向かい風の凄玉ラブソディ~時代が天敵だった和製人間魚雷~/森嶋猛【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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第157回 向かい風の凄玉ラブソディ~時代が天敵だった和製人間魚雷~/森嶋猛





近年のプロレス界は試合レベルや各々の才能は別にして、ますますレスラーサイズが小粒化している。
普段、外に歩いていて一目で「プロレスラーだ」と思われないレスラーも多くなってきた。
170cm・80kg台のレスラーが本来100kg以上のヘビー級の王者となれるケースがあるのが今のプロレス界だ。
それは身長や体重の大小関係なく天下が取れる時代。
それはヘビー級やジュニアヘビー級という垣根がなくなりつつあるボーダーレスを象徴する現象。
だが、そもそもプロレスの大きな魅力の一つが体格に恵まれた男達が四角いジャングルで正面衝突するのが醍醐味だ。
また身長176cm(公称は180cm)の力道山が体重や強靭な肉体(体重は116kg)でカバーして外国人レスラーに対抗し、日本中を熱狂させたのが日本のプロレス史だ。
例えば、1980年代の全日本プロレスにはスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ロード・ウォリアーズといった怪物達が右往左往と大暴れしていた中で、日本人サイドのトップとして活躍したのが196cm・127kgのジャンボ鶴田と189cm・120kgの天龍源一郎だった。鶴田と天龍は体格でもテクニックでも外国人と真っ向から対抗して見せた。
また1990年代の新日本プロレスにはビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スコット・ノートン、トニー・ホーム、グレート・コキーナという規格外の怪物達に対抗したの日本人レスラーが闘魂三銃士として一時代を築いた188cm・108kgの武藤敬司、188cm・108kgの蝶野正洋、183cm・135kgの橋本真也だった。
(中略)
実は日本のプロレスラー史とは力道山を筆頭に外国人に対抗できるパワーファイターの歴史でもあった。
力道山、豊登、ジャイアント馬場、坂口征二、ストロング小林、ラッシャー木村、マサ斎藤、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力、谷津嘉章、橋本真也、佐々木健介、小橋健太、田上明、中西学、高山善廣…。
【DNAの怪物・樋口和貞に見る伝統的な日本人パワーファイターの系譜/ぼくらのプロレスコラム】

伝統的なプロレススタイルで、スーパーヘビー級の猛者達が集う王道プロレス・全日本プロレスの魅せられ、プロレスラーになったのが森嶋猛だった。

「俺にはなりたいプロレスラーはいなかった。とにかく全日本プロレスが好きだった」

190cm 145kg(デビュー時は113kg、最大で170kgにまで体重増加。近年は130kg)の巨体を生かしたプロレスで過去3度GHCヘビー級王座を戴冠。
和製テリー・ゴディ、和製人間魚雷とも言われる通り、体格を生かしたパワー&スピードを軸にした怒涛の攻撃と相手の攻撃を活かす豪快な受け身、試合運びのうまさはまさしく日本のテリー・ゴディ。
DON'T STOP・モンスター、リング・クラッシャー、重戦車、ジャンボ鶴田の再来、クロフネ、超危暴軍の首領とあらゆる異名を持つこの男こそ、21世紀のジャパニーズ・モンスターだった。
全日本プロレス、プロレスリング・ノアで暴れ回ったこの怪物が本来ならば、団体だけでなく、業界のトップに立ち、日本プロレス界を牽引していくスーパースターになるはずだった。
だが…。

ノアの看板、最高峰ともいえるGHCヘビー級王者になっても、時代は彼に微笑むことはなかった。そして、彼は道半ばでプロレス界から去った。
今や彼の名を聞くことはほとんどなくなった。
プロレス界では彼の存在は忘れ去られているのかもしれない。
しかし…。

なぜ彼は日本プロレス界のトップに立つ存在になれなかったのか。
これは時代が天敵だった和製人間魚雷の物語である。

森嶋猛は1978年10月15日東京都江戸川区に生まれた。
彼がプロレスラーになることを決意したのは小学生の時だった。
テレビで見たプロレス中継を見て、彼はこう思った。

