地下プロレス帝王の黒歴史~彼は最強か?危険か?~/ローラン・ボック【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第137回 地下プロレス帝王の黒歴史~彼は最強か? 危険か?~/ローラン・ボック



瞬間最大風速でプロレス界を駆け抜けていった男一一。
ローラン・ボックこそ「伝説」の2文字が似合うレスラーである。
【私の胸を熱くした 伝説のレスラー 水道橋博士/2002年10月30日付 東京スポーツ】

ローラン・ボックほど伝説と幻想に包まれたプロレスラーはいないかもしれない。
191cm 120kgの強靭な肉体、アマチュア・レスリングでの実績に裏打ちされた実力とプロレスの範疇を越えた圧倒的な強さと相手の攻撃をあまり受けない姿勢がボックのプロレススタイルだった。
「地獄の墓掘り人」、「欧州の帝王」、「ドイツ最強の男」という異名を持っていたボックはプロレス界で異彩を放つ存在だった。
今回はそんなボックのレスラー人生を追う。

ローラン・ボックは1944年8月3日ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州ガイスリンゲン・アン・デア・シュタイゲという町に生まれた。
彼はレスリング(アマチュア・レスリング)を始めたのは14歳の時だった。

「たまたま友人がレスリングの練習についていくというので、見学がてら付いていって一緒に練習していたら、そのクラブのコーチが私の体格と身体能力に驚いてね。レスリングの知らないはずの私の動き、そして教えられたことをすぐに実行できる呑み込みの早さを見て、ポテンシャルの高さを凄く評価してくれたんだ。その日をきっかけに私自身もレスリングに興味を持ってね。それから週2回の練習に通うようになったんだ」

レスリングの才能に目覚めたボックは1961年にドイツ(当時は西ドイツ)ジュニア選手権優勝、1963年レスリングドイツ選手権3位と実績を上げ、東京オリンピックドイツ代表候補に選ばれたという。
1968年にはドイツ選手権フリースタイルで初優勝、グレコローマンスタイルでも3位に入賞し、メキシコオリンピック・グレコローマンスタイルヘビー級ドイツ代表に選出されるも11位という不本意な成績に終わる。

「メキシコでの試合は私にとって非常に過酷なものだった。メキシコシティは約2200mの高地にあって、空気が非常に薄いので普通の呼吸ができなかったんだ。そんなわけで、いつもながら楽勝か最悪でも引き分けに持ち込める相手とも、ひどい試合をしてしまった」

その後、1970年にはヨーロッパ選手権を制覇したボックだったが、ミュンヘン・オリンピック直前のヨーロッパ選手権を体調不良でドクターストップがかかったこと、興奮剤の使用を巡って協会とトラブルとなったことなどの要因が重なり、ボックはすでに内定していたミュンヘン・オリンピック出場資格停止とナショナルチームからの除名処分を食らった。
そんなボックに1973年にプロレス転向のオファーが届く。

「実はプロ入りを決める前に、ドイツ国内で最も権威のあるリーグのレスリングクラブからいい条件でオファーをもらっていてね。ナショナルチームを外れてからもコンディションを整えていたし、私はそこに参加することになっていたんだ。そんな時にスイスのポール・バーガー(IWGP創設時の実行委員の一人で、後にボックのマネージャーとなる人物)」から、プロレス転向のオファーが届いたんだ。私は即座にプロ転向を決めた。その最大の理由はレスリング協会が私をナショナルチームのメンバーから外したことだ。あの一件がなければ、私はプロレスラーにならなかったと思う。誰よりもアマチュア・レスリングを愛していたからね」

フランス人のクラウデ・レオン、ベルギー人プロレスラーのジョニー・ロンドスのコーチを受けて1973年9月にプロレスデビューをしたボック。
実はボックはプロレス転向する以前は、プロレスに関心も観たこともなかったという。

「日本やアメリカと違って、ドイツではプロレスはそれほどメジャーではないからね。特にアマチュアのレスラーはプロレスを真剣な競技とは考えておらず、単なるショーと捉えていた。だから私がプロに転向した時、メディアからは随分ネガティブなイメージで叩かれたもんだよ。しかし、プロレスというものが単なるショービジネスではなく、非常に過酷なスポーツであり、時にはアマチュア・レスリングよりもハードで、アマチュアのルールでは禁止されているものさえ存在することを私は数ヵ月の練習を通じて知った。だから世間の目など気にせずに自分の道をベストな形で進み、この世界で成功を収めようと思ったんだ」

29歳での遅咲きデビューのボックは翌年(1974年)8月にミュンスターで、"岩石男"という異名を持ちプロレス界最強のシューター と言われているジョージ・ゴーディエンコとシュートマッチを展開する。試合には敗れたがボックはこう語る。

