まるでピリリと辛い山椒の如く~伝わりにくい隠れ技巧派の真髄~/石川孝志【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第140回 まるでピリリと辛い山椒の如く~伝わりにくい隠れ技巧派の真髄~/石川孝志(石川敬士・石川隆士)




1993年1月4日。
新日本プロレス正月恒例の大イベント・東京ドーム大会が行われたセミファイナルは異色の対決となった。一年前なら一年以降先ならまず考えられないマッチメイク。
田中秀和リングアナがマイクでアナウンスする。

「WAR・石川敬士(石川孝志)入場!」

すると会場中が大ブーイングに包まれる。
東京ドームの長い花道を黒のWARジャンパーを着用した180cm 110kgの石川が小走りで入場してくる。
石川が姿を現すとブーイングはさらに増した。
ここは石川にとってアウェー。
新日本プロレス VS WARの団体対抗戦なのだから…。
彼にブーイングを浴びせたのは新日本ファンである。
新日本ファンからするとWARとは大将・天龍源一郎は認めても、それ以外のレスラーは認めないというスタンスだったのだろう。

石川の入場が終わると、対する新日本代表の男が姿を現す。
プロレス界のスーパースターである藤波辰爾だ。
石川とは対象的に藤波の入場は大歓声に包まれた。

あの藤波と東京ドーム大会のセミファイナルで闘うことになった石川。
彼にとってはプロレス人生においての大一番。
まさか彼がこの位置で試合をすると予想したプロレスファンは少なかっただろう。
それもそのはず、石川のこれまでのレスラー人生はメインイベンターではなく、中堅の位置で小気味よく活躍していたいぶし銀である。
藤波との対戦に至るまで、藤波戦以降に彼がどんなレスラー人生を送ったのか。
今回は角界からプロレス転向を果たし紆余曲折のレスラー人生を歩んだ男の軌跡を追う。

石川孝志は1953年2月5日山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)に生まれた。
元々は中学生まで野球に打ち込んでいた石川は酒田南高校に進学すると相撲部に入部する。
相撲で才能を開花させると2年生の時にインターハイ個人4位、3年生になると国体優勝を果たす。相撲部屋からスカウトを断り、日本大学に進学し、相撲部に入部する。
日本大学相撲部は元大相撲横綱・輪島大士を輩出した名門である。

名門相撲部の主将になった石川は全日本相撲選手権優勝をしアマチュア横綱になる。学生選手権にも優勝し、アマチュア相撲最強の男となった石川に4年生の時にある病気を患う。
糖尿病である。

「糖尿病になったのは日大の4年の10月の選手権が終わってからかな。128kgあったけど、体重が落ちちゃって。練習をするたびに、まわしを切らなきゃいけなくなってね。病院にいったら糖尿病だということでね。治療のため」翌月から、日大と関係のあった病院の院長先生の自宅で2か月暮らしたのよ。食事もカロリー計算して、それこそ茶碗一杯のご飯に野菜を多めに摂ってね。そうしたら体重も増えてきたんだよ。一番落ちた時は104kgだったんだけど、110kgぐらいになって、やっと相撲を取ることができる状態になってね」

実は石川は大学卒業後の進路も決まっていた。
病院の職員になる予定だった。
だが糖尿病の治療に取り組むようになるとある想いを抱くようになる。

「こうなったら大相撲に行ってみるか」

人生は一度しかない。
ならば悔いは残したくない。

1975年、石川は角界入りを果たし、同じ大学の先輩・輪島が在籍している花籠部屋に入門する。糖尿病の石川のために部屋では彼専用の特別メニューを用紙してくれた。

1975年3月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵。アマチュア横綱経験者が初めて角界入りしたとして当初は注目を浴びた。巨漢ではないが取り口が巧みで、期待の技巧派力士として順調に幕内まで昇進するものの、糖尿病の再発を理由に24歳、1977年7月場所をもって廃業。なお四股名の大ノ海は、師匠であった11代花籠親方(元前4・大ノ海久光)の四股名でもあり、それだけ将来を嘱望されていた。
(wikipedia/石川孝志)

