武骨・極悪・知略・エンタメ・義侠…鬼神道の振り幅/ミスター雁之助【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第199回 武骨・極悪・知略・エンタメ・義侠…鬼神道の振り幅/ミスター雁之助

 


 

ミスター雁之助はデビューして早い段階から新人の域を脱したプロレスラーである。大仁田厚が旗揚げしたインディー団体FMWには大仁田の首を狙うザ・シーク率いる「シーク軍団」やリッキー・フジがリーダーとなった「チーム・カナダ」といった敵役チームがいて、そのメンバーは数多くの屈強な外国人レスラーが属していた。雁之助はプロレスが巧く、尚且つタフネスだったため、彼等の技を散々受け続けた。しかし、彼はただやられるわけではない。防戦一方になりつつも、最後はオリジナル技の雁之助クラッチで逆転勝ちするのがこの男の凄さだった。キャリアがなかった時代から自身の立ち位置を見つけていた彼は幾年月を経ても、いつも団体の規模や枠に関係なく最前線を走っていた。

 
今回の「俺達のプロレスラーDX」の主役・ミスター雁之助は日本インディー界を代表する実力者である。プロレスラーの実力差がメジャーやインディーという団体の格では語られなくなった昨今。しかし、雁之助がプロレスラーとしての生を受けた時代はメジャーとインディーでは実力差はあった。かつて「インディーでもメジャーに負けないプロレスラーはいるんだ」という内なる反骨心を胸に闘い続けた男達がいた。雁之助はその闘いの渦にいた。だからこそ、私はミスター雁之助が歩んだレスラー人生を伝えたい。そして、メジャーとインディーという格に捉われない時代になるまで数多くの苦闘があったことを…。
 
ミスター雁之助は1968年6月20日長崎県長崎市に生まれた。本名は本田雅史という。 学生時代は野球をしていた彼は大のプロレスファンで長州力が好きだったという。熊本商科大学(現:熊本学園大学)に入学するとプロレスがやりたくなってプロレス研究会に入部する。そこで出会ったのが盟友・江崎英治…後にライバルとなるハヤブサだった。ハヤブサは柔道経験者で、初めてのスパーリングでは雁之助は江崎の腕十字で一本を取られている。雁之助との出会いについてハヤブサは後年、こう振り返っている。
 
雁之助とは同級生で、同じ時期にサークルに入部し、その最初の会合で初めて顔を合わせました。そう体も大きくないし、めがねをかけた普通のおにいちゃんだったので、これといった印象はありませんでしたし、仲良くなる予定ではなかったのです。ところが、頻繁にサークルの飲み会があって、そのたびに新入生の僕らは先輩にかわいがってもらうわけですよ。それでお互いに面倒をみたり、みられたり、どちらかというと僕が雁之助の面倒をみることのほうが多かったのですが、それで変な絆ができたのです。気がつくと毎日のように一緒にいましたね。
【雁之助との出会いと入団テスト…ハヤブサ<2>/YOMIURI ONLINE】
 
学生プロレス時代のリングネームは「ソープ延長」。大好きな長州力のようなパフォーマンスをして、いわゆる"ハズレ"試合は少なかったようである。ハヤブサは雁之助を学生時代からライバル視していた。
 
本田とは、プロ研とコンパ以外ではほとんど顔を合わせないような関係だったから、特別に親友同士だったわけではなかった。だが、いつの間にか彼に対する評価が気になって仕方がなくなっていた。たとえばコンパの席でも持っていくのは本田の方。自分もバカになりきろうとするのだが、もともとお笑いのセンスは断然向こうの方が上だった。加えて、試合でも本田の方が観客受けする。なんのモチーフもなくやっている江崎に対し実在する選手のモノマネをしても技のフォームからしてソックリなため、それだけで笑いがとれるのだ。
 
「今思い起こすと、あの頃から雁之助のことをライバルだと思っていましたね。もちろん、プロになってからとは意味が違うんですけど(笑)、それほどあいつはプロレスのセンスがあった。ある部分では、プロになってからも生かされたと思うんですよ」
【第4章 ハヤブサ狂乱の大学編[8]/Fight With Dreamアーカイヴ】

