栄光なき逸材のしくじり放浪記/ジョージ高野(ザ・コブラ)【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第149回 栄光なき逸材のしくじり放浪記/ジョージ高野(ザ・コブラ)




テレビ朝日系の人気バラエティー番組「アメトーーク!」。
この番組では過去に数多くのプロレスにちなんだ企画が放映されてきた。

「ガンダム芸人VS越中詩郎芸人」
「昭和プロレス芸人」
「俺達のプロレス・オールスター戦」
「俺達のゴールデン・プロレス」
「女子プロレス芸人」
「今、プロレスが熱い芸人」

これらのプロレス企画の中で我々は久しぶりにあるプロレスラーの名前を聞くことになる。
くりぃむしちゅーの有田哲平さんは語り始める。

「昭和新日本プロレスのマスクマンと言えば誰ですかと言ったらタイガーマスクと皆言うだろうがほんとは違うんです…ザ・コブラなんです!!」

彼の名前が出た瞬間、会場はシーンとなった。
それは当然かもしれない、彼はタイガーマスクのようなスーパースターになり損ねた男。

彼の名はザ・コブラ。

有田さんはさらに語り続ける。

「タイガーマスクが引退した後に新日本が急きょ、"次のスター作れ!大至急作れ!"って作ったのがザ・コブラなんです。まぁ~売れなかった!(笑) デビュー戦ですよ。日本全国が次のマスクマンって思ってたデビュー戦のオンエアータイムがですね、なんと!例のですね!ダイジェスト放送っていうね。ぶっちゃけた話試合が全然面白くなかったんです。コブラ可哀想なんですよ。ほんとはコブラだけで3時間ぐらい語りたいんですよ。そうした時にUWFブームってのが来てさぁ。どうやってコブラが消えていくのかって言えばぁ、自然と次のシリーズから、何気なくジョージ高野が帰ってきたんですよ。マスク脱いで。普通に。引退とかどっかで風になったとかなんもなく」

ジョージ高野…この男の名を21世紀の全国地上波テレビで聞くことになるとは夢にも思わなかった。
そう、彼こそ哀愁のプロレスラーなのだ。

今回は、スーパースターになれる才能と身体能力がありながら、ブレイクできなかった男が歩んだレスラー人生を追う。

ジョージ高野は1958年6月23日福岡県北九州市に生まれ、山口県岩国市で育った。
本名は高野 讓治という。
弟は"人間バズーカ砲"と呼ばれたプロレスラー高野俊二(高野拳磁)である。

期待外れのシン・ゴジラ~そして未完の大器は素浪人となった~/高野拳磁【俺達のプロレスラーDX】

父は山口・岩国基地に所属していた米海軍中佐で、隊内でボクシング王者。
いわば彼はハーフだった。
だが、きっかけで少年時代は肌の色が違うと差別やイジメにあった。

そんなジョージには運動神経に恵まれていた。
中学時代は陸上のハイジャンプの選手として活躍し、持ち前のジャンプ力を磨いた。
中学卒業後、大相撲・大鵬部屋に入門する。
序二段まで進むも、関節炎の影響で廃業。

大相撲を去ったジョージが選んだ次の進路はプロレスだった。
1976年8月にアントニオ猪木率いる新日本プロレスに入門したジョージ。
ちなみにジョージは猪木との初対面の時に「俺が誰か分かるか?」と訊かれ、こう答えた。

「ストロング小林」

恐らくジョージはプロレスに疎く、プロレスラーになる道を選んだのはプロレスが好きではなく、生活手段だったのだ。
1977年2月10日、日本武道館大会で後に初代タイガーマスクとなる佐山聡戦でデビューを果たしたジョージはなんと15分時間切れ引き分けに持ち込んだ。

188cm,99kgの足が長く筋肉質な肉体。
甘いマスクに、運動神経、練習熱心な姿勢に新日本プロレスは未来のエース候補、スター候補としてジョージに期待をかけていた。彼には「褐色の貴公子」というニックネームがついていた。