「最初は幕下付け出し61枚目で、6勝1敗かな。東京に戻ってきて5月場所も6勝1敗、7月の名古屋場所で7戦全勝して、十両に上がってさ。その時に一緒に表彰されたのが天龍さん。天龍さんは十両で優勝したんだよね。それを考えると縁があったのかな」

最高位は西前頭4枚目だった石川だったが廃業を決めた理由についてこう語っている。

「大相撲は二年半いたのかな。辞めたのは糖尿病のこともあったし、あとは大ノ海の三代目を継いだでしょ。自分では"俺が花籠の後を継ぐの?"と解釈した部分もあってね。まあ、あんまりそういうのは言いたくないんだけど、辞めたのはいろいろな理由が重なっているんだよ」

1977年7月の名古屋場所を最後に角界を去った石川が選んだ第二の人生はプロレスだった。

「7月場所で辞めるんだけど、その直前の6月にある人を通じてジャイアント馬場さん(全日本プロレス社長)にあって、"じゃあ、名古屋場所だけは取ってから"ということになって。やっぱり100kg以上もあって、まだ24歳だったから若さもあったし、体を活かした職業は何だろうと思ってね。そりゃあプロレスでは」小さいかもしれないけど、相撲をやってたという強さが自信になったよ。"プロレスだって大きい、小さいは関係ないだろ。やれるよ!"っていうね。あの時、輪島さんには相談した。和島さんが花籠を継がないで、部屋を持つ話があって、俺は一番弟子として行くという輪島さんとの契約があったの。でも輪島さんはプロレスに行きたいって言ったら、"しょうがないよな"って。プロレスはテレビでは見てたよ。観るのは全日本の方が多かったね。新日本も観てたんだけど、やっぱり自分がやるとなると何だか合わないのよ、柔道のアントン・へーシンク(東京五輪柔道金メダリスト)も全日本でデビューしたし、俺が入る前の年には天龍さんが入ったでしょ。馬場さんって"俺が!"っていう性格じゃないように見えたし、他の分野から新しく入った人に凄く理解があるんじゃないかなと思って」

石川は廃業直後にプロレス入りしたため、角界との軋轢や引き抜きという批判をさけるため、全日本プロレスには入団せずに、フリーという立場で馬場からアメリカ武者修行先を紹介してもらうことになった。
日本で1か月ほど全日本道場でトレーニングを積んだ石川が海外でプロレスデビューすることになった。
修行先はテキサス州アマリロ。
石川は1977年11月17日ボブ・オートン・ジュニア戦でデビューした。

「デビューの前の日に、ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクがアリーナに連れて行ってくれて教えてくれたんだけど、英語だから100%は頭に入らない(苦笑)。教わったといってもヘッドロックとか腕の取り方とか、そんなもんだし。だから、デビュー戦はキツかったな。試合の組み立ても知らないし、ヘッドロックで5分間ぐらいジッとしてたんじゃないかな(苦笑)。日本人だからチョップをやろうと思っても、どんなチョップ使っていいかもわからないし。よくそれで試合やったよな。商売になればと髷をつけて渡米したよ。化粧回しを着けて、リングに上がってたから。それで四股を踏んだりさ。股割りして胸もリングにピタッと着けたら、向こうのお客さんはビックリしてたよ。その体勢から足を寄せて立つと、客席が"ワーッ!!"と沸くんだ。みんな"ハラキリ!"とか"サムライ!"って、声かけてくるんだよ。立場もベビーフェースだったし。ドリーとテリーが教えてくれたのは本当に基本だけ。"相手がこう仕掛けてきた時には、踏ん張らないで自分でポーンと行った方がリスクは少ない"とか、そういうことは自然と身についていったね」

アメリカには一年間滞在し、アマリロやサンフランシスコに転戦した石川は相撲とのギャップに悩むことはなく、プロレスラーとして成長を遂げていく。角界転向組が苦戦する受け身にも順応に対応できた。恐らく、彼にはプロレスの世界に順応できるほどの柔らかい頭脳と肉体があった。
これは才能と言ってもいい。

1978年10月に凱旋帰国を果たした石川は11月にスタートした国際プロレスの「日本リーグ争覇戦」に出場する。
新人でありながら2勝1敗4引き分けという成績を収め、同年のプロレス大賞努力賞を受賞した。

