マジでふざけてやる!~新日本プロレスに緑の道標あり~/田口隆祐【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第194回 マジでふざけてやる!~新日本プロレスに緑の道標あり~/田口隆祐

 


 

「真面目にやりすぎた。もっと楽しんでやる、もっとふざけてやる」

 

あれは2003年のことだ。総合格闘技PRIDEで天敵ヴァンダレイ・シウバに三連敗を喫したPRIDEの英雄・桜庭和志はケビン・ランデルマンとの再起戦で流れた煽りVTRでこう語っている。そして、リアル・ドンキーコングと呼ばれたランデルマンに対抗してスーパーマリオのコスプレで入場した桜庭は腕十字で見事に一本勝ちを収めた。

 

桜庭がPRIDEのエースとして活躍している一方で新日本プロレスは格闘技ブームに押され、暗黒期に突入していた。そんな暗黒期の新日本に入門したのが田口隆祐である。桜庭が発した「もっとふざけてやる」というスタンスを今、プロレス界でもっとも実践しているのが田口である。元々は模範的なヤングライオンで地味なレスラーだった彼がなぜこの境地にたどり着いたのか?そのことを考察するために彼のレスラー人生を追うことでしよう。

 

田口隆祐は1979年4月15日宮城県岩沼市に生まれた。元々、体が弱かったという彼は小学校の時にハマったのは将棋だった。彼はアマチュア6段の腕前を誇るほどの将棋愛好家として有名で、自らを将棋レスラーと称しているほどだ。

 

将棋は子供の頃からやってます。小学校低学年の頃に何もわからないまま親父の相手をさせられたのが最初で、その後、小6のときに地元(宮城県)岩沼市の新春将棋大会の小学生の部で優勝したんですよ。勝ったら嬉しくなって、それからドップリはまりましたね。中学では全国大会にも出場しました。
【俺の趣味! 第13回 田口隆祐 将棋を語る!「入院中は、将棋アプリの対局で忙しかったですよ(笑)」/週プレNEWS】

 

虚弱体質を乗り越えると、野球やサッカーといったスポーツを経験し、高校に進学するとサッカー部に入部する。東海大学に進学するとレスリング部に入部し、レスリングに熱中する。2001年に関東学生新人戦フリースタイル76kg級で3位という実績を残した。彼がレスリング部に入ったのは1997年の「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」を見て、将来はプロレスラーになると決意していたからだ。

 

2001年9月に当時の新日本プロレス・木村健悟からスカウトされ、入門テストを受け見事に合格した田口は2002年3月に新日本に入門する。2002年は新日本にとって中邑真輔、後藤洋央紀、山本尚史(ヨシタツ)、長尾浩志といった有望な新人が輩出されたゴールデン・エイジといえる年代だ。その中で田口は基礎体力がずば抜けていたという。

 

2002年11月22日後楽園ホール大会で矢野通戦でデビューを果たした田口。実はこの時彼は崖っぷちにしたという。

 

2002年10月の後楽園大会でデビュー戦が発表されていた田口は、直前の練習で首を負傷。2度にわたる延期の末に11月にデビューを果たしたが、実はその時も回復状況は思わしくなかった。
「でもその時に蝶野(正洋=当時の現場監督)さんに言われたのが『ここでデビューできなかったらクビだから』と。そう言われたらやるしかないですよ」
【2012年6月12日付け 東京スポーツ】

 

デビュー当初から早くも頭角を現した田口は、2013年1月にシングル初勝利を上げる。180cm 91kgというバランスのとれた体格でジュニアヘビー級の新星として前座戦線で活躍していく。新人時代の彼の試合を見たことがあるが、本当に堅実ながら、新日本の模範的ヤングライオンという印象が強かった。ただどから地味だったことも覚えている。得意技はドロップキック。かつてこの技を連発して、ジュニアの象徴・獣神サンダーライガーを秒殺したことがある。

 

2003年に新人ながら「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」出場、2004年にはヤングライオン杯やヤングライオン闘魂トーナメント優勝と実績を上げる田口。2002年入門組を中心に結成された「野毛決起軍」というユニットに入ると、中邑真輔とのコンビでトップレスラーとの対戦も増えていった。

 

2005年2月に田口はメキシコ遠征に旅立つ。海外でキャリアを積んで日本でスターとなるのはプロレスラーの出世街道なのだが、彼にとってメキシコは水が合わなかった。

 