 
雁之助は大学卒業後、伊藤ハムへの就職が内定していた。しかし、大仁田厚率いるインディー団体FMWが熊本にやってきた時に、自分より小さいレスラーがリングに上がっていた光景を見て、超人ではない自分でもプロレスラーになれるのではと考え、プロレス入りを決意する。入門テストに合格するために肉体改造にも取り組んだ。その決意を彼はハヤブサに電話で伝える。驚くハヤブサにその熱意をぶつけた。
 
「俺も自分がプロレスラーになれるなんて思っとらん。でも、俺はプロレスが好きじゃ。週プロに、FMWの新人募集の記事が載っとった。そこで俺は、好きなものになるのにチャレンジもせんで諦めたら一生後悔すると思った。やってダメなら諦めもつく。テストに落ちたら、伊藤ハムに就職すると親とも約束した。俺にとっては、最初で最後の夢への挑戦じゃ」
【第4章 ハヤブサ狂乱の大学編[16]/Fight With Dreamアーカイヴ】
 
ハヤブサは卒業後の進路に悩んでいたが、雁之助と同じくプロレスラーになることを決意する。1991年2月に二人はFMWの入門テストを受ける。40数名が受けた入門テストを雁之助とハヤブサは見事に合格する。二人を指導したはFMWナンバー2のターザン後藤。後藤は全日本出身でメジャー団体仕込みのシゴキが待っていた。猛練習の末、1991年6月22日北海道羽幌小学校体育館の市原昭仁戦でデビューを果たす。当初は本名でデビューしてすぐに大仁田から俳優・芦屋雁之助に似ているからという理由で「ミスター雁之助」というリングネームを与えられる。178cm 100kg(その後110kgにまで増量)という肉体があった雁之助は新人でありながら、そのプロレスセンスとタフネスさが買われ、大仁田や後藤のパートナーとしてメインやセミファイナルに抜擢され、FMW正規軍の斬りこみ隊長となり、外国人選手達に立ち向かい玉砕していった。私が印象に残っている試合はサンボ浅子と組んで、ザ・グラジエーター&ビッグ・タイトンのメガトン・コンビと対戦した試合。規格外のパワーと器用さとハングリーさを誇っていたメガトン・コンビはインディーの枠を越えた怪物だった。二人の猛攻を受け続けたのが雁之助だった。だが、一瞬のスキをついて雁之助はグラジエーターから雁之助クラッチで3カウントを奪った。ボロ雑巾のようにされても、プロレスとして成立させ最後の最後に結果を残すその姿勢は若くしていぶし銀のような巧さがあった。また1994年に雁之助はターザン後藤と相対する立場になった時、散々後藤のしごきともいえる攻撃を受け続けた。ボロボロになっても雁之助の心は折れることはなかった。相手の攻撃を受け切れる不屈のタフさが彼の何よりも財産だった。
 
デスマッチが主流だったFMW。だが雁之助はその死闘の中でも基本に忠実なレスリングを心掛けた。凶器やデスマッチ形式はあくまで試合を盛り上げる飛び道具であり、決着手段はレスリングの攻防なのだという信念がFMWのスタイルだという内容を以前、雑誌のインタビューで彼は語っている。
 
1994年5月に大仁田厚が二度目の引退を発表し、一年間の引退ツアーを敢行する。大仁田の後継者として目されていたのは雁之助だった。1995年2月には大仁田とのコンビで世界ブラスナックルタッグ王者となり、大仁田の後継者となるのは彼だと言われていた。そして、メキシコ遠征で江崎英治がハヤブサに変身し、第一回スーパーJカップで大ブレイクしていた。華があるハイフライヤーだったハヤブサには正統派のエース、雁之助はデスマッチ戦線のエースで、この二人に立ちはだかる壁としてターザン後藤やグラジエーターが存在して、W☆INGの松永光弘と金村ゆきひろ(現・キンタロー)は雁之助のデスマッチ戦線のライバルになうるというプランを大仁田引退後の新生FMWは描いていたのではないだろうか。
 
