ユニバーサル・ソルジャー 唯一無二のRVDイズム/ロブ・ヴァン・ダム【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ

 

俺達のプロレスラーDX
第201回 ユニバーサル・ソルジャー 唯一無二のRVDイズム/ロブ・ヴァン・ダム

 


 

 

ご機嫌いかがですか?プロレス考察家・ジャスト日本です。

 

新旧洋邦のプロレスラーの人生を考察するプログラム「俺達のプロレスラーDX」ではあらゆるジャンルの物語をブログという名の映画館で上映してきました。本日ご紹介するのはロブ・ヴァン・ダム(通称RVD/以下RVDと形容)主演のプロレスアクションムービー「ユニバーサル・ソルジャー 唯一無二のRVDイズム 」です。

 

この作品の主演を務めるのはWWEやECWを活躍したRVDは182cm 106kgの肉体を誇り、カンフーをプロレスを落とし込み、イスや机を用いた独特のレスリングスタイルでアメリカンプロレスのスーパースターとなりました。その華麗でハードコアなムーブメントから「ワン・オブ・ザ・カインド(唯一無二)」と称されるプロレスラーです。

 

今回タイトルになりました「ユニバーサル・ソルジャー」とは1992年に公開され大ヒットしたローランド・エメリッヒ監督のハリウッド映画です。この映画の主演を務めたのがアクションスターのジャン・クロード・ヴァン・ダム。実はRVDはジャン・クロード・ヴァン・ダムに見た目が似ているからこのリングネームが誕生しました。ユニバーサル・ソルジャーとは直訳すると「宇宙兵士」という意味で、この映画では凶悪テロが横行する中、超人的な活躍で事件を解決していく特殊部隊と定義されています。言わば人間戦闘マシーンなのです。

 

RVDはプロレスという宇宙で超人的なレスリングスタイルで一種の特殊芸術を描いてきました。彼のレスラー人生はどんなものだったのでしょうか?そろそろ上映の時間が近づいてきました。

 

それではロブ・ヴァン・ダム主演「ユニバーサル・ソルジャー 唯一無二のRVDイズム」をご覧ください。 

 

 

これはプロレスを舞台にアクションスターになろうとした主人公による唯一無二の物語である。

 

RVDことロブ・ヴァン・ダムは1970年12月18日アメリカ・ミシガン州バトルクリークに生まれた。本名はロバート・アレックス・ザットコウスキーという。少年時代はアクションスターのブルース・リーに憧れた。その一方でプロレスも好きだった。ちなみに17歳の時にWWF(現・WWE)の悪役ミリオンダラーマンとのスキットで絡んだことがあったという。

 

「子供の頃からずっとレスリングが好きで、ハルク・ホーガンやウルティメット・ウォリアーが好きだった。でも影響を受けたのは、体格の小さなレスラーたちさ。アスリート的な面よりも体格が大きなレスラーが中心だったところから、もっとアスレティックな動きをするレスラーたちが出てきたんんだ。それで、俺はもっとクリエイティブなことができるんじゃないかって気がついたんだよ.。ハイスクールを卒業して、ミシガン州からの奨学金を断って、レスリング界に入った」

【Welcome to Raw is Dolie!】

 

ペンフィールド高等学校を卒業したRVDはデトロイトの帝王ザ・シークに弟子入りして、プロレス入りを果たす。

 
「家で一所懸命練習して、ウエイトトレーニングもしたし、体重を増やすために何でも食べてたよ。身体を大きくするのは、向いてなかったから大変だった。でも運動能力があって、トランポリンの動きは色々とできたんだ。いろんなレスリング・スクールに問い合わせていた時、食料品店で315ポンドもあるパワー・リフターと出会って、『あなたくらいのサイズがあったら、俺は成功するのになあ、恵まれてて羨ましいです』って言ったら、オリジナル・シークとレスリング・スクールをするって教えてくれたんだ。ぜひ紹介してくれって頼んだ。レジェントのシークに教えてもらえるなんて、最高だもんね。彼と会って、飛んだり跳ねたり、空手の動きをしたり、いろんなことを見せた。俺の可能性を買ってくれたんだ。6カ月ほどトレーニングを受けて、最初の試合をしたよ。試合をしながらも、トレーニングを受けてた

