グッドレスラーになりたくて…~国際プロレスが生んだ職人~/マイティ井上【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第142回 グッドレスラーになりたくて…~国際プロレスが生んだ職人~/マイティ井上



伝説のプロレス団体・国際プロレス。
その功績は実は計り知れないものがある。
国際プロレスが打ち出した数々のアイデアが今日の日本プロレス界の基盤となった。

崩壊して30数年。
今なおオールドファンの心に残り続けるプロレス団体・国際プロレス。
日本プロレス界においての国際プロレスの功績は計り知れない。
レスラーとの契約書の作成、巡業バスの導入、日本人マスクマンデビュー、日本人同士の世界タイトルマッチ、金網デスマッチ、外国人留学生の受け入れ、日本初の選手テーマ曲の導入…。
国際プロレスは現在の日本プロレス界の基盤となっているあらゆる事例のパイオニアだった。
また国際プロレスの選手は他の団体から関心されるほど練習の虫とも言える真面目な選手は本当に多かった。
【俺達のプロレスラーDX 第41回 堅忍不抜の男~国際プロレスが生んだ静かなる偉人の生涯~/ラッシャー木村】

国際プロレスの魂は今なレスラーズや数多くのオールドファンの中で生き続けている。

国際プロレスの人達は妙に真面目でしたね。ラッシャー木村さんとかもホテルについたら腕立て伏せを毎日、100回何セットをやったとか。全日本プロレスから見ると、「こいつら、なんてクソ真面目にプロレスをやってるんだ」って、そんな感じでしたよ。吉原さんがレスリングやっていた関係かもしれないけど、ホント練習してましたよ。
【天龍源一郎】

自分は国際プロレスの人達が結構好きだったですね。あの頃、アニマル浜口さんと長州力さんが組んでタッグマッチで絡むと、一回つかまったらコッチばっかりやられて、向こうは全然受けないんですよね。一回、浜口さんのアゴにバゴーンって入れたら、二発返されましたから。凄いな、この人はって。浜口さんなんか効いていても、効いていないふりをしてましたからね。ホント頑丈。あと自分ら若手にとっちゃ、剛竜馬さんが国際プロレスの語り部でね。いろんな話をしてくれるんですよ。吉原さんとラッシャー木村さんが国際プロレスはこれで終わりだっていうとき、浜口さんの店で、二人で一言もしゃべらんと、一晩延々と飲んでたとか。なんて渋いお男の世界なんだ、高倉健さんの世界だって。
【前田日明】

最近日増しに国際プロレスへの郷愁の念にも誓い思いが自分の胸にフツフツと湧き上がってくるのを感じる。そのたび私は国際プロレスのビデオを再生するのである。そこに映し出されるのはパンチパーマのラッシャー木村、長髪のアニマル浜口、そしてサイケデリックなタイツのマイティ井上である。井上というレスラーは国際プロレスの中にあって、独特の雰囲気を持つレスラーであった。ドロップキック、フライングヘッドバット、サンセットフリップなど、空中殺法を得意としていたのだが、それらはいずれもユーモラスといおうか、独特の「井上テイスト」がプンプン漂っていた。中でも彼の使うサンセット・フリップ(サマーソルトドロップ)にはなんともいえぬ魅力があり、それを支持する少年ファンも多かったのである。
【ミック博士の昭和プロレス研究室/マイティ井上のサンセットフリップ】

マイティ井上は国際プロレスが生んだ職人レスラーだ。
和製マットの魔術師、テクニカル・ソルジャー、小さな巨人の異名を持つ技巧派。
175cm 105kgという豆タンクのような肉体と吉原イズムを継ぎ、持ち前のテクニックとラフファイトにも対応できる気性の激しい性格であらゆるポジションで活躍したオールラウンダー…それがマイティ井上だった。
今回はテクニシャン・マイティ井上のレスラー人生を追う。

マイティ井上は1949年4月12日大阪府大阪市に生まれた。
本名は井上末雄という。
学生時代に井上が打ち込んだのは柔道。
そんな柔道少年にとってプロレスは憧れだった。

「俺達の子供の頃は力道山が全盛期だったからね。小学生の時、オヤジに連れられて大阪でプロレスを見に行ったんだよ。力道山の試合を生で見て、『やっぱりすげぇなぁ!』と思ってね。あの頃は日本中がプロレスブームだったから、力道山がカッコよくてね」