特に運動神経は新日本プロレスに入門したレスラーの中でも随一のレベルだったと言われている。ジョージとは同学年で、1年後輩となる前田日明はこう証言する。

「あの頃のジョージは垂直跳びで90センチ跳んでましたから。あいつにドロップキックをやられると、上から突き刺してくる感じでしたよ」

だからこそ前田はこう断言する。

「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野である」

初代タイガーマスク、武藤敬司、小橋建太が得意技にしているムーンサルト・プレスはリング上で初披露したのはジョージだった。
また初代タイガーマスクが初披露した場外への側転してからのノータッチ・プランチャ「スペース・フライング・タイガー・ドロップ」の開発者はタイガーではなく、ジョージだったという。

「この技(スペース・フライング・タイガー・ドロップ)のアイデアは、私が最初にひらめいたのよ。自分でやりたかったけど、当時は佐山さんのタイガーマスクが大人気でダイナマイト・キッドともライバル関係だったから"ぜひ、この技を使ってください"と教えたわけ。側転してロープ際で平行になってプランチャをすればいいと」

その一方でジョージには情人とはかけ離れた言動や行動から「宇宙人」と呼ばれていた。
これについて近年、鈴木みのるがTwitter上で"ジョージ高野伝説"としていくつかのエピソードを披露したことがある。

・新人の頃「いくらUWFのやつらが強いって言ったってミサイル打てば勝てるだろ!」とオレに力説してたジョージさん。当時の愛読書は「ミサイルの造り方」。
・巡業のフェリー移動中。トローリングをやると言ってルアーをキャスト。釣れないとボヤく。そりゃそうだ…フェリーの速度に負けて空中をルアーがバタバタバタ
・昔、川崎の竹藪から1億円入りのカバンが見つかった事件があった。「よし、探しに行こう!」と本気で夜中に竹藪に行ったが見つからず。でも次の日、探しに行ったその竹藪からまたまた1億円入りバッグが見つかったとの報道。「ヨシッ!」と連日竹藪に入って行った
・「たまには肉でも食いに行くか!」と意気揚々と道場生を連れて出発。「好きなだけ肉食え!」と言って連れて行かれた先は吉野家。「大盛りに牛皿のせると超大盛り!」それ並二杯食えば良いんじゃない?最後に「牛皿は二皿までな…」
・「今日は暑いな…」と言ってボディビルダーが履くちっちゃいパンツ一丁でランニングへ行った…。数分後、新日道場の裏のコンビニで、そのまま立読みしてた。

ジョージは入門時から良くも悪くも型破りな男だった。
新弟子時代から猪木の付き人を務めていたジョージはデビュー前にテレビ朝日の特撮ドラマ「プロレスの星 アステカイザー」に出演した。
これが名俳優・菅原文太さんの目に留まり、芸能関係の道へ進んだこともあった。

「私が映画出演とか芸能関係にいったのは師匠の猪木さんの命令だった。石原プロダクションに入るという話もあったよ。でもプロレスで世界チャンピオンにもなっていない若造が石原裕次郎さん、菅原文太さんのところに飛び込むなんてできなかった。撮影が終わったら戻れると思うでしょ? それが映画の撮影が長引いて、プロレスの本隊と合流できなくなって。最終的には北沢幹之さんが仲介してくれて戻れたんだけどね」

1978年6月に新日本に戻ったジョージは前田日明、平田淳二(スーパー・ストロング・マシン)、ヒロ斎藤といった若手としのぎを削った。
1982年1月にジョージはメキシコ遠征に旅立った。
デビュー戦でいきなりフィッシュマンが保持するUWA世界ライトヘビー級王座に挑戦する特別待遇を受ける。

「専門的に言えば、ルチャリブレは腕の取り方から何から日本のプロレスとはすべて逆だけど、私の場合は右脳と左脳の切り替えが早いからすぐに順応できた。だから、私は日本で体得したプロレスを二次的、三次的に加工しだしたの」

