合法的ダマシ方ノススメ~変化球を操るトリックスター~/ヤス・ウラノ【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第153回 合法的ダマシ方ノススメ~変化球を操るトリックスター~/ヤス・ウラノ



日本プロ野球界にはかつて「詐欺師」と呼ばれる選手がいた。
その男の名は元大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の市川和正。
彼はかつてトリックプレーを駆使して、審判や対戦相手の目を眩ます球界きってのトリックスターだった。

打席に立った時にストライクに取られやすいハーフスイングをごまかすための「忍者打法」という奇天烈な技まで編み出したのも生存競争が激しいプロの世界で突出した才能があるわけではなかった彼が生き残るためのテクニックだった。

プロレス界にも市川のようなトリックスターはいるのか。
まず思い浮かんだのは新日本の矢野通だ。
対戦相手、レフェリーだけでなく観客の目を欺くことに関しては彼は天才である。
ただし、矢野の場合はそのスタイルのやらなかったとしても、レスリング全日本トップレベルのテクニックと強さがあり、いわば元来アスリートタイプなのだ。
そう考えてみた時に市川のような生粋のトリックスターがいたことを思い出した…。

「闘いを見せるリング上で、他のレスラーが刀剣をチョイスしてるのにひとりだけトンファーを使っている」

かつてDDTの人気プロレスラー男色ディーノは彼をこう評したことがある。まさしく彼を現す表現に最適である。
"バトル・ソクラテス"ヤス・ウラノはサイコロジーを駆使した試合運びと小技の巧さから日本インディー界を代表する仕事人レスラーである。
その試合巧者ぶりは一部で「ヤスティクス」という造語が生まれるほどである。
今回はこのウラノのレスラー人生を追うことにしよう。
彼は如何にして「トリックスター」の道を歩むことになったのだろうか…。

ヤス・ウラノは1976年2月19日埼玉県所沢市に生まれた。
特に目立ったスポーツ歴もないウラノがプロレスラーを志した理由は「海外に行けるから」だった。
日本大学に進学すると学生プロレスの道へ。
「ソクラテス浦野」というリングネームで活動する。ちなみに彼の1年後輩はあの大家健である。
ウラノは学生時代からリング屋のバイトをしていた。
裏方かた見てきたプロレスの世界で出会ったのが、ウラノと同じく学生プロレスで活動していた帝京大学のHARASHIMAだった。HARASHIMAの母校である帝京大学の練習に参加していたウラノにとってはそれは再会でもあった。

「自分はともかくHARASHIMAくんがプロになるとはまったく思わなかったです。興味がないと思ってました。リング屋のアルバイトを始めて、現場で会って。そこでもプロになるなんていう話は出なかったです。気づいたら二人ともレスラーになっていた感じです」

日本大学を卒業したウラノはプロレスラーになるための登竜門という感覚で,TAKAみちのくがプエルトリコに設立したKAIENTAI DOJOに入門する。いわばウラノにとってはそこはプロレス専門学校だった。そこでプロレスを学んだ上でリング屋で働いていたDDTに入るつもりだったという。

しかし、KAIENTAI DOJOは学校という枠では収まらず、プロレス団体へと変貌していき、ウラノは2000年11月19日、Hi69(HIROKI)戦でデビューを果たす。これはウラノにとっては予想外だった。

その後、ウラノはライバルであり盟友のHi69と共に帰国し、インディー団体で経験を積んでいった。

2001年4月28日。それがHIROKIとウラノの日本デビュー戦である。プエルトリコからTAKA代表がインターネットを通じて売り込み、みちのく参戦が決定。そのさい「俺の分身」とまで言い切ったため、2人は過剰なまでの期待感の中で闘わなければならなかった。当時のK-DOJOは、上陸を控えデビュー前の顔出しを禁じたばかりか、プロフィルやリングネームさえも公表しなかった。ファーストインパクトを狙った戦略をとったためだが、それによってファンの想像が必要以上に膨らんでしまった。おりしも、当時は闘龍門(現・DRAGON GATE)の出現によってキャリアを積んでいなくても即戦力となるぐらいにできると見られる風潮があった。じっさいはその方が特別なのであり、同じハードルで見られる彼らは気の毒だった。それでも、まるで鳴りもの入りのような視線で見られた2人は、福島県本宮町の体育館で品定めをされるかのような雰囲気の中でホロ苦い日本デビュー戦を闘った。前半は口が酸っぱくなるぐらいにTAKAが唱えていた大技を乱発しないプロレスを心がけていたが、ウンともスンと言わない雰囲気にあせるかのように中盤からは大技を連発。しかし、それでも沸くことがないままなんのインパクトも残せずにウラノの勝利で終わった。「なーんだ、KAIENTAIってこんなものか」といった物言わぬ声がHIROKIとウラノに突き刺さる。彼らのプロとしてのキャリアは、そんな評価をハネ返すところから始まったのだ。
【鈴木健.txtブログ/HIROKI、9年前のあの日に戻ったと思えばいい 】

ウラノは全てにおいて本当に地味な新人レスラーだった。
基本に忠実で、緑のショートタイツ、どこにでもいそうな「ワン・オブ・ゼム」のような存在…それがウラノだった。
準レギュラーとして参戦していた全日本プロレスではあまりにも地味過ぎるが故に、問題児ケンドー・カシンに散々いじられたこともあった。

