孤独な蛇男のライズ&フォール/ジェイク・ロバーツ【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第150回 孤独な蛇男のライズ&フォール/ジェイク・ロバーツ




その男はいつも不気味に微笑んでいた。
怪奇派でありながら、まるでダンディなハリウッド俳優のようなオーラを身にまとった男。

195cm 120kgの恵まれた肉体を誇り、今やポピュラーなプロレス技であるDDTの元祖であり、その敢えて出し惜しみしながら、必殺技DDTに繋げていく自らのプロレスに絶対的な自信を持ち、対戦相手だけでなく、観客、ファンやマスコミといったあらゆる者達の心理を見事にコントロールしてみせたリングのマエストロ…それが今回の物語の主人公だ。

ジェイク・ "ザ・スネーク" ・ロバーツ

プロレスライターの斎藤文彦氏は彼のレスラー人生をこう評している。

「フィクション人生」

"ザ・スネーク"と呼ばれた稀代のアンチヒーローが放つその言動とキャラクターはどこまでが真実で、どこまでがフィクションや演技なのかがわからないという意味でこう評したのだ。

「ビヨンド・ザ・マット」や「ジェイク・ザ・スネークの復活」といった映像作品の中心人物として取り上げられたのがジェイクだった。また、ミッキー・ローク主演の名作映画「レスラー」の主人公であるランディ"ザ・ラム"ロビンソンのモデルと言われているのがジェイクだと言われている。クリエイターからしてもジェイクというレスラーはそれだけ魅力的だったのかもしれない。

「フィクション人生」の果てに蛇男が味わった栄光と転落、その先にあった更生の道。
映画や小説よりも奇でありドラマチックな男のレスラー人生を追うことにしよう。
これはプロレスに取りつかれた孤独な蛇男の盛衰物語がある。

ジェイク・ロバーツは1955年5月30日アメリカ・テキサス州ゲインズビルで生まれた。
本名はオーレリアン・ジェイコブ・スミス・ジュニアという。
父のグリズリー・ジェイク・スミスは元プロレスラーである。
ただ、この家庭事情に関してもジェイクはフィクションのような秘密があった。

父親は親子ほどトシの離れた若い女性と再婚。その義母との性的関係。ジェイクを育ててくれた祖母の再婚。義祖父のアルコール依存症と家庭内暴力。祖母の死。10代で子どもを生んだ妹とその妹が被害者となった誘拐殺人事件。ジェイクの記憶のなかで現実と非現実がジグゾーパズルのように複雑にからみ合っている。
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父のグリズリーはジェイクについて映画「ビヨンド・ザ・マット」で望んで生まれた子ではなかったとコメントしているので、ジェイクの屈折した性格やキャラクターはこの世に生を受けた時点から生まれていたものかもしれない。
それでもジェイクは父からの愛を求めて、プロレスラーになる道を選ぶ。

父やバッグ・ロブレイ、ミスター・レスリング2号、ムース・モロウスキーといったレスラー達の指導を受け、1975年にデビューする。
デビューしたジェイクは父からの労いの言葉を待っていた。

「よく頑張っているな」
「誇りに思う」

だが、ある日、ジェイクは父から受けた言葉は…。

「この恥さらしめ!!」

試合に負けたからなのか、試合が詰まらなかったからなのかはジェイクの言動なのでよく分からないが、この言葉がジェイクの心に火をつけた。

「絶対に見返してやる!!」

それは父に対して、家族に対して、自分を認めない世間、自分に試練を与え続ける神に対してなのかもしれない。

アメリカ各地やカナダに至るまであらゆるテリトリーでキャリアを重ね、プロレスラーとしてのスキルを磨いていくジェイクは1979年1月に国際プロレスで初来日を果たしている。
1980年に二度目の来日ではロックバンド「KISS」ばりのペイントを施していたという。

ジェイク・ロバーツが"ザ・スネーク"というニックネームが付くようになるのは1980年代の事である。ジョージアに転戦してた時にアメリカのレジェンド実況アナであるゴードン・ソーリーがこう評したのだ。

