玉砕の果てに~和製爆弾小僧と呼ばれたやられ屋の漂流/菊地毅【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ



俺達のプロレスラーDX
第136回 玉砕の果てに~和製爆弾小僧と呼ばれた"やられ屋"の漂流~/菊地毅



「菊地毅は今、プロレスで非常に悩んでいます」

2011年6月2日ユニオンプロレス新宿FACE大会で行われた天龍源一郎VS菊地毅の煽りVTRの冒頭で彼は率直に思いを述べた。

「自分で充実した期間がかつてあったから今、悩んでいる」

このVTRでは菊地は自らが充実した時間はかつて全日本プロレス時代に付き人を務めたことがあるジャンボ鶴田に果敢にも立ち向かった1990年代初頭と定め、今はもう天国にいる鶴田を巡る旅に出るために鶴田を彷彿とさせるユニオンのエース石川修司や鶴田最大のライバル天龍源一郎といった強豪と闘うというストーリーがテーマとなって構成されていた。

「(鶴田さんを)蘇えらせたいんです。逢えないから逢いたいんです」

当時46歳、キャリア23年の菊地の言動はどこかパンチドランカーのようにどこから呂律が回っていない。そこに感じるのは彼が歩んだレスラー人生の哀愁と傷跡。
菊地の語りに合わせて流れるBGMはベン.E.キングの名曲「Stand by me」のインストロメンタル版。

鶴田に逢いたい。
最も充実していたあの"自分"に逢いたい。
奇人、変人、パンチドランカー扱いをされてもその想いを貫く菊地。

そもそも菊地はどのようなレスラー人生を歩んだ末にこのようになったのだろうか。
もしかしたら、私達は菊地毅を過小評価をしているのかもしれない…。

菊地毅は1964年11月21日宮城県仙台市に生まれた。
小学・中学と地元のスイミングクラブに通い、水泳に打ち込んだ。
一級下のクラスには後にプロレスリング・ノアで同僚となる齋藤彰俊がいた。

高校に入るとレスリングを始めた。そのきっかけは?

「きっかけはフィギュアスケートの渡辺絵美さんなんです。スタイルもよかったし、ハーフの美人で別の世界の人みたいに思っていて、どうすれば近づけるかなと考えた時に、"学校で一番強いスポーツのクラブに入り、同じスポーツの世界で上に行けば、いつか会えるかも…"って。うちの高校(東北工業大学電子工業高等学校)はレスリングが強かったんです。宮城県では優勝は確実で、全国だったらベスト8くらいですかね」

プロレスとの出会いはレスリング部に入部した高校時代に読んだ漫画「1.2の三四郎」だった。

「『1.2の三四郎』を読むようになって、それからテレビで佐山さんのタイガーマスクを観るようになって、そこで自分の目に映ったのがライバルのダイナマイト・キッドだったんです。プロレスラーになりたいという気持ちが芽生えたのは、それからですね」

大東文化大学に進学し、高校と同じくレスリング部に入ると、才能を開花。
1986年には全日本濁世選手権フリースタイル100kg優勝を果たした。
実はこの優勝にはこんなエピソードがあった。

「大学のレスリングの先生が元々は日体大の重量級の選手で、鶴田さんと面識があったんです。それで全日本学生選手権の前に、後楽園ホールで鶴田さんに紹介してくれたんですね。その時、鶴田さんに"君は身長もないから、何らかの実績を残しなさい"と言われて、そこからまた頑張りましたね」

1987年3月、菊地は全日本プロレスに入門する。
当時の全日本は新人レスラーの宝庫だった。
角界からジョン・テンタ、高木功、田上明という金の卵がいた。
また4月にはシューティング社会人優勝経験を持つ北原辰巳(現・光騎)、6月には小橋健太(現・建太)が入門。
そんな彼らをコーチしたのがハル薗田と渕正信だった。

全日本プロレスでのトレーニングは想像以上に厳しかった。

「準備運動から始まって、基礎トレーニングをミッチリやりましたね。それで身体の筋肉を全体的に張らせて、30分ぐらい様々な形のブリッジ運動で首を鍛えて、もうヘトヘトになった後に受け身ですよ。まずは自分で取るやつから始まって、投げられての受け身、さらに人にぶつかっていって投げられて。とにかく何十本も受け身を取らされました。前受け身、後ろ受け身、ジャンプしての受け身、ヒップトス、ボディスラム。ショルダースルー、タックルを食らっての受け身とか。どんなにヘトヘトになった状態でも先輩に立ち向かっていって受け身を取らされたのは、今考えると本当に役に立ってますね。どのような状況であっても、落とされる角度がどんなに悪かったとしても、背中から落ちるという技術が自然と身に付きましたからね。そうさせてくれましたね、先輩方が」