【Welcome to Raw is Dolie!】

 

シークによるマンツーマンのコーチを受けたRVDは1990年にデビューする。翌1991年にはテネシーのUSWAに参戦し、そこで出会ったロン・スリンガーというレスラーが現在のリングネームである「ロブ・ヴァン・ダム」と命名したという。それから1992年にメジャー団体WCWに「ロビーV」というリングネームで契約。TVマッチの前座に登場したりしていた。

 

まずはキック・ボクシングのクラスで学んで、それからオリジナル・シークにレスリングを教わった。シークに会う以前から、俺はダイビング・ボードやトランポリンで覚えて、アクロバティックな動きをしてたんだ。だから最初に会った時にそれを見せると、シークは『何をやってるんだ、ヘッドロックをやってみせろ』と言う。やってみたら、『んなもんは、ヘッドロックじゃねえ!』って感じだったさ。スタートは、他のみんなと同じで惨めなもんだったよ。車で寝泊まりしたり、安宿を他の連中と分けて泊まったりした」
【Welcome to Raw is Dolie!】

 

そして1993年2月にフロリダのインディー団体で出会ったドリー・ファンクJrのブッキングで全日本プロレスに初来日を果たす。デビューから3年。グリーンボーイだったRVDは、シリーズ開幕戦のメインイベントに大抜擢された。スタン・ハンセンと組んで、川田利明&小橋健太と対戦する。当時の全日本は定期的に初来日の外国人選手を呼んでいて、なかにはパトリオットという掘り出し物を登場させ成功した事例もあり、RVDにはマニアから期待されていたのだが、役者が違った。ハンセン、川田、小橋の三人はどこまでハングリーでアグレッシブでエネルギッシュな攻防を展開、RVDは防戦一方となる。それもそのはず、シリーズ終盤戦に川田とハンセンは一騎打ちを控えており、バチバチの前哨戦を展開していた。だがその状況下でもカンフー殺法、オリジナル技ローリングサンダー(前転してからのサマーソルトドロップ)を彷彿させる前転からのボディープレス、その場飛びムーンサルト、自爆に終わったが450スプラッシュを披露し、RVDらしさものぞかせた。しかし、格下の外国人選手が相手になると特に非情になる川田はラリアットやスピンキックでRVDを半失神状態に追い込み、強烈なパワーボムを見舞われ敗退。パワーボムで抑え込み勝利を奪った後、川田の矛先はハンセンに向けられた。新人のRVDなど眼中になかったのだ。

 

全日本でも結果はでず、WCWでの活動もいまいちに終わり、1994年にWCWからクビを宣告された。WCW退団後、アメリカ・インディー団体を転戦しながらキャリアを積み、1994年の再来日を評価をもらい,1995年から常連外国人選手となり度々来日するようになった。

 

1995年6月9日日本武道館でダニー・クロファットが保持する世界ジュニアヘビー級王座に挑戦したRVD。ここでRVDは潜在能力を発揮し、王者クロファットを追い込み、好勝負を展開する。カンフー殺法、空中殺法を駆使する独特なムーブは全日本ファンの心を摑んだ。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にはジョニー・スミスとのコンビで初出場を果たしてる。

 

「日本はまったくアメリカと違ってたよ。ファンはリングでやってることにすごく敬意を払ってくれてるんだ。相撲とか柔道の歴史がそうさせるんだろうね。叫んでる子供や酔っぱらいもいなくて、スーツとタイ姿の地位の高いビジネスマンが見てくれてて、上品な服の女性を連れてた。ただ、今はずいぶん変わってきて、アメリカナイズされてエンタテイメント性が強くなったね。いいことかどうかは、疑問だけどね~。俺たちの若い世代を真似しようとしてるみたいだ。だけど、アメリカよりもずっと敬意を払ってくれてるよ」
【Welcome to Raw is Dolie!】

 

