悪の大統領~日本で億万長者になった狂虎~/タイガー・ジェット・シン【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第197回 悪の大統領~日本で億万長者になった狂虎
~/タイガー・ジェット・シン

 


2017年10月、私は所用があって東京にいた。夜は新宿で飲み会があって参加することになっていた。その空き時間の合間、知り合いから「もし新宿に行くなら新宿の伊勢丹にいった方がいいですよ」と勧められていたので、行ってみることにした。

 

夕方の新宿はサラリーマンや若者でごった返していた。そのなかで新宿の伊勢丹にたどり着いた。

 

 


伊勢丹新宿店とは…。
 
三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹(2011年に伊勢丹から社名変更)が運営する百貨店「伊勢丹」の本店。衣料品に強く、百貨店の年間売上高で全国一を誇る(2011年度時点)。1933年、現在地の東京都新宿区新宿3丁目に本館を開店。35年に隣接する百貨店「ほてい屋」を買収し、翌36年に店舗を接続・改修して売場面積を拡大した。この際、外装は伊勢丹ビルのアール・デコ様式に統一され、99年に東京都の歴史的建造物に指定されている。第二次世界大戦後の45年より連合国最高司令官総司令部に店舗を接収されるが、53年に接収解除となり、営業を再開。その後、増築・改修を重ね、68年、本館北側に男性向け百貨店「男の新館」を開館、2003年に同館を改装し、「メンズ館」として再オープンした。12年には本館の大規模改装を開始し、13年3月に全面開業。主力である婦人服・雑貨フロアの売り場構成やデザインを一新し、正面玄関を開店当時の姿に復元するなど、大幅なリニューアルが施されている。
【伊勢丹新宿店/知恵蔵mini】

 
なぜ知り合いは私に新宿の伊勢丹行きを勧めたのか?それは知り合いのこの一言がすべてだ。
 
「ここはプロレスファンにとっては聖地ですよ」
 
なるほど。古くからのプロレスファンならピンとくるだろう。ここは今から40年以上前、物議を呼んだあの事件現場だった。デパート入口前に掲げられている歴史と伝統を感じさせる新宿伊勢丹の看板はあの事件を目撃していた…。
 
昭和48(1973)年11月5日。110番通報を受けた四谷警察署は、直ちに新宿区新宿3丁日14番1号にある伊勢丹百貨店本店前へパトカーを急行させた。18時過ぎに到着。現場は、往来の激しい3丁目交差点の近く。目撃者の姿は既に無く、家路を急ぐ歩行者は、赤い回転灯に一瞥をくれただけで足早に通り過ぎた。だが、ヘッドライトに照らされたガードレールと灰色の石畳には、確かに生々しい血痕が残されていた。一体、そこで何が起きたのか? その全容は、翌日の報道で明らかになった。11月7日付(6日発行)東京スポーツ1面に、『宵の新宿で猛虎シンと乱闘事件 “俺は被害者” 負傷猪木怒る』の見出しが躍ったのだ。記事前文には、次のように書かれていた。「新日本プロレスのエース、アントニオ猪木が5日、宵闇迫る東京・新宿の街頭で“猛虎”タイガー・ジェット・シンに襲われ、血だるまの大乱闘、全治1週間の傷を負うという事件が起きた。同日午後6時ごろ、伊勢丹前の舗道でハプニングが起こった。夫人の女優・倍賞美津子さん、実弟の猪木啓介氏と連れだってデパートから出てきたアントニオ猪木と、来日中のタイガー・ジェット・シン、ジャック・ルージョー、ビル・ホワイトの外人レスラーがばったり顔を合わせ、シンが突如叫び声をあげて猪木に殴りかかったことから凄まじい乱闘になり、パトカー数台が出動して大騒ぎになった。3人がかりでやられた猪木はシャツを破かれ、ガードレールに額をぶつけられて約3センチ(全治1週間)の裂傷。血だるまになって東京・六本木の自宅へ帰った。一方のシンも猪木のパンチを浴びてホオに全治4日間の裂傷。とんだ“場外大乱闘”だった」。これが、世にいう『新宿伊勢丹前襲撃事件』のあらましである。
【「あれはヤラセではない!」――新宿伊勢丹路上乱闘事件、タイガー・ジェット・シンが明かす43年目の真相/みんなが寝静まった頃に】
 
