海に浮かぶ森~無欲の天才巨人レスラー物語~/ドン・レオ・ジョナサン【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第135回 海に浮かぶ森~無欲の天才巨人レスラー物語~/ドン・レオ・ジョナサン
シリーズ 巨人 ⑤






「得意技のサマーソルトドロップを196cm 140kgの巨体から軽々とこなし、キーロックをかけたジャイアント馬場選手をそのまま持ち上げたシーンなどはファンの間で語り継がれています。その強さ、そして柔和な笑顔はまさに、"気は優しくて力持ち”。今回、スペシャルゲスト in 武道館のために伝説の世界からやってきてくれました」

1993年9月3日、全日本プロレス・日本武道館大会。
この年はシリーズごとに一人の外国人レジェンドレスラーをゲストとして招聘する企画「スペシャルゲスト in 武道館」を行いオールドファンから好評を得ていた。

カウボーイスタイルで現れた彼は現役時代と変わらず、あまりにもかっこよかった。
人間台風、モルモンの暗殺者と呼ばれたその男の名はドン・レオ・ジョナサンという。

巨体ながらトンボを切れるほどの卓越した運動神経と多彩なレスリングテクニックの持ち主で、またジャイアント馬場のキーロックを片手で軽々と担ぎ上げ(1967年)、若き日のアンドレをハイジャック・バックブリーカーで振り回し(1973年、カナダ)、ジャンボ鶴田のキーロックも場外で担ぎ上げたままリングに上がり(1978年)、果ては狩猟で仕留めた300キロもある大鹿を担いで山を降りたなど、怪力無双のエピソードも尽きない。その底の知れない強さは「その気になればルー・テーズを越えるレスラーになる」といわれていた。
【wikipedia/ドン・レオ・ジョナサン】

五人の巨人レスラーを取り上げていた「シリーズ 巨人」。
そのシリーズを締めくくるのは私はこのジョナサンだと決めていた。
彼こそ、巨人レスラーの見本。
彼こそ、天才レスラー。
彼こそ、実は最強レスラーかもしれない。
21世紀を迎えた今だからこそ、ジョナサンを考察してみたいのだ。
今回はプロレス界で数多くの幻想と伝説を持つプロレスラーの物語である。

ドン・レオ・ジョナサンは1931年4月29日アメリカ・ユタ州ソルトレイクシティに生まれた。
本名はドナルド・ヒートンという。
父のブラザー・ジョナサンは"モルモンの殺人者"という異名を持つプロレスラーだった。
少年時代から父からプロレスの指導を受けていたジョナサンは父の跡を継いで、アメリカ海軍除隊後の1949年にプロレス入りをすることになる。
リングネームはドン・レオ・ジョナサンとなった。

「父の本名はジョナサン・ディロンドで、愛称はジョナサンだった。母の父はレオ・ゲルリンという名前で、そこからレオをもらった。私の本名はドナルド・ヒートン、愛称はドン。だからドン・レオ・ジョナサンというのは、三つのファースト・ネームを合体させたものさ」

デビュー時から当時NWA世界ヘビー級王者のルー・テーズに挑戦するなど大型ルーキーとして期待されていた。少年時代に移住したカナダやアメリカマットを中心に各地を転戦していったジョナサン。時にはマスクマンになったこともあったという。
ベビーフェース、ヒールのポジションを器用にこなし、196cm 140kgの巨体にも関わらず運動神経に優れ、ドロップキック、フライング・ヘッドシザース、ニップアップ(グラウンドの状態から腰と両足のバネを使って跳ね上がる)、サマーソルト・ドロップ(サンセット・フリップ)といった軽業を得意として、ハイジャック・バックブリーカー、変形の弓矢固めで対戦相手を仕留めるという豪快さと軽快さを合わせたスタイルだった。
ジョナサンの凄さが対戦相手のサイズに限らず、このスタイルを貫いたことである。
ジャイアント馬場やジャンボ鶴田、アンドレ・ザ・ジャイアントが相手でもジョナサンの豪快で軽快なプロレスは変わらなかった。

プロレス関係者はジョナサンをこう語る。

ジン・キニスキー(元NWA世界ヘビー級王者)
「彼は天才的なアスリートと呼ぶ他なかった。彼がやることなすことといったら、ただただ驚かされるばかりだった」

キラー・コワルスキー(耳そぎ事件で有名な"殺人鬼"と呼ばれたレジェンドレスラー)
「彼は超が付く天才で、ずば抜けた身体能力の持ち主だった。でかい、彼のようなでかい男が、手を広げりゃ人が丸ごと掴めそうな男が、トップローブ越しに飛び上がって両脚で着地するんだ」