「これは見るものではない、やるものだ。プロレスラーになる」

彼は小学生の卒業文集に将来の夢はプロレスラーになることだと書いたという。
そして、プロレスをやるならテレビで虜になった全日本プロレスしかないと思っていた。

ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太(現・建太)、アブドーラ・ザ・ブッチャー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス、ダニー・スパイビーといった"ザ・プロレスラーズ"が鎬を削り作り上げた王道プロレスの舞台に立つことは子供の時から体格に恵まれていた森嶋にとって夢であり、宿命だった。
高校時代には柔道で汗を流し、2段を習得した。
卒業後に柔道部監督の紹介もあり、1997年に全日本プロレスに入門する。
入門後は1か月ほど、三沢光晴の付き人となり、その後田上明の付き人を務めた。
1998年3月22日、後楽園ホール大会にて志賀賢太郎戦でデビューを果たす。
当時の全日本で後楽園大会でデビューしたレスラーは田上明、秋山準に続いて3人目。
会社の森嶋への期待は大きかった。

デビュー当時の森嶋は馬場や田上のような赤のショートタイツで、体重113kgと堂々としたヘビー級戦士だった。だが、見た目の優しさとおとなしさが災いしてなかなか浮上できなかった。
あれは高山善廣と大森隆男のノーフィアーと組んで武道館大会の6人タッグのメンバーに抜擢された試合でのことだ。
実況の若林健治アナが解説の竹内宏介氏に「森嶋に必要なものはなんですか?」という質問をした。その質問に対して竹内氏はこのように答えた。

「体格には恵まれてますが、あとは"アク"ですよ」

プロレスラーとしての色気や個性として観衆や選手、関係者に響いたり、引っかかったりする"アク"。これは決定的に彼には足りなかった。
そんな森嶋は2000年6月に三沢光晴らとともに全日本プロレスを退団し、新団体プロレスリング・ノア旗揚げに参加することになった。
幼い頃から憧れていた全日本を離れる理由は明快だった。
御大ジャイアント馬場やジャンボ鶴田がこの世にいない現状で、三沢光晴や小橋健太、田上明がいない全日本は彼が考えている"全日本"ではなかったのだ。

「馬場さんがいたら、全日本に残っていたと思います。田上さんの付き人をしていて、田上さんから"俺は出ていくから、残りたかったら残っていいよ"と言われ、三沢さんにも言われた。俺は三沢さんと田上さんをとったんです」

ノアに主戦場を移すと森嶋は自己主張をしていく。
2001年、元大相撲前頭・力皇猛(191cm 130kg)と下剋上を狙いタッグを結成。
スーパーヘビー級の若武者コンビはやがて「ワイルドⅡ」と名乗ることになった。

そんな森嶋が初めてシングルマッチのメインイベントを務めたのが2001年5月25日横浜大会での秋山準戦だった。

この日のメインイベントはノアの革命児として日本プロレス界に数々の話題を提供していた秋山準のシングルマッチ。だが、対戦相手は決まっていなかった。
だれも名乗り上げていなかった中で、唯一名乗りを上げたのが当時キャリア3年・22歳の若武者・森嶋猛だった。
当時から190cm 120kgの巨体を誇っていた森嶋は将来を嘱望されていた怪物。
"和製人間魚雷"と称されるようにテリー・ゴディを彷彿させるような受けも攻めも豪快なプロレススタイルを信条としていた。
当時の秋山はキャリア9年・31歳、飛ぶ鳥を落とす勢いを持つプロレスラー。
この時期が全盛期だったといってもいいかもしれない。
しかも森嶋にとってはこの秋山戦は初めてのシングルメインイベント、しかもシリーズ最終戦のラストを飾る試合。
当時の彼に勝ち目もなければ、秋山に勝っているものはほとんどなかった。
同年(2001年)4月に力皇猛とともに下剋上を宣言し、フリーで参戦していた齋藤彰俊と共闘していた。
森嶋にとってこの試合は重要だった。
メインイベントに立つ覚悟を示さなければいけない。
何のために下剋上を宣言したのかを証明しなければいけない。
あらゆる葛藤が相まって、彼はその日、リングに丸坊主姿で現れたのでした。
雄弁に語るのではなく、姿勢で示すことでしか、何重にも重なる恐怖や重圧に対抗することはできなかった。
試合が始まると森嶋は秋山に寝技や打撃でボロボロにされてしまう。
特にグラウンドでのフェースロックは首が変な方向に曲がるほどの拷問技と化した。
秋山はオールラウンド・プレーヤーだが、この日の彼の試合運びはより"非情さ"が帯びていた。
それでも森嶋は一つ一つの攻撃に「秋山!」と叫んで大声を張り上げながら仕掛け、受け身も豪快に受け続けた。
だが、森嶋に勝機はほとんどなかった。
最後は秋山のフロントネックロック決まり、森嶋は敗れた。
しかし、その直前に善戦する森嶋に会場から「森嶋」コールが起こった。
ファンは懸命に頑張る森嶋の頑張りを認めたのです。
そして、試合後、解説席にいた三沢光晴はこう語っている。
「森嶋はよくやりましたよ!」
【2001年5月横浜、"和製人間魚雷"森嶋猛 22歳の挑戦/ぼくらのプロレス物語】