井上は高校の授業が終わると、ボディビルのジムに通い肉体を鍛錬していた。
このジムの会長が当時旗揚げしたばかりの国際プロレスの吉原功社長の知り合いだった。
井上はジムの会長に思い切って直訴する。

「プロレスをやってみたいんです」

ジムの会長はこう言ったという。

「俺が吉原さんに話してやるから、入門テストまで毎日スクワットを1000回やれよ」

それから半年間毎日、井上はヒンズースクワットを1000回やり続けた。
井上は当時、高校二年生で高校卒業するまであと一年待たなければいけなかった。
そんなに長く待てなかった。
井上は1967年3月に高校を中退し、国際プロレスに入門する。
柔道経験者だった井上はマティ鈴木のコーチを受け、4か月後の1967年7月21日の仙台強との一戦でデビューを果たす。

国際プロレスの選手達のベースはアマチュア・レスリングにあった。代表の吉原功は、日本人初のレスリング出身の元プロレスラーだったため、彼の信念は明確だった。

「アマチュア・レスリングの技術を基礎として本格的なプロレスの確立」

例え金網デスマッチなどの流血戦が多くなっても、柔道、相撲、ボディービル、ラグビーなど他業種からの転身が多かった日本人選手の礎になる技術はレスリングだった。
【俺達のプロレスラーDX 第29回 炎の応援団長~いつも心に国際プロレス~/アニマル浜口】

柔道出身者だった井上はマティ鈴木のコーチと明治大学レスリング部OBでリングアナを務めた長谷川保夫氏の指導も受け、レスリングも学んだ。
これは井上はに限ったことではないが、国際プロレスで生まれ育ったレスラー達が展開する序盤の攻防戦には必ず片足タックルの掛け合い、バックの取り合い、首投げ、巻き投げ、ケサ固め、飛行機投げといった技が飛び出すアマチュア・レスリングがあった。
そこに国際プロレス代表であり、元アマチュア・レスリングの猛者だった吉原功イズムがあった。

井上は吉原イズムの申し子だった。
井上にとって吉原功とは…。

「気のいい人でした。新日本、全日本と三団体があった時代にも国際が天下を取れそうな時期があったんだ。でも、吉原さんはあんな人だから、どこか遠慮してた。普段は無口で酒を飲むとちょっと陽気になって。俺が海外に行ってる時も何だかんだで2回も顔見に来てくれたからね。当時は気付かなかったけど、今思えばそういうところがあの人の優しいところだったよね」

そんな井上に自身が中退した高校からある日連絡があった。

「卒業式に来てほしい。君はプロレスで頑張っているから卒業ということにしてあげるよ」

こうして、中退ではなく井上は1968年3月に大阪学院大学高等学校を卒業した。

1970年8月、井上は同期のストロング小林と共にヨーロッパ遠征に旅立った。

「1970年の始めにフランスから清美川さんが来ましてね。あの人はフランスやドイツで試合をしているから、『一人若いヤツをよこしてほしい』ということで、1970年の夏に私とストリング小林はドイツのハーノーバーのトーナメントに行ったんです。アメリカのスタイルもやりたかったけど、いろんな国にみ行けたし、いい経験になりましたよ。ヨーロッパのスタイルが自分に合っているとは思わないけど、こっちも合わせますよね。俺のプロレススタイルは反則とかしてメチャクチャやるようなものじゃないから、基本的なプロレスの技を使って闘うという意味では合ってたかもしれない」

ちなみにこのヨーロッパ遠征で出会ったのがあのアンドレ・ザ・ジャイアントだ。
当時アンドレはモンスター・ロシモフというリングネームで国際プロレスに来日していた頃だ。
井上とアンドレは友人関係を築き、この関係はアンドレが天国に召されるまで継続されていった。

「不思議なんだけど、俺はフランス語は全然分からないのに、アンドレの言うことだけは全部理解できた。アンドレはいいヤツでしたよ。日本が好きでね。彼は国際プロレスでプロレスに開眼した人間だから。彼がWWE(当時WWF)に行った関係で新日本に出るようになってからもよく会いましたよ。アンドレの紹介でカナダ・モントリオールに行った時に、吉原社長が来てくれたんだよ。それでアンドレも交えて飯を食ったら、彼は吉原社長の飯もホテルも全部払ったんだよ。『俺が日本に行った時は吉原さんが全部払ってくれた。だからこっちでは俺が払うんだ』って。そんなヤツいないよ」