「彼はスネークだ」

長身を生かしたスケールの大きなプロレスとプロレスセンス。
バランスの取れたどこかスリムな肉体でキャンパスをすべるように動き、コーナーに座り込んでいたかと思うと、勝負所になるとスピードを上げ、獲物を仕留めるそのスタイルはまさしく、蛇そのものである。1982年にヒールに転向し、この「ザ・スネーク」という異名が付いてから、ジェイクはステップアップしていく。
1983年にはNWA世界TV王座を獲得している。

また必殺技のDDTについてこんなエピソードがある。

トレードマーク技のDDTは、ジェイクがミッド・アトランティック地区をツアーしていた時代にザ・グラップラーとの試合中に偶然、発明されたものとされている。ジェイクのフロント・ヘッドロックがすっぽ抜けてグラップラーが脳天から落下し、これがのちのDDTの原形となった。この技にDDT(Dichloro-Diphenyl-Trichloroethane)という殺虫剤の名をアダプトしたのがジェイクであることはまちがいないが、これとまったく同じフォームの技を使っていたレスラーはジェイク以前にも何人かいた。DDTを発明したのはだれか、という議論は現在でもずっとつづいている
【“ヘビ男”ジェイク・ロバーツのフィクション人生――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第70回•日刊SPA!】

ジェイクのプロレスは大きく三つの技で構成されている。
試合のペースを握るために使用するパンチやニーリフトといった打撃技。
腕をツイストしてから相手の腕を自らに引き込んでの至近距離で放つショートアーム・クローズライン(ラリアット)。
そして一撃必殺のDDT。

この出し惜しみをし、技をあまり使わない攻撃スタイルはアメリカのプロレスラーの典型といっていい。

WWEの重役であり、トップレスラーのトリプルHはこう語っている。

「優秀なレスラーは実はたくさんの技を使わない。ストーンコールドは3つのことしかやらない。テーズ・プレス(フライング・ボディー・シザース・ドロップ)、コーナーでのストンピング、そして、スタナー。これだけ。観客の目をリングに集中させるために500種類の技を用意する必要はない。意味ある動き、技が2つか3つあればいい」

1986年にジェイク・ロバーツはWWE(当時WWF)に移籍する。

ビンス・マクマホンによって「ザ・スネーク」のキャラクターには更に肉付けがなされ、蛇のデザインが施されたロングタイツや蛇皮のブーツを着用し、ペットのニシキヘビ「ダミアン(Damien)」を麻袋に入れてリングに持ち込むサイコパス系の怪奇派ヒールとなった。
【wikipedia/ジェイク・ロバーツ】

ジェイクの存在は1980年代のアメリカン・プロレスのアンチヒーローだった。

DDTの生みの親でありロバーツは、1986年にWWEデビューを果たすと、この痛烈な必殺技で一気に知名度を高めた。そして、当時ファン人気が高かったリッキー・“ザ・ドラゴン“・スティムボートに狙いを定めて抗争を開始。壮絶な抗争劇の末、ロバーツはコンクリート床の上にリッキーをDDTで沈め、リッキーに数週間にも及ぶ入院を強いた。不気味な雰囲気を醸しながらもロバーツの人気は高まりを見せ「スネーク・ピット」という番組を持つようになった。当時はロディ・パイパーの「パイパーズ・ピット」も人気を博していたが、屈折した観点で語られたロバーツの番組も好評を博した。ロバーツがさらにファン人気を確立したのはホンキー・トンクマン、ミリオンダラー・マン、アンドレ・ザ・ジャイアントらとの一連の抗争を経ていた時期だった。ロバーツが愛蛇ダミアンを持ち出すなり、アンドレが一目散に逃げ出したシーンは、オールド・ファンにとっては忘れられない名場面だ。
【WWEホームページより】

プロレス関係者はジェイク・ロバーツをこう絶賛する。

ポール・ヘイマン(元ECWプロデューサー)
「ジェイクは大旋風を巻き起こしたプロレス界でも一番のカリスマだ。雲の上の人だった。カメラを通じて、自分の存在をアピールをし、人の心を摑む」

ジム・ロス(元WWE実況アナウンサー)
「ジェイク・ロバーツは素晴らしい才能を持っていた。それは身震いするほどでプロレスのショー的部分で思い切り発揮されていた。彼の最も優れた点は観客の心理のコントロールだ」