「最初、国際に戻ってきてよかったのは、新弟子じゃなくて外国人扱いで移動できるし、ホテルも外国人と一緒だったから上下関係もないしさ。体型はお相撲さんじゃなくて、ちゃんとプロレスラーに仕上げていたからね。アメリカに行く前には118kgあったんだけど、帰国した時には110kg。糖尿病は、向こうにちゃんと薬を持って行ったから問題なかったよ。米食じゃなかったのがよかったかもしれない。そう考えると、やっぱりプロレスラーの生活が合っていたのかもな。相撲って稽古がきついんだけど、取り組みが楽なんだよ。取り組みは相手が手を着いたら終わりだから。逆にプロレスの場合は試合がきついの、練習よりも。緊張もあるし、スタミナの配分もあるし、駆け引きもある。だから1時間練習するよりも、試合で10分動く方がきついんだよね。よく馬場さんが言ってたのは、"プロレスはワルツだよ"。"アン、ドゥ、トロワと、リズムが大切なんだ"って。それを聞いて、"ああ、そうだよな"と思ったよ。相撲は無酸素運動なの。息を止めている状態で一気に闘う。その癖が抜けないと、プロレスがきついよね。息を抜くところは抜いて、緩急をつけないと長時間は闘えないから」

石川は1979年に全日本に入団する。
そして、馬場は石川に大きな期待を抱き、同年9月に再び海外宴席に旅立たせた。当時はどこかプロレスに苦戦していた天龍源一郎よりも、馴染めている石川の方が期待されていたかもしれない。
行き先はプエルトリコだった。

「プエルトリコはゴリちゃん(ハル薗田)と行ったんだよ。二人でノースアメリカン・タッグを獲ってね。あそこはアメリカのレスラーも多いんだけど、スタイルはちょっとメキシカンぱいから。でも、ルチャと違って、基本は腕も足も左を取るアメリカ式だから、自分としてはやりにくいことはなかったね。あそこは客が凄くてさ。試合中にピストルの音がしたりね。リングサイドまでお客さんがきて、しかもナイフを持ったりするから怖かったよ。俺はミツ・イシカワって名前で、ヒールだったしね。プエルトリコにアマリロ時代からの知り合いのムース・モロウスキーがいて、彼は毎年、西ドイツのハーノーバー・トーナメントに参加してたのよ。それで"お前も行くか?"って話になって。向こうは寝てる相手を攻めちゃダメなんだよね。スラムで投げても、倒れた相手を攻めちゃいけないから、そのまま一緒に丸め込んでいってグラウンドに入るの。よく使ったのはパワースラムから、そのままグラウンドに入る流れだね。毎日、同じ会場で試合して。試合前に入場式があるから、化粧まわしを持っていって、相撲レスラーをやったんだよね」

1980年5月に凱旋すると石川は基本に忠実で意外と器用な一面がある相撲レスラーとして台頭していく。
ファンク一門出身らしくヘッドロックやアームロックなどのベーシックを大切にしながら、トップロープからのギロチンドロップやエルボードロップ、プランチヤなどの空中殺法や豪快なスラム技を持ち味にしていたのが石川のスタイルだった。後にサソリ固め(スモーピオン・デスロック)、相撲の仕切りからのショルダータックル(相撲タックル)やラリアット(相撲ラリアット)といった石川オリジナルムーブも出来上がり、石川は隠れ技巧派として活躍していく。
1981年6月に佐藤昭雄と組んで、アジアタッグ王座を獲得する。

石川は佐藤以外にもマイティ井上、阿修羅・原とのコンビでもアジアタッグ王座に戴冠している。
1980年代のアジアタッグ戦線を牽引していたのは石川だった。
目指したプロレスラーはどんな相手でもそれなりの試合を成立させるリック・フレアーやハーリー・レイスのようなNWA世界王者のようなタイプだった。

1985年から勃発したジャパンプロレスとの対抗戦では石川はその最前線に立っていた。
サソリ固めの元祖・長州力とのシングルマッチやジャパン勢とのアジアタッグ戦で石川は注目されるようになった。