ヨーロッパ各国、ニューカレドニア、レバノン、カナダなど世界各地を転戦した井上は1972年10月に凱旋帰国を果たし、緩急のあるプロレススタイルとテクニックでトップ戦線に参入していく。
井上は"リングの魔術師"エドワード・カーペンティアの影響を受け、彼の十八番であるサマーソルト・ドロップ(サンセット・フリップ)を日本に持ち帰り、日本での第一人者となった。

当時この技を使う日本人はタイガーマスクが登場するまで井上一人だったと記憶する。ということはこのワザは井上の専売特許的技だと他のレスラーも認めていたということだろう。このワザはダウンした相手めがけて宙返りして背中からボディプレスを見舞うという単純なワザである。しかし井上のサンセット・フリップには独特のテイストがあった。というのは回転する前に一種のダンス(?)のような独特の動作と「あ~あ~あ~」といったような奇妙な掛け声を発したのである。これが少年のハートをがっちり掴んだのである。あの独特の動きはマネようとしてもマネのできるものではなかった。井上のあの不思議な動きをおみせ、掛け声を発すると、ファンは「来た来た、サンセットフリップ!」と胸躍らせたのである。ワザに入るまでの動き・・・これもファンを魅了するプロの技なのである。
【ミック博士の昭和プロレス研究室/マイティ井上のサンセットフリップ】

井上が海外から持ち帰ったストマック・バスターやコークスクリューシザース、フライング・ショルダータックルといった技には他のレスラーにはまねできない「井上テイスト」が詰まっていた。
また花柄、サイケ調、モザイク柄といった風変わりなタイツや他のレスラーならまず身に着けないカラーのガウンなども独特な「井上テイスト」と溢れていた。
恐らく、井上はプロレスでの自己表現を20代で心得ていたのかもしれない。

そんな井上にとって転機となったのが1974年。
同期で国際プロレスのエースとして団体を支えてきたIWA世界ヘビー級王者ストロング小林の離脱である。
小林はフリーに転向し、新日本プロレスのアントニオ猪木との"昭和の巌流島決戦"を実現させるため一匹狼となったのだ。

小林の離脱とベルト返上に揺れる国際プロレス。
吉原社長はスーパースター・ビリー・グラハムに渡ったIWA世界王座の第一コンテンダーに指名したのがなんと井上だった。

「怪力のグラハムに対して、体格で互角のラッシャー木村、グレート草津を起用しない方が王座奪取が可能と考え、ここは奇策かもしれないが井上を抜擢した」

井上は1974年10月7日にグラハムを破り、IWA世界ヘビー級王者となった。
25歳、キャリア7年で世界王者並びに団体のエースとなった井上は国際プロレスを去った小林への怒りを覚えていた。

「」IWAのベルトは自分の実力だけではなく、会社全員のバックアップがあって初めて巻けるものだった。王者だった小林が団体を離脱するということは、国際所属のレスラー仲間ばかりではなく、会社のために貢献してくれた社員、その家族に対する裏切り行為だった。自分はそれが許せなかった」

井上は1975年4月10日にマッドドッグ・バションに敗れるまで半年間に渡り王座を守った。
その後の国際プロレスはそのバションを木村が破り、6年に渡る長期政権が誕生し、結果的に井上のIWA王者時代は不動のエースラッシャー木村への見事な中継ぎになったと言えるかもしれない。

「バションに獲られたベルトを木村さんが取り返した時は正直せいせいした気分だった。悔しいというより、肩の荷を下ろしたような、『やれやれ』という感じでしたよ。やっぱりチャンピオンだといつもみんなに注目されるじゃないですか。プレッシャーというか、俺も当時25歳ぐらいで、キャリアもみんなよりなかったからね。負けた後は、これはそんなに注目されないでのびのびプロレスができるなと思いましたよ」

もしかしたら井上はこの頃から悟っていたのかもしれない。

「自分はエースになれる器ではない」

トップなるよりもナンバー2,ナンバー3というポジションでのびのびと仕事をこなすのが井上の性に合っていた。

井上はシングル戦線から一歩退くとタッグ戦線で活躍するグレート草津、アニマル浜口、阿修羅・原とのコンビで何度もIWA世界タッグ王座を戴冠した。
特に浜口とのコンビは「和製ハイフライヤーズ」、「浪速ブラザーズ」と呼ばれた名コンビだった。
このコンビでグレート小鹿&大熊元司を破り全日本プロレスの至宝・アジアタッグ王座を獲得したり、新日本との対抗戦では”ヤマハブラザーズ”山本小鉄&星野勘太郎と壮絶な名勝負を残した。