カンフー殺法をプロレス界に取り入れたレスラーといえば、リッキー・スティムボートを思い出すが、スティムボートの場合はチョップやキックを使うが、どちらかというコスチュームやビジュアル重視だったように思える。だが、「カンフー・ソルジャー」という異名を持つRVDの場合はまるでブルース・リーやジャッキー・チェンのアクション映画を見るかのようなムーブをきちんとプロレスとして落とし込むことに成功したいわば革命家かもしれない。そしてプロレスラーになる以前に空手やテコンドーといった武術に触れていたのもよりそのムーブにリアリティーをもたらした。

 

「ミシガンで、空手、合気道、剣道、大学ではテコンドーも学んだんだ。ロード中でもいろんな道場に行ってたんだ。RVDのキャラクターは俺自身とほとんど違ってなくて、マイクで叫んだりはしない。若い時期にいろんなファイトをやって、それが好きだったから、身体で闘うほうが好きなんだ。学生時代から、女の子と付き合うよりも喧嘩するほうが好きだったさ。空手の大会も出たけど、ひどくやりすぎて失格になっちゃったくらいだしね」

【Welcome to Raw is Dolie!】

 

RVDにとっての最初の転機が全日本参戦なら、二度目の転機はハードコアレスリングの雄ECW参戦である。1996年1月からECWに参戦したRVDはECWのカリスマ・サブゥーとの抗争で脚光を浴びることになる。実はサブゥーはRVDが育ったシーク道場の先輩後輩という関係で、サブゥーはRVDのトレーナーだった。その後二人はタッグを組むようになる。RVDの才能はECWで開花していった。

 

「1996年1月に入団したんだが、俺はまだ何というかまだ青臭い若造で、もちろんスターの風格を持ち合わせていない。ただ観客を見つめていた。当時の俺はベビーフェースでファンに潰されそうな雰囲気だった。食われるんじゃないかと思ったほどだ。根っからのハードコアなんだ。それからしばらくして「ヒールに転身したんだ。ファンの神様サブゥーと闘うんだ。そうするうちにファンの姿勢が分かってきた。どうすれば奴らが喜びか。当時の俺はファンと触れ合うようにしていた。どんなキャラになっても変わらなかった。俺は尊敬されていて、"クソすげぇ"と呼ばれた」

【ECW ライズ・アンド・フォール DVD/ジェネオン エンタテインメント】

 

1997年4月12日にECW初のPPVイベント「ベアリー・リーガル」が開催された。RVDは当初出場メンバーに入っていなかったが、代役としてランス・ストームとシングル戦に登場する。試合後、RVDはマイクで思いの丈を語りはじめた。

 

「RVDは控えのレスラーなんかじゃねぇんだ。RVDはチケット代以上の価値があるんだ。RVDの金銭的価値は計り知れないんだぜ、他の場所でもな!」

 

それは他団体移籍を示唆する爆弾発言。そしてそれは現実のものになる。

 

RVDことロブ・ヴァン・ダムが初めてWWEのリングに上がったのは1997年5月。(中略)5.12“ロウ・イズ・ウォー”(デラウェア州ニューアーク)に登場したうわさのニューカマー、RVDをリング上から観客に紹介したのはECW(というよりもポール・ヘイメン)とは犬猿の仲といわれる“ロウ”解説者のジェリー“ザ・キング”ローラーだった。TVインタビュー・シーンでRVDとローラーは「ECWなんかクソみてえな団体」と発言し、“メジャーWWEに寝返ったイヤな男”RVDとそのRVDをサポートするWWEサイドの大物代理人という両者のポジションを明確にした。
TVマッチに出場したRVDは、3分弱という短いファイトタイムのなかにオリジナル・ムーブをふんだんにディスプレー。ダブルアーム・スープレックスの体勢で抱え上げた相手を前方からキャンバスにたたきつけるパンケーキ・スラム、場外の相手に向かって“無重力状態”で飛んでいくノー・タッチ・トペコンといったあまり見慣れない大技のひとつひとつに観客はため息をついた。対戦相手は無名の新人時代のジェフ・ハーディーだった。RVDはそれから4週間後の6.9“ロウ”(コネティカット州ハートフォード)にも出演し、この日から“ミスター・マンデーナイト”というニックネームを名乗った。同大会にはECWのデグゼクティブ・プロデューサー、ポール・E・デンジャラスリーことポール・ヘイメンとトミー・ドリーマーも姿をみせた。RVDのリング登場と同時にリングサイド最前列に現れたヘイメンとドリーマーは「チケットを買って入場してきた」とコメントし、RVD対フラッシュ・ファンク(前名2・コールド・スコーピオ)のTVマッチを観戦。試合が終了した瞬間、場外フェンスを乗り越えてリングサイドに侵入したヘイメンが実況ブースに座っていたローラーに襲いかかった。ECW主流派コンビの“ロウ”への乱入の目的が“RVD奪還”にあったのか、それとも“ローラー襲撃”にあったのかはいまひとつはっきりしなかったが、いずれにしてもWWEとECWがなんらかの政治的意図で急接近している事実だけははっきりした。
【RVDの“Mrマンデーナイト”計画?――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第261回(1997年編)/日刊SPA】

