔道場の奥の方にボォ~っと突っ立っている見慣れないガリガリの男が一人…。『誰だアイツ…?』と思い近づいてみるとその男はガリガリというよりも物凄い長身で上から殿を見下ろすように自己紹介をして来ました。

修司『はじめまして、新しく柔道部に入りました石川修司です』
殿『君…、デカイね 身長いくつあんの?』
修司『190くらいです』
殿『体重は?』
修司『65kgくらいです(なんと今の半分以下!)』
殿『お前、ひょろひょろだなぁ~』

確か最初に交わしたのはおもしろくもなんともないそんなごくごく普通の会話だったように思います。その後、毎週金曜日になると学校近くのエコーランド(一関市民ならわかるはず)まで行って週刊ゴングと週刊プロレスを買ってから部室に現れる殿に『僕もプロレス好きなんですぅ!』と言ってなついて来たのがこの石川修司でした。そんな修司とは一緒に雑誌を見ながらプロレスについて語り合ったり、柔道場でサッカーをしたり、帯でネットを作ってバレーボールをしたり、陸上用のマットを借りて来てバク宙の練習をしたり、隣の水泳部の練習風景をただただ眺めていたり…。そうやってよく一緒に遊んだものでした。(肝心の柔道はあまり真剣にやっていなかったような気が…)
【プロレスラー 佐々木貴のバキューン日記】

高校時代の石川が憧れたプロレスラーはジャンボ鶴田だった。

「鶴田さんって強いけど明るいじゃないですか。嫌味がないというか、ネチネチ感がないというか。僕の試合も激しくありたい。でもリングを下りたら紳士であるべしというレスラー像は、子供の頃から抱いてましたね」

だが石川の性格はプロレスラー、いや格闘家に似つかわしいほど優しかった。
自分は体格はあるしプロレスは好きだが、プロレスラーには…。

大学を卒業し、一般企業に就職した。
プロレスラーになるという気持ちはなくそうとしたが、どうしてもその気持ちが消えなかった。

「25を過ぎた頃かな、このままだと人生のゴールが見えるというか、大体ここら辺に到達するのかなという予想が付くようになって。やりたいことをやらないで人生が終わるのは嫌だな、なんて考え始めました。友人と酒を飲みながら将来の夢を語っていると、彼も"今からでもやればいいんじゃない?"なんて言ってくれて、その気になったんですね」

社会人となった石川は27歳の時にプロレスラーになることを決心する。
石川は頼ったのは高校時代の一年先輩・佐々木貴だった。
佐々木は当時、DDTプロレスリングに所属していた。

『事務所にファンレター来てたよ』

そう言って高木さんから渡された手紙の封筒には“石川修司”と書いてありました。

『あっ、二高の時の修司じゃん!』

もう何年も会っていなかった高校の後輩からの突然の手紙でした。

『先輩、本当にレスラーになったんですね 実は僕もプロレスラーになりたいんです!』

大まかに言うとその手紙にはこんな感じのことが書かれていました。連絡先も書いてあったので殿の方から連絡して、久しぶりに修司と会うことにしました。そこで『プロレスラーになりたい』という修司に対して殿は『絶対にやめた方がいい』と言って反対しました。自分も昔そうだったようにプロレスラーになりたい!という修司の気持ちはよくわかります。でも、長身だけどガリガリで動きも鈍臭く、いつも受け身に失敗してケガばっかりしていた修司がプロレスラーになれるわけがない!そう殿は思ったからです。きちんと就職もしていたし、年齢もすでに27歳…。何も今さら成功するかどうかもわからない厳しい世界にわざわざ飛び込んで来ることもない!そう考え、とにかく反対しまくりました。そこには高校の時の後輩の今後の人生を狂わせたくない、苦労をさせたくないという気持ちも当然ありました。それでも先輩の心、後輩知らずとばかりに修司はDDTに履歴書を送って来ました。当時、練習生志望者の入門テストを担当していた殿のところに高木さんが履歴書を持って来ました。

高木さん『練習生志望の履歴書来たよ』
殿『あぁ~、コイツ僕の高校の時の1つ下の後輩です…』
高木さん『そうなの!? で、どうする? 入れる?』
殿『コイツは絶対無理です 落としましょう!』

そして迎えた入門テスト当日…。修司からしたら高校の先輩がいる団体なら少しは有利かも…と思っていたかもしれませんがむしろ殿は落とす気満々で試験当日を迎えました。特にメニューを厳しくしたわけでもなかったのに殿の用意したテストメニューを全然クリアできなかった修司…。