「メキシコでやることがまったくなかったんですよ。午前中に練習があって、昼過ぎには宿に戻ってくるんですけど、夜に試合がないと何もやることがない。外に出て遊ぶ気力もなくて。要はメキシコに馴染めなかったんです。はい。ホントにもうメキシコにいるのがイヤでイヤで仕方なかったんです。……メキシコ人の顔も見たくなかったですよっ!(中略)それで引きこもってるときに宿にネット環境があったので『将棋倶楽部24』という通信対戦型サイトで将棋をやり始めたんです。それが楽しくて楽しくて……(しみじみと)。あのころは将棋だけが楽しみだったんですよねぇ。練習のあとに宿に帰って将棋をやるのがメキシコ遠征の思い出ですね」
【Dropkick 対局者募集 田口隆祐の「俺だけ将棋レスラー」インタビュー 2014-05-09】

 

奥村茂雄(OKUMURA)と組んでルードとして活動するも、メキシコに馴染めずに2005年10月に帰国した。長髪にモデルチェンジ、さらに試合後にタグダンスと呼ばれる踊りを披露し、「ファンキーウェポン」と呼ばれるようになった。2006年2月にはエル・サムライと組んでIWGPジュニアタッグ王座を獲得する。帰国後にフィッシャーとしたのが「どどん」(変型フェイスバスター)と呼ばれるオリジナルムーブだった。

 

新人時代から地味と言われ、帰国後もプロレスセンスはあるが、どこか玄人好みのプロレスラーだった田口。彼が目指したプロレスラー像とは…。

 

「外道選手とかサムライさんの巧さとか。あとエディ・ゲレロとかリック・フレアーが好きなんですけど、一般的に受けが巧いって言われてる選手。(中略)レスラーが見て、唸らせるような部分を自分でも身に着けたいなと。お客さんから見てもわからない部分というのはいっぱいあるんで。(中略)」
【「選手自身が語る、新日本プロレス」2008年2月発/メディアボーイ】

 

2007年3月、若手選手育成を目的に、ジュニアの重鎮エル・サムライが立ち上げたのが「サムライジム」。田口は門下生第一号となった。きっかけは田口からの「サムライさん、僕にコーチしてください。僕に教えてください。サムライさんの全てを」と直訴し、サムライが「俺でよかったら、20年分のキャリア分をお前に教えるよ」と応えたからである。

 

サムライのコーチの効果か、田口は2007年7月6日後楽園ホール大会で稔(田中稔)を破り、第52代IWGPジュニアヘビー級王者となった。

 

デビュー5年でジュニア王者になった。順風満帆。だが、彼の時代は訪れない。確かに巧いレスラーだ。しかし、その巧さは関係者レベルにとどまり、ファンの間に波及効果があったかというとそうではない。実力と人気が反比例していたのがこの頃の田口なのだ。彼の後にこう振り返っている。

 

「以前は優等生キャラというか、"新日本プロレスキャラ"を演じてましたね。『新日本のレスラーはこうであれ』という、強さを追い求めて闘いに没頭する姿というか」

【ゴング第4号/アイビーレコード・徳間書店】

 

だが田口は人知れずケガに苦しんでいた。2008年1月に首を負傷。左腕が痺れ、ベンチプレスのバー(20kg)をやっと上げることしかできないほどだったという。だが彼は欠場することはなかったし、この事実を公表したのは負傷してから3年後の2011年だった。彼は怪我を公表して同情を買うつもりなどなかった。それがプロレスラーとして彼のプライドだった。しかし、「動けなくなったら引退になってもいいと思っていた」と思いながら首に爆弾を抱えていた田口は欠場することなく試合をしていたという。2011年にはベンチプレス100kgを持ち上げるまで回復した時、本当に嬉しかったという。

 

2009年1月、田口はTNAのモーターシティ・マシンガンズ(クリス・セイビン&アレックス・シェリー)からIWGPジュニアタッグ王座奪取するために、プリンス・デヴィットと「Apollo 55」を結成する。モーターシティ・マシンガンズとライバル関係となり、名勝負を残しジュニアタッグ王座を奪取する。また、G1タッグリーグ戦にジュニア代表としてエントリーする。ヘビー級のチームが勢ぞろいする中で気を吐き、なんと準優勝を果たした。Apollo 55」は華のある天才レスラーのデヴィットと巧さの定評がある職人レスラーの田口が組むと相乗効果を生む実にバランスのいいタッグチームだった。

