俺達のプロレスラーDX
第200回 ネイチの花道~芳醇な世界王者プロレスは深き大人の味~/リック・フレアー
以前、人気バラエティー番組「アメトーーク」でこんな企画があった。
「もし調味料を芸人に例えてみたら…」
話芸のスペシャリストと呼ばれている人気芸人・千原ジュニアがプレゼンしたこの企画で見事に芸人を調味料に以下のように置き換えてみせた。
醤油=明石家さんま(理由・これがないと始まらない)
砂糖=笑福亭鶴瓶(理由・子どもからお年寄りまで、奥の深さ)
ケチャップ=志村けん(理由・子供の時ケチャップがあったらなんでもイケた感じから)
マヨネーズ=関根勤(理由・何につけてもうまい!食べすぎるとクドイ)
バター=高田純次(理由・大人のイヤらしさ、入れ過ぎたらクドイ)
みりん=所ジョージ(理由・全てをまろやかにするが本質はお酒でピリッと)
タバスコ=とんねるず石橋貴明(理由・新しい笑い)
粉チーズ=とんねるず木梨憲武(理由・新しい笑い)
塩=ダウンタウン松本人志(理由・きゅっとシメる)
こしょう=ダウンタウン浜田雅功(理由・さらにシメる)
その中でわざびという調味料を千原ジュニアはタモリに例え、その理由が実に深かった。
「大人になってからスゴさがわかるから」
この発言を聞いて私はこう思った。
「そう思えば、プロレス界にもタモリさんのように大人になればわかる偉大なレスラーがいたよな…あっ、どこまでもオーバーアクションで弱々しい姿を見せながら最後の最後は美味しいところを持っていく”負けそうで負けない”あの男。子供の時、このレスラーの良さがよくわからなかったよな。うまいのはわかるけど、その凄さがあまり理解できなかった。でもプロレスファンとしてキャリアを重ねるとわかるようになる。この人、本当に凄いレスラーなんだよな…」
その男の名はリック・フレアー。
NWAやWCW、WWF(WWE)といったメジャー団体で16度も世界王者となり、ハルク・ホーガンと共にアメリカン・プロレスの象徴。ネイチャー・ボーイ、狂乱の貴公子、稀代の大風呂敷、業界一汚い男、ミスター・プロレスとあらゆる形容詞で呼ばれたグレーテスト・レスラー。対戦相手を常に引き立てた上で最後に勝利をかっさらい、弱そうに見えても最後の最後は勝利するのが彼のスタイル。「ほうき相手でもプロレスができる」プロレスは世代を超えてあらゆるレスラー達に影響を与えた。
あのプロレスリング・マスター武藤敬司のベースとなったのはフレアーのスタイルだった。そういうことになると武藤に憧れていた新日本プロレスの棚橋弘至や内藤哲也にもどこかしらにフレアースタイルが隔世遺伝されているのかもしれない。そういえば新日本プロレスのブッカーでオカダ・カズチカのマネージャーを務める外道が影響を受けたプロレスラーがフレアーだったという。何百回も彼のVTRを見て、研究することでプロレス達人・外道が生まれたのだ。そして外道のプロレス哲学によって生まれた最高傑作がオカダである。ということは新日本プロレスのトップレスラー達を語るにはフレアーという存在は欠かせないはずである。
その一方でプロレスファンにとってフレアーのプロレスを理解したり、奥深さが分かるのは時間がかかると私は思う。めちゃくちゃ強い訳ではない、肉体に恵まれているわけではない、驚異的な身体能力があるわけではない、なのに負けないのがフレアー。だからフレアーについて理解するのはプロレスIQの高さが必要となる。
現役レスラー、プロレス関係者、プロレスマニア、プロレス初心者、箱推しファン、選手推しファン…。さまざまな立場でプロレスに携わっているすべての皆さんに伝えたい、そして知ってほしい。
「ミスター・プロレス」リック・フレアーの生き方…。
リック・フレアーは1949年2月25日アメリカ・テネシー州メンフィスに生まれた。 本名はリチャード・モーガン・フレイアーという。公式プロフィールではミネソタ州ミネアポリスになっているがこれには事情がある。1950年に発覚した育児を放棄した父母から私生児をテネシー州児童福祉協会が金で譲り受け、養子縁組に臨む別の父母に引き渡すというとんでもない「乳幼児売買事件」の被害者。だから彼は実の父母を知らない。生後一か月でミネアポリスで開業医をしている養父母に引き取られた。本名にあるフレイアーとはフレイアー家の養子になったからである。なので彼には真の意味で本名はない。「ミスター・プロレス」に衝撃の出生事実があったとは…。
彼は子供の時からプロレスファン。AWAで活躍し、日本プロレスの常連外国人レスラーだったクラッシャー・リソワスキーのファンで、自宅には山のようにプロレス雑誌が積まれていたという。ウィスコンシン州のプライベートスクールに通っていた学生時代は勉学に励む一方で、アメリカン・フットボールとレスリングに熱中し、レスリングでは私立学校のレスリング州大会優勝を果たし、アメリカン・フットボールでは全米高校選抜に選ばれるほど活躍したことにより奨学金を得て、ミネソタ大学に進学する。