世間を驚かせ、警察沙汰になる騒動を起こした張本人こそ、"インドの狂虎"タイガー・ジェット・シンである。日本プロレス界において三大悪役外国人といえば、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、そしてこのシンではないだろうか。そしてこの男こそ創世記の新日本プロレスを支えた悪の外国人エース。その最大の要因はエース猪木との抗争である。新宿伊勢丹前襲撃事件とは猪木との因縁をさらに深めたプロレス界における歴史的大事件だった。今回は日本プロレス界が生んだ世界最凶ヒールレスラーの物語である。
 
タイガー・ジェット・シンは1944年4月3日インド・パンジャーブ州ルディヤーナーで生まれたと言われているが、出生に関しては様々な説がある。本名はジャグジート・スィン・ハンスという。
1944年生まれではなく、1942年生まれ、1945年生まれではないかともいわれているようでプロフィールの段階で彼は謎と幻想に溢れている。また、シンの地元はカナダ・トロントなのだが、この地に移住した時期も説がたくさんある。少年時代に家族と共に移住したと言われているが、元々カナダ・トロント出身だったという説もあるし、大学進学のためにカナダに移住したという説もある。またプロレスラーとしてデビュー以後にカナダに渡りデビューしたのは1965年カナダ・トロントと言われている(実は1964年シンガポールでデビューしたという説もある)。シンを育てたフレッド・アトキンスはアメリカ武者修行時代のジャイアント馬場を育てた鬼コーチ。シンはアトキンスの自宅でみっちり地獄のトレーニングを積んでプロレスラーとして基礎を磨いた。ちなみに”シンの兄弟子”馬場は日本で極悪レスラーとして暴れるシンの試合を見てこう言ったという。
 
「あの狂乱ファイトはとてもアトキンス門下の後輩とは思えん。でも、投げの入り方は俺と一緒なんだよなあ。組んだ瞬間に手を相手の首に巻いて、そのまま首を押さえつけるようにして投げるアトキンス流のアームドラッグを使うのを見ると、アトキンスに教わっていることがわかる
【プロレス悪役列伝/ベースボール・マガジン社】
 
シンはアトキンスのコーチぶりについてこう語る。
 
「大変厳格なコーチだった。あまりにもトレーニングが厳しかったため、私は3回脱走し、3回、生還した。彼の教えはこうだった。お前はチャンピオンになれる。お前は敗北者にもなれる。どちらを選ぶのだ? 俺の言うことをよく聞けと」
【プロレス入門~神がみと伝説の男たちのヒストリー~ 斎藤文彦/ビジネス社】
 
シンはデビュー当時からトロントでベビーフェースとして活動する。師匠アトキンスとのコンビでトロント地区認定インターナショナルタッグ王座を獲得したり、ジョニー・バレンタインを破り、トロント地区USヘビー級王座を獲得する。また彼のトロント地区でのライバルは"アラビアの怪人"ザ・シーク。二人のシングル抗争で2万人の観衆を魅了していたという。
 
1973年5月にシンは新日本プロレスに初来日。観客席にいたスーツ姿の彼は山本小鉄VSスティーブ・リッカードの試合途中に乱入し、山本及び若手相手に大暴れする。当時は謎のインド人という触れ込みだった。なぜシンは新日本に参戦したのか。これも様々な説がある。
 