だがこのプランは幻に終わる。
 
大仁田引退が近づく1994年4月、雁之助は密かにFMW退団を決意していた。別にFMWに不満があったとか、今の路線に疑問があるとかではなく。自身のプロレス道に行き詰まりを感じていたのだ。まずは一度リセットしてぷろれすらーとして進むべき道を模索することにした。ここで雁之助は師匠・後藤に退団の挨拶しにくと、なんと後藤も辞めると言い出したのだ。この二人に市原昭仁を加えたメンバーはFMWを離脱した。特に後藤は大仁田引退試合の相手だったため、その衝撃は凄まじかった。
 
雁之助はFMW退団の挨拶をハヤブサに電話でしようとした。だが何度もかけても彼には繋がらなかった。ハヤブサはこの一報を団体関係者から聞かされ、仰天したという。ハヤブサは雁之助と共に新生FMWを牽引していこうと考えていたからだ。その後、大仁田引退試合の相手は後藤からハヤブサに変わり、新生FMWはハヤブサの一枚看板として牽引していくことになった。あまりにも大きな重責が彼にのしかかる。そんな時にふと脳裏には「雁之助がいてくれれば…」という想いがよぎっていた。
 
FMWを離脱した雁之助は後藤、市原と共に「真FMW」を結成し、IWAジャパンを中心に活動していく。さまざまなタイプの選手と対戦する。タイガー・ジェット・シン、上田馬之助、天龍源一郎といったレジェンドレスラーとも相対することで経験値を上げるも、そこでも後藤の二番手に甘んじることになる。燻り続ける雁之助。一方のハヤブサは新生FMWのエースとして怪我を抱えながらも孤軍奮闘していた。
 
「俺はFMWに戻る。ハヤブサを闘うために…」
 
一度は団体を裏切った人間だから、簡単にタッグを組めるはずがない。ならばハヤブサと闘いたい。その想いを後藤に伝えると後藤は「頑張れよ」と了承してくれた。雁之助の目に涙が溢れる。
 
1997年1月FMW後楽園ホール大会。試合を終えたハヤブサの目の前には私服姿の雁之助がいた。エース・ハヤブサへの宣戦布告だった。ハヤブサは雁之助のUターン参戦を内心、「味方が帰ってきた」と歓迎していた。
 
雁之助はここでヒールとして生きていく覚悟を固める。かつて極悪大王ミスター・ポーゴに鎖鎌や木の切れ端で背中を散々切り刻まれた経験を持つ雁之助は木の切れ端を「背中を突き刺す行為、いわゆる「矢ガモ攻撃」を得意にするようになる。若手時代にその洗礼を浴びた"アラビアの怪人"ザ・シークの火炎殺法も取得。また真FMW時代に何度も対戦した上田馬之助のように金髪となった。"金狼"上田はプロ中のプロの悪役レスラー。そのプロ意識を対戦相手として雁之助は目のあたりにしてきた。また、前年に上田が交通事故に遭遇に下半身不随の重傷に追い込まれた。ならば、俺が上田馬之助になる。その想いが金髪にはあるのだ。そして、雁之助は真FMW時代のコスチュームはスパッツだったが、ヒール転向後は黒のロングタイツに金色で「鬼神道」と縫い込んだものを使用。師匠である後藤のニックネームは「鬼神」だった。さすらいのレスラー人生を歩んできた後藤の意思を俺がこのリングで見せつけていくという無言の意思表示だった。
 
ヒール時代に彼は「ファイアーサンダー」(変型ツームストンパイルドライバー)を開発している。技名の由来は大仁田の得意技であるサンダーファイヤーを嫌がらせの意味でひっくり返すという当てつけだった。さらに新崎人生の必殺技である念仏パワーボムまでコピー。そのテクニックでもいやらしい極悪ぶりを披露している。これも雁之助のプロレスセンスだ。
 
極悪大王と怪人と金狼と鬼神…強烈な個性を放つ4人のならず者をミックスさせたレスラーになることを誓った雁之助はハヤブサの天敵としてFMW台風の目になっていく。もう誰かの二番手ではない、誰かの用心棒でもない。雁之助というアイデンティティーを大々的に表現する時がきた。ハヤブサ、新崎人生、田中将斗といったライバルに恵まれたのも大きかった。彼の攻撃を雁之助は受け止めた上で、極悪殺法とレスリングテクニックで相手を追い詰めていく。立場は変わっても、「相手を受け止める」というスタンスは変わらなかった。1998年1月には田中を破り、FMW二冠統一王座(インディペンデント・ワールド世界ヘビー級王座&世界ブラスナックル王座)を獲得する。遂にシングルの頂点に立った。
 