浜口にとって井上は先輩で自分にないものを持っているレスラーだった。

「井上さんはものすごく動きがシャープだからテクニシャンの印象が強いけど、実はパワーが凄かった。ベンチプレスでは当たり前に200kgを挙げていたね。木村さんと並んで力が強かったんだ。そういう部分を試合でjはあまり見せずにテクニックを売り物をしていた。そういう見せ方を考えられる人だったということだよね。俺なんか、ただ暴れるだけだったけど。だから井上さんと組むと好きなようにやらせてくれて、本当に試合がしやすかった」

井上にとって国際プロレス時代のベストパートナーは浜口だったという。
そして、対戦相手で印象に残っているのが"放浪の殺し屋"ジプシー・ジョーである。

「国際時代の忘れてはいけない宿敵というか、僕のプロレス人生の中でも最高にタフな人間のひとりです。頭も胸も背中も硬い…もちろん鍛えたというのもあるんでしょうけど、やはりナチュラルな頑丈さがあったんんでしょうね。ジョーだけは、遠慮なしに殴れるんですよ。パンチで顔を思い切り殴っても大丈夫だし、こっちの手が痛いんです。胸にチョップ打っても、常にこっちの手が腫れてましたからね。背中にイスで叩いたら、イスが簡単にバラバラになっちゃいますからね。女性客の脱げたハイヒールで頭を殴ったけど、カカトが折れて飛んでいって。ジョーは何事もなかったような顔をしてました。木の長いテーブルに叩きつけても、テーブルの方が割れちゃうし。でも、あいつは性格のいい男だから文句は言わなかったですよ。平気な顔をしてました」

しかし、国際プロレスは当時、中継していた東京12チャンネル(後のテレビ東京)のテレビ中継が打ち切りとなったことを機に経営が悪化し、1981年8月に崩壊した。

社長の吉原功は新日本との提携や対抗戦を模索したが、これに反対したのが井上だった。
井上はどうしても新日本が好きになれなかったのだ。

「解散になった時、吉原さんに『みんな新日本に行ってくれ』って言われたけど、その時初めて俺は吉原さんに逆らったんだよ。『社長、新日本には行けません』って。カナダに行こうかと思ってたんだけど、ゴングの竹内宏介さんと話していたら『じゃあ馬場さんのところに行きなよ。俺が話してやるから』って言ってくれてね。それで馬場さんに会って、『できれば若手も何人かお願いします』って頼んで」

こうして井上は1981年10月に阿修羅・原、菅原伸義、冬木弘道と共に全日本プロレスに移籍した。

全日本移籍後はジュニアヘビー級に転向し、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に戴冠したり、石川孝志(当時は石川隆士)とのコンビでアジアタッグ王座に輝いたり中堅レスラーとして活躍する。
1989年1月にジョー・マレンコを破り、世界ジュニアヘビー級王者となった。

だが徐々に井上は活躍に機会を失われていく。
中堅から前座に降格し、悪役商会の一員となり、ジャイアント馬場やラッシャー木村のファミリー軍団とお笑いプロレスを展開していった。

そんな井上は一種の自己主張をしたことがあった。
1994年、ダニー・クロファットが小川良成を破り世界ジュニア王座を防衛に成功した際にリングサイドに現れたのが井上だった。井上は無言で王座挑戦の意思表示だった。
しかし、井上の願いは通らず、次の挑戦者に指名されたのが菊地毅だった。
この行動は会社からの指示なのか、井上の単独行動だったのか、謎だけが残った。

1998年6月、井上は31年に及ぶレスラー人生に幕を下ろし、引退した。
引退セレモニーで井上は周囲の関係者の助言により、事前の了解を取らずに引退後はレフェリーをすると宣言する。
これは引退した井上はお払い箱で、排除しようとした馬場元子夫人の考えがあることを踏まえた上での先手だった。
井上は引退セレモニー時に会社からリング上で分厚い封筒をもらった。
これまでの功績を踏まえた上での慰労金だと思った井上は中身を見てみるとそこには金など入っておらず、新聞の切れ端で膨らませただけだった。