だが大学を中退した彼はバーの用心棒や保険外交員の仕事をしていた。職場のバーで彼はミュンヘンオリンピック重量挙げアメリカ代表のケン・パテラに出会う。パテラは五輪後にプロレスラーになるという。そこでパテラはフレアーに「プロレスラーになるためにAWAのキャンプに行くけど、おまえもどうだ?」と誘い、フレアーはこの話に乗ることになる。
ミネソタ州ミネアポリスにあるバーン・ガニア道場は当時アメリカ三大メジャー団体AWA版「虎の穴」ともいうべきプロレスラー養成機関。この道場で指導役をしていたのがレスリングに自信があったガニアとビル・ロビンソンだった。この道場からフレアーやパテラを筆頭にリッキー・スティムボート、サージャント・スローターといった大物が育っていった。ちなみにフレアーの同期はパテラの他にジム・ブランゼル、カズロー・バジーリ(アイアン・シーク)がいた。
1972年12月10日AWA興業のジョージ・ガタスキー戦でデビューしたフレアー。そして初来日は早く、1973年6月に国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」。このシリーズではラッシャー木村と金網デスマッチを闘い、レスラー人生初のケージ戦&流血戦だったという。それから約一年後の1974年、AWAのスター選手だったワフー・マクダニエルから紹介され、ジム・クロケットJr.が運営するNWAミッドアトランティック地区(本拠地はノースカロライナ州シャーロット)に活動拠点を移す。ワフーとはミッドアトランティック・ヘビー級王座を巡って抗争し、フレアーはワフーが得意にしていたトマホーク・チョップの洗礼を受けて、後に自身のペースにするための必須アイテムであるナイフエッジ・チョップ(逆水平チョップ)を取得する。この頃のフレアーはあんこ型で公称185cm 110kgという中肉中背の肉体だった。
1975年10月4日にフレアーはレスラー仲間と同乗したセスナ機事故に遭遇する。パイロットは死亡し、ジョニー・バレンタインとボブ・ブラッガーズはこの事故が原因で引退した。フレアーは背骨を三カ所骨折という重傷を負いドクターからは再起不能と言われた。まだデビューして三年もたっていない。そして何もプロレス界で何も成し遂げていない。フレアーはリハビリに励む。実はこの事故で半身不随となった大先輩のバレンタインとフレアーは事故の一か月前からタッグチームを組んでいた。バレンタインはリハビリ中のフレアーに「お前はバディ・ロジャースのように"ネイチャー・ボーイ(野生児)"になってみろよ」と励ましたのだ。バレンタインからのアドバイスを受け、後にフレアーは"ネイチャー・ボーイ"と名乗ることになる。1976年にフレアーは戦列復帰を果たす。ちなみに彼の代名詞ともなったやや左半身で取る受け身はこのセスナ機事故の後遺症。またアンコだった肉体は減量して逆三角形にシェイプアップ。そして、あのブラウンだった髪も「流血が目立つように」という理由で金髪に染めた。さらにゴージャスできらびやかなロングガウンを身にまとうようになった。つまりこのセスナ機事故がある意味、フレアーというプロレスラーの自我を産み落としたのだ。
復帰後のフレアーはロディ・パイパーやリッキー・スティムボートといったライバルに恵まれどんどんステータスが上がっていく。USヘビー級王座やNWA世界タッグ王座を戴冠。そして1981年9月17日にダスティ・ローデスを破り、当時世界最高峰と呼ばれたNWA世界ヘビー級王者に輝く。32歳で業界のトップレスラーになったフレアーの戴冠劇について、プロレスライターの斎藤文彦氏はこのように解説している。
「1981年9月17日ミズーリー州カンザスシティでダスティ・ローデスに勝ってチャンピオンになるんですが、ハーリー・レイスからローデスにベルトが移っていたんです。カンザスシティのプロモーターで当時のNWA会長だったボブ・ガイゲルは『まだフレアーは全米レベルでは客は呼べないんじゃないか』と危惧していた。なのでハーリー・レイスからローデスのほうにいったん移ったんです。(中略)田舎のプロレスにとっては年1〜2回、NWA世界王者が来ることは凄いことなんですよ。ルー・テーズ、バディ・ロジャースの時代からその仕組みは続いていて、チャンピオンの商品価値として問われるのは観客動員力なんですね。ボブ・ガイゲルや初代NWA会長だったサム・マソニックからすれば『フレアーはまだ若造だ』と評価は低かったんでしょうね」
【Dropkick 職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!!■斎藤文彦INTERVIEWS】