ジョージはメキシコでの活躍が認められ、長州力やアンドレ・ザ・ジャイアントを押しのけて、同年のUWA最優秀外国人選手賞に輝いた。
1983年7月にジョージはカナダ・カルガリーに渡り、マスクマン「ザ・コブラ」に変身する。
あの初代タイガーの後釜として新日本がニューヒーローを生み出したと思われているザ・コブラはカナダで誕生したヒール・マスクマンだった。ヒーローでもなんでもなかったのだ。

「メキシコにいた時点で、マスクを作ってね。デザインはミル・マスカラスやいろんな選手のマスクを見て、自分で考えたんだけど。ザ・コブラは国籍不明のヒールマスクマンだった。外国人は最初はみんなヒールだからね。ヒールで入っておいて、美しい技をいっぱい取り入れて試合をやれば、将来はベビーフェースにスイッチできるだろうと予測していた。ザ・コブラのスタイルは新日本のストロングスタイルとメキシコのルチャリブレのハイブリッドだったから。場外に出てイスでバンバン叩くとかはしないのよ。"ヒールだけど、美しい"みたいな。美しく悪いことをするという。レフェリーの目を盗んでノータッチで攻撃するとか、その間にフォールしちゃうとか」

1983年9月にはハート一家のブルース・ハートを破り、英連邦ミッドヘビー級王座を獲得し、ダイナマイト・キッドやデイビーボーイ・スミスとの抗争を繰り広げた。

「プロモーターのスチュ・ハートは、最初は胡散臭い奴と思ったかもしれないが、仕事ぶりを見てくれて凄く評価してくれて。私は外国人として初めてボーナスをもらった男だから。それは名誉だった」

コブラとしての地位をカナダで築く中で、初代タイガーマスク引退によってジュニアヘビー級のニューヒーローを輩出するために、新日本プロレスはジョージをコブラとして1983年10月末に緊急帰国をすることになった。

「会社の命令よ。自分としては素顔でもマスクマンでもどちらでもよかったけど。まだカルガリーにいたかったよ。ちょうどヒートしてきてさ、一番いい時だったからね」

1983年11月3日蔵前国技館で行われたザ・コブラの日本デビュー戦はタイガーがかつて保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦。
対戦相手のザ・バンビートはライバルのデイビーボーイ・スミスだった。
入場から「ニューヒーロー誕生」の演出から会社からの期待が伺えた。
スモークが炊かれた花道を複数のマスクをつけたセコンドが担ぐ神輿の上にコブラが乗って姿を現した。
城のタキシード風のジャケットを身にまとったコブラはトップロープに乗ってからバック宙してド派手に入場してきた。
だが、試合は思わぬ方向へ…。

試合前にバンピートが自らマスクを取ってコブラに襲い掛かると、期せずしてキッド・コール!スミスはキッドの従兄弟だけに顔と体型が似ていたため、ファンは勘違いしたのだ。こうなると誰もが、この試合をタイガーマスクVSダイナマイト・キッドに重ねてしまう。これがコブラにとって悲劇となった。今、改めてVTRを検証してみると、モンキーフリップを回転して着地してのドロップキック、トップロープに飛び乗ってのサマーソルト…と、コブラの動きは悪くない。だが、トップロープ越しのトぺ・スイシーダをあっさりかわされて豪快に自爆すると大爆笑が発生。これがコブラの致命傷になってしまった。いくら運動神経がよくても188cm 99kgのコブラが73cm 90kgのタイガーマスクと同じ動きを求められたら無理がある。しなやかで緻密だったタイガーマスクと比べると大味で粗雑に見えるのも仕方のないことだ。だが、タイガーマスクの幻影を求めるファンにとってコブラは完全に期待外れだったのである。
【プロレス覆面レスラーの正体/双葉社】