菊地は後に小橋、北原と"若手三羽烏"と呼ばれるようになった。

「小橋選手は、遠藤光男さん(元国際プロレスのレフェリー)の紹介で入ってきたんじゃないですか。雑用で駆けずり回っている白いタンクトップの筋骨隆々の彼を見て"スゲェ、こいつ!"って。ましてやタッパもあるし。"残るだろうな"って印象を持ちました。北原選手の場合はスーパータイガージム出身だと聞いて、"えっ!?"って。当時、自分はアマチュア・レスリング出身で"俺は強ぇんだ!"っていう気持ちがあったし、他の二人もそれぞれ"そうはいかない!"と思っていただろうし、三人がそれぞれ違うジャンルから来た人間だったから、切磋琢磨して上がっていくっていうよりも張り合っていた感じですね。例えばレスリングだったら俺のジャンルだし、関節技なら北原選手だし、馬力だったら小橋選手。極めっこはやっぱり北原選手が巧かった。研究熱心だったのは小橋選手。ほんと、あの熱心さは凄かった。俺自身はどこか"アマチュアやってるんだ。俺は違うんだ!"という甘えがあったと思いますね」

三人は本当に仲が良く、盟友関係だった。
レスリングが得意な菊地は北原や小橋にアマチュア・レスリングの技術を教え、シューティング出身の北原は菊地と小橋に関節技を教えたりしたもした。三人でガチンコの練習もしたという。

1988年2月26日滋賀・栗東大会で菊地は大熊元司相手にデビューを果たす。

「デビューした頃なんて、俺はもう『プロレスがやれればそれでいい』って感覚だった。入ったからには、しがみついてやろうって気持ちがあったかな。あの頃は百田さんにずっと説教されて。百田さんは基本にうるさい人だったから、ちゃんと手順を踏むというか理にかなった試合運びをしないと『それはおかしいだろ!』って。でも、あの当時の百田さんのお説教は後々、役に立ったね。やっぱりプロレスは基本が大事」

菊地は鶴田の付き人を務めていた。

「付き人としては楽でした。仕事場とプライベートをきっちりと分けている人でしたから」

レスリングで確固たる実績がある菊地がプロレスでは"アマチュア・レスリング"の匂いを出すことは少なかった。そこには菊地の信念があった。

「いろんな人から"アマレスのベースがあるのに、何で個性として出さないの?”ってよく言われましたけど、俺自身は"プロレスがやりたくて入ったのに、何でアマレスをやらなきゃいけないの?"って考えがありましたね」

憧れのプロレスラーはダイナマイト・キッド。
あのキッドのような肉体を目指し大学時代から自己流で鍛錬を繰り返してきた。
175cm 90kgと体格には恵まれなかった菊地にとって同じ体格のキッドはカリスマだった。

「当時はとにかくキッドみたいなレスラーになりたいっていう気持ちが強くて。キッドはツームストン・パイルドライバーからダイビング・ヘッドバットをやってたじゃないですか? 俺もそれがしたかったんですよ。でも、怖かった。相手の頭をマットに突き刺して、セットするっていうのは。だって、対戦相手にも人生があるわけですから。俺の場合はスラムだったり、スープレックスをやって、セットした相手にエルボーを落としてからのダイビング・ヘッドバットってパターンでした。そこで俊敏にコーナーに上がらないと、やっぱりツームストンじゃないから、相手は完全に伸びきっているわけではないから逃げられるんですよ。だから、俺のダイビング・ヘッドバットの成功率は低かった。でも、憧れがあったんでやり続けたし、いろいろな形でトライしたり、"その先"は自分なりに考えましたよ」

そんな菊地に転機が訪れたのは1990年の天龍源一郎を筆頭とする多くの選手離脱だった。
新団体SWSに移籍した天龍に追随する形で北原も全日本を離脱した。
菊地は全日本を去る若手にこう言って泣きながら引き留めたという。