・タイガー・ジェット・シンを新日本プロレスに売り込んだのは、当時インドと独自のネットワークを築いていた吉田なる貿易商とされる。猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通している時に、口にナイフを咥えているシンの写真に注目した。この時猪木は、「ナイフじゃなくどうせならサーベルでも咥えさせてみろ」と語ったという。
・このような状況で1973年、シンは初来日した。ただし、本来は同年7月からのシリーズに参戦する予定だったのが、新日本プロレス渉外担当者の手続きに間違いがあり、シンは二か月早く来日してしまった。
・そこで同年5月4日、会場の川崎市立体育館の客席にシンを招いた。新日本プロレスにしてみれば、「手違いとはいえ、せっかく来日したのだから日本のプロレスを生で見てもらおう」という、シンに対する配慮だった。ところがこの日の山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合中、シンは突如乱入し、山本小鉄をメッタ打ちにした。この時はターバンは巻いていたが、サーベルは持っていなかった。
・この様子を見た猪木は目玉レスラーになると考え、急遽渉外担当に命じシンを一旦香港へ向かわせ、業務用ビザを受けた後に日本へ戻るよう指示した。その間新日本プロレスは前述の猪木案を実現すべく、日本国内でサーベルを手配し、日本に戻ってきたシンに与えた。ヒールとして日本で活躍することを望んでいたシンは、大いに喜んだという。
【タイガー・ジェット・シン/wikipedia】
 
そんな状況下でシンと猪木との抗争が勃発。傍若無人に暴れるシンは「謎の怪人」、「狂人」と呼ばれる。彼の存在は新日本にとって猪木の宿敵に相応しい外国人レスラーとなり、テレビ視聴率や観客動員数は上昇していった。抗争が過熱する中で起こったのが先述した新宿伊勢丹襲撃事件である。こちらに関しても「リング上を盛り上げるために事件を起こすという台本があった」、「当初はギミックだったが、真が途中から本気になってしまった」、「リングだけでなくシンは本物の狂人だったから襲撃した」など様々な説がある。
 
この事件で世間的に話題となったシン。猪木とのシングルマッチはさらに遺恨が深くなった。シンが放った火炎殺法が猪木の顔面を直撃した1974年6月20日の蔵前国技館、怒りの猪木による腕への一点集中攻撃で、シンの右腕は骨折に追い込まれた1974年6月26日の大阪府立体育会館。遺恨が炎のように燃え上がる猪木VSシンは新日本黎明期における伝説の抗争となった。そして、新日本にとって、中継を放映するテレビ朝日にとってシンは救世主だった。その象徴となったテレビ局への苦情電話だった。そして苦情電話が多ければ多いほど視聴率が高かったという。シンは1975年3月に猪木を破り、NWFヘビー級王座を獲得し、新日本の外国人トップレスラーとなった。
 
エース猪木にとってはシンとの抗争によって、カール・ゴッチ直伝の正統派レスラーからラフファイトにもR強いという新たな一面が開花し、"燃える闘魂"が深化していくきっかけとなった存在だった。
 
「単に勝ち負けだけでなく芸術性を持たせることで、いかにして観客を惹きつけるかを考えていた。殺し合いを見せるわけにはいかないが、俺とシンは本気で怒りの感情をぶつけ合い、妥協しないで徹底的に闘うことで観客の心を動かすことができたと思う。シンとの闘いを通じて自分のプロレスが完成しつつあることを実感していた」
【プロレス悪役列伝/ベースボール・マガジン社】
 
"インドの狂虎"として新日本で大悪党として活躍するシン。その悪役スタイルはトロントでのライバルであるザ・シークをモチーフにしていた。
 
日本で"大悪役"に変身したシンは、シークのファイトスタイルをそっくりそのままアダプトした。それはただ単にファイトスタイルをマネするというよりは、ライフスタイルの完全コピーだった。シークがアリーナのなかだけでなく移動中も滞在先のホテルでもレストランでもシークを演じ続けたように、シンもまた"一日24時間シフト"でシンのイメージをかたくなに守り続けた。(中略)日本をホームリングにするようになったシンは、トロントのリングからその姿を消した。それは地元でベビーフェースとして闘うシンの写真が日本のマスコミに"暴露"されることをシン自身が危惧したからだった。
【レジェンド100 アメリカン・プロレス 伝説の男たち 斎藤文彦/ベースボール・マガジン社】
 