ワイルドⅡは2002年2月にノーフィアーを破り、第4代GHCタッグ王座を戴冠し、半年に渡り、王者として防衛を続けた。

「大きい者同士で、お互いにガンガンいけるし、相手にひるむことなく攻撃ができたのはあの人(力皇)だけだった。俺はタッグチームを組んでいるときはその人と飯を食って、どうしようかって考えるから、絆は深まるし。俺は強い王者になりたいけど、タッグのベルトをとったときや防衛したときは"俺は強い王者じゃない"って言っているんですよ。俺の考えている強い王者のレベルはもっと上だから…」

ワイルドⅡの試合を見ていて私が感じていたのが森嶋のキャリアのなさを感じさせないリードぶりが光る試合巧者ぶりと豪快な受け身だった。
特に受け身には絶対の自信があった。

「新弟子の頃、僕とか丸藤は体の大小に関係なく、息が上がっても、どんな時でも受け身を取るっていう練習をしてきました。デビューしてから2~3年は毎日100本以上取ってきましたよ。その分、自分の中で他の人より受け身には自信がありますよ」

ただし、まだ潜在能力を出せていない部分もあったのも事実で、この能力が開放され、風格が出てくるとスーパースターになれる逸材であると私は彼を捉えていた。
フィニッシュホールドはジャンボ鶴田譲りのバックドロップはシンプルかつ強烈な投撃で、森嶋自身がテレビで見てきた"全日本プロレス"を表現するには最適の必殺技だった。
また彼のラリアットはテリー・ゴディの人間魚雷ラリアットのような勢いとパワーを感じさせる一撃。あの肉体でジャーマン・スープレックス・ホールドで綺麗なブリッジを描くことだってできる。
ハイキック(ビッグブーツ)とエルボーに関して、あの高山善廣が「意識が飛ぶほど強烈」と語るほどである。
また、ミサイルキックや側転式ボディアタックなどの軽業も魅せる。
実はこの男は器用なのだ。

だが、この器用さは他のレスラーと差別化できるほどの個性にはできなかった。
自分のスタイルを模索し、悩んでいた森嶋。
初めてシングル王座獲得となった2003年9月のWLW世界ヘビー級王座戦はあまりにもしょっぱい試合となり、試合後にはブーイングを食らったこともあった。

ある試合で初めて天龍源一郎とタッグながら対戦した時、森嶋はジャンボ鶴田のテーマ曲で登場したことがあった。だが、試合後天龍からこんなダメ出しを食らった。

「ジャンボってあんなのだったっけ?(鶴田を思い起こさせる所は)ありません。もうね、森嶋の身体見たら夢想だにしないよ。どこが似てんだ、あんなもん。バカヤロウ!『嶋』って名前の付くヤツで、あんなおどろおどろしいヤツも珍しいよ(天龍の本名は嶋田源一郎)。恥ずかしいよ。ルーツはどこか知らないけどさ」

しかし、この一件で天龍の中に森嶋の存在が気になったのだろう。以後、天龍は森嶋とコンビを結成し活動したこともあった。

森嶋猛はジャンボ鶴田ではない。
森嶋猛は森嶋猛であることを証明するためには自身のスタイルを創らなければならない。
悩む森嶋にアドバイスを送ったのはノアの総帥・三沢だった。

「ノアは器用な選手が多い。俺も何でもできる選手にならないとダメだと思っていた時期があった。自分のスタイルが見つけられなくて悩んでいたときに、"ほかの選手の方がうまいことは、お前がやらなくてもいいんじゃない? 欠点を克服するよりも、自分の長所を伸ばすことを考えたら"と、三沢さんに言われたことがあった」