「お前らは何で出ていくんだ? 金が必要なら俺が出してやるから、行かないでくれ! 全日本を辞めるなよ!」

菊地は選手離脱を糧にして、三沢光晴、川田利明、小橋健太が結成した超世代軍に加入。菊地は唯一のジュニア戦士。日の丸タイツをトレードマークにして菊地はトップ戦線に食い込んでいった。アイドル的人気を誇っていた超世代軍の標的はジャンボ鶴田率いる鶴田軍。
菊地にとって鶴田は恩人。
しかも体格差があった。
それでも菊地は果敢にも鶴田に立ち向かっていった。

そして、鶴田を筆頭とする鶴田軍から倍返しの攻撃を食らった。
むち打ちになりそうな背中へのダブルチョップ、内臓がえぐられるようなキチンシンク、逆エビ固めはあまりにも反りすぎて"しゃちほこ固め"となり、エルボーやビッグブーツは顎をとらえ、アトミックドロップの体勢から豪快に投げられたこともあった。
ロープやコーナーを使った拷問技で悶絶させられ、拷問コブラツイストは締め付けるあまりに菊地の頭がマットにつくほどに極められた。STFはトーホールドを極めている反対の足を首に絡めて、もはや"変型リバースバイパーホールド"という別の技と化した。
何とか反撃しようとするもカウンター攻撃を食らい、壮絶に散る。
後に川田が超世代軍を離脱し、田上とともに聖鬼軍を結成し、対角線に立つことになると菊地は川田から容赦ない攻撃を食らい続けた。ボコボコに殴られ蹴られ、締め上げられた。
菊地はリングのボロ雑巾と化していた。


これらの拷問を菊地は持ち前の肉体の柔らかさとタフネスで耐え抜いて反撃していった。
この光景に人々は喝采を上げた。
やられてもやられても立ち上がり玉砕覚悟で反撃する。
それがプロレスの醍醐味だからだ。
菊地は"和製ダイナマイト・キッド"、"火の玉小僧"という異名をもらう人気レスラーとなった。
一部では菊地のやられっぷりは"やられの美学"と形容された。
菊地のやられっぷりによって、菊地も対戦相手もより光ったのだ。
菊地は"やられ屋"になることでリングでトップレスラーに負けない存在感を放っていたのも事実だ。

「(鶴田からの攻撃は)俺にとっては、それはありがたかったですよ。俺が注目されたとしたら、それはあれだけ鶴田さんにやられたからで。まぁ、当時は"たまったもんじゃない!"と思ってましたけど。自分は這いつくばっているわけですよ。這いつくばっているのに、何で叩かれなきゃいけないのか。あの痛みは、どうにも我慢ができなかった。"何でプロレスやっていて、こんなにボコボコにされなきゃいけないんだ"って弱音を吐いたことがありましたよ」

ジャーマン・スープレックス・ホールド、フィッシャーマンズ・スープレックス・ホールド、ダイビング・ヘッドバット、ウルトラ・タイガー・ドロップを得意としていた菊地だったが、オリジナル技がまだなかった。
試行錯誤の末に編み出したのがゼロ戦キックだった。

ゼロ戦キック=レッグラリアット。全日本時代の超世代軍に在籍していた際に開発。初期型は両足で行っていたが、現在は片足で行い反転して着地できる形になった。串刺し式などのバリエーションもある。自身の体が外に流れるようにして足の内側を相手にヒットさせる木村健吾の使用する稲妻レッグ・ラリアットとは逆で、自身の体を浴びせるようにして足の外側を相手にヒットさせる
【wikipedia/菊地毅】

実はこの技は自身の足の外側が相手のあごに直撃するため、受ける対戦相手にとっては厄介な技だと言われている。

超世代軍結成してから二年。
菊地は1992年5月25日の地元・仙台大会で小橋との同期コンビでカンナム・エクスプレスを場内を熱狂させる名勝負の末、撃破しアジアタッグ王者となった。
これがプロレス人生初のタイトルだった。

菊地が是が非でも獲りたいと定めたのが世界ジュニアヘビー級王座だった。
当時の全日本ジュニア戦線は"赤鬼"渕正信王朝だった。
関節技と拷問技を得意とする王道の仕事人レスラーを倒さない限り、菊地がこのベルトを獲得することはできない。
菊地は幾度も渕に挑み、壮絶に敗れ去った。
特に1993年2月28日の日本武道館大会では高速バックドロップ10連発を食らい完敗。
菊地にとって世界ジュニア王座と渕正信の壁の高さは険しかった。