 
彼等にとってターニングポイントとなったのがDDTのゴールデン・ラヴァーズ(飯伏幸太&ケニー・オメガ)とのタッグ版名勝負数え歌だ。2010年10月11日両国国技館大会で行われたIWGPジュニアタッグ戦は同年のプロレス大賞ベストバウトに史上初のジュニアタッグ戦として選出される快挙を成し遂げた。
 
田口はタッグ戦線だけではなく、シングル戦線でも活躍する。2011年1月にはCMLL世界ウェルター級王座を獲得する。また2011年の「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」に優勝候補としてエントリーした田口は盤石の試合運びで見事に決勝進出する。対戦相手は飯伏幸太。実は飯伏は同年代で自分と近いキャリアの田口をライバルと見定めていた。そして田口も飯伏の実力を認めていた。団体を越えたライバルは、スーパージュニア優勝戦で激突し、名勝負を残す。飄々としている田口が熱さを全開させる一面を見せ、新日本ジュニアの意地を見せつけたが、敗れた。試合後田口はこう語る。
 
「終わってみて、くやしさ、それ以上にね、飯伏選手と意地を張り合えた、なんかね、清々しい気持ち。負けた試合でこんなに気持ちいいのはあんまりないっすね。出すものは出し尽くしたんで、悔いはないです。くやしさはあるんですけど、悔いのない試合ができました」
 
2012年の「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」。田口は決勝でロウキーを破り、デビュー10年で悲願の初優勝。試合中に目を負傷し腫れあがる状況でも「ファンキーウェポン」は試合でも試合後でも踊り続けた。優勝した田口はリング上でこう語った。
 
「僕がプロレスラーを目指すきっかけになったのが、この『スーパージュニア』。15年前の『スーパージュニア』。あれを見て、僕はプロレスラーになりたいと思い、この舞台で、この景色を見るために、いままで頑張ってきました」
 
試合後、田口はこの試合にセコンドについた後藤洋央紀とのあまり知られていないエピソードを語り始めた。
 
「後藤とは同期で、同じ部屋ですごして、1ヶ月だったんすけど、新弟子で練習中に、僕とロックアップした瞬間に肩が外れて、脱臼して。クセがあったみたいなんですけど、それで一回、退団して……。それで、後藤が一回、出ていくときに……、あれ、ちょっとすみません……(涙ぐんで)。僕のせいで……彼のプロレス人生をね、終わらせたら、くやしいなって……(涙を流して)。でも、帰ってきてくれたんでね、彼とは切っても切れない縁で。後藤が試合をするときは、僕がセコンドにつきますし。今日も凄いうれしかったです」
 
恐らく後藤との一件がずっと心に残っていたのだろう。だからこそ、この日は勝ちたかった。
たった一日かもしれないが、ようやく報われた
田口はそんな心境だっただろう。
 
Apollo 55」はIWGPジュニアタッグ王座を4度戴冠する名タッグチームとなった。だが、長い間タッグを組んでいるとマンネリに陥りやすい。このチームも例外ではなかった。2013年4月、デヴィットが田口を裏切り、Apollo 55」は解散する。デヴィットは心機一転、ヒールに転向。新ユニット「BULLET CLUB」を結成した。田口とデヴィットはライバルとして因縁抗争を繰り広げられると思われたが…。
 
2013年6月6日後楽園ホール大会で腰を負傷した田口。診断の結果、「第三腰椎神経根引き抜き損傷」という事例が少なく怪我に遭遇する。スポーツでの怪我では世界初というレアケースだった。長期欠場に追い込まれた田口。引退もよぎった。この時期はジュニアの先輩・井上亘が「頚椎椎間板ヘルニア」を患い引退していた。だが、田口は2015年1月に復帰を決意する。
 
「ケガで7か月、休みましたけど、体調はもうオッケー・ベイベーなんで、復帰することになりました。状態は、ドクターからもOKが出て、腰のケガをした部分は完治しました。腰の下の神経がやられちゃったところは、リハビリで筋力をカバーして、戻りました。受け身をとっても腰に響くことはないんで。同じケガをすることはないとドクターから言葉をもらったんで、ケガの前と変わらないファイトができると思います。休んでるあいだに首がよくなったんで、首の左上の力が弱ってたんですけど、回復したんで。ケガの前よりもパワーアップして復帰できるかと思います」
 