1997年12月、雁之助は冬木弘道、金村、邪道、外道、非道らと「チーム・ノーリスペクト(TNR)」というヒールユニットを結成する。このユニット内で冬木を除いたメンバーで白ブリーフ&白ガウン姿の「ブリーフ・ブラザーズ(通称ブリブラ)」が生まれる。ブリブラは試合前にリング上でドリフターズみたいなコントを披露する。コントの掴みを担当するのは雁之助だった。いかりや長介ばりに「おいーっす」と挨拶。その後に苦笑を浮かべながら「みんな恥ずかしがらずに言えよ、恥ずかしいのは俺なんだよ」とぼやき笑いをかっさらっていた。リング外ではファンを爆笑させ、リング上では試合内容でファンを魅了した。それが彼等のやり方だった。
 
雁之助はTNR時代に金村と通称「雁金」コンビを結成している。1997年11月に世界ブラスナックルタッグ王座を獲得している。金村は雁之助と同じく試合巧者で、互いにライバルとして意識し合っていた。試合でのコンビネーションは抜群だったが、プライベートではとにかく仲が悪かった。時には殴り合いの喧嘩に発展し、冬木が仲裁したという。
 
ストリートファイトデスマッチに本流のプロレスを合わせた今でいうところのハードコアスタイルだったFMWが一念発起して、エンターテイメントプロレスに転身する。そこでもブリブラのつかみ担当だった雁之助はきちんと対応した。時には新崎人生もどきのお遍路キャラになったこともあったし、ハヤブサが一時期素顔のH(エイチ)になった時、ハヤブサをおちょくるためにハヤブサに変身し、なんとAVデビューしたこともあった。
 
だがこの二代目ハヤブサになったことで、Hを名乗っていた初代ハヤブサとの距離が近づくことになる。ハヤブサに変身した当初はノリノリだった雁之助。だが次第に精彩を欠く試合が続く。遂にはTNRからの追放された。錯乱状態になった雁之助はハヤブサのマスク姿で「俺は誰なんだ!」と叫んでいた。
 
こうしてハヤブサのマスクを被った雁之助と素顔になったハヤブサは1999年11月23日横浜アリーナのメインイベントで完全決着戦を行う。しかもレフェリーは元WWEスーパースターのショーン・マイケルズ。役者は揃った。この試合を最後にマスクと別れを告げることを決めていた雁之助はせめてハヤブサというマスクマンに恥じないようにムーンサルトプレスを取得しようと練習していたが、首を負傷してしまい断念。代わりにこの試合で出した特別仕様の技はタイガー・スープレックス・ホールドだった。雁之助はビッグマッチになってもヒールぶりをいかんなく発揮する。レフェリーのショーン・マイケルズにイス攻撃を見舞い、ショーンの怒りを買い、必殺技スイート・チン・ミュージックを浴びた。超大物が相手でも彼は物怖じしなかった。これこそ上田馬之助から継承した雁之助のプロ意識だった。ショーンの必殺技を浴びた雁之助はマスクを脱いだ。その視界には素顔のハヤブサがいた。そう熊本商科大学で出会い苦楽を共にして、一度は道が分かれても、再び交わった本田雅史と江崎英治がリング上で向かい合い思いっきり殴り合い、プロレスでとことん会話していた。試合は素顔のハヤブサがフェニックス・スプラッシュで勝利を収めた。
 
試合後、雁之助はマイクで語りかけた。
 
「英治、俺は弁解しないから」
 
ハヤブサは涙でくしゃくしゃになりながらこう言う。
 
「もういいんだよ…」
 
二人は抱き合った。こうして二人のリング上での和解が成立した。もう何度も闘ってきたから互いに気持ちは分かり合っていた。
 
そして二人は最後にリング上でHの決め台詞である「お楽しみはこれからだ!」と叫んでいた。二人の物語は珠玉の大河ドラマである。
 
雁之助は素顔のハヤブサと「九州エクスプレス」というコンビを結成する。雁之助としては「アントニオ猪木と上田馬之助が組んだようなコンビ」にしたかった。だが、気心が知れているからといって、名コンビになるわけではなく、一度はWEWタッグ王座を獲得するもすぐに王座を手放し、やがてタッグを解消し、雁之助は再びハヤブサのライバルとなった。やはりタッグを組むよりはシングルで闘う方がいいという実感があったのではないだろうか。
 
