大英帝国のいぶし銀と蛇の穴が歩んだ歴史/ピート・ロバーツ【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第146回 大英帝国のいぶし銀と蛇の穴が歩んだ歴史/ピート・ロバーツ
シリーズ キャッチレスラー④



プロレスの源流とも言われるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン の猛者、追い求めようとする者、ヨーロッパのプロレススタイル"キャッチ"で活躍した強豪達を取り上げるシリーズ・キャッチレスラー。

第一回、第二回はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを追い求める男達を取り上げた。

キャッチレスラー ①
格闘技の天才 揺るがないリアルプロレス道/ジョシュ・バーネット【俺達のプロレスラーDX】

キャッチレスラー ②
波乱と起爆の景気循環~掴ませない冷静と狂気の殺し屋~/鈴木秀樹【俺達のプロレスラーDX】

第三回はヨーロッパのプロレススタイル"キャッチ"の猛者として活躍したデーブ・フィンレーを取り上げた。

キャッチレスラー ③
緑色の恐怖~キャッチが生んだ近年最高最強レスラー~/デーブ・フィンレー【俺達のプロレスラーDX】

最終回となる第四回はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをベースとしたジム"蛇の穴"と呼ばれたビリー・ライレー・ジムとこのジム出身でプロレス界の名職人レスラーとして活躍したピート・ロバーツの歩んだ軌跡を取り上げる。

“蛇の穴” ビリーライレージム  は、1900年代初期に活躍した名レスラー、ビリー・ライレーが、イギリス・ウィガンに設立した、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングのジムです。狭いジム内で、当時世界のトップクラスのレスラーがしのぎを削りあい、激しい練習を繰り広げていました。日本でも有名なのは、“プロレスの神様”と呼ばれ、アントニオ猪木を始め、数多くのプロレスラーを指導した カール・ゴッチ。華麗なるレスリングテクニックで、日本のプロレス界に一大旋風を巻き起こした“人間風車”ビル・ロビンソン。 とりわけ、1975年のアントニオ猪木との一戦は、日本のプロレス史上に残る名勝負とされています。この二人の活躍により、昭和40-50年代に日本でも、“蛇の穴” ビリーライレージム、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの名は、広まりました。  
【ロイ・ウッド公認ライレージム京都ホームページ】

ビリー・ライレージムの創始者であるビリー・ライレーはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのテクニックで腕自慢の挑戦者達を相手に次々と打ち負かし、賞金を獲得していた強豪で、ここで得た賞金で1950年初頭にウィガンに作ったのがこのジムだった。

いくつかの識者のものするところに拠れば、このビリー・ライレーなる人物、誠に勇ましく強者であったらしく、当時(1920年代)、開かれた腕自慢の者たちの大会ではことごとく優勝をさらい、その大会にて得た賞金でジムをも創設したとされる。そのジム、我こそはと道場破りも跡を絶たず、されどビリー・ライレーはその度にねじ伏せ、地方ならず時の国王すら知る存在でもあったとある識者は述べてさえおられる。その闘い模様のスタイルはいわずと知れた地方名が附された“ランカシャー・レスリング”が主でランカシャーとはまた俗名、“シュート”とも呼ばれており、相手との信頼関係のもと行なう通常のレスリングとは違い、シュートレスリング、真剣勝負を基調としている。
【“最強を追い求めて”『時代と共に消えうせたライレージムの末路』//美城丈二】


彼の指導を受けたレスラーはこう語る。

ケンドー・ナガサキ(ビリー・ライレージム出身で元祖・イギリスで活躍した東洋の神秘)
「大変素晴らしい先生です。生徒のモチベーションを上げるのがうまい人でした。施設としては非常にシンプルでしたが、トレーニングの内容は濃密でした。あの狭い空間で何があっても45分間延々とスパーリングを続けるんです。どんなにやられても闘い続けることで、肉体と精神を鍛えていくのです」

数々の強豪レスラー達が己の技術を磨いていた。
ビリー・ジョイス、カール・ゴッチ、ビル・ロビンソン、レス・ソントン、スティーブ・ライト、マーティー・ジョーンズ、ウィリアム・リーガルというプロレスラーを輩出していった名門ジムだ。

ビリー・ライレージム出身者の特徴として倒されても蛇のようにしつこく攻撃をかけ続けるスタイルだったため、このジムは別名"蛇の穴(スネークピット)"と呼ばれ恐れられるようになった。ちなみに劇画のタイガーマスクに登場するレスラー育成機関"虎の穴"はこの"蛇の穴"が由来になっている。

ビリー・ライレー・ジムはランカシャー・スタイルのレスリングを基本にしているため、出身レスラーはスープレックス等の投げ技を得意とする。またシュート(真剣勝負)に対してもプライドを持っているため、これに応じる。カール・ゴッチやビル・ロビンソンなどは、通常のプロレスがシュートに発展してしまい殺伐とした闘いになることが度々あった。ファイトスタイルは立ち技・寝技両方得意で、蛇のようにしつこく絡みつく。レスリングにプライドを持っているため、現実のプロレスとのギャップに悩み孤立する場合もあるが、日本のプロレス界にストロングスタイルの概念を持ち込んだ功績は大きい。
【ビリー・ライレージム/wikipedia】