2005年12月に田上明が保持するGHCヘビー級王座に挑戦した森嶋が自身の能力を解放したのが2006年3月5日日本武道館大会での三沢戦だった。

私が森嶋猛を「凄い!」と思ったのは07年3月5日の日本武道館における三沢光晴戦だ。当時の森嶋は「何で俺を認めないんだ!?」と巨体と向上心を持て余してフラストレーションを溜めこんでいた時期。それを三沢にすべて吐き出したのだ。140キロ(当時)の巨体で疾走してぶちこむラリアットはスタン・ハンセンを彷彿とさせ、腕をブンブン回しての左右のハンマーはベイダー並みの迫力、体重を浴びせかける高角度パワーボムはテリー・ゴディ式だった。さらに裏投げ、ノド輪落とし、コーナー最上段からのダイビング・ラリアット、高角度バックドロップ3連発…私は週刊ゴングのグラビアを担当していて『不沈艦+皇帝+人間魚雷のド迫力 森嶋猛…いまこそ大爆発の時がきた』という見出しをつけた。
森嶋の怒涛の攻めも凄かったが、それを真正面から受け止めてみせた三沢も凄かった。
最後はあらゆるバリエーションのエルボーを乱れ打って森嶋を叩き潰して「もう一人前。こういう試合をやった後に驕ることなく…次が注目されるんでね」とコメントしていたのが印象的だった。森嶋は「社長だから爆発できたんですよ。自分の攻撃を真正面から受ける人は高山(善廣)さんぐらいしかいなくなっていて…でも、その高山さんが欠場中だったし、誰にぶつけていいかわからない時に社長と試合ができてよかったと思います」と素直に感謝。この試合を機に森嶋はプロレスを楽しんでやれるようになったと思う。
【森嶋のプロレスが好きだった サンデー・小佐ポン 小佐野景浩 2015/4/26 週刊プロレスモバイル】

森嶋は己のプロレスはかつての怪物外国人レスラー達のように"圧倒的強さ"を見せつけることであると悟る。

「圧倒的パワーを見せつけて、あっという間にぶっ倒すのが、俺の目指すスタイルだと分かった。相手の技をすべて受け切って倒すという、三沢さんや小橋さん、秋山さんたちが全日本時代から築いてきたプロレスとは、方向性がまったく違う。彼らの凄さは認めるけど、同じプロレスをやろうと思わない」

己が目指すプロレスが見えてくると、森嶋の体格も変わる。
120kg~130kgだった体重も、145kgにまで増加。
だが、この体重増加があっても森嶋の動きは落ちることはなかった。
秋山準はかつてこう語ったことがある。

「森嶋は体重が増えても、それに対応できるエンジンを積んでいる」

圧倒的な力と強さを見せつけるプロレスを信条にした森嶋だったが、だからといって受けをないがしろにすることはなかった。それこそ、受け身に自信のある森嶋のプライドだった。

森嶋にとって転機となったのは2007年2月にアメリカROH世界ヘビー級王者になったことだろう。ROH王者になったことで、自身が飢えていたシングルマッチの経験値を上げることができた。