ジーン・オークランド(元WWE名物アナウンサー)
「リング上で最高の物語を提供する男」

ジェイクは怪奇派でありながら、ベビーフェースやヒールに立ち位置を変えていった。
この現象は単なる典型的な正統派や悪党の存在だけではマンネリ化している現状を打破するためのカンフル剤のような役割を担っていたことを意味する。ベビーフェースの時に大勢の敵に向かって蛇の入った麻袋を抱えたジェイクがゆっくりと姿を現した瞬間は最高にかっこよかった。エースであるハルク・ホーガンとはあまり絡まらなかったため、ジェイクはWWEで長年に渡り名大関であり続けた。試合に勝とうが、負けようが、ジェイクは狂気のタクトをふるい続けた。

人々の心をコントロースする掌握術は試合前のインタビューから始まる。
ヒールだからアウトローだからと言って罵詈雑言を大声でがなり立てるのではなく、冷徹に穏やかに語りかけるのだ。まるで呪文の如く…。

「許しを乞え。土下座をしてひれ伏すがいい。お前はリングの中でひざまずくがいい」

試合によって変えていくパンチラインを述べた後にジェイクは静かに薄ら笑いを浮かべる。これこそ、人々の心理のコントロールに長けているリングのマエストロの真髄である。

「俺は皆の心を支配しているんだ」

彼はこの薄ら笑いを浮かべている時に恍惚と快感に酔っていたのかもしれない。
だが、自身の運命までもはジェイクでもコントロールできない。

1992年4月の「レッスルマニア8」でのアンダーテイカー戦を最後にWWEを離脱したジェイクは、NWAの流れを汲んだWCWに移籍する。WCWの絶対エースであるスティングと抗争を繰り広げるも、同年11月に離脱する。

1993年9月には新日本プロレスに参戦し、当時のナンバーワンのDDT使いの橋本真也とのDDT対決を実現させた。また、1994年にはメキシコAAAに参戦し、エースのコナンと髪の毛をかけた抗争を展開した。

だがWWE離脱後はどの団体でも長続きせずに彷徨うジェイクにはドラッグ依存症とアルコール中毒に陥っていた。

「麻薬はやらないと誓っていたんだ。負け犬になるもんか、と。月に25~26試合をした。土日は2試合だ。毎日、飛行機で移動。あれじゃ薬漬けになるさ。睡眠薬で眠り、痛み止めを飲み、リングに上がる前にはコカインだ。そして睡眠薬を飲んでまた眠る。これは罠だ。コカインから逃げられない。ぶっ飛べば過去を忘れられる。トリップすれば責任から逃れられる」

華々しいプロレスラーが抱える闇がこのコメントから垣間見える。

1996年、WWEに戻ったジェイクは過去の過ちから悔い改め、敬虔なクリスチャンに生まれ変わっていたが、それでもジェイクは更生できなかった。
1997年2月に解雇された。
原因はドラッグだった。

いつの間にかスリムな体型だったジェイクは中年太りに陥っていた。
自堕落な男になってもリングに上がるとジェイクはかっこよかった。

「勝とうが負けようがどうでもいいんだ」

ジェイクにとってはプロレスができればそれでよかった。
何度も結婚、離婚と繰り返した。
娘との関係は最悪だ。
哀愁のジェイクはこう呟く。

「ヤク中は皆、不幸だ。俺はヤク中か? それとも昔、夢に出てきたホームレスか? 自分に同情するかよ。己を憐れむなんてまっぴらだよ。昔の栄光が懐かしいだけだよ」

ジェイクは自堕落になってもどこか強がっていた。

「俺が望めば市長になれるぜ。ファンが市長に祭り上げてくれるんだ」

アメリカやヨーロッパのインディー団体を転戦していくジェイクだが、ファンはそんなジェイクに歓声を上げた。ファンにとってはどんなにジェイクが自堕落だろうが関係がない。
彼らにとっては"俺達のカリスマ"なのだ。

ジェイクのプロレスに魅了されたポール・ヘイマンが率いたハードコア団体ECWでカルト的人気を誇った反逆児レイヴェンのモチーフとなったのはジェイクだった。また、CMパンクやブレイ・ワイアットなどジェイクに影響を受けたレスラー達も数多いのだ。

だがカリスマの神通力も限界があった。
ある興業に姿を現したジェイクは試合直前まで酒を飲み続け、酩酊状態でリングに上がり、そのままリングに倒れ、ピンフォール負けを喫した。
さすがのファンもジェイクに非難と酷評をした。