「俺は面白かったよ。ワクワクさせられたね。試合が巧い云々ではなくて、彼らは彼らで、あのセオリー無視の攻めのスタイルが売りだったわけだから。彼らはホントにガチガチ来たよね。俺からすると、"やるだけやったら? そのうちに疲れるだろうけど"って(苦笑)。ガンガン来る奴に対して、同じようにやり返してもしょうがないしね。全日本の場合はアームロックを取ったら、腕を攻め続けるけど、新日本の選手はヘッドロックで攻めてたと思ったら、足を取ったりという感じで一か所を攻めないの。全部を攻めてくるんだもん」

全日本で中堅として地位を確立した石川にある話が耳に入る。

「輪島さんがプロレス転向したいと考えているらしい」

相撲引退後、親方となった輪島だったが金銭問題が表面化し、各界から廃業していた。
輪島は石川に相談する。

「俺、プロレスはどうかな?」

石川はこう答えた。

「いいじゃないですか! 大丈夫ですよ!」

石川の行動は早かった。
すぐに馬場に相談した。
こうして1986年4月に輪島は全日本に入団することになった。

石川は二か月間、プロレスのトレーニングを積む輪島にハワイで付きっ切りで指導した。
まず当時90kgだった輪島には肉体改造が急務だった。

「晩飯が8時ぐらいで、夜食が12時ぐらい。輪島さんはよく夜食はカツ丼を注文していた。重箱なんかより全然大きいやつに飯をビッチリで、しかも豚カツがガーッと乗っているやつ」

輪島は努力の甲斐があって最終的には120kgにまで体重を増加させた。
輪島はこう振り返る。

「今思うと、石川がいなかったらプロレスはできなかった」

輪島がデビューすると石川はタッグパートナーとしてコンビを組む機会が多かった。
あの天龍源一郎と阿修羅・原が全日本を活性化させるために龍原砲を結成した時のテレビマッチ初戦の相手は輪島と石川だった。
天龍は鶴田と双璧するトップレスラーにまで成長し、いつの間にか石川を追い越していた。

だが輪島の扱いに弟子として石川は疑問を抱くようになりイライラするようになる。
輪島は天龍との抗争で横綱の打たれ強さを満天下に証明したが、1988年に入ると輪島は冷遇されていった。
天龍同盟との闘いで石川は株を上げていった中で、プロレスに対するモチベーションが低下していく。

石川は輪島にこう話す。

「自分、プロレス辞めます」

すると輪島から思いもよらない返事が返ってくる。

「俺も辞めるよ」

やはり39歳からのプロレス転向には無理があった。
輪島は体力の限界を感じ、石川とは異なる理由で引退を決意していたのだ。

二人は1988年「世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終戦の控室で馬場に引退を告げ、二人はプロレス界を去った。
二人の引退はセレモニーはなく、団体からの発表とテレビでの告知のみだった。

一度は引退した石川だったが、ある男からのオファーを受け復帰することになる。

「まさか天龍さんが全日本を辞めるとは思いもしなかったよ。天龍さんから電話をもらった時は運送会社にいたんだ。でも自分自身、体を持て余してプロレスをやりたくてしょうがなかったんだと思う」

1990年、新団体SWSの旗揚げに石川は参加した。
天龍率いるチーム「レボリューション」の一員としてプロレスに復帰した石川にブランクはあまり感じさせなかった。

1992年、SWS崩壊。
石川は天龍と共に行動を共にし、新団体WARに参加。
怪我や体調不良で欠場をしていた阿修羅・原に変わり、石川は天龍に次ぐナンバー2として団体を支えた。
新日本プロレスとの対抗戦でも石川は相手の攻撃を真正面から受け止め、相撲殺法で持ち味を発揮する石川スタイルを貫いた。

全日本時代の後輩の越中詩郎は石川が相手になると特に感情をむき出しになって闘っていた。それだけ石川という男の存在価値を評価していたのかもしれない。

そして、冒頭に触れた1993年1月4日の東京ドーム大会で藤波辰爾とセミファイナルでシングルマッチで対戦した。
ゴング直後、藤波が奇襲攻撃を仕掛け、ドラゴンロケットを発射し、会場は大興奮させるも、石川の相撲タックルからペースを握る。
藤波のお株を奪うドラゴンスリーパーや長州の得意技のサソリ固めを仕掛けたり、天龍のようなステップキックで大ブーイングを浴びた。
それでも石川は石川だった。
そして憎々しいまでの小気味のいいプロレスを見せつけた。
どこまでもマイペースで藤波を攻め続けた。
そして、よく見ると石川の良さを引き出そうとしている藤波の懐の深さも感じさせた。
試合はドラゴンスリーパーで石川は敗れたが、二人の試合はスイングしていた。