2007年2月16日(現地時間、以下同じ)、ニューヨークで開催されたROH5周年記念大会に突然姿を見せたのが森嶋だった。当時、NOAHとROHは友好関係にあったが、森嶋は第1試合でペール・プリモーが対戦相手をその場で募るオープンチャレンジを宣言しているところへサモア・ジョーの古い入場テーマ曲に乗って登場。そのまま試合開始のゴングが打ち鳴らされ、わずか10秒、必殺のバックドロップ(ROHでは「バックドロップドライバー」と表現)で秒殺。そのままセミファイナル(第9試合)でジョーとのシングルマッチが急遽組まれ、スリーパーで敗れた。しかしそれもギブアップはしておらず、絞め落とされてのものだった。突然現れた怪物が本領を発揮したのは翌日から。ROHマットでは何ひとつ実績がないにもかかわらず、ROHのホームリングともいうべきフィラデルフィアのナショナルガード・アーモリーで当時の王者だったホミサイドへの挑戦が緊急決定。しかも一発で王座奪取に成功したのだった(第9代王者に)。そして翌週から快進撃が始まる。太平洋を往復しながら森嶋が挑戦を退けた相手は順に、BJホイットマー、KENTA、ナイジェル・マッギネス、オースチン・エイリース、鷹木信悟、KAZMA(現KAZMA SAKAMOTO)、ホイットマー、ジェイ・ブリスコ、ロデリック・ストロング、ジミー・レイブ、アダム・ピアス、マッギネス、クラウディオ・カスタニョーリ(現セザーロ)、ブレント・オーブライト、クラウディオ&オーブライト(3WAYマッチ)、ブライアン・ダニエルソン(現ダニエル・ブライアン)、中嶋勝彦、エリック・スティーブンス、ブライアン、ケビン・スティーン(現ケビン・オーエンス)。同年10月6日、マッギネスにベルトを奪われるまで20連続防衛に成功。これはブライアン、マッギネス(ともに38回)、ジョー(29回)に次ぐ歴代4位の記録である。王者時代にはバックステージで露骨な嫌がらせをされたこともあった。しかし森嶋はそれに耐え、すべてをリング上で跳ね除けていった。ほかの3王者は反則裁定やノーコンテスト、60分フルタイムドローなどによる防衛も含まれているが、森嶋はすべてがクリーン決着であるのも特筆すべき点。試合が始まると、とにかく騒ぐことで有名なアメリカのファンだが、怪物的な強さを目の当たりにして声を失ったほど。小橋建太の“絶対王者”に対抗して付けられたニックネームが“絶句王者”だった。また、同王座転落後の2008年8月にはロウ、スマックダウンで連夜のトライアウト。チャーリー・ハース、ジェイミー・ノーブルに2連勝しながらも、残念ながら契約には至らなかった。その体形から情報サイトを通じてビンス・マクマホン代表の評価が低かったと伝えられたが、森嶋を使いこなすだけのアイデアが浮かばなかったことも“落選”の要因。ハーリー・レイスやジョー・ローリナイティス(元ジョニー・エース)の後押しがあったとはいえ、最終テストに駒を進めたのは、それだけレスリング技術が評価されたことの表れだ。
【“絶句王者”森嶋猛の海外での実績 元Fight野郎のプロレス外電 橋爪哲也 2015/5/15 週刊プロレスモバイル】

ROH王者として経験を積んだ森嶋は2008年3月5日日本武道館大会で三沢を破り、第11代GHCヘビー級王者となった。激闘を終えた両者は試合後、救急車に搬送されるほどの大ダメージを負った。ついに団体の頂点に立った森嶋を誰よりも祝福したのは敗れた前王者三沢だった。
三沢は後日、プロレスサイトに掲載された日記でこう綴っている。

試合が終わったけど今、森嶋には嫌味じゃなく、心から「おめでとう」と言いたいです。そしてこのオフは今後の厳しい闘いに向けてゆっくり休んでほしいと思います。森嶋はデビューからちょうど10年で初めてのGHCシングルかぁ。
(中略)
そのうち、防衛戦を繰り返していくうちに、ベルトを獲ることよりも、防衛をしていくことの大変さに気づくと、そこからまた新しい闘いが始まって…。森嶋には、同じ選手としては表立って応援できないし、影ながらになってしまうけれど…。応援しているよ。
【2008年3月7日 チャンピオン /格闘技/プロレスDX プロレスリング・ノア公式携帯サイト ノア航海日誌 三沢光晴 『ドンマイ ドンマイッ』】

森嶋にとって三沢の言葉を実感するようになるのはGHC防衛ロードに突入してからである。

「プロレスはベルトを獲ることがゴールじゃない。むしろスタートですからね。チャンピオンというものは、自分のプロレス像を打ち出して、なおかつ強くならなければならない。森嶋猛ならではのGHC王者像というものを、ファンにもライバルのレスラーたちにもわからせる必要があったのですが…。"GHC王者はこう闘わなければならない"という空気がノアにはある。三沢さんのように、相手の技を受けきらなければチャンピオンじゃないという雰囲気があるんです。そういった固定観念をぶち壊すのは、本当にエネルギーがいる。実は一方的にぶっ倒す自分のスタイルについて"お前は楽な試合ばかりしやがって"と、ある先輩から面と向かってはっきり言われたこともあるし…」

プロレス界の盟主・三沢を破り、王者となった数少ない日本人レスラーである森嶋。
本来ならここで団体の枠を越えてスーパースターになってもおかしくないのかもしれない。
だが、時代はどこまでも森嶋の背中を後押ししなかった。
ノアで同体格のライバルは力皇猛しかいなかったのも痛かった。
その力皇も引退したことにより、、森嶋のパワーを正面から受け止められる人間がいなくなった。また、森嶋自身がセルフプロデュース力が乏しかったこともスーパースターになれなかった原因の一つかもしれない。