ニューヒーロー誕生と思われたが、これは"しくじり"プロレスラー誕生を意味していた。

後に新日本プロレスの獣神サンダー・ライガーはコブラについてこのようなことを語っている。

「コブラは俺のデビュー戦よりできているし、ものすごいカッコいいんですよ。だから会社もファンも無理にコブラをタイガーマスクの後継者として見ることなく、動けるヘビー級戦士という感じで見れた状況は違っていたのではないだろうか」

周囲のコブラに対して乗れない状況下でも、当本人は…。

「別に私は二番煎じのつもりもないし、プレッシャーも全然なかった。佐山さんの仕事は佐山さんの仕事、私の仕事は私の仕事だから」

ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、小林邦昭といったライバル達は全日本プロレスに転出する中でライバルにも恵まれなかったのも痛かった。
同世代のヒロ斎藤と抗争を繰り広げた時期もあったが、そこまでブレイクすることはなかった。

だからといってコブラのムーブはタイガーに負けて劣らないものがあった。
ジャーマン・スープレックス・ホールドやタイガー・スープレックス・ホールドといったスープレックスは高角度で美しく、ドロップキックはタイガーよりも打点は高かった。また、メキシコ仕込みのセントーン、プランチャは独特の味があった。フライング・ニールキックやローリング・ソバット、コーナーに振り向きざまにセカンドロープに飛び乗り、反転するように相手に胸板に稲妻レッグラリアットの要領でキックを放つ「スコードロン・サンダー」というオリジナル技まで持っていた。
だが、それらの四次元殺法や持ち前の運動神経や身体能力も、試合運びの粗さと繋ぎ下手な部分が仇となり、これらのムーブの凄さが伝わらなかったのではないだろうか。華麗な技を多用するから天才なのではないし、プロレスセンスがあるわけではない。ジョージのプロレスには"説得力"がなかった。

その要因はもしかしたら紙一重なのかもしれない。
だが、その紙一重が大きな"しくじり"を生むのだ。

WWFジュニアヘビー級王座やNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得するもどこまでもコブラはヒーローにはなれなかった。

1986年2月6日の前国技館にて越中詩郎との初代IWGPジュニアヘビー級王座決定リーグ戦・決勝戦に敗れ、さらに後輩のUWFの高田延彦(当時は高田信彦)が保持するIWGPジュニア王座に挑戦した際に、高田に結果は引き分けるも、内容では圧倒された。

時代はどこまでコブラに冷たく、見放し続けた。
高田戦を最後にコブラはマスクを脱ぎ、カナダへ渡った。
1986年7月にヘビー級に転向し、素顔のジョージ高野となって凱旋した。

ヘビー級となったジョージの体重は最大で115kgに増加するも、動きは落ちることはなかった。
だが、一度しくじったレスラー人生はなかなか軌道修正はできない。
1年、2年と浮上することなく、前座戦線を彷徨うジョージだったが、スーパー・ストロング・マシンとのコンビ「烈風隊」でタッグ戦線に参入し、1989年3月16日に長州力&,マサ斎藤を破り、第9代IWGPタッグ王座を獲得した。
この頃がジョージにとって最も輝いた時期なのかもしれない。

1990年4月1日、ジョージは新日本プロレスからメガネスーパーが運営する新団体SWSに移籍する。一説によるとメガネスーパーとの繋がりが強かったドン荒川と仲が良かったジョージが荒川の誘いと大金につられてこの移籍を決断したとも…。

当時のジョージはどこか新日本で燻っていた。
長州力、藤波辰爾といったトップレスラーと勢いに乗る後輩・闘魂三銃士の狭間でジョージは"中二階"で甘んじていた。新日本のエース候補やスター候補と呼ばれていた男にIWGPヘビー級挑戦のチャンスは遂に一度も回ってこなかった。

大相撲のような部屋制度を設けていたSWSでジョージは「パライストラ」という部屋の道場主(エース)となった。
立ち位置としてはレボリューションの天龍源一郎、道場・檄の谷津嘉章と共にSWSのトップ3という大役だった。