ジェイク・ロバーツは終わった…。

そう思われていた。
だが、ここでジェイクに思わぬところから救いの手が伸びる。
元プロレスラーでジェイクにとっては後輩のダイヤモンド・ダラス・ペイジ(DDP)がジェイクを更生させるために立ち上がったのだ。
WCW世界ヘビー級王座を獲得した名プロレスラーだったDDPはプロレス引退後、ヨガ教室を開いている。医者から歩けないと宣告された元軍人を走るところまで回復させたり、アルコール中毒から多くの者達を救っているいわば"更生のプロ"に転身していたのだ。

DDPにとってジェイクは憧れのレスラーだった。

「ジェイクのおかげでプロレスを見るようになった。誰も認めなかった頃から俺のことを信じてくれたんだ」

DDPはジェイクを説得する。

「もう一度やり直そう」

だがジェイクは…。

「俺は数年前に引退し、人生を諦めている。俺はダメ人間なんだ」

もはやそこにはカリスマと崇められた男の姿はない。
だがDDPは諦めない。
アトランタにある自宅にジェイクを招き、更生プログラムを付きそうことにしたのだ。

リハビリが始まった。
ジェイクの肉体は長年の激闘と自堕落な生活でボロボロだった。
トレーニングを続ける中でジェイクは酒の誘惑に負けてしまう。
DDPは心を鬼にしてジェイクを厳しく叱る。

左肩を悪化させたジェイクは手術を受けることになった。
だが保険に入っていないジェイクには費用は払えない。
そこで立ち上がったのはファンだった。
世界中のファンがジェイクに寄付したのだ。
手術費用はすぐに集まった。
愛を知らない孤独な蛇男はファンの愛にただ泣いた…。
左肩の手術を受け、トレーニングを続けたジェイクはリングに復帰することを目指し、トレーニングできるほどにまで回復したのだ。

2014年1月、WWEの人気番組「RAW」にあの男がゆっくりと現れた。
ジェイクだ。
いつもの薄ら笑いとダミアンが入った麻袋を抱え姿を現したジェイクにはあのカリスマのオーラが復活していた…。

2014年のWWE殿堂にジェイクの姿があった。
その式典でインダクターを務めたのはジェイクの更生に付き添ったDDPだった。
ジェイクはそこで静かに語り始めた。

「プロレスラーとしての体験は一瞬の後悔もありません。何事にも代えがたい最高のフィーリングでした。子供からお年寄りまで、男性も女性も、すべての観客の感情をコントロールすることができました。ハートとマインドがそれを求めたとしても、それをできなくなるときがやってくる。私はドラッグとアルコールに溺れ、家族を苦しめ、子供達に嘘をつきつづけた。現役生活を終えると、私の中に残ったのは苦痛と恥辱だけだった」

そして、最後にジェイクはこんな名言を残している。

「リングとは女であり、生涯唯一、騙すことの出来なかった女だ」

それは老年となったジェイクがレスラー人生の集大成として産み落とした最高のパンチラインだった。

ジェイク・ロバーツが味わった栄光と転落と再生の物語。
ライズ&フォール…波が上下するように浮き沈みが激しい波乱万丈なレスラー人生。
そのなりの果てに彼が見たのはプロレスに関わった者達からの愛だった。
愛を知らない孤独な蛇男は、最後の最期で愛を知った。

そういえば映画「ビヨンド・ザ・マット」でレスラーの光と影を激白したジェイクに対して、生ける伝説テリー・ファンクはこう語っている。

「プロレスに罪はない。ジェイクの生き方の問題である」

恐らくジェイクはこの言葉の意味をようやく理解し、ファンの愛を噛みしめることができたのだ。今まさに彼は再生の道を歩んでいる。

ジェイク・"ザ・スネーク"・ロバーツこそ、そのプロレススタイルも生き方も佇まいもあらゆる点で良くも悪くも、"ザ・プロレスラー"なのかもしれない。

「フィクション人生」と形容されたジェイクの生き方。だが、そもそも彼の信者とも言うべきファンにとっては彼の出生や家庭事情といったプロフィールやキャラクターがリアルなのか、フェイクなのかあまり関係がない。

ジェイク・ロバーツの生き方はフィクションを越えた愛を求める物語なのだ。