初来日は1958年の日本プロレス。
"国民的英雄"力道山が保持するインターナショナル・ヘビー級王座に二度挑戦した。

アメリカやカナダの各地を転戦したジョナサンはローカルタイトルは、モントリオールAWA世界ヘビー級王座、モントリオールIWA世界ヘビー級王座、バンクーバーNWA世界タッグ王座などを獲得するも、メジャータイトルにはなかなか無縁だった。これはアンドレ・ザ・ジャイアントと同じく「ベルトを持つことで団体の王者として過酷なサーキットを強制されることを嫌い、無冠の帝王」であり続けるという生き方を選んだためである。
カモメのジョナサン、彼は自由に生きたかったのだ。

レスラーの傍らでジョナサンは1963年にカナダ・バンクーバーに家を買い定住し、ダイバーを雇い潜水業の会社を設立した。レスラーを引退した場合に第二の人生をいつでも歩めるように備えるためである。

「バンクーバーに家を買って定着したのは、潜水して海底調査をしてほしいという依頼が石油関係の大きな会社から何件も依頼があり、潜水業の需要が順調に拡大していったからなんだ。私自身もかつてダイバーの一人として潜っていたから、バンクーバーを長期間離れることはできなかった。部下に任せられるようになるまで三年近くかかったが、安定した業績を残せるようになってから、昔のように長期サーキットを再開できたのだ」

1967年5月に久しぶりに日本プロレスに来日したジョナサン。
当時、若きエースとして力道山死後の日本プロレスを支えていたジャイアント馬場はジョナサンについてこう語っている。

「私が初めてジョナサンの強さを実感したのは、1967年の5月に日本で対戦した時だ。私がキーロックをかけたら、当時138kgあった私の巨体をヒョイ、と担ぎ上げて、そのままコーナーに運ばれてしまった。私の長いキャリアの中でも、キーロックにいった私をリフトアップしたのは、後にも先にもジョナサンだけである。ジョナサンの馬力は鍛えに鍛えたものではなく、生まれついてのナチュラルなものだった。巨体で柔らかく、バネもあって怪力。これほど素質を持ったレスラーは見たことがない」

あの馬場がここまで絶賛するジョナサンの素質はレスラー仲間達の誰もが認めるものだった。
だが、レスラーとしての野心は副業をしている事情もあるのだろうが希薄で、無欲だったのかもしれない。

日本では"プロレスの神様"と崇められているカール・ゴッチはジョナサンをこう評していたという。

「才能はあるが、他に関心が多すぎるので強くなれない」

プロレスを"プロレス道"として捉えるか、ビジネスとして捉えるかによって、その人のレスラー人生の彩りは変わる。そう考えると"プロレス道"を貫いたゴッチからするとジョナサンの生き方はイデオロギーが違うのかもしれない。

そんなジョナサンは国際プロレスやカナダで若きアンドレ・ザ・ジャイアント(当時はモンスター・ロシモフ)と「ザ・バトル・オブ・ジャイアンツ(巨人対決)」を繰り広げ、2万人以上の観客を動員している。いわば巨人レスラーの世代闘争ともいえるかもしれない。当時40歳を過ぎていたジョナサンはアンドレの巨体を軽々ボディスラムで投げていたという。
アンドレにとってジョナサンの存在は大きかったとプロレスライターの流智美氏は語る。

「アンドレ・ザ・ジャイアントとして世界を股にかけるジーン・フェレ(アンドレの本名)にとって、"最後の壁"となった尊敬すべきライバル、それがジョナサンだったことは間違いない。アンドレは、ジョナサンとの一連の対決によって"巨人レスラーとして生きていくための所作"を完璧にマスターした。それはリング内のテクニックやスタミナ配分といった技術的な側面だけでなく、リング外の心構えにも及んだかもしれない」

ジョナサンの存在がなければ今日のアンドレはいなかったかもしれない。

その後、ジョナサンは馬場が旗揚げした全日本プロレスに度々来日している。
馬場、ザ・デストロイヤー、ジャンボ鶴田といったトップレスラーと対戦し、その実力を満天下に示した。
異色の試合となったのは1974年10月の"1964年東京オリンピック柔道金メダリスト"アントン・ヘーシンクとの5分3ラウンドの柔道ジャケットマッチ。実は柔道の黒帯を持っていたというジョナサンが柔道最強の男とプロレスのリングで柔道ルールで対戦した。
結果は1-0(1ラウンドと3ラウンドは時間切れ、2ラウンドはヘーシンクの一本勝ち)で敗れたが、試合後ヘーシンクは当時43歳のジョナサンを絶賛。