「藤波とは東京ドーム大会でやったけど、あの人はガンガン来るようでいて実はフワッと柔らかいというか、受けのタイプだったね」

新日本との対抗戦で実力で日本全国に見せつけた石川はタッグマッチで藤波を破るなどWARを守るために活躍する。
この頃に得意技にしていたのがノド輪落とし。
彼のノド輪はこの技の元祖である田上明とは持ち方が違う。
田上は右腕でノドを、左腕で相手の首をtt摑み持ち上げて叩きつける。
石川の場合は右腕でノドを左腕で相手のタイツを摑んでから持ち上げて叩きつけるのだ。
ちなみに石川のノド輪落としで散々沈められてきて、自ら石川式のノド輪落としを得意技にするようになったのが新日本の小原道由だった。

1994年9月、石川はWARを離脱し、新団体「東京プロレス」を旗揚げする。

「一回プロレスを辞めて戻ったのに、また辞めて仕事を探すとなると周りの人に迷惑をかけるでしょ。"それだったら自分で…"という気持ちで旗揚げしたのが正直なところ。幸いスポンサーに恵まれて、協力してくれる人もいたからね」

インディーの大物選手達が参戦したり、大仁田厚引退試合の相手に名乗りを上げたり、総額二億円ベルト(TWAタッグ王座)を設立したりと話題を提供してきたが、インディー統一機構(FFF)の設立に頓挫し、石川は新東京プロレスを設立し、新日本やWAR、大日本に参戦していった。

東京プロレス時代になると石川の得意技であるサソリ固めはスモーピオン・デスロックと呼ばれ、極めた後に左手で人差し指を突き上げる「フィーバー」ポーズをするのが定番となった。このムーブが後にミスター雁之助や松永智充が完コピするほどの影響を与えた。

1998年1月19日石川は二度目の引退を果たす。

「その当時は女房も一緒に巡業に出てたんだよ。うちには中学生と小学生の子供がいたけど、"夫婦が同じ世界にたんじゃダメだよな"と思ってね。逆にズルズルやらなくてよかったと思うし。いろいろあったけど、"やりつくした!"という他にないね。もうカムバックもないし、それはそれでよしとかなと。悔いはないよ」

二度目の引退後、石川ははビルの警備及び清掃を業務とする会社を設立、運営しているという。

石川孝志のレスラー人生はまさしく紆余曲折。
そして、石川孝志のプロレスとはまるでピリリと辛い"山椒"のようなものではなかったのかと私は考えている。

石川は得意にしていたムーブの一つにサソリ固めの体勢に入り、ステップオーバーするかに見せかけて、アキレス腱固めを極めるという技があった。
このムーブは食あたりを起こさない程度の配合でスパイスをきかした石川の味付け技術の醍醐味である。
観客の期待をいい意味で裏切ることで「おっ!」と思わせるのだ。
もしかしたらその持ち味はマニアックで大衆には伝わりにくいかもしれない。
だが、その味にハマると病みつきになるが石川のプロレスだったのかもしれない。

インディー界伝説のテクニシャンで知られるプロレスラーMEN'Sテイオーがかつてインタビューでこんな例えをしたことがある。

「相撲の舞の海と若乃花だと、恐らく舞の海の方が技巧派に見えるかもしれないが、本当に技巧派なのは、若乃花なんだ。しかし、若乃花が技巧派というのはなかなか伝わりにくい」

私はこの例えが石川にも当てはまるような気がするのだ。
分かる人には分かる。
分かればその味の虜になる。

石川孝志は実に奥が深いプロレスラーである。
もしかしたらその魅力はまだまだ掘れば掘るほど、考察すればするほどどんどん発見されるのかもしれない。
マニア心をくすぐる山椒のようなスパイスが効いたプロレスラー…それが石川孝志という男の真髄なのだ。