「彼(ジョージ・ゴーディエンコ)は私に対して骨折させるような攻撃を加えてきたり、通常の試合とは異なる"おかしな"ファイトを仕掛けてきた。もし真剣に彼の攻撃をかわさなければ、試合中に私は本当にどこかの骨を折られていたかもしれない。試合後にある選手が真相を教えてくれたよ。あの試合はプロモーターが私の実力を試すため、それからジョージがどこまでシリアスなファイトで私を打ち負かすかを観るために、彼を"シューター"として雇って私に当てたんだ。結果的には、ジョージが病院送りになったんだがね(ゴーディエンコはこの試合で足首を骨折している)。私はジョージが入院している病院を訪ね、それ以来、私達は親友となった。ジョージは私のプロレスのキャリアの中で、最も強いレスラーのひとりだった」

後にゴーディエンコは雑誌のインタビューでこう答えた。

「ローラン・ボックこそドイツ史上最強のレスラーだった」

ちなみに同年ミュンヘンに遠征に来た"仮面貴族"ミル・マスカラスにもボックは勝利している。あのマスカラスにプロレスのリングで勝利しているのだから、やっぱりボックはただ者ではない。
またテレビ番組で熊と対戦し勝利をしたこともあった。

1978年11月、ボックは新日本プロレスのエースでモハメド・アリと異種格闘技戦で対戦した日本のアントニオ猪木を招聘した「キラー・イノキ・ヨーロッパツアー(欧州世界選手権シリーズ)」が開催された。
猪木を主役にしたヨーロッパ遠征では猪木の異種格闘技戦も組まれた。
ボックはこのシリーズのプロモーターだった。
そして、同年11月25日にボックは猪木と対戦した。
ツアー中にボックと猪木は二度対戦し、ボックの一敗(反則負け)一分だった。
三戦目となったこのシュツットガルトでの試合。
ボックは静かに燃えていた。

「私は誰がリングの上のマスターなのかを猪木に知らしめてやりたかった。シュツットガルトのあの試合中に彼の攻撃で受けた怪我は大変な激痛を伴った。だから、私と同じように血しぶきのあがる、彼にとって忘れられない試合にしてやろうと考えたんだ。実を言うとこの試合の後、私は三日間ホテルに閉じこもってベッドに臥せていたんだ。猪木との激闘の疲れを回復させるためにね」

試合はボックの判定勝ちに終わり、この模様は日本でもテレビ放映され、猪木敗れるという衝撃は「シュツットガルトの惨劇」として今日も語られるほどの出来事となった。

1978年11月26日、西ドイツ・シュツットガルトで行われたアントニオ猪木との試合。当時、3週間にもおよぶヨーロッパ遠征を敢行していた猪木が、唯一負けた相手がこのボックであった。何よりも印象的であったのが、ボックが漂わす異様な雰囲気だった。当時の猪木は“負けない”レスラーであり、勝つことが当たり前。そんな猪木に対して、ボックは今までに見たことのないファイトスタイルで猪木をほんろうした。アンドレイ・コピィロフをビルドアップさせたような体、受け身の取れないスープレックス、一線を越えたシュートな攻め…。猪木を潰したこの試合を、人は「シュツットガルトの惨劇」と呼ぶようになった。そう、それはまさに「惨劇」であった。
【私の胸を熱くした 伝説のレスラー 水道橋博士/2002年10月30日付 東京スポーツ】

この試合について、新日本プロレスでトップレスラーとして活躍し、現在WWEに在籍する中邑真輔はこう分析している。

「まず試合を見て思ったのは、受け身の音とか聞く限り、マットが相当に硬いんだろうなっていうことですね。硬いと、一つひとつの受け身で地味にダメージが蓄積されていくということもあるんですけど、足さばきという部分では動きやすいし、瞬発力を使おうというときは硬い方がいいんですよね。いわゆるレスリングの差し合い、グラウンドの攻防が多いですけど、これもマットが硬いからこそ、こういう攻防にならざるを得ないんでしょう。猪木さんはたまに蹴りを出していますが、ボックはあまり打撃に対する免疫がないように見えますね。グラウンドでの関節技も猪木さんに分があるように見えるし、ボックはそれをパワーと身体のバランスでしのいでいるのかなと。ボックはもちろんパワーだけでなはないし、筋肉も柔らかそうだし、動きに硬さはない。テイクダウンや相手の体重を利用して投げるスープレックスの技術からはアマレスのテクニックを感じさせるし、スタンドで組んだときも確実に相手を差しにいく。グラウンドでも関節技を使わない動き、体さばきや相手の身体の上を移動する動きは、猪木さんよりボックの方が自然に見えます。ロープ際の攻防で流血させられてエキサイトしたボックの姿を見ると、地元で頭を張って、気を吐きながらやっているというプライドは見えますよね。ナメられてたまるかっていう気概は感じられます。ボックはルールを最大限に生かした闘い方をしていて、単調な攻防のなかでもスタミナを奪い取って、のらりくらりとポイントを貯めていくというか、ルールの特性を生かしてますね。結果として3-0という判定も、この内容を見る限りは納得できるなって思います」