SWSではタッグながら天龍からフォールを奪い、後にWWE世界王者となるブレット・ハートをシングルマッチで破るなど奮闘するも、やはりしくじった運命を変えるまでに至らない。
高野俊二との高野兄弟でSWSタッグ王座を獲得するも、1992年6月にSWSは内部分裂、解散の末路を辿っていった。

その後、ジョージはさらに迷走していく。
ケンドー・ナガサキとの新団体NOWは、旗揚げ戦後に俊二と共に離脱し、PWCという団体を旗揚げする。
この頃のジョージについて、当時新人レスラーだった保坂秀樹はこう語る。

「ジョージさんは基礎練習が凄く好きなんですよ。朝4時くらいに道場に現れて練習するんですけど。まだ道場で練習するならわかるんですけど、道場の前に空き地があって、石とかでボコボコなんですよね。そこにビニールシートを広げて"極め合いするぞ!"と。石でボコボコでヒザもつけないようなところでやるんですけど。道場にリングがあるんですよ?(笑)。たぶんですけど、あの頃はU系全盛だったから、ジョージさん、UWFに憧れていたと思うんですよ。ジョージさん、格闘技系のスタイルが好きだったんですよね。だからって空き地で練習する意味がわからないですけど(笑)。ジョージさんは"霊が見える!" 、"これは何か取り憑かれてる……"とか真顔で言いだしたりしますから。あと俊二さんといつもケンカするんですよ。考え方の違いなんですかね。ボクが知るかぎり兄弟の仲は良くなかったですね。最後は安達さん(ミスター・ヒト)が包丁を持ち出して"ケンカはやめろ!"って止めるのがいつもの光景で」

俊二と仲違いし、PWCを離脱したジョージは妻の実家がある北海道釧路市にFSRという団体に設立し、他のインディー団体にたびたび参戦する。
FSRは活動停止、福岡県に移住したジョージはそれでもリングに上がり続けた。
静観で筋肉質な肉体はいつの間にか贅肉に覆われたカッコよくない中年太りな肉体へと変貌していた。
時代と共にジョージの肉体は衰えていった。

その後、橋本真也が旗揚げしたゼロワンの初期に参戦したり、古巣・新日本にゲスト参戦するも、かつての輝きを放つことはなかった。

仕事も転職していた。
引退はしていないものの、外壁の施工工事の仕事や電柱を埋める仕事をしたりと仕事も彷徨った。NPO法人を設立したり、システム会社の重役になったり…。またアントニオ猪木が設立したIGFに関わることもあった。現在はどこで何をしているのか…。

「やっぱりプロレスは継承をされるものだから。今でも私はザ・コブラを継承する人間を作りたいと思っている。私はまだ引退発表をしていないし、弟と何かをしたい気持ちはある」

翻弄され、放浪のレスラー人生を送ることになったジョージ高野には果たして栄光などあったのだろうか。素材は天才、いや逸材級だった。しかし、それに見合った活躍も実績も残すことはできなかった。それもすべてにおいて紙一重の部分だった。もしかしたら、紙一重の部分が巧く合致していたら、ジョージは時代を味方にし、日本プロレス界を代表するスーパースターとして語り継がれていたのかもしれない。
だが一度しくじった歯車は止まることなく、転落していった。
それがジョージ高野という男のレスラー人生だった。

2004年に発売され、NHKアテネ五輪中継の公式テーマソングとして大ヒットしたゆずの「栄光の架橋」にはこんな歌詞がある。

悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
(中略)
いくつもの日々を越えて
辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと…
終わらないその旅へと
君の心へ続く架橋へと…
【ゆず/栄光の架橋 2004年】

光り輝くべき男には栄光なんてなかった。
それでもジョージ高野は我々の心に残り続ける伝説のプロレスラーだった。

「悲しみや苦しみの先に、それぞれの光がある」

人々の心へ続く架橋をかけることができるのは栄光を摑んだ者だけではないのかもしれない。

栄光なき逸材に、乾杯!!