ビリー・ライレージムの練習システムは一回8分の1ポンドのコインを練習前に指導者ライレーに支払い、トレーニングを受ける。このジムには会員証が存在しているという。また練習時間はプロレスラー達は午前中で、アマチュアクラスは夜に行っていた。

"英国の魔豹"と呼ばれたテクニシャンであるピート・ロバーツがビリー・ライレージムに入門したのは13歳の時だったという。このジムの創成期だったと思われる時期だ。

1943年にイギリス・バーミンガムで生まれたピートはビリー・ライレージムでトレーニングを積み重ねて1959年に16歳の若さでプロレスデビューしている。
ピートは日本のプロレスファンにはカール・ゴッチの親友として知られているが、それはビリー・ライレージムの先輩後輩の間柄だったからである。

183cm 100kgという日本でいうところのジュニアヘビー級ギリギリの体格だったピートはイギリス最大の団体ジョイント・プロモーションを拠点にしながら、ドイツやオーストリアにも転戦していった。
初来日は1974年1月の新日本プロレス。親友のゴッチがブッキングしたのだ。そこでエースであるアントニオ猪木と好試合を展開し、以後常連外国人として度々新日本に参戦するようになる。

得意技のサイド・スープレックス、ヨーロピアン・アッパーカット(エルボースマッシュ)、後方回転エビ固め、そしてビリー・ライレージム仕込みのしつこいサブミッションを駆使し活躍していくピートはヨーロッパでは柔道の有段者という特徴を生かして"ジュードー"ピート・ロバーツというリングネームで知られている。イギリスでは格闘技のギミックで活躍していたクン・フーとカンフー・ソルジャーズというタッグチームを組んでいたこともあった。

新日本でピートが特に仲良くなったのが最強外国人レスラーのスタン・ハンセン。
二人は意気投合し、公私に渡り、親友関係を築いている。
また、ハンセンが後に全日本プロレスに移籍すると、ロバーツもその数年後に全日本に参戦している。
ハンセンは2016年にWWE殿堂入りを果たしているが、その受賞スピーチで強い影響を与えてくれたプロレスラーの一人にピートの名を出している。

「無二の親友」

ハンセンはピートをこう評している。
ピートはレスラーである以前に優れた人間性を持っていた。

イギリス遠征時にピートのお世話になった初代タイガーマスクこと佐山聡はこう語る。

「ピートさんとはイギリスで家族ぐるみの付き合いをしていました。またスタン・ハンセンやゴッチさんとも仲が良くて。ハンセン、ピートさん、アンドレ・ザ・ジャイアントは本当に人間がいいですね。本当に最高の人間なんですよ」

また現在WWEでNXTというブランドのGMを務め、最後のランカシャーレスリングの使い手と言われているウィリアム・リーガルが影響を受けたレジェンドレスラーの一人がピートだったという。
ピートは太陽にような光ではなく、いぶし銀のような渋い光を放っていたのかもしれない。

一方、ピートが育ったビリー・ライレージムは停滞の一途をたどっていく。

次第にトレーニング・マシンを使ったトレーニング・ジムが主流となり、またフリースタイル・レスリングのルールが整備されサブミッションが禁止されていったことにより、伝統的で危険なトレーニングのビリー・ライレー・ジムはレスラー達に敬遠されるようになり徐々に衰退した。
【ビリー・ライレージム/wikipedia】

創始者のビリー・ライレーが1977年に逝去。
ライレーの後を継いだのがこのジム出身者でプロレスラーのロイ・ウッドだった。

「私がプロレスラーだった時代も長かったし、トレーニングに来る人間もかなり減っていて、その時期のライレージムはすでに閉鎖寸前だった。そんな頃に私の息子がレスリングをやりたいと言い出したので、私は昔のジムでレスリングを教え始めたんだ。そこにライレーも指導に来てくれるようになって、そこからまたビリー・ライレージムが復活したという説明が分かりやすいかな」

ロイが復活させたビリー・ライレージムで指導したのはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンではなく、アマチュアレスリングだった。

「当初、子供たちのクラスを指導していたのだが、ライレーが引退を決めた後は、教えているところを傍らで見ていてくれて、彼からどのように指導すればいいのかということを教わったんだ。私が若い頃に学んだのはキャッチレスリングだけだったから、新たにアマレスのルールを一から勉強し直して指導するのはかなり大変だった。息子はレスリングを始めてすぐに全英王者になったんだ。そして、ジムを再開してからは、多くの若者がジムに集まってきた。そこからアマレスで好成績を残すような教え子も出てきたから、また活発にジムの運営ができるようになった」