191cm 120kgのバランスの取れた肉体を持つシンのプロレスは、トレードマークのサーベルを筆頭とした凶器攻撃や場外乱闘でペースを掴み、二本指で相手の頸動脈を締め上げるほぼ反則技である「コブラクロー」を必殺技に相手を倒すのがシンの試合だ。また、コブラシザース(首四の字固め)、アルゼンチン・バックブリーカーといったテクニックもタイトルマッチで披露している。
 
そんなシンの良き相棒となったのが"金狼"上田馬之助。二人は極悪コンビを結成し、日本プロレス界に恐怖のどん底に陥れる。シンにとって上田は兄弟分だったという。
 
「ウエダサンは本物のプロフェッショナルで、ヒールとして他のレスラーと食事をしたり行動をするようなことをしなかった。だから朝起きるといつも私を起こしに来てくれて、朝食を一緒に摂って、それから昼食も夕食もいつも彼と一緒だった。我々はいつも一緒に行動していた。インドと日本、生まれた場所は違うけど本当の兄弟のように付き合い、同じ時を過ごした。我々は世界一のヒールタッグだった」
【狂虎、亡き友・上田馬之助、日本復興への祈り タイガー・ジェット・シン独占インタビュー/スポーツナビ】
 
1981年7月、シンは新日本を去り、全日本プロレスに乱入し、主戦場を移した。なぜ彼は全日本を選んだのか。その理由をシンは次のように明かす。
 
「私は当時、ハイエスト・ペイド・レスラー(最も稼いでいたレスラー)だった。(中略)ニュージャパンは私にこういう話を持ってきた。アブドーラ・ザ・ブッチャーと新しいタッグチームを結成してはどうかと。私はすぐに答えた、あのサナバビッチは大嫌いだと。頼むからあんな野郎とタッグを組ませないでくれと。ニュージャパンは私の意見に賛成してくれた。(中略)私はトロントの自宅に帰っていた。テリー・ファンクから電話が入った。ニュージャパンがブッチャーと契約したと伝えてきた。ニュージャパンのエグゼクティブがロサンゼルスまで来て、そこでニュージャパンとブッチャーは契約書にサインを交わしたというんだ。私は自分の耳を疑った。ニュージャパンは私に嘘をついた。裏切りだ。私は大変ショックを受けた。だから、すぐにニュージャパンのオフィスに電話を入れた。(中略)ブッチャーと契約したのか? 答えは"YES"だった。私は『ファック・ユー』といって電話を切った。それでニュージャパンと私の関係は完全に終わった」
【プロレス入門~神がみと伝説の男たちのヒストリー~ 斎藤文彦/ビジネス社】
 
全日本に移籍したシンは上田との極悪コンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田を破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得する。だが、新日本に比べると全日本ではスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディといった怪物レスラーの後塵を拝していた印象が強い。だが、シンはこの全日本に愛着を持っていたという。
 
「ミスター・ババは"ゴールドのハート"を持ったプロモーターだった。私はマネーで動く人間ではない。ミスター・ババは私を理解しようとした。私が彼をリスペクトし、彼も私をリスペクトしてくれた。私はマネーには操られないが、愛には動かされてしまう。だから私はそれから10年間、オールジャパンのためにベストを尽くしたんだ」
【プロレス入門~神がみと伝説の男たちのヒストリー~ 斎藤文彦/ビジネス社】
 