だが二人のライバル物語に暗雲が立ち込める。2001年10月、ハヤブサがマンモス佐々木戦で頸椎損傷という重傷を負い長期欠場に追い込まれた。エースの戦線離脱によってFMWは窮地に立たされる。そして盟友が一時期は生死を彷徨い、再起不能になってしまっている現実。そこで立ち上がったのは雁之助だった。ハヤブサがいつか復帰できるように、希望が持てるようにFMWを守るために最前線に立つ。
 
ここで冬木が一時期、全日本に参戦し、天龍源一郎率いるWAR軍のメンバーとして大暴れをして、川田利明と好勝負を残していたことで、天龍らWAR軍がFMWに来襲する。2001年12月、WAR軍は天龍と冬木、嵐、北原光騎の強力なメンツをそろえ、FMWは雁之助、金村、黒田哲広、マンモス佐々木。FMWとWARの全面対抗戦が実現する。天龍や嵐の怪物的強さと攻撃を真正面から受け止め、立ち向かっていったのは雁之助だった。試合は7割方、WARのペースだったが、一瞬のスキをついて雁之助が得意の雁之助クラッチで逆転勝ち。会場は興奮の坩堝と化した。試合後、雁之助の活躍に胸を打たれた天龍は
マイクで「雁之助、FMW、これからも頑張れよ」とエールを送った。
 
だがFMWは2002年2月に二度の不渡りを起こし倒産する。ここで雁之助はハヤブサが帰るリングを作ることにした。FMWのアルファベットを反対にしたWMFという団体を旗揚げする。FMW残党は冬木のWEWと雁之助&ハヤブサのWMFの二派に別れる結末となった。
 
雁之助は交渉から事務処理までこなしていた。他団体に上がりたいという野望はなかった。あの頃のFMWイズムを継承できればと思いWMFを運営していたが、やはり早い段階から観客動員に苦戦する。、明確なコンセプトを見出すことができなかったのだ。2008年にWMFは解散している。だが、雁之助がWMFで手塩をかけて育てたレスラーが二人いる。藤田峰雄と宮本裕向。この二人は後々にインディー界を名を馳せるレスラーに成長している。ちなみに2007年年から雁之助は「鬼神道」というプロデュース興業を手がけている。
 
2008年12月27日、雁之助は引退する。体力的にはまだまだやれる。だが衰える前に去りたくなったのだという。
 
「タイミングとして“あっ、ここだ!”ってピンときたのが今年の5月だったんですよ。今年がミスター雁之助を見せられる最後の年だって」
 
試合後、リングには復帰に向けてリハビリに励むハヤブサがいた。
彼は号泣しながらこう語った。
 
「お疲れさま。悪かったね、先に引退させて。お前が…お前がいてくれたから、俺もここにいる。お前に言わなきゃいけないことも、言いたいこともたくさんあったんだけど、何か…お前…言う言葉が見つからん。ただ、お前が友達で良かった。お前のことが…お前のことが大好きだ! お疲れさま…そして本当にありがとう」
 
雁之助は試合後にこう語った。
 
「いろいろなことがあったけど、プロレスが好きだという気持ち、プロレスが本当に素晴らしいから、そしてファン、仲間が支えてくれたから、ここまでやってこれた。一番大きいのは江崎英治(ハヤブサ)がいたことだよね。俺、ひとりでプロレスラーになろうと思っていたのに江崎が付いてきて、それで一緒にテストを受けて40人の中で2人だけ受かって。申し訳ないのは、2人ともこれで飯食ってきてね、俺が先に辞めちゃうこと。江崎はリハビリを頑張って自分の足で立とうとしている。自分の分まで頑張ってほしいね。一番の思い出は…プロレスラーになれたことですよ。物心ついた時からプロレスしかなくて、俺はプロレスラーをめちゃくちゃリスペクトしていたから、そのプロレスラーになれたことが最高のことですよね。試合前にはプレッシャーもあるし、怖さもあるし、吐き気もする。でも試合が終わった後の解放感が最高なんです。次は夏ぐらいにやろうかな…って、それはないです(笑)。でも、そう思うくらいプロレスは素晴らしいものなんですよ」
 