その一方で問題もあった。

「ビリー・ライレーが指導していたのは、すでにプロとして活動していたレスラーが主体で、若者の育成にはあまり力を入れていなかった。そのうちに、キャッチレスリングの技術を知っている人達も年を追うごとに高齢化していくわけよ。つまり、私がライリーからそういう技術を教わっている最後の世代だったんだ」

ビリー・ライレージムを継いだロイはジムの名前を「アスプル・オリンピック・レスリングクラブ」に改め、ジムも移転した。移転先では主にフリースタイルレスリングに特化したジムとなり、ジムの中にキャッチ・アズ・キャッチ・キャン主体のスネークピットを併設したのである。

アマレスとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの共存共栄。
それがロイがジムを存続させるため、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの歴史と伝統を守るために導いた一つの答えだった。
現在、スネークピットはドイツ、デンマーク、タイ、日本と世界中にこの名称を名乗ったジムが存在している。
また、京都にはロイ・ウッドを指導を受けた日本人・松並修氏が"ロイの公認を得て"ライレージム京都"というジムを創設し、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの伝承を目指している。

プロレスの源流とも言われているキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは時代や世代を越えて、形は少しは変わったとしても根付いているのだ。

そして、ピート・ロバーツも時代や世代を越えて、その魅力は語り継がれていくプロレスラーになっていった。
獲得したタイトルはヨーロッパマットで巻いた世界ミッドヘビー級王座ぐらいしか目立ったものはないかもしれないが、世界各国のプロモーター達は彼の技量を重宝した。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、シュートレスリングのテクニックをリング上で披露しながら、ピートはきちんとプロレスをやってのけた。自己満足、強さのごり押しという一種のエゴはピートのプロレスには存在せず、どこまでも気品あふれるスタイルを貫いた。私はそこにピートの人間性を見た。やはり、この男はナイスガイなのだ。

1984年からカール・ゴッチの招聘により、第一次UWFに参戦。
1986年からはハンセンの仲介で全日本に参戦し、世界ジュニアヘビー級王座のトップコンテンダーとして何度も挑戦し、王者を苦しめた。
二代目タイガーマスク、小林邦明、渕正信が全日本時代のピートのライバルだった。
1993年7月を最後に日本への来日を途絶え、ピートはひっそりと引退していった。
2001年1月28日の東京ドームで行われたスタン・ハンセン引退セレモニーに無二の親友であるピートは久しぶりに姿を現し、ハンセンに花束を渡した。

蛇の穴と恐れられたビリー・ライレージムとこのジムで育ち名レスラーとなった大英帝国のいぶし銀が歩んだ歴史を掘り起こせば、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、ランカシャーレスリング、プロレスの奥深さと真髄がよくわかる。

元来、プロレスとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは異なるジャンルで、そこを重ねて論議することは不毛なのかもしれない。
だが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにプロレスの源流があるのだという浪漫と信念を持って、プロレスや格闘技の世界で追い求めた者達がいた。

ビリー・ライレージム出身者であるカール・ゴッチやビル・ロビンソンのプロレスのどこかしらに存在していたのが強するが故に相手の攻撃をあまり受けずに己の技術を披露し続ける"技術や強さの自己陶酔"。"強さ"はプロレスラーに必要不可欠な要素だが、プロレスとは攻めだけではなく、相手の攻撃を受けることが求められるジャンルだ。だから"技術や強さの自己陶酔"は調合を間違えると独りよがりに陥るので、プロレスにおいては危険なものだ。

ピート・ロバーツは"技術や強さの自己陶酔"をプロレスという世界でうまい具合に調合し、誰も不快にさせない代物に仕立てたプロレスラーだった。

私はピートこそ、ゴッチやロビンソン以上にクリーンな形でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの魅力も、ビリー・ライレージムのレベルの高さをプロレスの世界できちんと証明して見せたのではないかと思うのだ。そう考えるとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンにとっても、ビリー・ライレージムにとっても彼は実は隠れた功労者なのだ。

実績を残していなくても、歴史に名を刻まなくても、トップになれなかったとしても、ピート・ロバーツはもっともっと評価されていいはずだ。

そして、そんな男を生んだ蛇の穴と呼ばれたビリー・ライレージムは名前が変わっても、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを伝承している。このジムを継いだロイ・ウッドはこう語る。

「私はアマチュアとキャッチ、そしてプロフェッショナルというのは、同じようにレスリングと付けられていても、まったく別の物だと捉えているんだ。現在、自分の後継者を育てているところなんだ。最終的には5人ぐらいのキャッチレスリングの後継者になる得る人材を育てたい。組織が大きくなれば、少しづつ多様化していって技術が変化してしまう部分が出てくるだろうから、それを抑えつつ、純粋なキャッチレスリングを教えられるような人材を育てたい」

ビリー・ライレージムを継いだロイ・ウッドを教えを受けた者達がやがて第二の蛇の穴を創設し、第二のカール・ゴッチやビル・ロビンソン、ピート・ロバーツを輩出していき、プロレスの世界に出現するという壮大な夢物語が今まさに、始動している。

歴史は過去、現在、未来を繋ぐ線路のようなものなのだ。