 

WWE進出によって知名度を得たRVDはECWでもさらにステータスを伸ばしていく。1998年4月4日にバンバン・ビガロを破り、ECW世界TV王座を獲得する。彼はこの王座を23か月という長期に渡りに保持することになる。ありとあらゆる挑戦者を相手に好勝負を展開してきた。特に実力者ジェリー・リンとの試合はECW版名勝負数え歌と呼ばれ最低でも20分、長い時は40分にも及ぶ死闘を展開してきた。この時期になるとRVDは数々のオリジナルムーブを確立していく。

必殺技のファイブスター・フロッグスプラッシュは最高級の芸術品。ローリングサンダー(前転からのサマーソルトドロップ)、ヴァン・ダミネーター(イスごと相手をソバットで吹っ飛ばす荒業)、ハリウッドスター・プレス(開脚式ムーンサルト)、コースト・トゥ・コースト(片方のコーナーに相手をダウンさせておき、顔にイスもしくはゴミ箱を接地してから、もう片方のコーナーからミサイルキック)などまさしく”唯一無二”である。いつしか彼は「ミスターPPV」と呼ばれるようになった。お金を払ってでも見る価値があるという理由でつけられたこのニックネームは的確だった。

 

「俺はECW世界TV王座を23か月も守った。しかも団体が求めるような質が高い試合を見せることができた。だからTV王座の重みはかなりももので、世界王座以上だと考える人もいた。(中略)俺はハードコアな闘いをする。キックやイス攻撃は計画通りには進むわけがない。ヴァン・ダミネーターのあとは何をする?ロープを飛び降り、顔にイスをブチ当てようか。次はロープに固定してキック、リングの端から端まで飛んでもいい。今までの自分の技や動きを常に超える方法を探るには柔軟じゃないとな。中には肉弾戦が持ち味のヤツもいる。動くだけでファンを魅了する技巧派もいる。そして俺はその両方ができる。ハードコアでも何でも来いだ」

【ECW ライズ・アンド・フォール DVD/ジェネオン エンタテインメント】

 

だからこそRVDにはこんな自信があった。

 

「ECW時代の俺は世界最高のレスラーだった」

【ECW ライズ・アンド・フォール DVD/ジェネオン エンタテインメント】

 
ECWプロデューサーでハードコア革命の先導者であるポール・ヘイマンはRVDについてこう語っている。
 
「彼こそ、ミスター・マンデーナイト(月曜夜の男)、ロブ・ヴァン・ダムだ。おおらかなのに傲慢で、クールなのに大胆な性格を持つ男だ。人々は引きつけられ飾りなんていらなかった。たちまち誰もがRVDの虜だ。彼がいるだけで満足した。観客は彼の試合や決まりのボード、クールなインタビューや決め台詞を喜んでいた。RVDはそれまでのレスラーにはない魅力がある。プロレスの緊迫した場面によくある"復習してやる"なんて言葉、RVDからは聞きたくない」
【ECW ライズ・アンド・フォール DVD/ジェネオン エンタテインメント】