リングを去った雁之助は女子プロレス団体アイスリボンのスタッフとして業界に残った。リングアナ、コーチが彼の役割だった。またインディー団体ガッツワールドにアドバイザーとして関わるようになり、プロレスへの熱い気持ちがいつしかリング復帰に繋がった。
 
2014年10月12日ガッツワールド後楽園大会で復帰を果たす。そこには鬼神道を貫く雁之助がいた。ブランクなどを吹っ飛ばす活躍を見せる。だが、そんな彼に訃報が飛び込んでくる。
 
盟友・ハヤブサの急死だった。雁之助は2006年3月27日後楽園ホール展示場で行われた「ハヤブサを偲ぶ会」で次のようなメッセージを残した。その言葉が我々の心に深く突き刺さる。
 
「英治、熊本が大変な時に、きょうはわざわざ来てくれてありがとう。英治と初めて会ったのは大学1年生の時、お互い18で知り合って今年でもう30年か。大学の時4年半、何する時もほとんど一緒に遊び、飲み、トレーニング…思い出は尽きないよ。そして一緒にFMWのテスト受けて、50人の中からなぜか俺とオマエしか選ばれなくて、道場の寮に入ったらまた四畳半の部屋に俺とオマエと2人で住んでな。ずっと一緒だったけど、オマエがメキシコに行って帰ってきたら、俺が(FMWを)出ていって、また戻ってきて、敵対して組んで、また離れて、WMF作って、また離れて、またくっついて…なあ? オマエとは親友であり盟友でありライバルであり、なんにも言葉はかわさなくても、お互いにね、何考えてるかわかるぐらいの夫婦みたいな関係だったのかもしれない。腐れ縁というのかね。そしてオマエはプロレス界で大スターになって、みんなに愛と勇気と感動を与えて、俺は友達として、ものすごく誇りに思ってました。俺が辞めて、また復帰するって決めた時にオマエに電話して報告した時、オマエは『おっさんが決めたことだから、俺は何も言わんよ』って言ってくれたよな。あと5年待ってくれって。そしたら俺もリング上がるから、その時リングで向き合おうねって言ってたけど、実現することはもう…なくなって…一番辛かったのはオマエだと思うし、悔しかっただろうし、きつかっただろうし、よう頑張ったよ。俺はね、オマエと知り合えて友達になれて、本当によかったと思ってる。英治ありがとう! 会いたいんだよ、オマエと!(号泣)熊本で送ってさ、オマエの骨拾って、もう1カ月以上たつけど、俺の中で受け入れられないんだよ! 事実を…受け入れたくないよ…。受け入れたくないけど、オマエは本当の不死鳥ハヤブサとなって、みんなの心のなかでずっと生きてるよ。47年間全力で走った人生、お疲れ様でした! 英治、またいつか会いましょう。ありがとう」
 
雁之助は「これからはハヤブサと共にリングに上がっていく」と決意する。その決意が実を結び、2006年5月8日後楽園大会でダイスケを破り、GWCシングル王座を獲得した。
 
試合後に雁之助はマイクで語り出した。
 
「一年半前のガッツワールド10周年、初めてのここ後楽園ホール大会で、僕は引退した身でありながら一年半前に復帰しました。引退して復帰をするということを一番否定してたのは俺なんですよ。絶対上がらないと決めて引退しました。でも、もう一回ガッツワールドのこのリングで、リングに上がって試合したいと自分思ったんです。その時に僕はハヤブサに電話してその意思を伝えました。彼は、決めたことだったら俺は何も言わん思いっきりやれって言われました。思いっきりやってそしてこのベルト取れた。スゴイ嬉しいし皆に感謝してます。そしてそのハヤブサは3月に僕らの前からいなくなりました。突然いなくなりました、途方に暮れました。いなくなったからリングに上がる時にハヤブサと一緒にハヤブサの気持ちとともにリングに上っております。なので自分自身にも、相手にも僕は負けるわけにはいかない。来月48になりますけどまだまだ僕は伸びてますからね。時計の針は戻ったんじゃないんですよ、ちょっとずつ進んでるんですよ!」
 