2009年6月13日広島大会でノア創始者三沢光晴がリング渦に巻き込まれ、他界した。
あの時、混乱し、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していたリング上で観客に向かってマイクできちんと挨拶したのは、当時選手会長だった森嶋だった。

「三沢社長の容態はわかりませんが、選手一同で無事を祈っています。今日はこういう形になってしまいましたが、また必ず広島にやってきます。そのときはどうぞよろしくお願いいたします。本日はどうもありがとうございました…」

あの状況下で気丈に挨拶を務め、興業を締めた森嶋の行動は実は称賛されていいと私は感じている。レスラーである前に彼らは人間だ。それでも森嶋は取り乱すことはなかった。彼の行動に近くにいた佐々木健介は「よくやった」とねぎらった。
森嶋猛の根底には優しさがあるのかもしれない。

三沢がこの世を去った後、誰よりもこの事故に心を痛め、自分を攻め続けたのは対戦相手の齋藤彰俊だった。その齋藤を三沢の死後2日後に食事に誘ったのは森嶋だった。

「みんな齋藤さんには声をかけづらそうな雰囲気でした。だから、僕が食事を誘いました。"お酒は断ちます"と言っていたけど、少しでも気が晴れればいいなと思って、誰も触れられないからこそ、僕が食事に誘いました」

齋藤は森嶋の気遣いに感謝した。そして、結果的に三沢の命を絶ったバックドロップを封印していた齋藤がその封印を解いた相手に選んだのはバックドロップを得意とする森嶋だったのである。

ちなみに森嶋にとって三沢光晴はどんな存在だったのだろうか?

「俺がいったことをすべて受け止めてくれて最後に答えを出してくれる"ザ・レスラー"。タイトルマッチの時もコンディションがよくなかったのに、受け止めてくれて本当にありがたかったです」

2012年1月に森嶋は潮崎豪を破り、第18代GHCヘビー級王者となり、約1年間に渡り防衛を続け、その年のプロレス大賞殊勲賞を獲得している。
この頃から森嶋は新しいパフォーマンスを始めている。

2011年後半頃より「やる気・元気・モリシー」「ドント・ストップ(DON'T STOP)だ、この野郎」をキャッチフレーズとしており、また、その際観客に対し「立て、オラ!」と催促するのが恒例となっている。観客にとっては無理強いをさせられている面が強いが、森嶋自身が自らを鼓舞するために行なっている面もあり、継続している。
【wikipedia/森嶋猛】

それは森嶋なりにセルフプロデビュースを磨き、己の存在を発信していく努力の跡かもしれない。だが、やはりどうにも時代にマッチしない。なかなかブレイクしない。
ここに森嶋のもどかしさがあった。
試合だけを魅せればいいという森嶋が培ってきた"全日本プロレス"はある意味、今の時代ではなかなか受け入れられにくいのかもしれない。
今の時代は試合内容、プロレスラーとしての技量にプラスアルファが必要な時代なのだ。

2014年1月に森嶋はマイバッハ谷口、拳王、大原はじめとヒールユニット"超危暴軍"を結成する。だが、この超危暴軍も2015年に参戦してきた鈴木軍のヒールぶりが際立つようになると、鳴りを潜めてしまう結果となった。
だが、ここで森嶋は軍団の首領として一歩引き、広告塔としてマイクアピールを拳王や大原にまかせ、最後だけ、「かかってきなさい!かかってきなさい!」と大事なことを二回言うスタンスは森嶋に合っていたと思う。

2015年4月21日、森嶋は糖尿病が原因で引退を発表する。
この件について、その後泥沼の事態になっているのであえて触れないが、この引退劇も別冊宝島や2チャンネル、SNSの格好のネタになってしまったことは森嶋のレスラー人生を汚してしまった。もちろん、そこには彼の言動も原因もあるのも事実なのだが…。