『これであきらめてくれるだろ…』

う思った殿は高木さんに、

 殿『やっぱりアイツ、全然ダメでした 落としますよ!』
高木さん『いや、待て! 体力がなくたってあの身長はもったいないよ だって馬場さんみたいじゃん!』

う言い放った高木さんは殿の猛反対を押し切って修司を“仮”合格にしてしまいました。やはり高木さんの目の付け所は違います!
【プロレスラー 佐々木貴のバキューン日記】

こうしてDDTに"仮"合格という形で入門した石川は佐々木のしごきに耐え、必死に練習に食らいついた。そして2003年6月15日に"DDTの番人"スーパー宇宙パワー戦でデビューを果たす。

当時のDDTではスーパー宇宙パワーが新人レスラーのデビュー戦の相手になることが多かった。皆、彼の洗礼を受け、腫れてプロレスラーになるのだ。この男はかつて総合格闘技で"400戦無敗"ヒクソン・グレイシーと対戦した経験がある"強さの象徴"である。
石川はボコボコにされて敗れた。
試合後、宇宙から「合格」と告げられると石川は泣き崩れた。

怖かった、恐ろしかった、でも嬉しかった…。

デビュー戦を終えて石川はこう語った。

「ジャンボ鶴田さんのような強さを語り継がれるレスラーになりたいです」

だが石川は体格に恵まれているものの、性格的にはおとなしく人を押しのけてでもトップに立ちたいという欲を持たない。また、レスラーとしての技量もまだ不足していた。
そこで団体側が考えたのはネタ要員だった。つまり"期待されていなかった"のだ。

ジャイアント馬場のオマージュレスラーとなり、16文キックや32文ロケット砲、ランニング・ネックブリーカードロップといった馬場ムーブを繰り出した。
また、ポイズン澤田JULIE率いる蛇光教団の戦闘員"蛇イアント"に変身したり、マッスル坂井が主催する「マッスル」では趙雲子龍の子分となり、毎回刀で首を切られるジャイアント馬謖というキャラクターになったり、「ぴったり!時計台男」というわけのわからないレスラーに変身したこともあった。 石川ジャイ子というニセ女子プロレスラー、WWEのケインをオマージュした戦慄のマスクマンKooに変身したこともあった。

石川は苦悩する。
何になりたいのか見えなくなる。
自分がしたいプロレス、自分に合ったプロレスとは…。

先輩の佐々木はDDTを去った。
石川は佐々木の退団を号泣しながら、「辞めないで下さいよ!」と迫ったという。
ちなみに二人は今でも団体や主戦場が変わっても、近況を報告し合い、飲みにいくほど仲がいいという。
しかし、石川修司は佐々木がいなくなったことでますます自分の居場所がどこにあるのか分からなくなった。

2005年にユニオンプロレスに移籍した石川は一年後輩の飯伏幸太が一時期参戦していた「フーテン・プロ」に参戦する。
フーテン・プロは元バトラーツの池田大輔が代表を務める殴り合い、蹴りあい、極め合うバチバチプロレスを信条としていた。石川の中でバチバチとの出会いが何かが変わった。

「バチバチは純粋に痛い! でもその痛みを伝えるプロレスこそ僕の思うプロレスという閃きがありました。その頃から自分のやりたいスタイルが決まりました」

痛みを伝わるプロレス…天龍源一郎が信条としたスタイルが自分が生きる道だと石川は定めたのだ。

2007年6月に石川はKooの姿でHARASHIMAを破り、KO-D無差別級王座を戴冠する。
石川の苦労を知るDDT関係者は彼の戴冠劇を見て涙が止まらなかったという。

石川が目指したプロレスラー像は、大きくても動けるスーパーヘビー級レスラーだ。
得意技にしたのはスプラッシュマウンテン、"大津波"とも呼ばれたランニング・ニーリフトはまさしく豪快無比。またカンヌキで固めた上でのヘッドバットは石川が目指した"痛みが伝わるプロレス"の象徴である。
研鑽と経験を積むことで、石川は日本プロレス界きっての巨漢レスラーとなっていった。

「筋肉の量は皆一緒だから、手足の長い人って厚みが出にくい。でも"腕細ぇ~な"とか言われたくないですから。動きが落ちないように普段の練習も筋トレだけじゃなく有酸素運動もやってます。以前から鶴田さん、高山さん、ジャイアント・バーナード、テリー・ゴディやブルーザー・ブロディなど大型レスラーの試合を観るようにしてました。ああこういう風にして身体を大きく見せるんだな、というポイントを映像で学びました」