ちなみに猪木はボックについてこう語っている。

「凄い野心家だと思うんですね。その野心家の中で、ただ戦略的に成功しなかったというか、このー、非常に我々の考えてるものとは違う、という部分でね。ただ、そのやはり一つの殻から飛び出して行こうというエネルギーというのは凄かったと思うね。彼によってずいぶん多くの選手が怪我をして、再起不能になったというのもね、知ってますしね」

ボックがプロモートしたこのシリーズは興行的には惨敗に終わり、ボックが関わっていた興業会社は倒産し、一部の選手達へのギャラは支払われなかった。
初代タイガーマスクのライバルとなるイギリス人プロレスラーのスティーブ・ライトもこの一件の被害者の一人だ。
ライトはボックをこう断罪している。

「ボックはプロモーターの器じゃない。レスラーとしても貧しい男だ。プロレスは相手の実力を尊重しなければ決して成立しない競技なのに、ボックは相手にケガをさせてまで自分をよく見せようとするヤツだ」

1979年に日本で猪木と再戦する予定だったが、交通事故に遭い来日が中止となったが、その後、地元ドイツで"世界の大巨人"アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦し、スープレックスで投げることに成功したという。
だがアンドレ戦後、ボックは血栓症となり、入院。
しばらくリングから遠ざかるようになった。

「血栓症の治療中は一切のトレーニングを行っていないし、できるようになってからも以前に比べてずっと少ない練習量になってね。私はレスリングをすることで、あのような事態になることが再び起きるのが怖かった」

1981年7月にようやくボックは新日本プロレスに参戦するも、コンディションに不安を抱えていた。実際に彼の肉体を見てみると、シュツットガルトでの猪木戦に比べると腹回りが締まっていないのが分かる。

それでも日本での第一戦となった1981年7月31日の大阪大会での木村健吾戦でボックは1分35秒で秒殺。アマレス流の反り投げ、フィニッシュとなったダブルアーム・スープレックスはまさしく圧巻だった。
対戦相手となった木村は後にこう振り返っている。

「僕はいろんな選手と試合をしてきましたが、リングに上がった時に、"怖い!"と感じたのは彼だけです。震えが出てくるような感じで、本当に怖かった…。試合をしているときも"このまま無事に帰れないだろうな"と思ってました。もう二度と闘いたくない相手ですね」

日本でフィニッシャーとして使用していたダブルアーム・スープレックスにはボックが長年培ってきたアマレスのバックボーンを感じさせる"投撃"だった。

ボックのダブルアーム・スープレックスはよくワン、ツーのタイミングで投げる、もしくは引っこ抜くと表現される。(中略)ボックは「高く持ち上げる」というプロセスを省き、いきなりたたきつける動作に入っている。ビル・ロビンソン(特に後期)やジャンボ鶴田のように大きく弧を描いてから投げ捨てる方式であれば受身を上手く取ればショックはやわらげられるだろうが、ボックの投げ方は、投げられるレスラーの運命はボックにゆだねられているといっても過言ではない危険な投げ方である。「その技が出れば試合は終わる」という必殺技の定義が当てはまる最後の必殺技がこのボックのダブルアーム・スープレックスだったといえよう。
【ミック博士の昭和プロレス研究室/ローラン・ボックのダブルアーム・スープレックス】

この技の元祖は"人間風車"ビル・ロビンソンだが、彼の愛弟子でダブルアーム・スープレックスを得意技にしている鈴木秀樹はこの技についてこう語っている。

「ロビンソンのダブルアームスープレックスは、相手の頭を自分のお腹に当てるんじゃなくて、ハーフハッチに行ってから投げるんです。相手が堪えるから投げれる体勢になるし、そのまま下に押し潰すこともできる。顔から押し潰されたら受け身は取れなくて危険です。プロレスにはそうやって見せるための技が多いとは思っていたし、そういう要素は必要なんですけど、基本的に理にかなった技なんですよ」
【Dropkick“ビル・ロビンソン最後の弟子”鈴木秀樹インタビュー「弱いプロレスラーは迷惑なだけです」】

長州力、ラッシャー木村、タイガー戸口(キム・ドク)といった日本人レスラーを次々と倒していったボック。一部ではプロレス界真の世界王者を決めるIWGPリーグ戦の優勝候補として名が上がるほどだった。