 

ECWは経営が悪化していく。多くの選手達にギャラの未払いが発生していた。RVDも同様である。それでもRVDはECWを去るつもりはなかった。「俺が抜けたらECWは崩壊する」と思っていたからだ。だがECWは2001年1月に崩壊してしまう。彼にとってECWの日々は何だったのか。

 

「2001年にECWが破産しちまった。ほんとのこと言うと、WWEには行きたくはなかったんだ。ECWがまだ存続してたら、ずっとECWにいただろうね。(中略)ECWはすごく暴力的だっていう評判があった。ファンが熱心で、気に入らなきゃすごいブーイングもあるってね。日本から帰って、ECWでやってみたんだけど、ファンがすごく気に入ってくれたんだ。レスリングが好きなファンで、俺の日本でのことも知ってた。そんなファンを楽しませるのに、ハードコアのムーブが必要だって思った。ルールがなかったから、思いつく限りのことをしたよ。ヴァンダミネーターもそこで生まれた。毎週毎週、限界に挑んでたんだ。誰もやったことのないものをしなきゃだめなのは大変だったけど、俺は恐れなかったし、できる運動能力があった。支えてくれてたのは観客の情熱で、WWEとはまったく違ってたね。ファンのために、レスラーは身体を捧げてた。すごく楽しかったさ」
【Welcome to Raw is Dolie!】

 

RVDが次に選んだ進路は世界最高峰のプロレス団体WWEだった。2001年7月に入団したRVDはWCW&ECW連合軍「アライアンス」のメンバーとなり、周囲がブーイングを浴びる中で一人だけ大歓声を浴びる稀有な存在として注目された。彼のオリジナルムーブにWWEファンも認め、解説席にいるジム・ロスが「WWEにRVDのようなレスラーはいない…」と嘆くほどだった。

 

アライアンスがWWEとの全面対抗戦に敗れ崩壊後、RVDはベビーフェースに転向し、インターコンチネンタル王座を獲得し、大関クラスの人気レスラーとして活躍していく。もうECWのRVDではない、WWEサイズのRVDとなっていくことも彼は正面から受け止めていた。

 

「WWEに入って、考え方を変えたことは確かだよ。試合の長さや、アリーナのどこでやるか、何を使うって闘うかというのは、あんまり問題じゃない。ファンを楽しませたいんだ。今は、試合時間がもっと短くなっちゃって、その中で俺の動きを見せなきゃね。会社の中で役割を果たさなきゃだめだ。もうWhole F'n Showじゃなくなったよ。長い時間やりたいけど、適応することを学んださ。ジェリー・リンとやった試合も、WWEじゃカットされたことがあった。会社の方針とは合わなかったんだろう。ファンは楽しんでくれたみたいだったけどね」
【Welcome to Raw is Dolie!】

 

2005年1月にヒザの手術のために長期欠場に追い込まれる。RVDのヒザはボロボロだった。だがそんな時に復活したのがECWだった。DVDがバカ売れして、これはいけると判断したWWEが2005年6月12日にECW復活祭「ワン・ナイト・スタンド」が行われた。欠場中のRVDは松葉杖をついて大熱狂のリングに上がり、決意のマイクパフォーマンスをする。それはWWE時代も見られなかった本音が爆発することになる。

 

「ここには会社が用意した台本なんてねぇんだ!お前らにすべて話すからな。まずは昔の俺を思い出してもらおう。"別に"とか"クール"だけが俺の言葉じゃないんだぜ。覚えているか。雄弁だった頃の俺を覚えているか。ショーが始まると客席からRVDコールが聞こえたよな。メイン戦までやまなかった。覚えているか。プレッシャー?そんなもの感じなかったぜ。だって絶好のチャンスだろ!俺が自分の能力とスキルを駆使するだけでファンが満足してくれる。俺の見せ場を作ってもらえるなら、十分だった。なぜか?俺が”ショーの目玉”だからな!ミスターPPV、ミスター・マンデーナイト、RVDの4章20節は?"お前を出し抜いた"。ECW世界TV王座を保持した期間は?"1年と11か月と2時間42秒だ"。信じられないよな。俺の絶頂期だったぜ。そうさ、俺を語るならそこを触れてくれ!RVDはECWなんだ!」