ショックを受けた井上に、伝説の名レフェリーであるジョー樋口はこう声をかけた。

「気にするな。俺もそうだった…」

そこには「明るく楽しく激しいプロレス」の裏側にある闇と非情さが垣間見えた。

引退後レフェリーとなった井上は2000年6月に全日本プロレスを退団し、三沢光晴率いる新団体プロレスリングノアに参加した。
井上はレフェリー、テレビ解説、外国人の世話役を務めた。

しかし、一時期は業界の盟主となったノアだったが経営難に直面し、リストラという苦渋の決断をしなくてはならないほど追い込まれた。

2008年12月、井上は社長の三沢に呼び出された。

「井上さん、今回、こういうことになりました…。井上さん、申し訳ありません」

それはリストラ宣告だった。
1年間の猶予期間を経て解雇になる事前通告だった。

井上は三沢にこう言った。

「まぁ、しゃあないな」

三沢には「社長なんだから自分の好きにやればいいんだ」と言っていた井上には苦渋の選択をした三沢の気持ちは理解できた。だが、やはりこれでプロレス界を去るとなると寂しさが募る。

あと一度だけ三沢と腹を割って話さなければいけないと思っていた井上はまさかの悲報が届く。
2009年6月13日、三沢がリング渦に巻き込まれたこの世を去ったのだ。

創設者が去ったノアはますます迷走していった。
そして、井上はノアを去った。

2009年12月までノアに在籍していたマイティ井上レフェリー(61)の引退セレモニーが22日、ノア後楽園大会で行われた。メーンでレフェリーを務めた後、リングサイドにレスラーが集結する中、リング上で引退セレモニーに臨んだ。サプライズで良子夫人から花束を贈呈されると感無量の表情。同レフェリーは「レスラー31年、レフェリー11年。43年間の夢のような時代にプロレスがあったことを感謝します」とあいさつしていた。
【マイティ井上氏引退式「プロレスに感謝」2010年5月23日 日刊スポーツ】

井上は二度目の引退セレモニーのフィナーレを次のような言葉で締めくくった。

「私が生きたこの時代にプロレスという素晴らしいスポーツがあったことに感謝します。プロレス、ありがとう」

プロレスに恨みはない。
感謝しかない。
リストラをしたノアにも恨みはない。
プロレス界を去った井上は宮崎県に移住した。
それは本人曰く、「都落ち」だった。

「プレーン、シンプル、グッド・レスラー」

1990年代に磨き上げられたテクニックでアメリカンプロレスのスーパースターとなったブレット・ハートは自身のアイデンティティーにしたのがこれだった。

明らかで分かりやすいいいレスラーであり続けることでエンターテイメント路線のアメリカン・プロレスで異彩を放ち、カナダ人のブレットは頂点を獲得した。

思えば井上にはあらゆる異名の中でこんなニックネームもあった。

「ミスター・グッドマン」

グッドマンとは呼んで字のごとくいい人という意味だが、井上は確かに立ち位置で長い間ベビーフェースとして闘ってきたが、彼自身がなりたかったのはグッドマンではなく、グッドレスラーではなかったのではないだろうかと私は考えている。

彼が考えるグッドレスラーとは実にシンプルでどんな対戦相手でも試合を成立させ、相手の攻撃を受け、相手の良さを引き出した上で、自身の良さも出して、試合といういい作品を残し続ける匠だったのではないだろうか。

タッグ屋として、職人レスラーとして井上の関係者からの評価は高い。

「本当にいいレスラーだ」
「タッグを組んだから好きにやらせてくれて、組みやすかった」

もしかしたら井上にとっては、団体のエースよりも世界ヘビー級王座よりも、プロレス界最強の男といった称号よりも、これらの評価の方が尊かったのではないだろうか。

国際プロレスが生んだ職人レスラー・マイティ井上はグッドレスラーになれたのか…。
その答えは彼の足跡を振り返れば自ずと答えは見えてくるのだ。

今こそ、マイティ井上というプロレスラーに触れてほしい。
今こそ、彼を生んだ国際プロレスに触れてほしい。

2006年に発売された国際プロレスのDVD-BOXのサブタイトルにはこんな一文がある。

「プロレスファンは皆、最後は必ずここに戻ってくる。"魂のふるさと"国際プロレスに…」

それは世代や時代を越えて生き続ける"魂のふるさと"。
そして、"グッドレスラー"マイティ井上は我々を魅了する"魂のふるさと"の歴史上人物であり続ける…。