2014年2月に復帰した田口はまるで緑のロングタイツにモデルチェンジする。欠場前に因縁が生じていたデヴィットとの抗争は同年4月6日の両国国技館大会で一騎打ちで決着。田口に敗れたデヴィットは握手をかわし、新日本を去りWWEに移籍していった。
 
そんな田口に牙を剥いたのが当時のIWGPジュニアヘビー級王者のKUSHIDAだった。KUSHIDAは田口とのタイトル戦前に口撃を仕掛けてくる。
 
「ボクが常々言っている『ジュニアはヘビーに負けてない』『スーパージュニアの決勝を大会場で』っていう発言は、本来だったら10年前に田口さんがやってなきゃいけない仕事だと思うんです。実力は兼ね備えた選手だし、新日本ファンの田口隆祐に対する信頼感も絶大だとヒシヒシと感じてます。ただその信頼感は刺激がないものじゃないのか!? と。今後のビッグマッチをセミやメインを狙っていくうえで田口隆祐でセミ、メインを張れるのか!?(中略)危機感はあるのか!? ないならないでボクは先にいくし、ボクの力で引っ張ります」
【週刊プロレス No.1756 2014年9月7日号/ベースボールマガジン社】
 
今まで挑発されても柳の風で受け流してきた田口だったが、KUSHIDAの挑発に反論する。
 
「クッシーはライガーさんみたいに打ち上げ花火をぶち上げて目立つ。ボクはサムライさんだからせんこう花火。地味です、サムライ火山です。忘れたころに爆発します。(中略)べつにみんながああなりたいわけじゃない。ボクみたいなのがいるから成り立つわけで。(中略)ボクは刻んでいくバッティング。一緒の括りにされると困るんです。もちろんボクだって一花咲かせたい気持ちはありますけど、自分のプロレスを変えてまでやりたくはない」
【週刊プロレス No.1757 2014年9月24日号/ベースボールマガジン社】
 
そして迎えた2014年9月21日神戸ワールド記念ホール大会。田口はKUSHIDAを秘密兵器アンクルホールド(後にオーマイ&ガーアンクルと命名)で勝利し、第69代IWGPジュニアヘビー級王者となった。だが試合後に鈴木軍ジュニア(TAKAみちのく、タイチ、エル・デスペラード)に襲撃されてしまう。暗雲が立ち込めるチャンピオン。だが、これが彼を覚醒させた。試合後のインタビューで田口ワールドが爆発する。
 
「7年ぶりにベルト巻けてうれしいです。でも、オーマイ&ガーファンクル…オーマイ&ガーファンクルですよ。オーマイ&ガー…記念日を。空気読めって。超気分悪いんですけど。超ベリーバッド。あいつら、チョベリバ。特にデスペラード、チョベリバ。激オコ(怒ってる)、激オコですよ。チャンピンはさすがチャンピオンですね。うまく引き出されました。チャンピオンにあんな辛らつな言葉を言わなければ、僕は内に秘めたもので何も伝わらず、ただのタイ トルマッチで終わってる。チャンピオンに引き出された。このタイミングでアンクル(ホールド)も引き出されたし。チャンピオンに一皮、二皮剥けさせられて、チャンピオンにしてもらいました。それもオーマイ&ガーファンクルですよ。なんて日だ! (デスペラードは)やられたらやり返す。倍返しですよ。 (第69代チャンピオンということで)シックスナイン、逆、逆を行きますよ。舐められたら舐め返す。完全に舐められましたからね。倍返し。グッチョグッチョのベッチョベチョにしてやりますよ。王者像? 僕がチャンピオンになりましたから、もっと自由な田口隆祐を出していきたい。もっとふざけた田口隆祐 で。ふざけたいですね。デスペラードを舐め回してやりますよ。舐め腐らす。ヒーヒー言わしてやる。とりあえずデスペラードが挑戦してくるんだったら、受けてやります。受けてやるけど(試合では)攻めて攻めて、最後はケツの穴をガバガバにして、メキシコに送り返してやりますよ」
 