そんなシンが心を痛めたのが1987年。シンがプロモートした南アフリカの興業に参加するためにハル薗田が乗った南アフリカ航空295便が墜落事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。(この事故について詳しくはこちらの記事を読んでもらえらば幸いである。そのとき何が起こったか?~墜落事故30年目の真実~
 
もちろんこの事故はシンに何の責任はない。だが、プロモーターとして彼はスーツ姿で謝罪した。
 
「このような事故でソノダと夫人を死なせてしまったことは、大変申し訳ない」
 
普段のシンは狂人でもなんでもない、物静かな紳士。だからこそこの事故に責任を感じていた。後に全日本から来た大嫌いなアブドーラ・ザ・ブッチャーとのコンビでの世界最強タッグ決定リーグ戦出場というオファーも承諾したのも、全日本に、薗田さんと家族にご迷惑をかけてしまったという贖罪意識があったのだろう。
 
1990年にシンは新日本に復帰する。しかし、体力的な衰えは隠しきれず、メインイベンターを務めることはなく、中堅という立ち位置でリングに上がった。もう新日本に彼の居場所はなかった。
 
1992年にFMWに参戦、大仁田厚とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを実現させた。その後は日本のインディー団体を彷徨った。もういつの間にか60歳を越え、キャリアは40年を越えた。それでもシンはプロレスラーを引退せず、必要とされたら日本にやってきて健在ぶりを証明している。
 

シンは日本で稼いだファイトマネーを不動産や金融の投資に充てることで事業家として成功する。約4300坪の豪邸に住み、世界中に別荘を持つ大金持ちとなったシン。また麻薬撲滅運動にも勢力的に動き、2003年にはカナダ政府から特別功労賞を受賞した。2010年にはタイガー・ジェット・シン公立学校を設立するなどの慈善活動も盛んに行い、地域や人々に還元する姿は、とても狂人と呼ばれた男とは想像がつかない。
 
悪役のトップとして長年活躍したシン。その姿はまさしく唯我独尊的なインパクトと個性を誇っていた。そして、この男はヒールをやり続けてから常に誰かの下につくことはなく、誰かを配下につけて悪の限りを尽くすことを生業とし、まるで大統領の如く、リング上で指導力を発揮し、四角いジャングルに君臨する…それがシンという大ヒールの生き方だった。だからといってリング上で野垂れ死や破滅することなく、人生を成功させた。
 
「猪木は事業に失敗したが、俺は成功した。富を得ただけでなく、それを還元して社会に貢献している。猪木との人生の勝負は俺の勝ちだ」
【プロレス悪役列伝/ベースボール・マガジン社】
 
この発言は驕りではなく、説得力がある。
 
またその一方で彼のプロフィールやレスラー人生も含めて、やはり謎と幻想によってあらゆる事柄に様々な諸説が存在している。出生、カナダの移住時期、デビューの経緯、新宿伊勢丹事件…まだまだ真相は闇の中。でもそれがシンというプロレスラーの凄みにさらなるスパイスになっているような気がするのだ。
 
私は最近、プロレスラーの池田大輔の名言に出会った。彼はプロレスの魅力についてこう語る。
 
「自分はなぜプロレスが好きかというと、格闘技はリアルと言われてますが、プロレスはリアルとフェイクが重なり合ってるからこそ、多くの人が熱狂すると思ってるんです」
【Dropkick バチバチとは何か 池田大輔インタビュー……ちょいとビターなフーテン人生】
 
この池田の発言を体現したのがタイガー・ジェット・シンだったのではないだろうか。
シンはフィクションとノンフィクションの狭間で異国で徹底的にヒールに徹することで大衆を熱狂させることで、最終的には億万長者にまで成り上がり、社会貢献も果たしたレスラー人生だった。
ちなみに彼は地元トロントではこう呼ばれているという。
 
「日本で億万長者になった男」
 
その肩書に誰よりも誇りに思っているからこそ、彼はプロレス界から離れないのかもしれない…。