森嶋は怪我の多い選手だった。当初、『グローバル・タッグリーグ戦2015』の欠場理由として発表された右肩、左膝、左肘に古傷を持つのは本当の話。190cm、130kgの巨体。もっとも重いときには160kgほどもあったという重量を支える身体に負担が掛かるのは当たり前だし、その体躯で動きまわり、受身もとりまくる。当然のように、肉体に掛かる負担も大きくなる。また、この3年は病との闘いもあったようだ。森嶋は豪快に食べるし、豪快に飲む。かと言って、だから“糖尿病”とはならない。名前は出さないが、過去には糖尿を患いながら現役を続けていたレスラーも多数いるし、そのなかにはまったくお酒を飲まない人、つねに摂生に努めているのに糖尿や痛風になった選手だっている。私は医師でも学者でもないけれど、やはり病気というのは遺伝的要素が強いものだと思っている。
(中略)
森嶋が不摂生とは思わない。ただ、この数年、森嶋の肉体には変化が見られた。随分と身体を絞っていた時期もあったし、またウエ―トアップしているように見えた時期もある。いま現在は、じつに適度というか、重すぎることもなく、太すぎることもなくという感じで、見た目にはとても充実しているように感じた。リング上の動きだって悪くなかった。だかこそ、今回こうやって本人が、ここ3年は怪我・病との闘いだったことをツイッタ―やFacebookで打ち明けたときには驚いたのだ。ノアから正式な引退発表のリリースとオフィシャルHPでの告知があったのは、21日午後。あとで何人かの選手に聞いてみたところ、関係のあった選手・関係者には18日に連絡を入れている。そして、私のようにマスコミで面識のある人間に対しては、21日の午前中に報告を済ませたようだ。律義な森嶋らしい。たとえ、告知の出る1時間前であっても、自分の口からお世話になった人たちには引退報告をしたいと思ったのだろう。
ところが、森嶋から着信のあった午前10時過ぎ、私はスマホを寝床の枕元に置きっぱなしにして、映画のDVDを鑑賞していた。だから、やっと着信に気付いたのが午後1時30分頃。酔っているならともかく、こんな時間にモリシからの電話なんて絶対におかしい、なにかあるんだろうな、と思って掛け直してみた。

 「もうリリースが流れてるでしょう(笑)。そういうわけで、引退します。決めました」
「えっ!? 知らないよ、見てないから。引退って……そんなに怪我が悪いの?」
「怪我もあるんですけど、それ以外でドクターストップがかかったんです。血液検査でヘモグロビン(HbA1c)の数値が異常に高くて、ほかにも脂肪肝があるし……医者にはとにかく痩せないとダメだって言われて。痩せて細々と試合をこなしていくようなプロレスラーではいたくないんですよ」
「もう決めたんだ?」
「ハイ、決めました。本当なら、これから鈴木みのる選手、鈴木軍と本格的に闘うために体重をもっと増やすつもりでいたんです。だけど、それも現実的に無理となって。でかくて動ける森嶋猛のプロレスができないなら、俺はもうプロレスラ―じゃないですから。でも天龍さんに報告したら言われたんですよ。『俺より先に辞めるってどういうことだ!』って(笑)。最後どういうカタチであれ天龍さんの相手をして、送り出せないのが残念です。天龍さんとはまた試合がしたかったなあって。でも、悔いはまったくないんです。18年間(デビューからは17年)やって、悔いはないです!」
「そうかあ、悔いはないんだね。モリシはまだ36歳でしょう? 人生はこれからだもんね。まだ若いもん。これから第二の人生が始まるんだね」
「感覚的には第三の人生なんですよ。18歳で高校卒業して、プロレスに入って18年……いま36歳。高校、プロレスを卒業して第三の人生です。俺ね、やってみたいことがいっぱいあるんですよ。それこそ、高校生からプロレス界に入ったからほかの世界、社会を知らないでしょう? アルバイトもやったことがないから。ホントに、吉野家とかマクドナルドでバイトしてみたいなって(笑)。フライドポテトを揚げてる森嶋ってどんなかな?って想像しちゃうんです」
「いま想像したんだけど、マックの帽子を被ったモリシは似合うと思うよ。大丈夫、モリシはまだまだ若いんだから。じゃあ、俺なんか今年54歳になるんだよ、12月の誕生日で。ということは、今のモリシにさらに18年を足すと俺の年齢になる。36なんて、まだまだこれからだよね。また落ち着いたら、メシ行ったり飲みに行ったりしましょう!」
「はい、ありがとうございます。森嶋猛、36歳、現在無職! でも、プロレス生活18年に悔いなしです! それでは失礼します」
【GK金沢克彦コラム連載第44回!! 「森嶋猛の覚悟と決意」 THE BIG FIGHT】