若くしてNWA世界ヘビー級王者になったフレアーは王座を転落しても何度も何度も奪還に成功する。王者になれば全米各地、世界各国を飛び回り、タイトルマッチを闘い相手の持ち味を引き出すために受けに受けた上で防衛を続けた。得意の足四の字固め、ハーリー・レイスばりのニードロップ、ダブルアーム・スープレックス、滞空時間の長いブレーンバスターなどのクラシックでポピュラー技を中心に組み立てるスタイルがNWA世界王者らしさを際立たせた。
NWAのチャンピオンは、全米チャンピオンなのである。NWA世界チャンピオンになったレスラーは、各地を転戦して土地土地のローカルチャンピオンと戦い、それらをことごとく打ち破ることで全米一の実力を披露するわけだ。ローカルチャンピオンは地元の熱狂的なファンに支えられているから、それと戦うNWA世界チャンピオンはいわばヒール的な存在だ。とはいっても、たんなる憎まれ役で終わってはいけない。かりに相当な力の差があったとしても、一方的に勝利しては意味がないのである。自らの技を披露すると同時に、ローカルチャンピオンも十分に光らせ、そのうえで勝利する懐の深さがNWA世界チャンピオンには要求される。そのようなNWA世界チャンピオンの試合を観た観客が「俺たちのチャンピオンを倒した憎いヤツ。しかしあのようなチャンピオンを地元から出したい」という憧れを持ち、ますますNWAの権威を上がることになる。NWA世界チャンピオンが懐の深いプロレスを行うのは、このような理由があるのだ。
【プロレスラー「野望」の読み方 ミスターX/ポケットブック社】
フレアーのプロレスの魅力は、NWA伝統の"受け"と"間"のプロレスにある。フレアーは、受けのプロレスでレスラー仲間から尊敬されている。試合中自分の技を引き出してくれるから、相手レスラーはフレアーのプロレスのうまさを肌で感じ取る。そのためレスラー仲間からも真のチャンピオンとして一目置かれている。(中略)フレアーの"間"のプロレスにも独特の味がある。(中略)フレアーは動かないで、ゆったりした"間"のスローな世界で一種のエロチックな世界をつくっていった。"間"といっても、ただ休み休みファイトをすればいいというものではない。にらみあったり、技を受けて構えたりする"間"の部分にすさまじいばかりの緊張感と色気を感じさせるのがフレアーのプロレスなのだ。
【プロレスラー「野望」の読み方 ミスターX/ポケットブック社】
この頃、フレアーは自身を支えてくれるパートナーにも、番人にもなってくれる盟友アーン・アンダーソン出会っている。そこで生まれたのが、伝説のユニット「フォー・ホースメン」である。
1986年、フレアーとアーンとオレイ、タリー・ブランチャードというテクニシャンレスラー達とマネージャーのJ・J・ディロンで悪のユニット「フォーホースメン」を結成する。(中略)フォー・ホースメンはヒールであるながら人気ユニットとなった。一部からはこのユニットがなければnWoやDXといった不良人気集団は誕生していないと言っているほどの影響を与えた。アルマーニのスーツを身にまとった。ロッカールームのみんなが、安いレンタカーにギュウギュウ詰めで相乗りしている時に、彼らはプライベート・ジェットに飛び乗った。常にファーストクラスで移動した。プライベートでは豪遊し、リングでは対戦相手を容赦なく痛めつけ、観客のヒートを買う、そして最後の最後まで劣勢に立ちながらも勝利だけはかっさらう…それが彼らの流儀だった。(中略)またフォー・ホースメンはNWAにある主要タイトルを独占していた。フレアーがNWA世界ヘビー級王座、アンダーソン兄弟がNWA世界タッグ王座、タリー・ブランチャードがNWA・USヘビー級王座、アーンがNWA世界TV王座を同時期に保持していた時代もあった。フォーホースメンの全盛期はフレアー、アーン、タリーに有望株のバリー・ウィンダムを加えたメンバーだと言われている。
【「キング・オブ・バイプレーヤー」という影の王者/アーン・アンダーソン 俺達のプロレスラーDX】
ホースメン時代になるとフレアーはスティング、グレート・ムタ、レックス・ルガー、スタイナー兄弟など若手有望株と好勝負を残すことで彼等を試合で育成していった。団体はNWAからメディア王テッド・ターナーがオーナーとなったWCWに変わってもフレアーは中心人物だった。フロリダ武者修行やWCW時代にフレアーと何度も激戦を繰り広げてきた武藤敬司はフレアーについてこう語る。
【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈5〉リック・フレアーとの出会い/スポーツ報知 2018.4.13】
【Dropkick 職業は世界チャンピオン! リック・フレアー!!■斎藤文彦INTERVIEWS】