1982年1月1日後楽園ホール大会でボックは猪木と約3年ぶりの一騎打ちを行った。
だがボックのコンディション不良がリング上で目立つようになり、試合内容も低調に終わり、反則負けを喫した。
実はボックにはこの一戦にある決意を固めていたという。

「私はこの猪木との試合を最後に、プロレスラーとしてのキャリアをこれ以上を続けるつもりはなかった。私はすでに37歳になっていたし、それくらいの年齢になったらレスラーはリングを下りるべきだよ。だからあの猪木戦が私の現役最後の試合だ」

この試合を最後にボックは引退。
9年間のプロレスラー生活だった。
その後のボックがどのような人生を送っていたのかはなかなか情報が入ってこなかった。
一部では消息不明とも言われた時期もあった。
ここからが"墓掘り人"が歩んだ第二の人生である。

ボックは引退後は事業家に転身するも、だがあの「シュツットガルトでの惨劇」を生んだ欧州世界選手権シリーズでの税金の未払いと、そのシリーズの資金調達に関係していた第3者の個人投資の損失のため、罪に問われ懲役二年の判決を受ける。
ボックは個人資産、経営していた所有地を失い、牢獄に入ることになる。

出所後、ボックは1991年にタイに移住し、貿易業を始める。
だが、2003年に中国に訪れた際に当時、流行していたSARSに感染し、その治療のため故郷のドイツに戻ることになった。
現在は靴の販売業をして生活しているという。

プロレスラーというものは、存在自体が“なつメロ”っぽいものだが、彼は伝説のまま去ってくれた。その後何度か来日したものの、私の記憶の中のボックはあの試合で止まっている。せいぜいアンドレ戦を覚えているくらいだ。ローラン・ホックのおとぎ話は 「シュツットガルトの惨劇で」完結してしまった。彼は老醜をさらすことなく、瞬間最大風速のまま私の前を通り過ぎていったのだ。
【私の胸を熱くした 伝説のレスラー 水道橋博士/2002年10月30日付 東京スポーツ】

ローラン・ボックのレスラー人生を振り返ると、どこか闇や霧といったドス黒さが付きまとう。
プロレスラーとしての評価も賛否は分かれる。

「他のレスラーを骨折させたり、負傷させたりすることは私の性格が許さない」と語っていたボックだが、その一方で故意に相手を骨折させ、攻撃一辺倒な一面を持つ。

「アマチュアレスラーとしてのキャリアを見てもらえればわかる通り、私は世界的に最も強いヘビー級選手のひとり」という自負があるボックにはどこか自己顕示欲と若干過剰ともいえる自信が見え隠れする。

ある者は地上最強のレスラーと称え、ある者はマット界の危険人物だと警戒した。
彼の"性根"と"怪物性"がこのような賛否分かれる評価に現れた要因になったのではないだろうか。

決してNWAやWWE,AWAといったメジャータイトルを獲得したわけではない。
逸話はあるが、名勝負を残したわけではない。
どんな光やカラーでも消してしまう強烈な闇を持つ男だった。
ローラン・ボックはどこか"地下プロレス"の匂いを漂わせていた。
彼のレスラー人生はメジャーではない、インディペンデントでもなく、どこまでも闇が漂うアンダーグラウンドだった。生活において、見えないものや未知のものに我々は緊張や恐怖や脅威を抱きやすいものだ。ボックの妖気ともいえる強さとは地下という闇に隠れているからこそより際立つものだった。

だがそんな"黒歴史"ともいえるレスラー人生だったからこそ、今なお彼は最強幻想、あるいは最強伝説が唱えられるプロレスラーになったともいえよう。

「プロレスは私にとって冒険だった。最初は何に立ち向かうことになるのかも、このビジネスでどう自分をうまく売り出していけばいいのかもわからなかった。今、自分のキャリアを振り返ってみて、プロレスはもっとショー的要素の少ない、真剣な闘いにするべきだと断言できる。アマチュア・レスリングと同じであるべきとまでは言わないが、プロレスもまたレスリングであり、ただの面白いショーだけではないことを示すべきだと思う」

プロレスとはあらゆう境遇や立場にいる者にスポットライトが当たるステージだ。
それが例えジャンルを犯す"侵略者"や"破壊者"、"異端児"だったとしてもだ。
誰かを救う場所でもあるが、誰かをのみ込むブラックホールのような世界だ。

プロレスとは底が丸見えの底なし沼とはよく言ったものである。

"闇の帝王"ローラン・ボックはブラックホールのような地下で輝くからこそ、"底なし沼"のプロレス界で今も語り継がれているのだ。


主要参考文献
・「Gスピリッツ vol.21」(ローラン・ボック インタビュー/辰巳出版)
・「超一流になれなかった男たち」(流智美 著/ベースボール・マガジン社)
・「日本プロレス事件史 vol.1」(ベースボール・マガジン社)