 

2006年1月に復帰したRVDは6月の「ECW ワン・ナイト・スタンド」でジョン・シナを破り、WWEヘビー級王座を奪取し、その後、ECW世界ヘビー級王座も贈呈され、彼は一気に二冠王となった。ECWはロウ、スマックダウンに続く第三のブランドとして復活する。しかし、このECWは、あの”ECファッキンW”ではなく、WWEが考えクリエイトしていくECWだった。その曖昧さと中途半端さ、新機軸をなかなか見いだせずWWE版ECWは苦戦する。RVDも最終的にはECWをWWEでやる意義とWWEで生き抜く理由を見失い2007年6月にWWEを退団する。

 

その後、インディー団体を経て、2010年3月にTNA(現インパクト・レスリング)と契約する。4月にはAJスタイルズを破り、TNA世界ヘビー級王座を獲得する。だがTNA時代のRVDはECWやWWE時代に比べるとそこまで名勝負を残したわけではなく、噛み合わない凡戦も繰り広げていた。2013年3月にTNAを退団すると、6月にWWEに復帰する。世界ヘビー級王座戦に組まれたりするも、次第に負け試合が増加してい。後輩レスラーの引き立て役で終わることもあった。そして、彼は静かにWWEからフェードアウトしていた。

 

WWEを去ったRVDはインディー団体を転戦していく。一説によると脳しんとうにより視力障害を起こしているとも言われているが、まだ引退はしていない。

 

RVDはECWを中心に名勝負を残してきた。しかし、その一方であまりにも難解かつ複雑なオリジナルムーブや独善的ムーブもあったため、対戦相手からするとやりにくいタイプのレスラーだった。そもそも彼は昔からリング内外に関わらず群れず媚びず徒党を組むタイプではない。その唯我独尊な生き方とプロレスが時代とマッチしたことによって、スーパースターとなった。この男のコスチュームには龍と共に”陰陽”のマークが描かれているものが多い。光と陰、ポジティブとネガティブ、熱い冷たいと言った2つの要素で世の中はできているという考え方を象徴的に表したのが”陰陽”である。まさしくこれこそRVDというプロレスラーの本質だった。明るくてどこか影がある。テクニックもあるが、ハードコアも出来る。おおらかだけど傲慢である。両極端の概念を”自分が思い描くヒーロー像”として落とし込んだのが唯一無二のRVDイズムなのではないだろうか。

 

孤独と漫画とアクション映画を愛し、ハードコアにすべてを捧げたRVDの思想そのものが小宇宙みたいなもので、彼はそれを貫く戦士だった。まさしく”ユニバーサル・ソルジャー”。映画では超人的な活躍で事件を解決していく特殊部隊だった。プロレス版は超人的な活躍でさまざまな伝説と名勝負を残していった。そして彼のプロレスを支えたのはファンだった。

 

「俺は俺のできることをして、ファンを楽しませたい。ファンがショーに来てくれて俺を賞賛してくれる時、俺は自分の仕事がちゃんとできたって思えるのさ」

【Welcome to Raw is Dolie!】

 
理想に忠実に生き、理想に殉じようとするのがRVDという人生。
君はこの男の人生に何を感じるのだろうか。
 
「Don’t think. feel!(考えるな!感じろ!)」(ブルース・リー)
 
 

さて、次回の「俺達のプロレスラーDX」は全日本プロレスで活躍した悲劇の職人レスラー・ハル薗田選手の生涯を描いた「ゴリさんは死して生きる」をお届けします。乞うご期待ください。

 

最後に「いやぁ、プロレスって本当に素晴らしいですね!!」

また、魂と歴史が詰まったプロレス映画館「俺達のプロレスラーDX」でお会いしましょう。

プロレス考察家・ジャスト日本でした。

さよなら、さよなら…、さよなら!