「常に渕さんのペースでした。何だか巧いんですよ。試合だけじゃなくて、渕さんを応援したくなる雰囲気を作るというか。全部、持っていかれちゃう感じでしたね。あの人の引き出しは、ひとるじゃ収まらないですよ。本当にネチネチとした試合の組み立てをしてきたしたからね」

世界ジュニア王座には実に8度目の挑戦で戴冠した。
1996年7月24日の日本武道館大会。
相手はやはり渕だった。

菊地は1995年に超世代軍を離脱し、川田や田上がいる聖鬼軍入りをした。
日の丸タイツを捨て、黒のロングタイツに変身した。
小川良成とのジュニアコンビでアジアタッグ王座にも挑戦した。
立ち位置を変えた菊地がこの渕とのタイトルマッチでは日の丸タイツを復活させ、執念のジャーマン・スープレックス・ホールドで破り、悲願の世界ジュニア王座戴冠を果たした。

「この日の丸タイツにいい思いをさせたかった…」

それが菊地の心意気だった。

「渕さん、ダニー・クロファット、小川さんと挑戦して、8回目の挑戦でようやく獲れたという感じで。それこそ"時期を逸したな"と言われた中でのベルトでしたからね。仕方がないです。これも実力なんですよ」

1997年1月に小川に破り、王座転落してから菊地はタイトル戦線はあまり絡まなず前座戦線に甘んじる機会が増えた。
悪役商会入りをし、お笑いプロレスに身を投じたこともあった。
自慢のヘッドバットの音を大観衆に響かせるためにマイクで近づけて、敢行したこともあった。
それはプロレスラーとして生きていくための手段だった。

2000年6月、当時全日本社長だった三沢光晴が独立し、新団体「プロレスリング・ノア」を旗揚げした。菊地もノア旗揚げに参加した。
ノアに参加すると菊地はジュニア戦線で再び脚光を浴びる。
同期である小橋率いるバーニングに加入し、金丸義信とのコンビでは新日本プロレスの至宝IWGPジュニアタッグ王座を戴冠した。

だが2000年代後半になると徐々に低迷していった。
実はある関係者によると菊地はヘッドバットの使い過ぎと無茶をするプロレススタイルから、パンチドランカーの症状が出てきていたという。

2009年12月、菊地は経営難によってノアからリストラされた。
フリーとなった菊地。
もう脚光は浴びることはないかと思われていたが、ノア時代から表面化していたエキセントリックな言動と変人ぶりが何故か評価されるようになった。

2010年10月6日マッスル後楽園大会。
このイベントで大ブレイクしたのは菊地だった。
ダウンタウンの年末特番を彷彿とさせる"絶対笑ってはいけない引退興行"と題した中で、笑いを量産し、マッスル主力メンバー(マッスルメイツ)はお仕置き人からケツバットを食らった。

高木三四郎の対戦相手となった菊地の煽りVTRは菊地の長々としたインタビューから始まった。

「俺、時間いっぱいあるし、今年入ってずーっと休みだったから。また仕事ちょうだいって感じかな?」

菊地の一挙手一投足に、マッスルメイツは笑いを堪えきれない。
しまいには着ていたスーツを脱いで上半身裸となり、"笑ってはいけないシリーズで爆笑を量産する"ジミー大西ばりに「一週間を英語で」とリクエストされ、英語で答え、爆笑を誘う。
そこにはかつてアイドル的人気があった男の姿はどこにもない。

試合になっても菊地の変顔に笑いが絶えない。
その後、菊地はゆかりのないレスラーの引退スピーチに呼ばれたり、覆面レスラーに変身したり、パンストを被って試合したりと衝撃を与えた。
これらの変人ぶりが注目を浴び、2010年度日本インディー大賞ニューカマー賞を受賞した。