石川は2009年11月29日に飯伏幸太を破り、素顔でKO-D無差別級王者となった。
試合後、石川はファンに語り始めた。

「DDTを辞めてユニオンに入ったころ、僕はなんの価値もないレスラーだったと思います。でもこうやってベルトを巻けたのはユニオンの仲間達と、応援してくれるファンの皆さんのおかげです。そのファンの皆さんに恩返しができてよかったです」

もう石川はネタ要員ではない、ユニオンの大黒柱なのだ。

実は石川はよく飯伏が主に練習の場として使っている社会人プロレスの道場にいき、共に汗を流している。飯伏からは技のアドバイスをもらうこともあるという。いわば、二人は盟友とも言えよう。
そんな石川の前に現れたのが大日本プロレスの関本大介だ。

2010年2月新木場、同年6月後楽園と二人はKO-D王座を賭けて激闘を繰り広げた。
インディーが誇るモンスターバトルはKO-Dの権威を上げた。
プロレスライターの須山浩継はこう評している。

「ゴジラ対キングギドラのごとき壮絶な肉弾戦」
「メジャー団体でも滅多に目にできない、強さと重さが真っ向からぶつかり合う闘い」

元々新木場1stRINGや北沢タウンホールといった小さな規模を主戦場にしていたDDTが2009年に両国国技館に進出し、その後毎年ビッグマッチを開催している。
石川は2009年と2010年の両国大会には出場すらできず、無料DVD配りやグッズ販売の手伝いという裏方業務に甘んじた。

2011年7月24日のDDT両国大会。
石川はKO-D王者としてメインイベントに登場した。
和田良覚トレーナーの下で石川は猛トレーニングを積んだ結果、石川は巨体でありながらスタミナを身につけ、頑丈な肉体を手に入れた。
挑戦者のKUDOとバチバチのしばき合いの末、敗れるも石川の底力と意地を満天下に見せつけた。
試合後、石川は悔しさをにじませながらこう語った。

「やっと両国のリングに上がれて、本当は勝って終わりたかったですけど、負けちゃって…。両国で石川修司を見たかったっていう人には、最後に勝った姿を見せたかった。そこが悔しいです。でも絶対に見返してやるって。もともと僕なんか期待されないところから始まったんで。見返してやるっていうのが僕のレスラー人生でもあるんで」

石川の実力はメジャー団体にも轟くようになった。
2011年1月のユニオン後楽園大会にて石川と対戦した新日本プロレスの中西学は、石川についてこう語った。

「いままでもらった頭突きで一番凄かった。ええもんもっとる」

石川は2009年から大日本プロレスに参戦するようになり、デスマッチ戦線に参戦するようになる。そこでの石川はデスマッチのアイテムに工夫をこらし、プロレス頭を駆使に"デスマッチ巨大戦艦”と呼ばれるようになった。

2013年1月2日の大日本・後楽園大会にてアブドーラ小林を破り、BJW認定デスマッチ・ヘビー級王座を獲得する。

試合後、石川はこう語った。

「今回がラストチャンスだと思って挑戦したんですけど、すごい重いベルトだなと。1年間守り通したアブドーラ・小林を尊敬します。ただ人間力、愛してますといえばまとまるっていうのは終わりにしたい。これからは強い者がチャンピオンでありたいと思います。今の僕のモチベーションは、石川修司というレスラーの名前を大きくしたいのと、それを通じてユニオンプロレスを大きくしたいという2つなので、デスマッチがしたくてたまらない人がいたら僕というチャンピオンは許せないかもしれない。だったらそれをリング上で見せてもらえれば。僕はデスマッチヘビー級のベルトを通じ、石川修司の存在を大きくしていく。成り上がるためにこのベルトを利用させてもらいます」

石川はデスマッチ戦線で王者として名勝負を残していった。
特に2013年6月の後楽園大会での竹田誠志戦は壮絶だった。
竹田はデスマッチのカリスマ葛西純が認めるほどのクレイジー・キッド。
両者とも大日本のレスラーではない。
大日本のデスマッチはアイテムと人間との攻防である。
その二人が誰よりも血だらけになっても生き様をリングにさらけ出す"大日魂"を体現していた。