「オリンピックや世界選手権で対戦したすべての相手より強い」

これはジョナサンの底知れぬ実力とナチュラルな強さを象徴する発言である。

だがそんなジョナサンも老いには勝てない。
そのことを自覚するとジョナサンは1980年7月のオーストリアでのオットー・ワッツ戦を最後にプロレスを引退する。
デビューしてから31年後の潔い決断だった。

「プロレスラーは毎日毎日、身体を傷つけ、痛めつけることが商売だから、いくら能力があるレスラーでも体力は日に日に無くなっていくんだ。デビューしたときが100%なら、10年後には60%になり、20年後には30%にまで落ちている。私の場合はオットー・ワッツ戦のときには、パーセンテージはゼロになっていた。プロとして一日でも長く金を稼ごうと思ったら、自分のパーセンテージが今、どれくらいになっているのかを冷静に見極めなければいけない」

恐らく、ジョナサンがリングアウトや反則、丸め込みなどの敗れ方をしていったケースはあったが、完膚なきまでの敗戦をしたというケースは皆無だったと思われる。
だから余計に"ジョナサン最強説"が根強いのかもしれない。

引退してから9年後の1989年。
日本は昭和から平成へと年号が変わり、プロレスのスタイルも変わりつつあった。
現役時代から手掛けていた潜水業を続けていたジョナサンに一本の電話がかかった。
それは全日本プロレスのタイトル管理機関PWFのロード・ブレアース会長からだった。

「オールドタイマーを招聘してトークショーを行うんだけど、来日してみないか」

ジョナサンは1989年1月28日の後楽園ホール大会に現れた。
「オールディーズ・バット・グッディーズ」と題したレトロ企画のゲストとして来日したジョナサンは柔和で優しい笑顔でトークショーを展開し、当時若手レスラーだった菊地毅を相手に得意技ハイジャック・バックブリーカーを披露した。
ジョナサンは感謝していた。

「9年ぶりにリングに上がった感激は、一生忘れないと思う。招待してくれた馬場と日本のファンに感謝するとともに、ドン・レオ・ジョナサンの30年にわたるプロレスラー生活を誇りに思えたことは、至上の喜びです」

そんなジョナサンだが、1980年代に膀胱がんを患い、闘病生活を送っていたものの、85歳になった2016年現在もカナダ・バンクーバーで健在である。

レスラー達のOB会がアメリカで開催されると、ジョナサンは度々参加していた。
OB達はジョナサンを目の前にすると一人のファンに戻る。

「我々レスラーだって、みんなジョナサンのファンだったからね」

そんな彼らに対してもジョナサンは上から目線になることなく、物腰柔らかく接し、柔和な笑顔を浮かべていた。
これこそ、人間としてジョナサンの偉大さである。

「記録より記憶に残ったプロレスラーだった」

プロレスライターの斎藤文彦氏はかつてジョナサンをこう評したことがある。まさしくメジャータイトルには縁がなかったが、彼は「本気を出したら最強ではないのか」などといった数々の伝説という"心の勲章"を獲得していたような気がするのだ。

ジャイアント馬場はジョナサンの欠点についてこう語ったことがある。

「ジョナサンの欠点は"人を押しのけてでも"というガメツイ面が全くなかった点だった。スタン・ハンセンのようにガムシャラにトップを目指すというものではなく、とにかく底知れぬお人よしだったのだ。また弱い相手との試合になると"下手に本気を出したら、相手がケガしてしまう"という心配りが目についた。その点がマイナスといえばマイナスだったが、私はジョナサンのそういう人間性が好きだった」

かつて蝶野正洋が「レスラーにとって怪我をさせてしまうことは精神的に嫌である」と語ったことがあるが、これはレスラーにしか分からない心理である。この心理をジョナサンは分かった上で己の規格外の強さをセーブして試合を続けて、レスラー人生を送っていたのかもしれない。
ジョナサンは自らの能力を冷静に見極め、ブレーキやアクセルを踏み続けていたのだ。

ドン・レオ・ジョナサンというプロレスラーを考察していくとある風景が浮かぶ。
それは深い海の中に、ポツンと森林が浮かぶ幻想的な空間。
ジョナサンの幻想と伝説はまるで海のように深い。
そして、我々に"マイナスイオン"を届けるような森林が佇んでいるのだ。
海のように雄大で奥深く、森のように優しく包み込むプロレスラー…それがドン・レオ・ジョナサンという男だったのではないだろうか。

そして、時代はジョナサンが活躍した20世紀から21世紀に移行していった。
時代は変わった。
プロレスは変わった。
ジョナサンより後の世代の巨人レスラーも誕生している。
それでもこう断言できることがある。

ドン・レオ・ジョナサンは時代を越えて語り継がれていく不世出の天才巨人レスラーなのだと…。