こうして森嶋猛はスーパースターになることなく、プロレス界を去っていった。
今、彼が何をしているのは分からない。
そういえば、彼が影響を受けたレスラーの一人であるテリー・ゴディもまるで風のように39歳の若さでこの世を去っていった。
二人の人間魚雷は若くしてプロレス界を去るという点も似通っていた。

何故森嶋猛はスーパースターになれなかったのか。
私は彼が引退をしてからずっと考えてきた。
ここから考え抜いた上での私感を述べたい。

まず、彼がもし20年以上前に生まれ、試合だけを魅せることでのしあがれる環境なら、スーパースターになれたのではないだろうか。また20年以上前に生まれていれば、その頃の全日本は怪物たちの住処。森嶋の能力を解放しやすい環境だったのではないだろうか。同体格のライバルや外国人レスラーの存在が不足していたのは彼にとってマイナスだった。

また彼が全盛期を迎えた時代がネット社会だったことも痛手であり、マイナスだったとも思う。
森嶋は人はいいが、豪快な性格であるがゆえに、周囲に勘違いされてします言動をしてしまうところがある。しゃべりは嫌いではないのだろうが、いわば口下手なのだ。
その点が災いし、2チャンネルといったSNSサイトで揚げ足取りをされてしまう要因となった。
彼はかつてこのようなことを語っている。

「出過ぎた杭は打たれないっていうけど、俺はちょっとしかはみ出なかったからバシバシ打たれちゃった(笑)」

体重増加など不摂生だったり、体調管理に関しては課題はあったかもしれないが、試合ぶりに関してはそこまで叩かれたりするものではなかったので、上記の2点が彼がスーパースターになれなかった原因ではないかと考えている。

森嶋猛にとって時代がライバルであり、時代が天敵であり、時代が彼の成り上がりを阻んできた。だが、この壁を越えられなかったことはやはりそこには彼の人間力の厚み不足もあるのかもしれない。
やはり、彼の引退はもったいなかった。
時代が彼をスーパースターにできなかった、真のトップレスラーになれなかったことは21世紀のプロレス界においても悲劇だと私は思う。

「きつくても、プロレスが好きだからやれるんです」

プロレスについて語る森嶋は大人になっても純真でやんちゃな子供だった。
そのやんちゃな子供が実はプロレス界でも選ばれし"凄玉"だった。
いつも凄玉の往く手を阻んだのは時代であり、彼自身の業だった。
追い風など吹かず、いつも彼には向かい風が当たり続けた。
それでも彼はその向かい風に立ち向かっていった。それが怪物の意地だった。

私は森嶋のプロレスが好きだった。森嶋の体型を云々言う人も多いが“動けるデブ”(失礼!)はプロレスラーならではの魅力だ。受け身を取り過ぎると迫力が薄れてしまうといつも思っていたが、きれいな受け身は全日本プロレス出身者のプライドでもあったのだろう。
(中略)2007年2月から10月までのROH世界王者時代に森嶋のプロレス観が確立されたのではないかと思う。「ROHにも僕ぐらい大きい人はあんまりいないんで、どういう試合をすればいいのか研究しましたね。チャンピオンとしてヘマはできないんで、プロレスを考える時間が多かったです。ある程度、相手を光らせて勝つという試合をした方が盛り上がっていました」というのはNOAHのパンフレット用のインタビューをした時の言葉だ。
しかし怪物性を保ちつつ、相手を引き出して勝つスタイルは森嶋の体に確実にダメージを与えた。2013年6月から10月まで右肩、左ヒジ、左ヒザの負傷で欠場し、一度は体重を128キロまで落としたが、受け身を取るスタイルを変えず、最近では再び増量もしていた。
そうやって「森嶋猛のプロレス」を貫いた結果が今回の引退になってしまったと思うと残念でならない。でも本人が納得して新たな道に踏み出せるのなら何も言うことはない。
【森嶋のプロレスが好きだった サンデー・小佐ポン 小佐野景浩 2015/4/26 週刊プロレスモバイル】

向かい風の凄玉ラブソディ(狂詩曲)。
時代が天敵だった男が生き様で奏でた豪快ながらもどこか悲しげな旋律は我々の心に響いている…。