試合は石川の防衛に終わりも、ドラマは試合後に待っていた。
なんと二人は健闘をたたえ合い、会話をし始めたのだ。

石川 「竹田、お前はいつもすげぇ試合をしたあと、電話やメールで聞いてたけど、今日はリング上で聞くわ。竹田、生きているか?」
竹田 「生きてるよ!! 何がこのリングで起きたんですか? 痛い、痛い、血が出てる、でも、それが…デスマッチでしょう! 石川修司、あんたはでけぇだけじゃねぇ、強えよ!!」
石川 「最も強いという"最強"という言葉は俺は誰にも譲る気はしねぇ! だけど、最も狂ってる"最狂"だったら俺は竹田誠志、お前だと思うよ。今いるデスマッチファイター、全員倒したらもう一回、俺とやろう。で、その前に飲みに行こうよ」

石川は同年11月に木高イサミとのデスマッチ王座戦で陥落し、デスマッチ戦線から撤退し、ストロングBJへ転向し、世界ストロングヘビー級王座を標的にすることを表明する。

2014年5月にゼロワンの佐藤耕平(193cm 120kg)とツインタワーズを結成し、名コンビヤンキー二丁拳銃を破り、BJWタッグ王者となった。
その後、ツインタワーズはプロレス大賞最優秀タッグチーム賞にノミネートされるほどのコンビに化けていく。

2014年の大日本「一騎当千strong climb」を関本大介を決勝戦で破り、優勝して見せた。
ライバル関本を初めてシングルマッチで破った石川は試合後に関本を称えた。

「関本大介にデビューして11年経って初めてシングルで勝ちました。後楽園ホールという舞台で関本大介という尊敬するレスラーと闘えて最高です」

石川は関本を"現在のミスター・プロレス"と評している。

同年12月には河上隆一を破り、BJW認定世界ストロングヘビー級王座を獲得する。
2015年3月31日に関本大介に敗れ、王座陥落するも、大日本の三大王座(デスマッチ、ストロング、タッグ)を巻いた初のレスラーとなった。

関本大介は石川を破った直後にこう語った。

「修司選手、メチャクチャ強かった。打っても打っても倒れない。怪物ですね」

打っても打っても倒れない。
どんな苦境でも最後まで諦めらめない。
諦めてきた人生だからプロレスだけは諦めない。
見返してやるという精神が俺の人生だ。

2015年、石川は全日本プロレスに参戦するようになる。
全日本はスーパーヘビー級戦士達が集っている。
その中でも石川の巨体と力量は王道プロレスでも冴えわたっていた。

現在、石川修司は2015年10月のユニオンプロレス解散以後、フリーとなりDDTや大日本、全日本などの各団体に参戦している。

2016年には他団体の王者クラスが集った大日本「一騎当千strong climb」二連覇を果たした。

この男は未だに発展途上である。

期待されなかった心優しき巨砲は、体格には恵まれたが、才能には恵まれず、努力を継続することでここまでの地位を築き上げた"叩き上げ"の男だ。叩き上げの境遇、泥臭く真っ向勝負をし続けるスタイル、内に秘めた反骨心、優しい性格などあらゆるものが集合体となった時、巨砲はプロレス界の"大魔神"となった。1966年に公開された日本映画の"大魔神"では封印された破壊神が娘の祈りにより大魔神となり、憤怒の形相をもって人間達の手におえない破壊力を見せ付けて、悪政を働く領主を殺すというのがあらすじである。

塵も積もれば山となるという言葉がある。
どんなに小さなことでも、こつこつと、積み重ねていけば、とても大きなものになる。 毎日の1つ1つの小さな行為も長年かかって実行すれば、結果として経験や、成果となって、 現れてくるという意味だ。

石川の場合はどんな塵や経験を糧にして、不屈の精神力によって手に負えない破壊力を発揮する"大魔神"に変貌するのだ。

「遅く入ったからこそ飽きずにやってこれたかな。早くから業界に入るとよくも悪くもマット界の感覚に馴染みすぎるじゃないですか。そろそろ40歳になりますけど、まだまだ新しいチャレンジもしたいし、プロレスへの興味は変わらずに持っていますから」

馬場やケインのオマージュレスラーになることも、時計台になることも、女装レスラーになることも、切られ役になることも、何事も無駄ではなかった。いや、無駄にはしなかった。
それが石川修司の凄さなのだ。

21世紀の巨砲が歩んでいる叩き上げのレスラー人生は"努力し続ける尊さ"と"人生に無駄なことはないこと"を我々を教えてくれているのだ。