雁之助は2018年のガッツワールド解散に伴い二度目の引退を発表する。
 
「自分は一回引退はしてますんであんまり大きな声では言えませんが、復帰して4年ガッツワールドでやってきましたけど、2018年の4月15日をもって引退させていただこうかなと思います。理由といたしましては、自分は40歳を機に引退して来年(2018)50歳なんですけど、身体の限界、気力体力の限界を感じてプロレスに終止符を打つということで10年前に引退試合をやらせていただいてですね、皆様に快く送り出していただいて一回終わったんです僕のプロレス生活。でも僕はプロレス大好きで、辞めたあとも結局プロレス以外の仕事はしてきてなかったんです。その中でガッツワールドの相談役としてやってましたけども、初めての後楽園大会をガッツワールドでやる時にガッツ代表の方から是非雁之助さんに復帰してほしいとオファーをされました。どうしてもというガッツ石島の熱意と、相談役として盛り上がって欲しいという気持ちと、自分のプロレスが大好きだったという根底に決断して後楽園のリングに上がらせていただきました。上がる以上はガッツワールドのためにという気持ちで今日まで練習と試合を続けてまいりました。そういう経緯がありますんで、引退して復帰したミスター雁之助っていうのはガッツワールドとともに歩んで来たミスター雁之助でありますから、ガッツワールドの最後とともに、50歳という節目でもありますし、綺麗に身を引いたほうがいいのかなということで決断いたしました」
 
雁之助の一度目も二度目の引退には「衰える前に辞める」という共通項があった。引退後、雁之助は地元・九州に帰るという。
 
2018年3月27日新木場1stRINGで自主興行「鬼神道Returnsファイナル」が開催された。そこには雁之助の代名詞ファイアーサンダーを得意技にし、インディー界の代表選手の一人となった宮本裕向がいた。宮本は雁之助にファイアーサンダーを決めて勝利する。
 
試合後、宮本は語った言葉が印象的だった。
 
「僕らは雁之助さんと試合してるだけ幸せですよ。あんだけ上手い人いないもん。メジャーの選手でも居ないよ、あんな上手な人……」
 
雁之助はまさしく"プレイヤーズ・プレイヤー"。レスラーズの評判が極めて高い男だった。恐らく闘ってみて分かる奥深さが彼のプロレスにあるのだ。確かにあれだけの技量を持つレスラーはメジャーでも早々いない。
 
もし、彼について知らないプロレスファンがいたら、私はこう説明するようにしている。
 
「新日本の石井智宏と矢野通を合わせた選手なんだよ」
 
石井は真っ向勝負を信条とするブルファイター。だがその内面はどんなタイプにも適応できるオールラウンダー。矢野は知略を得意とするトリックスター。だがアマチュアレスリング全日本選手権を制するほどの実力派。この二人のプロレスを雁之助は一人でやっているのだ。この二人は実にプロレス頭が優れたレスラーである。個人的には雁之助のプロレス頭は東大級ではないかと考えている。彼のプロレスセンスやプロレス頭はプロレスファンだった少年時代から育成されたもので年季が入っているのだ。
 
ミスター雁之助は実に稀有なプロレスラーである。持ち前のプロレスセンスとプロレス頭、どんな攻撃にも耐えきれる強靭な肉体とコンディションを保持しあらゆる顔を見せてきた。武骨な真っ向勝負、極悪非道なヒールファイト、相手の一瞬のスキを突いたり、作戦や裏切りを生む知略、お笑いもかっさらえるエンタメ能力、そして誰かのために命を捧げられる義侠心…。思えばこの男のプロレスはいくつものグラデーションがあり、その振り幅の広さと深さこそが彼の醍醐味であり、偉大さではないだろうか。
 
鬼神道の遺伝子は宮本や藤田を筆頭に継承していき、今後もプロレス界に息づく。だからこそ雁之助は自信を持って言うのだ。
 
「コイツらにインディーのプロレスを託せる。未来は明るいよ」
 
ミスター雁之助、あなたはなんてカッコいいレスラーなんだろう…。