プロレスライターの村上謙三久は菊地をこう評している。

「行き過ぎた表情、常軌を逸した行動、意味不明な言葉、昔から変わらぬ頑張り…。そんな菊地を面白がるファンがいて、菊地もそれに過剰に応えている、というのが今の状況だろう。僕が初めて全日本プロレスに興味を持った時、まず目に止まったのが鶴田軍に対して必死に抵抗する小橋健太(現・建太)と菊地毅の姿だった。この"必死に抵抗する"イメージが小橋と菊地にはとにかく強い。ただ、大きく違うのは、小橋は徐々に"必死に抵抗して、最後は互角の勝負を繰り広げる(さらには勝つ)"と変わっていったが、菊地はずっと"必死に抵抗するも(完膚無きまでに)叩き潰される"ままだったことだ。ヘビー級相手はもちろん、ジュニアヘビーの中でも菊地は強い存在ではなかった。渕正信には徹底的にやられ、明らかに立場としては先行していたはずなのに、小川良成にはあっさり追い抜かれてしまった。それだけではない。NOAH設立後も含めると、たくさんの後輩たちの後塵を拝すようになる。でも、やられっぷりは変わらない。菊地が完勝するのを見た記憶がないが、それ以上に頑張らない菊地を見たこともない。僕が一ファンだった時代の記憶にはそんなイメージがハッキリと刻み込まれている。ただ、今になればわかる。NOAHに移ってからも地元仙台の声援をバックに何度かタイトルにも挑んだが、最後までGHCのベルトを巻くことができなかった。動きは確実に悪くなっているのがどうしても目に付いてしまう。火の玉ボムもヒザを付いた形が増え、スープレックスやゼロ戦キックの切れ味も鈍くなった。なにより、突貫ファイトができなくなっていた。気持ちではやろうと思っても身体が付いていかない。絶対王者に君臨していた小橋が"菊地さんもまだまだこれから"とハッパをかけても、それに真っ直ぐと"そうだよな!"と反応できない菊地がいた。どんなレスラーだって、どんな人間だって、そうやって年を取っていく。プロレスファンはそんな菊地を理解し、受け入れた上で、しっかりと応援していた。それに応えようと菊地も必死に戦っていた。それのひとつの表れが奇声であり、奇行なんじゃないかと僕は思う」

菊地はノアからリストラされてから、あらゆる団体に上がりながら、副業を転々とした。
とび職、ラーメン屋、牛タン屋、工場作業員…。
挙句の果てにはロックバンドを結成し、ライブまで行った。
生活費を稼ぎながら、プロレスを続ける菊地のレスラー人生はまさしく一人で大海を彷徨う"漂流人生"。
玉砕の果てに、パンチドランカー症状が出るようになった菊地だったが、引退という道を選ばなかった。
菊地は語る。

「俺は身体が続く限りというか、墓場までプロレスを持ってっちゃおうかなって。ここまできたら埋もれるんじゃなくて、やっぱり『菊地毅というのがいたんだ!』って名前を残したい。『あれ、凄かったよね!』というのを残れば嬉しい」

飽くなきプロレスへの渇望が菊地にはある。
プロレスラーとしてのプライドが菊地にはある。

「俺にはプロレスしかない」

その一念が菊地をリングに向かわせる。
もう50を過ぎた。
プロレスキャリアは四半世紀を過ぎた。
同期の小橋は引退し、北原は師匠・天龍引退以後試合をしていない。
"若手三羽烏"と呼ばれた三人の若武者の中で今なお現役バリバリなのは菊地だけだ。
また、超世代軍のオリジナルメンバーの中でも現役を続けているのは菊地だけだ。
菊地はリングに立ち続けることで、我々の魂に訴えかける。

「これが俺のプロレスなんです」

菊地と対戦した"インディーの巨砲"石川修司(195cm 140kg)は菊地をこう称える。

「僕の方が身体が大きいんですけど、身体が劣っていても正面から来る。どんなにやられても諦めないっていうのは凄いなって」

冒頭に紹介した煽りVTRのBGMで使われたベン.E.キングの名曲「Stand by me」にはこんな歌詞がある。

たとえばもし、ずっと見上げてきた空が
ある日突然、崩れ落ちてしまっても
大地が崩れてみんな海の底に沈んでしまっても
僕は泣かないよ 涙なんて流さない
あなたがそばにいてくれるのなら…
【Stand by Me / Ben E. King】

"やられ屋"が玉砕の果てにたどり着いた生涯一プロレスラーという生き方。
それは尊敬するダイナマイト・キッドだって出来なかったことだ。

「やるしかないんです」

だが菊地はまだ気がついていない。
そして、我々も…。

菊地毅の歩みはプロレス史に燦然と輝く"伝説"なのである。
それでも彼はプロレスで生きるために今日もどこかのリングに上がる。

彼にとってプロレスは人生なのだから…。