オーマイ&ガーファンクル」、「チョベリバ」、「なんて日だ」、「シックスナイン」、「グッチョグッチョのベッチョベチョ」と意味不明の下ネタとギャグを連発する田口は「もっとふざけてやる」というアティチュードを示す。かつて蝶野正洋がG1優勝後、武闘派宣言をするが、田口の場合はおふざけ宣言だったのだ。ある意味、前代未聞の転向である。ちなみにこのコメントが「ワールドプロレスリング」で流れ、反響を呼ぶことになる。
 
おふざけ宣言後の田口はIWGPジュニア王座戦ではとにかくやられまくった。エル・デスペラードやタイチとの防衛戦ではとにかくお尻を集中攻撃を浴びた。だが、ここでも逆にヒップアタックを連発して自身の代名詞にまで高めた。実はこのおふざけ宣言には「地味な自分を変えていきたい」という田口なりの自己改革だった。そして同期の中邑真輔の存在も大きかった。
 
「(中邑の)自由な感じが凄くうらやましかったというか。(中略)中邑もある部分で開き直りだとは思うんですけど、見ていて『やられたな』って思いましたね。『こんなに自由にしていいんだ、自由っていいな』と。(中略)やっぱり、プロレスラーは表現者だと思うので。自分をさらけ出して表現することが、こんなに楽しいことなのかと。(中略)とりあえず、僕は自分のやりたいことをやるので、それを見てくださいと。『どうだ、俺のを見てくれ。俺の凄いのを見てくれ。俺の凄いのをホント、見て感じてくれ』と。フフフ」
【ゴング第4号/アイビーレコード・徳間書店】
 
やりたい放題・自由奔放なスタイルはファンの心に届いた。その証拠として新日本のグッズ売上は棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカに次ぐ人気にまでアップしたという。
 
2015年にはカードゲーム「キングオブプロレスリング」のゼネラルマネージャー兼演歌歌手・道標明に扮してCDデビューし、「道標明の人情酒場物語」という番組まではじめプロレス界の吉田類となり、酒場を放浪している。数年前なら考えられなかったことだ。
 
2017年には新日本隊内ユニット「タグチジャパン」を結成。自ら監督として采配を振るった。棚橋弘至、中西学、リコシェ、マイケル・エルガンといった本隊のスター選手が田口の指示の下で抜群のチームワークを披露、また「タグチジャパン」グッズはバカ売れするほど人気ユニットとなった。2017年のNEVER6人タッグ王座戦線にはこのタグチジャパンが多く絡んでいた。ふざけ続けてみると彼は団体でもトップクラスの人気者になっていた。
 
「頭の悪い人向けの保険入門」「インド人完全無視カレー」「地獄のミサワLINEスタンプ」といったユニークコンテンツを提供し、「日本一ふざけた会社」と呼ばれる株式会社バーグハンバーグバーグのシモダテツヤ社長はこんな発言をしている。
 
「ふざけるという行為は真面目がわかってないとできない。ボケと真面目のバランスがわかるということです。例えば弊社がお仕事でWebコンテンツを制作をする場合、普通の企業さんはふざけることってあまりしませんよね。リスクがあるので。でもバランス感覚を持って上手にやればそういう表現も可能になってくると思っています。 新しくて尖った切り口でも、クライアントが安心できる落としどころを用意しつつ調整すれば、クライアントも自分たちもお互いに納得できるぐらいふざけれるんじゃないかなと」
 
シモダ社長の発言を聞くと、今の田口の路線はプロレスキャリアの積み重ねによって生まれたものだと分かる。そもそも真面目なレスラーだった。だが内面はおふざけが好きだった。だから地味な自分を変えるべく真面目にふざけてみる。すると田口のおふざけプロレスがよく多くの人々に尖った切り口となってひっかかり、「田口は面白いプロレスラー」。「田口はふざけているけど実力者だ」という印象と評価を与えられるようになっのだ。マジでふざけてみると、彼に見えたのはプロレスラーとしての光明だった。
 
新日本プロレスの名物男・田口隆祐。今日も彼はリング内外でやりたい放題、自由を謳歌する。自分が楽しめなければ、人を楽しませることなんてできない。真面目にバカをやるプロレスを極めるために彼はリングに立つ。「マジでふざける」というオリジナルスタイルが緑の道標となって、プロレスの魅力と面白さを多くの人々にナビゲートしているのである。