そんな地味男がプロレス界で生きるために見出したのが脇役として生きる道だった。
KAIENTAI DOJOで局地的ブームを起こした"ハンサム"JOEに目を付け、彼を引き立てる役に徹した。JOEが入場してくるとしきり横で「ハンサム」で声掛けをして称える。それは試合中も試合後にも終始するスタイルは地味男なりの個性だった。

2007年、KAIENTAI DOJOを退団したウラノはフリーとしてあらゆる団体に参戦していく。
そして、リング屋時代から見つめてきたDDTにたどり着いた。
"寡黙なストライカー"KUDOのタッグパートナーとなったウラノ。
彼の技能は正当に評価されるようになったのはDDT参戦時からである。

2008年2月3日のDDT後楽園ホール大会で行われたKO-D無差別級王座挑戦者決定ロイヤルランブル。この闘いを制したのは伏兵のウラノだった。
試合後、ウラノの前に立っていたのはKO-D無差別級王者であり、リング屋時代からの盟友HARASHIMAだった。いつの間にかHARASHIMAは団体のエースとなっていた。

「お前と初めて会って長いもんで10年経つんだよ。みんなは知らないかもしれないけど、今度、お前がこのベルトに挑戦してくれることがすっげぇ嬉しいよ。違う道を歩んできたけど、メチャクチャ熱い試合しようぜ!」

王者HARASHIMAの言葉に泣き崩れたウラノだったが、それは罠だった。
すぐに急所蹴りを見舞い、マイクで叫んだ。

「10年前に出会ったことなんてすっかり忘れちまったよ。俺はお前に興味はない。俺が興味があるのはDDTのベルトだけ。いい試合っていうのは俺が勝つことなんだよ!」

こう言い放ったウラノだったが、控室では…。

「勝った瞬間にHARASHIMA選手と初めて出会った10年前の事とかが一気に思い出してきて。結局、このDDTのリングに初めて上がったのもHARASHIMAさんのおかげだし、KAIENTAI DOJO辞めるって決めたときもHARASHIMAくんに相談したら、相談にいつでも乗ってあげるよって言われてすごく心強かったし、ハッキリ言ってHARASHIMAくんがいなかったらDDTのリングにこうやって参戦し続けることなんてできなかったと思うんで」

2008年3月9日の後楽園ホール大会でHARASHIMAとウラノはKO-D無差別級王座を賭けたリングでの再会を果たした。この試合がウラノにとって、後楽園ホール大会で初のシングルメインイベントだった。
この試合でウラノの真骨頂が発揮された。

HARASHIMAが勢いよく攻めてくると、はぐらかすようにリング外に降りて間を取る。
足への一点集中攻撃、レフェリーのグラインドを着いた反則プレー、逆転を狙う丸め込み、あらゆる布石を打ったうえで放った得意技であるツームストン・パイルドライバー…。
地味男がたどり着いたトリックプレーとインサイドワークの数々と終盤に見せた気迫のこもった打撃の応酬。
試合には敗れたのものの、ウラノの評価は確実に上がった試合だった。

試合後、やはりHARASHIMAに急所蹴りを見舞うも、リング上で本音をぶちまけた。

「本当はHARASHIMAくんとこのDDT、ベルトなんかどうでもいい。この後楽園ホールのメインイベントで君とできて楽しかったよ。自分がこのDDTで楽しくできているのは、KUDO、ほかのみんな、何よりHARASHIMAくん、君のおかげだよ。ありがとう!」

DDTの一員になったウラノはなくてならない仕事人レスラーの地位を確立していく。
また、マッスル坂井が立ち上げた別ブランド「マッスル」のメンバーとなり、プロレスラーとしての幅の広さを見せつけた。
2009年8月23日の両国国技館大会ではKUDOとのコンビでKO-Dタッグ王座も獲得した。
若手のコーチ役として、後進の指導にあたった。
ディック東郷、GENTAROとのユニット「グランマ」、HARASHIMA,KUDOとのユニット「ウラシマクドウ」、HARASHIMA、彰人のユニット「スマイルスカッシュ」とあらゆるユニットでは作戦参謀を務めて、その手腕を発揮してきた。

「僕がヤス・ウラノというプロレスラーを評価すると魅力はないなって思う」

本人はこう語るが、今や彼を見てただ単に"地味"と形容する者は少ないだろう。
無個性に見えたプロレスラーとしてのパーソナリティーを、数々の経験と研鑽を積むことで、彼は業界随一のトリックスターへと昇り詰めていった。
手を拘束された状態で飯伏幸太にピンフォールを奪った男は恐らくウラノだけである。

「変化球も強さです。ストレートでいっても鍛えている人には勝てないんで。いい変化球をいっぱい身につけないと…」

俺のプロレスラーとして生きる道はは変化球使い。
この客観性と冷静な自己分析能力がウラノの才能なのかもしれない。

決して体格や身体能力、才能に恵まれなくてもプロとして生き残れる処世術がある。
ヤス・ウラノのレスラー人生はそのことを証明している。

レスラーもファンもマスコミを操り、欺くヤス・ウラノの"合法的ダマし方"とは、プロレス界の”すきま産業”なのだ。そのダマし方にはどこか痛快で小気味の良さが際立っている…。